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私を直視するものをみつめること

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タスポが東京でも導入されたわけですが、うちの市井の職場でも煙草の自動販売機を4台設置しております。週に一度集金および決算しますが、導入後2週連続で売り上げが1/5となる。そのぶん、まさに対機械販売ではなく、対面販売での需要が伸びていますが、両者のトータルの売り上げを比べてみても、導入前/後では、総体として、煙草の販売数量が減少しております。

おそらく……これを機会に、「購入するのも面倒だな」って感じで自然と煙草を辞める人がふえたのではなかろうかと思います。

さて今日も市井の職場でがっつりとレジを打つ。
打っているとタスポではありませんが、やはり前月とくらべると、煙草を単品もしくはカートン買いするお客様が増加している。手元になかったり、一時保管場所になかったりする銘柄だと、倉庫まで取りに行かねばならないわけですが(それでもない場合はありますが)、対面販売では結構売れているというのを実感する。

そこでビミョウなのが……
自分が吸っている銘柄とか、メジャーな銘柄だとすぐにわかるのですが、たまにマイナーな品種を要望される場合がある。

日本たばこで言えばマイルドセブン系とか、洋煙でいえばマルボロとかならすぐでてくるし、近くに保管してあるのですが、ピーススーパライトとか、バージニア・スリム・ノアール・メンソールとかになると、ない場合が多々ある。

だから倉庫まで猛ダッシュする必要があるわけで……。
今日はいい汗をかきました。

で……。
例の如くレジをうちながら、よくあるパターンが再来する。
高齢者のお婆様に多いのですが……宇治家参去の名字に注目する御仁……の到来である。
名札はひらがな・ローマ字表記なのですが、うじけ(UJIKE)となる。読みが珍しいのでしょう。

そのお客様の後にもがっつりレジには並んでいるわけですが……、
「UJIKEさんって、珍しいお名前ですね、このあたりではお見受けしませんわ。お公家様か何かの出ですか、漢字で書くとどうなるのですか?」

……ってなるわけです。

お婆様は興味津々なので、眼がうるうる。
こちらは、はやく裁いて、次のお客様と応対しなければならない。

無限の倫理的要求が現出する瞬間である。
うそをつくことも出来ないので……、

次並んでいるお客様の視線も痛いけど、現在対峙しているお客様を無下にすることもできない。

「UJIKEです。……世が、世ならばですね……そうした在り方もありなんでしょうが……、ごほっ……、えっ~~、お会計1998円で御座います」

「あ、ら、ら……ごめんなさい、これで」

(よかった……。スルーできた)。

そして次のお客様……。

「大変お待たせ致しました……」

好奇心旺盛な年輩の御婦人も、その後並んだすこし苛つく中年のおばさまも、無限の倫理的要求をつきつけてくる。

後者は、バージニア・スリム・デュオ・メンソールを1カートンと所望する。収納ケースを振り返るが在庫がない。

「少々お待ち下さい……」

……って売り場を走り抜ける。

「お待たせいたしました……」

ぶっちゃけ、大嫌いな職場ですが、人間という存在の意味を、これほどまでに赤裸々に対峙してくれるのはほんとうにアリガタイ。そのなかで善悪含め人間という生き物を学ばせてくれるからだ。それを利点とした、哲学とか倫理学とか神学を学の世界で構想したいものである。それが宇治家参去自身の強みになるのだとおもうのだから……。

そしてヘロヘロになって……痛風の足を押しながら、「ドナドナ、ド~ナ、ド~ナ」って鼻歌を歌いながら帰宅する。

そうすると、用意されていたのは……

ポテトサラダ、ニガウリサラダ、そしてオクラ納豆……。
これを見て飲まずにいられるか!

がっつり飲むわけですが、明朝は短大講義があるので、“いち早く”がっつり飲んで寝ます。

顔をみないことにはわからないからなあ~。

最初の御婦人は興味津々でしたが、次のおばさんは、「はやくしろ、ボケ」って感じでした。顔と瞳の突きつける無限要求に、しばしたじろぐある日の宇治家参去でした。

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 対話という平凡な事実が、ある経路を抜けて、暴力の秩序からのがれる。この平凡な事実こそが驚異中の驚異なのである。
 語るとは、それは他者を知ると同時に自らを他者に知らしめることである。他者は単に知られるだけでなく、挨拶される。他者は単に名ざされるだけでなく、その助力を求めて呼び寄せられる。文法用語を用いて言えば、他者は名格においてではなく呼格において出現する。私は単に他者が私にとって何であるかだけでなく、それと同時に、いやそれよりも以前に、私が他者にとって何であるのかを思惟する。他者にある概念を当てはめたり、他者をあれこれの名称で名ざすとき、私はすでに他者を呼び求めているのである。私は単に知るだけではなく、関係する。語りかけ(parole)が必然の前提とするこの交易(commerce)はまさしく暴力なき関係である。公益者は、その活動のさなかにおいてさえ、他者の応答を待機するなかで、他者の活動に身をさらしている。語りかけることと聴くことはあわせて一つの挙措であり、いずれが先ということは言えない。語りかけるとはこうして対等という道徳的関係をうちたて、その結果、正義とは何かを知るに至る。ひとはたとえ奴隷に向かって話しかけているときでさえ、対等の者に向かって話しかけているのである。語られたこと、伝達された内容は、他者が知られるより先に対話者としてすでに座を占めているこの顔と顔とを向き合わせた関係を介してしか語られることも伝達されること不可能である。私は私をみつめるまなざしをみつめ返す。まなざしみつめ返すこと、それは自らを放棄せぬもの、身を委ねぬもの、私を直視するものをみつめることである。顔(visage)を見るとはこのことをいう。
 顔とは鼻や額や眼の集合体ではない。たしかにそういった要素からなってはいるが、ある存在を知覚するとき、顔が開く新しい次元を通じて、顔は新しい意味を帯びる。顔によって存在はその形式のなかに閉じ込められ、物のように扱われるばかりでなく、自らを開き、深みのうちへ身を置き、この開かれ(ouverture)において、ある種の個人的な仕方で自らを顕現する。顔は存在がその自己同一性(identité)において自らを顕現することのできる還元不能の一モードである。物とは決して個人的に自らを還元しないもの、すなわち自己同一性をもたぬものをいう。物に対して暴力は揮われる。暴力は物を自分の思うように扱い、物をつかまえる。物にはつかまえる手掛かりがあり、顔を示すことはないからである。物とは顔のない存在である。芸術が探究しているのはおそらく物に顔を与えることなのであろう。そしてそこに芸術の偉大さと虚構とが存在している。

エマニュエル・レヴィナス(内田樹訳)『困難な自由 --ユダヤ教についての試論-- 』(国文社、1985年)。

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