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平凡さに驚愕しなくてはなりません

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個々人の剥き出しの欲望と対峙する販売職という市井の職場で仕事をしていると、ときどきその個々人の持つ、遠慮のない・無制限な個別性に振り回されることがあり、人間というイキモノに疲れさせられてしまうことが多々あります。

またそうし個々人の個々人たる所以である個別特殊性を払拭した、がっちりと固められた、大文字の言葉で、公共性とか共同体を優先させよう!という主張が口角泡を飛ばす勢いでメガホンから流れてくると、それにも疲れ果ててしまうことが多々あります。

おそらく、その両者にとっては、現実に生きている人間そのもの、そして、還元不可能な顔を持ったひとりひとりの人間から本来形成される社会そのものに、どこか人間の顔を見ていない発想があるのだろう。
人間を人間としてあるがままに扱わないがゆえに、人間そのものを疲れさせるエネルギーとして発動しているのではあるまいか。

人間を手段として扱わず目的として扱えと説いたのはイマヌエル・カントである。
そして、目的と手段は分断した在り方ではなく、実は相互に有機的に関係しているが故に、目的のためには手段を選ぶなという発想を唾棄したのはマハトマ・ガンジーである。

世の中は忙しい。
忙しさのなかで、どことなく操作されたニュースに流されてしまう。
忙しいとは、“心を亡くす”ことだそうだ。

心を亡くしてしまうと、人間に対峙しながら人間をみてしまわない結果になってしまうのであろう。だから、冷静になって考えれば、人間に本来向けるべきではない無礼な言葉も出てくれば、人間という存在を無視した集合としての共同体ありきというモノ言いも出てくるのであろう。その当人自身がその罠に陥っているにもかかわらず……。

そして……他者を手段として扱うことは自分を手段として扱ってもよいとの朱印状を自ら他者へ売り渡すことであるにも他ならないにもかかわらず……。

最近、そうしたことを常々実感する宇治家参去です。
ある意味で、形式主義的で強制(=矯正)的かもしれませんが、どこかで人間は、人間を人間としてあるがままに扱う訓練というか練習が必要なのかも知れません。

スターリンが説いたねじの論理なんて不可能だ。
ねじの論理とは、機械の部品のねじのように、人間は原理的には等価・交換可能な部品のひとつにすぎないという論理である。歴史を振り返ってみれば、その論理が破綻をきたしているにもかかわらず、合理化と生産性という名目の元に、手を変え品を変え、その手の在り方はいまだ実行力をうしなっていない。

何か空寒い在り方である。

一個の人間は誰に還元できない独自の特殊個別の存在だ。
そして自己自身が直接的にせよ、間接的にせよ、向かい合う自分以外の人間も、自分がそうであるように、誰にも還元できない独自の特殊個別の存在だ。

どこかで人間は、人間を人間としてあるがままに扱う訓練をしないといけない。
それが“他者の練習”である。
他者を学ぶことで、自己を学ぶ。自己を振り返ることで、他者の差異を讃える勇気を選択する。そうした生きる流儀が顧みられなくなって久しい。

小さな所から気をつけるしかない。
できるところから手をつけるしかない。
ファイナル・アンサーは自己自身の生活の中にしか存在しない。
生きた人間を凝視(dé-visager)しない特殊個別も普遍全体ももう沢山だ。

だから、宇治家参去は、我が子を決して呼び捨てにはしない。
我が子との交流の中で他者を学び、そこからその他の他者とも学ぶ流儀を確認するしかない。

さあ、敬称で相手に呼びかけながら、雄々しく生きていこうではないか、宇治家参去よ。
人間なんて……っていう言い方を避けながら……
そして、世の中なんて……っていう言い方をも避けながら……。

で--。
そういえば、久し振りにハイネケンの瓶ビールを発見する。
ハイネケンといえば、ワーズワース好きの気のけない友がいたが(今でも)、日本製だとサッポロビールしか飲まず、海外だとハイネケンが一番大好きだといってはばからない友人がいた。彼とよく、夏になると伊東へ繰り出し、浜辺でハイネケンを瓶のままやった思い出が懐かしい。
そのI氏が教えてくれた“生きる流儀”が“せせら笑うな”ということ。ときには、論点をめぐりぶん殴りの激論もかわしたし、映画を一緒に見て泣いたこともあった。そのなかで、I氏が大切にしていたことは愚かさも賢さも含めて人間を“せせら笑うな”ということであった。

今日は少しノスタルジアにでもひたりつつ、ハイネケンで軽くやって寝ましょうか。

なんと今日は、レポート添削10通/1日という自己ベストを更新しましたので、そのご褒美に。

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ポワリエ あなたは他者の顔との関係は、はじめから倫理的なものであるとおっしゃっておられますが、なにゆえそうなのでしょうか?

レヴィナス 倫理、それはあなたにとって異邦人であり、あなたに関係ない他者が、あなたの利害にかかわる秩序にもあなたの感情にかかわる秩序にも属さない他者が、それにもかかわらずなお、あなたに関係する場合の身の処し方をいうのです。他者の他者性があなたにかかわるのです。それは対象が知によって聖人されるような認識の秩序(それは諸存在者との関係の唯一の様態とみなされていますが)とは別の秩序に属する関係です。純粋な認識の一対象に還元されることなしに、私たちは一個の自我にとって存在しうるでしょうか? 倫理的関係のうちに置かれたとき、他の人間は他のものにとどまります。そこにおいては、他者とあなたを倫理的に結びつけるのは、まさしく他人の違和感であり、こう言ってよければその「異邦人性」(étrangereté)なのです。これは平凡なことです。けれどもこの平凡さに驚愕しなくてはなりません。超越という観念が立ち上がってくるのは、おそらくここにおいてであるからです。
    --エマニュエル.レヴィナス・フランソワ.ポワリエ(内田樹訳)『暴力と聖性 --レヴィナスは語る--』(国文社、1991年)。

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