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世界を語るもう一つの力が解放される

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……詩的言語も現実について語る。しかしそれは、科学的言語がそうするのとは別のレヴェルで語るのである。それは、すでにそこにある世界を、記述的あるいは教育的言語がするように、われわれに示すわけではない。われわれが見てきたように、実際、詩的言述の自然な戦略によって、言語の通常の指示は廃棄されるのである。しかし、まさに、この第一段階の指示が廃棄されるのに応じて、現実のもう一つのレヴェルにおいてではあるが、世界を語るもう一つの力が解放されるのである。このレヴェルはフッサールの現象学が生活世界(Lebenswelt)と名づけたものであり、ハイデガーが「世界内存在(being-in-the-world)」と呼んだものである。それは客観的で操作可能な世界を遮り、生の世界、操作することのできない、世界内存在の世界を照らし出すことである。そして、それが詩的言語の基本的な存在論的な意義であるように、私には思えるのである。
    --ポール・リクール(久米博・佐々木啓訳)『リクール聖書解釈学』(ヨルダン社、1995年)。

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子供がそろそろひらがな・かたかなの読み書きができるようになってきたので、最近は、絵本を読んで書き写すという練習をしています。
これができるようになれば、おそらく自分自身で考えたこと、思っていることを、言語として対象化できるようになるのだと思います。

時間的には短い時間ですが、なかなか悪戦苦闘しているようです。

最初に一節を音読して、それから書き写すのですが、私たちがおこなうようにはいきません。ただ、その音読を聞いていると、絵本という絵の世界に添えられた記号としての言葉は、読むことを前提に作られているのだと思いますが、詩のように一定のリズムや韻律のようなものが意識して作られた言葉だと思われますので、聞いているとここちよいというか、さそわれるようなリズムがあります。

古来、人間が文字というものを発明して以降も、なお、語る言葉、言説、パロール(parole)というものの力や魅力は失われていないから、いまだに文字化されたものだけですまさない人間の生活という在り方があるのでしょうか。

話し言葉(とそれを言葉として記録すること)を優位なものとみなす哲学的伝統は西洋においてはソクラテス以来の伝統です。『パイドロス』でソクラテスがエクリチュール(écriture,書かれた言葉)を批判し、パロールの圧倒的優位を優雅に示して見せたように、連綿としてつづく哲学の歴史がまさにそれである。

ジャック・デリダ(Jacques Derrida,1930-2004)は『声と現象』のなかで、「形而上学の歴史は絶対的な<自分が話すのを聞きたい>である」として、西洋哲学の歴史を多義的な差異を同一性に収斂させていく暴力に他ならないと断じたが、話し言葉のもつ力が差異を無視したものになってしまうのであれば、それはチトサビシイものである。

批判精神に富んだデリダは、まさにそうした問題への批判理論を練り上げていくのですが、そうした問題をもっていたとしても哲学の資産を一挙に解体する、廃棄するのもすこしサビシイ。だからこそ、レヴィナスのような倫理としての他者論が展開されるのかもしれません。

さて……息子さんは、そうしたパロールをエクリチュールするという西洋哲学の伝統を実践しておりますが、それを横で聞く宇治家参去自身は、その伝統をどう活かし、次へつなげていくのか……倫理としての形而上学を構想しているとでも表現しておけばよろしいでしょうかね(苦笑)。

同一性の“暴力”は確かに問題だが、批判理論の“差異の王国”もなにかしっくりとこない。そうすると、やはり存在論としての倫理の問題、“自覚”になってくるのか……そのへんをよく考えています(がまとまってはいません)。

さて話がずれましたが詩の持つリズムや力は、おそらく<自分が話すのを聞きたい>という哲学者の独白ではないがゆえに、自他を繋ぐ本源的な力をもっているがゆえに、この技術時代の現代でも、書かれ、読み継がれているのかと思います。

思うに、詩は魂の発露であり、信念の美的表現なのだろう。
だから詩は、読み手の精神を高みへと引き上げ、一切の束縛から解放する。そして読み手の魂を高揚させる。その言葉は、宇宙のリズムや巧まざる自然の営みへの驚きであれ、あるいは圧政への抵抗の叫びであれ、謳い上げられた詩人の心が、読み手の心に触れて、共振を起こさせるから、“感動”するのだと思います。

思想哲学となるとなかなか言葉に“感銘”しても“感動”することがないのがすこし残念なところですが、それはそれで思想哲学の味かも知れませんが。

さて冒頭では、フランスの解釈学者・神学者リクール(Paul Ricoeur,1913-2005)の一節を紹介しましたが、リクールもなかなか詩人ですね。フッサールの現象学の世界やハイデガーの存在論を、こうも美しく位置づけ直すとは脱帽です。

写真は、カミキリムシ。
息子さんが欲しいということで、6月末にスクーリングで高松へ行った際、細君の実家へたちより、捕まえてもらっていたものを持ち帰ったもの。巧まざる自然ではありませんが、すぐ死ぬだろうとおもっていたのに、元気に生きています。知らなかったのですが、カミキリムシとは害虫だったようですね。どうりで、東京でも郊外の近所ではお目にかかれなかったわけだなと思いましたが、こうした生き物や、絵本を読む息子、そしてそれを怒鳴りつける細君と暮らしている宇治家参去は、やはりどこか世間とずれていきそうですが、それを味にしておきます。

Paul_ricoeur

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