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憤怒の素人叔父さん世にはばかる

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 大胆な言い方になりますが、日本の近代思想史の中で「利益の追求」は、正当な思想的価値として認められていない。自分の利益はうしろめたいもの、うさんくさいものとして受け取られるカルチャーがあります。だから「滅私奉公」になりやすい。自分の利益を捨てることこそ立派な行為であり美徳である、となります。
 しかし、公共性は私的な利益の確立を原点にしないと、つねに危険なものにすりかえられる。「国家の利益」や「全体の利益」という形で「国民の利益」や「個人の利益」が無視される。「公共の利益」が「個人の利益」から離れてそれ自体としてとらえる考え方、「公共の利益」を実体としてとらえる考え方が、日本の近代思想史には強い。だけど、これは非常に危ない考え方です。
 公共の利益は個人の利益の一つのあり方で、私的な利益の特定の状況が公共の利益になる。つまり、他人の私的な利益や権利を侵さない限りにおいて、個人の利益や権利は自由に主張できる。これが公共性を持つということです。「個人の利益」がデモクラシー、近代思想の出発点だということを何とか説得的に展開できないか、という思いが私の心の底にはつねにあるのです。
 戦後デモクラシーは、結局、私的な利益の物取り主義になってしまいました。戦後デモクラシーは私的な利益を解放させたわけです。しかし、その場合、どうすればそれが公共性を持ち、社会正義として実現可能なものになるのかという論理が成長しないで、強い者の私的利益だけが実現されることになってしまいました。つまり、弱肉強食的な私的利益の追求が戦後デモクラシーの実体です。多くの票を持っている集団や大企業や強者の利益だけが、戦後デモクラシーの構造的体質になっています。
 戦後のデモクラシー論の中で公共性の問題が取り上げられていますが、そこには普遍的正義という観念が前提にあって、それと結びつかないと公共性にならない、という発想が強くあるように思います。私の考えはそうではなくて、足元の一人一人の利益をつなぎ合わせたら公共性になる。それを横に拡大していくと正義論にもつながる。いわばそういう公共性の構造、問題意識こそが必要だと思えてなりません。
    --松本三之介「50年目の『吉野作造』」、『論座』(朝日新聞社、2008年6月)。

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丸山眞男に師事し、その講座後継者となった政治学者・松本三之介の吉野作造に関する人物論が年頭に出版された。ぼちぼちAmazonで注文したその本果届くので、少し古くなったが『論座』(朝日新聞社)のインタビュー記事を読み直す。丸山の近世政治思想史研究を受け継ぎ、単なる法制史の概述だけでなく、その思想における内在的意味連関の解明をめざすその言葉にはいつも学ぶところがある。

さて……。
松本が指摘しているとおり、日本の近代思想史のなかでは、利益の追求をうまく位置づけることが出来なかったがゆえに、権力との関係に置いて個人の利益が等閑視されたのが戦前の状況であり、戦後は居直り強盗の如く個人の利益の“物取り主義”が跋扈した。

個人も存在しなければ、公共性も存在しない……それが厳しい言い方だが現状であろう。

「権利」という言葉は、英語で言うとright(仏;Droit,独;Recht)の訳語であるがもともと日本には存在しない概念である。明治の啓蒙思想家のひとり西周(1829-97)が、仏教用語を参考に訳しだしたものだが、どうもうまく訳しだされてはいない言葉の一つである。フランス革命を初めとする西洋社会における市民革命がそれを獲得する際に流れた血糊の匂いも、それにともなう崇高な義務の概念も感じさせない日本語である。それは権利ということばをひっくり返せばよく理解できる。

 権・利
  ↓
 利・権

 ……である。

単純化の嫌いもあるが、誹りを承知で踏み込めば、個人の権利(利権)が制限され、国民国家に限定された“オオヤケ”への奉公が大切にされたのが戦前であるとすれば、その無制限な肥大化の追求が目されたのが戦後の日本社会である。そこには権利意識とそれに随伴する義務概念は全く存在しない。それがゆえに、戦前では制限され、戦後では解放された概念である。なにしろ“利権”であるから。

利の価値は何も悪い価値ではない。個人における利の価値を全く滅却してしまうならば、それは潤いのない空虚な管理社会となってしまう。またその逆に無制限な肥大化を許してしまうと、野生の動物さながらの、生きるか死ぬかの過酷なサバイバルレースとなってしまう。その辺を調停するのが、人間の共同存在の在り方としての政治であり、自己の他者に対する認識の問題(他者論)につながることになる。

今日は市井の職場へ出勤前へ、クリーニング店に立ち寄る。
先日出した洗濯物を引き取り、新しい依頼物をだすためである。
ところがなかなか手続きへすすめない。なぜなら、明らかなクレーマーが前途を塞いでいるからである。

