(中庸とは)白刃をも踏むべきなり
月曜日は海の日で休日でしたが、授業回数の調整の都合上、授業があり短大での前期最終講義となる。哲学とは自分の生活から遠くかけ離れた、何かできあがったような体系ではない。体系というならば、古今の聖賢の言葉に耳を傾ける際のひとつの見取り図がそれにあたるのであろうし、アリストテレスが思慮し、ヘーゲルが苦悩の末に構築した体系も、苦悩の思索のはてに到達したひとつの形であるにすぎない。
重要なことは自分自身が、そうした思索を生活の中のどこかで心がけることである。人間は、「これでいいのか」とか「今日はこうだった、明日はこうしよう」自分と対話するかたちでもって思索を続けている。そうした瞬間を無駄と思ってはいけない。
さて……。
講義終了後、通信教育部の「倫理学」の討議およびレポート評価の件で、文学研究科長のI先生の研究室を訪問する。
近況を報告後、レポート評価に関する意見を聞く。その後、スクーリング授業での注意点を再度確認してもらい、少人数の場合、大教室での場合、夏期スクーリングでの講義の場合、対象者への配慮……種々基本事項が確認できた。やはり餅は餅屋です。
授業とレポートに関する討議のあと、先生も哲学(広くいえば人文学)が専門ですので、宇治家参去自身がつねづね疑問に思っていた点というか、ひっかかっていた点の意見を伺った。
1つ目が、人間主義という概念を考える場合における、契機としての無限と有限という問題です。
人間は確かに無限の可能性を持っている存在である。このことだけは精緻な哲学的な議論の問題というよりも、生活実感のなかでそのことが理解できる。確かに存在としては一面無限大な広がりを所有している。しかし、やがて人間はほかの動物とおなじように死んでいくという意味では有限な存在である。だからこそプラトンは「哲学とは死のリハーサル」と呼んだが、存在者としては、有限と無限という二重の存在規定をなされているということである。このことは以前にも論じたが、これまで人間の規定は、特に西洋の社会においては、第一にキリスト教(ないしは教会)が、それを基礎づけ、尊厳の根拠の原因となった。人間は「神の似姿」をもって造られたが故に、ほかの動物とは違う、特別な存在であるとされてきたが、その一方で、絶対的な存在者である神からは常に相対化されるという契機(それとともに贖罪という循環構造)をもっていた。まさしく絶対の側面もありながら、たえず有限の自覚をもたらされる存在として取り扱われてきた。
しかし、宗教改革・ルネサンス以降、人間主義という考え方が思想的に整備されてくるなかで、キリスト教(ないしは教会)の権威が失墜するなかで、人間が人間に即して基礎づけられるようになる流れ(そのことは別段無意味で愚かなことではなく歓迎されてしかるべきひとつの方向である)の末に、行き着いたのが、人間における絶対の側面の一方的な強調ないしは勝利であり、相対化させる契機の後退ないしは廃棄であった。
その結果どうなったのか。本朝において顧みれば、そうした思想的産物のひとつが、中古天台における天台本覚思想の系譜である。通俗化して述べるならば、人間はもともと仏性を内在した卓越した存在であるとするならば、仏になるための修行なんて必要ないじゃんとの発想である。
しかしなあ~という実感です。
こうした違和感に対する、いわば近代・人間主義批判は、19世紀末から現在に至るまで連綿と続いている。上では、日本における、結果としてのそのひとつの思考パターンを紹介したが西洋文化圏においても事情はほぼ同じである。西洋における人間主義批判の要点は、すなわち“人間中心主義”への批判である。人間がまさに無限の存在として「神化」されるあまり、人間は環境に対しても、そして西洋の文脈でいえば、人間である西洋文化圏のひとびとが、非人間であるその他の地域の文化圏のひとびとを「文明化」していくという錦の御旗のもとに、帝国主義的施策が合理化され、その権勢を爆発的に加速させたという側面である。
“人間中心主義”とは、人間の無制約な「自己肯定」の立場であり、それゆえ基本的に自分以上のものを認めない“閉じた”立場である。哲学の営みは本来、“開かれた”対話によって自己批判を繰り替えし、真理の高みへ昇っていく営みであり、“開かれた”対話・討究による錬磨によって近代ヒューマニズムの胎動もはじまった。しかし、人間は偉大なものをもとめる心を失ったとき、自分自身を狭隘な地位へ閉じこめることになり、ついには自分自身の低下・弱体化・危機をもたらすのである。人間のためのヒューマニズムが、実際には人間自身のためにならいものだとすれば、そうしたヒューマニズムは否定されてしかるべきである。そういう発想である。
