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、「打ちつづき考えている」事象へのひとつの間欠泉的な刺激

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どうも宇治家参去です。

土曜に開催された息子さんの盆踊り大会への臨席で躰が結構疲れていたのですが、本日は、子供さんが再来年入学を目指している私立の小学校の学校説明会(午前の部)へ参加を強要される。
先月だったと思うのですが、学校見学会があったので、それにも参加するように細君から求めてられていたのですが、その折りは生憎の体調不良でしたので、二人で行かせましたが、今日は参加してきました。

武蔵野の新緑美しいキャンパスへ--直線自転車距離ならものの20分なのですが--公共交通機関を使って出発する。細君からきちんとスーツを着ていけ!(=上着を脱ぐな!)との支持がでていたので、暑いながらも同伴する。

駅から、校舎まで暫し歩くが--「東京にこんなところがあったのか!」と驚くばかりの玉川上水の側道を抜けると目指す目的地が。到着すると汗みどろ。

説明会まで時間があるので、近代カトリシズムの文献を紐解きながら、時間を待つ。
ただし、細君の視線がイタイ。その傍らで息子さんは、自由帳に「わいあーるせいじん」を書いている。

細君は「お前が受験(うけ)るのか!」っていわんばかりに真剣に聞き入っていた。
息子さんは相変わらず、「めとろんせいじん」を書いていたが、受験に関する諸注意の説明にはいった段階で、子供さん方は教室へ誘われ、ドラえもん鑑賞。その間に大人の両親への細かい説明が続く。
自分は熱中症じゃないかと思うぐらい、体調がダウンし、それどころでは無かったのですが--。

説明会自体は一時間弱で終了し、会場を後にする。
説明会では、宇治家参去が大学一年のときに、当時四年生の方で一番お世話になったU田さんと久し振りに邂逅した。U田さんのご子息は今年受験だとのこと。頑張って欲しい。

もと着た道を辿りつつ駅へ向かうが、息子さんがだっこを強要する。上着を脱ぐな!と恫喝されているのでそのまま息子さんをだっこし、駅へ向かう。

そして--
その側道で、またしても知己と遭遇する。
宇治家参去と同じく、大学生を五年間努めてくれたM倉くんとの再会である。
聞けば、地域の合唱団の責任者をやっているそうなのだが、夏休み企画で、このへんへ散策へきたのだとか。
M倉くんは、宇治家参去ひとりが五年目を“戦う”のを憐れみ、一緒に五年目を“戦って”くれた人物であり、奥さんは、自分の細君の短大の同級生である。

ま、しかしながら--いや~あ。
疲れました。

軽く昼食を取り、息子さんに今日の出来事をヒアリングする。
「小学校へ入って何を勉強するの?」
「ぜんぶ~」

--例の如くじゃん!

仮眠を取って市井の職場へ出勤する。
が--体調がよくない。軽い熱中症のような症状だ。
ひさしぶりにフル・スーツ装備(重武装)で釦もとらず、炎天下の中進軍を続けたのが効いたようだ。何となく熱っぽいのだが、仕事は何とか終わらせ帰宅する。

ダルイのですが、熱を冷まさないといけないのでエビスを飲む。
エビスが染みわたると躰が回復し始めるので--不思議です。

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おなじ物を長くみつめていると、目が鈍くなって、もう何も見えなくなる。それとおなじように、知性もおなじ事柄を打ちつづき考えていると、それについてもう何も発見したり理解したりすることができなくなる。あまり長い間ひとつの物を見つめていると、輪郭がぼやけて、何もかもかすんでくるように、ひとつの事柄を長く考えつめているときにも、すべてがこんぐらがってくる。こういう場合には、いったんそれから眼を離さなくてはならない。そしてそのあとで再びそこへ立ち帰ってみると、こんどはそれがはっきりした輪郭で鮮やかに現れてくる。だから、プラトンが『饗宴』の中で、ソクラテスは何か思いついたことを考えつめて一日中身じろぎもせず、彫像のようにつっ立っていたと語っているが、こういう話を聞いたら、「まさか」と言うだけでなく、「まずいことをしたものだ」と付け加えなくてはならない。
 知性がこのように休息を必要とするということから説明のつくことであるが、いくらか長休みをしたあとで、この世界のありふれた成りゆきを何か新鮮で物珍しいもののように眺めて、ここではじめて本当にとらわれない新しい眼で世界を目撃すると、その脈絡と異議とがわれわれにきわめて純粋にかつ明晰に知られるものである。そうなると、われわれには手にとるように見えてくる物事が、刻々その中で動きまわっている皆の人々にはどうして気づかれないのか、どうしても理解できなくなるほどである。このように澄み切った瞬間は、だから、狂気の人が時折本心に立ちもどる「冴えた束の間」になぞらえることができる。
    --ショーペンハウエル(細谷貞雄訳)『知性について 他四篇』(岩波文庫、1961年)。

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こういうヘビーな経験を、「打ちつづき考えている」事象へのひとつの間欠泉的な刺激としながら、自己の仕事に打ち込んでいくしかないですね。
このところ、近代日本のカトリシズムとプロテスタンティズムの文献ばかり渉猟しております。そのなかで、つくづく実感するのが、前者は不変の共同体を要しているようだが、それを要するために必要なのは当事者の責任感と決断の問題。そして後者においては、厳格な個人還元主義となるがゆえの「正統」と「異端」の問題です。

両者の在り方に耳を傾けざるを現実には得ないわけですが、宗教における二重の契機は、共同体(教団組織)と個人(個々の信仰者)の弁証法的な関係です。これを開き直ってしまい、教団優先、ないしは個人優先となってしまった場合、そこには、不毛な、荒涼とした大地しかのこらないのではあるまいか--最近、古い文献を読みながらそう実感しております。宗教社会学の見地は、フィールドワークや類型論ないしはコミュニティへの内在的関与を実践しながらさまざまなデータを蓄積してきましたが、何か読んでいると不毛(とまでも言いませんが)一面的な理解しかできていないと実感する。しかし、傑出した個人の信仰告白やその歩みを振り返ってみると、還元できない何かが存在する。

自由への衝動は、エマソンやトルストイ、ないしは内村鑑三のような傑出した人格にしか理想的飛躍は可能ではない。人間は、やはりどこかで協同・共同がないとムズカシイのでは--そう実感する。特にカトリシズムの伝統に耳を傾けると--。

素描にも為らない青描写ですが、そのうち、宗教学ないしはキリスト教史における、個人と共同体の問題にでも言及してみようと、いま思索中です。

といういつも予告で終わらせてすんません。

ほんとうに、調子がわるいので--ですが、明朝から勤務校の定期試験があり、そのまま市井の仕事で、翌朝は朝一で、夏恒例の『ウルトラマン・フェスティバル』(サンシャインシティ@池袋)も待ちかまえており、考察する時間が全くありません。

ですが、それがを「打ちつづき考えている」事象へ棹さす、ひとつの多角的な見方の提示として受容するほかありませんが--。

とっとと寝ます。

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