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軽薄な事柄を真面目に、真面目な事柄を快活にやらせておくがよい

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 もし世界に、社交的気質、開かれた心、生の楽しみ、よき趣味、自分の思想を伝える容易さを具えた国民、生き生きとして気持ちのよい、ときには軽率で、しばしば無遠慮であるが、それとともに、勇気、寛大さ、率直さ、一定度の名誉心をもった国民があるなら、その徳性をさまたげないためには、法律によって生活様式を疎害しようとつとめるようなことがあってはならないであろう。一般に性格が善良であるならば、そこに見出される若干の欠点のなにが問題になるだろうか。
 ここで、女性を抑制し、彼女らの習俗を端正するために法律をつくり、彼女らの奢侈(しゃし)を制限することもできるであろう。しかし、それによって、この国民の富の源泉となっているある種の良き趣味、この国に外国人を惹きつけている慇懃さがうしなわれることにならないかどうか誰が知りえようか。
 国民の精神が政治の諸原則に反していないとき、それに従うべきなのは立法者の方である。なぜなら、われわれは、自由に、しかもわれわれの生来の天分に従って作り上げたもの以上によいものを作り出すことはないからである。
 本性的に快活な国民に衒学的精神を与えても、国家は内に対しても外に対しても何物も得るところはないであろう。こうした国民には、軽薄な事柄を真面目に、真面目な事柄を快活にやらせておくがよい。
    --モンテスキュー(野田良之他訳)『法の精神 (中)』(岩波文庫、1989年)。

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「何のため」……。
実は大切な言葉である。
もちろん「何のため」に拘るばかりに神経衰弱に陥ってしまうのが、現代社会という荒涼とした現実が一方にはあるが、ときどき「何のため」と振り返るのは無益ではなかろう。

こんなことを書き始めると、「19世紀の哲学者は21世紀の世界からは退場してください」と現代思想の批判理論家からは煙たがられそうですが、どの分野においても、自己認識のレベルにおいて……それを突き放そうが、ないしは、内在的に関わろうとしようが……人間はある意味では、「何のため」という現実を照射する契機がないと、現実という内在にうもれたまま、根無し草のような生き方に終始するほかないのだろう。

「何のため」が照射するのは、人間という生きもののもつ本源的問いである。
そして現実という世界を相対化させ、個々人が自分自身に対しての「あるべき」姿をひそかに提示し、葛藤し、それを勝ち取りゆく、ある意味で生のダイナミズムの一つの在り方である。

厳しい道徳主義的に「何のため」を追求するとときどき息苦しくなってしまう。だから、まさに「ときどき」でいい。
しかし、そうした「ときどき」の反省の契機を欠いてしまうと、人間は策におぼれるか、ぐだぐだの永遠の日常を再放送するしかないようだ。

このところ、生命倫理を考え直すために、関連した法学関係の文献を少し読み直す。
読む中で、一つ実感するのが、あまりにもテクニカルな議論に終始する嫌いが強くて辟易としてしまった。生命という対象を扱うわけだから、ある意味でテクニカルにならざるを得ない部分ももちろん承知だが、議論を進める中で、議論に酔ってしまい本末転倒しているのではなかろうか……そうした実感をどうしても突きつけられてしまう。

倫理の問題は、古代社会においては、法の問題と同一視され、倫理は法とおなじものとして理解され、そして実際そのようなものとして機能してきた。これが、近代社会を経て現代社会へ至るなかで、倫理と法の問題が区別されてくるのが人間の来歴である。

その傾向は確かに歓迎してしかるべきである。
ただし、分離の過程で、大切な論点が等閑視されてきたのも事実ではあるまいか。

先日法曹家と話す機会があった。
真面目で熱心な若手弁護士である。
法の運用と、そしてその法の形而上的な由来もきちんと把握しており、今後有望な法曹家として活躍していくことだろう。

だけど……その議論を自室にもどって反芻してみると、どこか心にぽっかり……スエット……といいますか、……何か物足りない。

テクネーとしての法の議論はできているのだが、法を作成し、法に制限されるべき、“人間”がどこか浮かび上がってこないのだ。

そういうときは“原点”(=原点)に帰るべきであろう。
絶対君主制的な権力の発動モデルから、市民社会における共同支配(および共同の被支配)の論理の礎を築いたのはモンテスキューの法理論だと思われるが、実際にモンテスキューの著作を紐解くと、不思議なことに温かい。

そこには、現実に苦悩する民衆の姿を思い浮かべながらあるべき法理論の在り方を追求しているからなのであろう。

こうした側面……たとえばヘーゲルの法哲学なんかをも含めて……基礎理論といいますか、根源的探求といいますか、……そうしたところをフォローしていかないと、ほんとうに、実業としての法曹人だけが存在し、根源的理解をもった法曹人が現出しないのでは……とどうでもいいことをふと疑念に抱きながら、腹が減ったので、ケンミンの焼ビーフン(冷凍食品)で晩酌をする、ある日の宇治家参去でした。

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コメント

いつも楽しく拝見させていただいております。

今回のブログ、法曹を目指すものとして心したいと思います。

勉強しているうちに理論や判例の見解ばかりに目がいき、現実に問題に直面している「当事者」を忘れることがあります。

法律家が「何のため」を忘れたとき、法律屋になる。と先生から言われたことがありますが、そうならないためにも「ときどき」考えていこうと思いました。

投稿: ツルハ | 2008年7月12日 (土) 16時44分

ツルハさんへ

こんばんわ。ご無沙汰しております、宇治家参去です。いつも拙文をご愛読くださりまして先づはありがとうございます。

今回の記事ですが、やはり、言葉にするとすこし恥ずかしい部分もあるのですが、とくに「言葉」として「何のため」と口にすると、お前は大丈夫かよって風潮がつよいので忸怩たる部分もあるのですが、それでもなお、自分がやることにたいしてはときどき「何のため」って点検しないとなあと自戒を込めて書きました。哲学者の場合、えてして、それはテクストとの対峙という瞬間になりますが、その過程でどうしても、テクストに悦にひたり、現実にテクストを書いた人間、そしてそれを読む人間を無視してしまうという、哲学・学者に陥ってしまう部分があります。本来哲学を学ぶ人間は、哲学(史)の解説者としての哲学・学者ではなく、みずから世界と人間と向かい合い考える人間=哲学者でなければならないはずです。それがどこか技術的な見解(それはそれで大切なのですが)にひっぱられ、しらないうちに拘泥している。それをうまく酒ながら……失礼、避けながら、考察する局面が必要だよなって自戒を込めて書きました。

法曹をめざされているとのこと。
本当に頑張ってください。
学説理論判例と、そしてその言語の奧に居る人間の顔との有機的な往還関係のなかで、自己を鍛え、ひとを知り、そして勇敢に世界へ打ってでる法曹家になられんことを心よりお祈り申しあげます。

法理論に関してはまったくの門外漢で恐縮ですが、さらに通俗的で恐縮ですが、理論も一流、そして人間としても一流のツルハさんになられんことを心よりお祈り申しあげます。

……とはいえ、蛇足ですが、今月は大学生は試験期間ですよね。頑張ってください。

投稿: 宇治家 参去 | 2008年7月13日 (日) 03時28分

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