たしかに時間軸で見てみるならば、未来へ投企していく現存在としての自己自身の歩みはある意味で無限大に広がっている。しかし、その無限大への広がりは、存在としての無限大を意味しているのでは無かろう。制約をうけないという意味では無限大であるが、個別の現存在としての自己自身は、ある意味でどこまでも有限な存在者である。このことの自覚が必要なのでは……。
そのことを哲学的な議論でいうならば、有限と無限の問題であり、宗教の言説でいうならば、それが内在と超越という契機の問題になるのだと思われる。有限-無限の緊張関係、ないしは内在と超越の緊張関係がまったく存在しないところに人間の成長は存在しない。
無限・超越への開き直りは、単なる居直り宣言にすぎないし、有限・内在への集中は、共同存在としての人間自身という在り方から自ら退場してしまう危険性を孕んでいる。極端をはいしながら、両者の緊張関係をどこかにもたなければならないのではなかろうか……。
こんな話をしたわけですが、そのなかで、でてきたのが、思想軸としての有限・無限、ないしは内在・超越……理屈としては両者の一方だけに組みしないで生きていく選択が議論として必要なのはわかるし、人間主義限らず近代批判の成果も発想もよく理解できる。
ただし、このことは難しく考える前に「日々、人間が生活の中で日々実践していることではありませんか」……そう先生は示唆してくださった。
「といいますと?」
「たとえば、人間は日々反省しながら生きている。今日はこうだった。明日はこうしよう。今日の講義は前回よりも良くなかった。次はこうしてみよう。彼と会うのは苦手だ。だけど合わなければならない。であるとすれば、今日はこういう感じで接してみよう……日々反省して生きていますよね。もちろん四六時中反省しているわけでもないし、反省した結果がストレートに結果にうつされるわけでもないのが実情です。しかし、どこかに自己自身を相対化させる、反省する瞬間がありますよね。それが実は有限と無限、そして内在と超越が邂逅する緊張的な瞬間ではありませんか? 現実の存在者としての有限ないし内在を反省し自覚することによって、無限・超越への“開いていく”……そうしたことができる生きものは人間しかいかせんよね。そして、もうひとつ付け加えるならば、人間/非人間の弁別に関しても、例えば、西洋の植民地支配を肯定・加速させた思想の側面として人間/非人間の問題への言及があったかと思いますが、それはひとつの具体例として理解できますが、理論・理念として人間/非人間といった場合、個別の生活実態に即した議論でもないかぎり、具体的な人間とか、非人間とは何なのかといった存在を思い浮かべることもできませんよね」
「その意味で、哲学にしても、倫理学にしても、もちろん先哲の声に不断に耳を傾けながら、またそれを批判したり取り込みながら思索していく側面が重要な意味をもっていますが、ただし重要なことは、やはり、生きている人間自身として、生活の中で悩みながら、反省しながら、思索していかない限り、哲学を論じたことにも、人間を論じたことにもならないんですよ」
「だから……哲学とか倫理学とはできあがった人間(道学者)が講壇を垂れるというよりも、苦悩に立つできていない人間が論じるぐらいがちょうどいいのですよ。がんばってください」
「ただし、論文はあくまで作業ですので、あまり苦悩を引きずりながら書かない方がいいですよ」
「中庸が大切なんですが、中庸が一番むずかしいんですよ」
なるほど。
こ1時間ばかりそのほかにさまざま意見を伺ったが(宮沢賢治の法華思想と童話作品の問題/ルターの奴隷意志論と内村鑑三の人間論etc)、非常に示唆に富んだ1時間であった。I先生、お忙しい中ありがとうございました。やはり偉大な人文学者であった。
さて、研究室を退室した後、学生から声をかけられる。
「先生! 覚えていませんか?」
「?」
「昨年、先生の哲学履っていたんですよ」
(声と顔に覚えはあるのだが、名前が出てこない……)
「名前がわかんないんでしょ?」
「スンマセン」