半年前にもこの御仁に塞がれた記憶があるのでよく覚えている。
差し障りのない範囲で記すならば、高級品と本人が自称するYシャツの仕上げが甘いとのこと。何をもって高級品かと議論するとそれはそれでまるまる一日の議論となるが、話を聞いていると、パリコレに出品されるようなブランドではなく、日本人が手軽に購入できる、ごくありふれたブランドのシャツであり、いうまでもないが、レディメイドのシャツである。宇治家参去の感覚からすれば、その一品を高級品と言って憚らないその矜持にあきれるほかないが、当の御仁が指摘するその難点も聞いていると、アイロン皺ではなく、単なる畳み皺のようである。それならば、仕上げを畳みにしなくてもよいものなのに……。

議論と言うより一方的な恫喝が続く。
いうまでもないが、当の御仁は別にその筋の人間ではない。どこにでもいる40代の叔父さんである。

10分もまくし立てる様子が続くと、恐怖を通り越して、そして滑稽さを通り越して、むしろ憐れみさえ込み上げてくる。ハンナ・アレント(Hannah Arendt,1906-1975)にいわせるならば、「悪の凡庸さ」ってボソっといわれそうです。

結局は、言いたいことだけ言って、鬼の首でもとったかのようにその御仁は問答無用で去っていきました(もう一度クリーニング仕直しとけ!って意味なのでしょうが)。

おかげで、次に並んだ自分の手続きになるまで、無益な時間を過ごすことになるが、ここで権利と利権の現代的問題を考えさせてくれましたので、まあ、よしとします。

クレームとは恫喝ではない。異議申し立てである。
要件が済めば終わりで、次に続きそれを両者が対話・検討すれば済むハズである。
しかし近頃はそうはいかないようである。

何か不毛な恫喝と怯えが支配しているのが現状のようである。

おかしいと思うことに声をあげることにはやぶさかではない。むしろきちんと理路整然とその非を追求してしかるべきである。それが現状としては、どうやら“大きい声を出した者が勝ち”、“ついでにもらえるものはもらっとけ”という風潮なのでしょうか。

自動ドアをその御仁が抜け去るとき、ぼそっとひとりごと。

「やっぱ迷惑料とかほしいのかなあ?」

聞こえるレベルで一応放言しておいた。
憤怒の夜叉のような眼で睨まないでくださいな。

アリストテレスは、羞恥は、徳(アレテー)の一つではないにも関わらず、その情に敏感であることには全く不都合ではない、と述べているが、見ているとどうしても、「羞恥を感じないのだろうか」と思うのは宇治家参去ひとりではあるまい。

こんなことは書きたくもないが、一応、日記として記しておく。
頼むから静かにしてくれ(レイモンド・カーヴァー)。
とっとと1週間ぶりに日本酒飲んで寝ます。

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 羞恥を一つの徳(アレテー)として取り扱うことは適切でない。これは「状態」であるよりもむしろ一つの情念(パトス)であるように思われるからである。現に、だから、羞恥は「不面目に対する一種の恐怖」と定義されているし、またそれは、恐ろしいことがらに対する恐怖と相通ずるところのものを結果する。というのは、恥じたひとびとは赤面するが、死を恐れるひとびとは蒼白となるのだからである。両者は、それゆえ、いずれも何らかの意味において肉体的であると見られるのであり、このことは、しかるに、「状態」よりもむしろ「情念」に属すると考えられる。
 この情念はあらゆる年齢にふさわしくはなく、若年者にのみふさわしい。けだし、この年齢のひとびとは情念によって生きているため多くの過ちを犯すのであるが、羞恥によってそれが妨げられているのだからして、彼らは羞恥的であることを必要とすると思われる。で、われわれは若年の羞恥的なひとびとを賞讃するわけではあるが、しかし、年輩のひとが恥じ入るたちのひとだからといって、何びともこれを賞讃しないに相違ない。けだし後者は恥辱の生ずるごとき行為をそもそもなすべきではないと思われるからである。すなわち羞恥は、あしき行為について生ずるものである以上、よきひとに属するものとはいえない。すなわちわれわれはそういう行為をなしてはならないのである。たとえ、ほんとうにみにくい行為と、世人の臆見によるそれとの別があるにしても、このことに全く変わりはない。われわれはそのいずれをもなしてはならないのであって、つまり恥じ入るなどということが生じてはならないのである。何らかのみにくい行為をなすようなそういうひとであるということは、あしきひとに属している。「何らかみにくい行為をなしたなら恥じ入る」というようなそういった「状態」にあって、このことゆえに、自分はだからよきひとなのだと考えるのはおかしい。けだし、羞恥は自己の随意的な行為について生ずるのであり、よきひとは然るに決してすすんであしき行為をなさないだろうからである。羞恥は仮言的にはよきものであるかもしれない。というのは、羞恥的なひととは、もしそういう行為をなしたならば恥じ入るであろうようなたちのひとなのだから--。この前件が、しかしながら、徳に関しては許されないのである。たとえ無恥はあしくあり、みにくい行為に羞恥を感じないということはあしくあるとしても、だからといって、「そのような行為をなしてそれを恥じ入る」ことがいいのではない。
 「抑制」も徳(アレテー)ではなくして、混合的なものである。これに関しては後に示されるであろう。
    --アリストテレス(高田三郎訳)『ニコマコス倫理学 (上)』(岩波文庫、1971年)。

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