名前を忘れているようでは、人間を議論していながら、人間を見ていない自己自身を自覚する一瞬であった。トホホ。
話を伺うと、既に就職が内定し、来春から地元へもどって働くのだそうな。
ただし、夢は別のところにあるようで、簿記が好きだから、税理士とかそのへんを目指したいとのことである。是非がんばってほしい。
現状の有限存在から無限への契機をひとつ見せてもらったようです。
Oさん、ありがとう。
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まず、「中庸」という概念ですが、中庸については「偏らざるをこれ中(なか)といい、易(か)わらざるをこれ庸(よう)という(不偏之謂中、不易之謂庸)」(『中庸』宋朱熹章句)といわれています。つまり、一方にかたよることがなく、多すぎも少なすぎもせず、適正さ(ちょうどよいこと)を貫くのが中庸というのです。この中庸について、『論語』では「中庸の徳たるや、其れ至れるかな(中庸之為徳也、其至矣乎)」(雍也第六)と述べています。いろいろな徳のなかでも最高の徳であるのが、中庸の徳であるというのです。
儒教では、直情径行(相手のおもわくや事情など気にせずに、自分の思ったとおり行動すること)を夷狄の風(野蛮な様子)として嫌い、深い思慮や省察をともなったありかたを尊重したのですが、まさに中庸は、そうした洗練されたありかたを意味したのです。また、同時に、そうしたありかたは、特別な状態というものでもなく、むしろ日常のなかにあるありかたでもある。特定の優れた人のみに許されるというようなものではなく、誰でもが到達できるありかた、つまり万人のものとして説かれたということが注目されます。
このことについて、中国哲学者の宇野哲人は簡略にこう解説しております。
「中庸とは、その場、その時に最も適切妥当なことである。だから本当の意味での中庸は、生易しいことではなく、つねに中陽を得ることができるのは聖人だ、と言われる。けれども一面、中庸の庸は、普通のこと、当たり前のこと、という意味もあって、平凡な、当たり前のことの中にこそ、中庸はあると考えられているから、どんな人でも中庸を得ることができる」(宇野哲人訳注『中庸』序文、講談社学術文庫)
西洋で、こうした漢語の「中庸」にあたるものを探していきますと、アリストテレスの倫理学で重要な概念とされる「メソテース(mesotes)」という概念が、それに相当する言葉とみられます。メソテースとは、正しい中間を選び取ることであり、これは深い経験や知見を必要とする倫理的な徳(優れていること)のことです。たとえば「勇気」は、怯懦(臆病で意志が弱いこと)と粗暴との正しい中間であり、「節制」は快楽と禁欲との正しい中間だといわれます。しかも「勇気」や「節制」はともに、怯懦・粗暴・快楽・禁欲という直情径行ではなく、倫理的に徳へと高まったものです。
アリストテレスは<事物における中>と<私たちに対する中>とを区別しています。<事物における中>とは「両端から等しく隔たっているもののこと」であり、<私たちに対する中>とは「多すぎもせず不足もしないもののこと」であるとし、したがって「それは一つではなく、すべての人に同一のものでもない」と述べています(ここに、関係的な見かたからの調和が示されています)。
つまり、「中(meson)」とは、たんなる中間というよりも、もっともふさわしい(最適な)状態のことを意味します。いいかえれば、二と六の中間が四であるというような、足して二で割る算術的な中間ではなく、現実的、経験的な智慧にもとづいた「中」である(この点、漢語において、もっとも適当なありかたになることを「中(あた)る」といい、まさにぴったりあたっています)。
アリストテレスは、「あるべき時に、あるべきことにもとづいて、あるべき人々に対して、あるべきものをめざして、あるべき仕方で」なされるということが、このメテソースであるといいます。彼によれば、この倫理的徳を自分のものにするためには、年少のときから習慣づけられることが必要であるとも述べています。
このようにメテソースは、漢語の「中庸」とその意味がほぼ一致するといってよいでしょう。
--石神豊『調和と生命尊厳の社会へ』(第三文明社、2008年)。
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