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知恵は老年医学である必要はない

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 完璧にバランスのとれた釣合いのよい判断力は、ひょっとすると、若者が部分への情熱や偉大な野望を強引に禁じてしまうかもしれない。そういう追究を通してこそ、青年は強烈な経験や偉大な成功へと導かれるのであるが。たとえ年をとってバランスを保っている人でもいつもアリストテレス的な中庸にとどまっている必要はない。ありあまる情熱でこちらの方に進むが、やがてその埋め合わせのように、別の熱情で反対の方に進む、という風に曲折した道をたどるかもしれない。この人のバランスは中心となる傾向の方向性の中に示されるかもしれない。またさらに本道からの逸脱はそんなに大きくも長い間でもなく永続する悪い結果を残すこともないという事実によっても示されるだろう。すぐに自分自身を正しく復元する能力は時間のバランスの上にも引続き繰り返される型をあたえるが、それでも、ある意味では、それは若い時期のロマンスや情熱的な行き過ぎのあるものを許しまたあらわしもする。知恵は老年医学である必要はない。
    --ロバート・ノージック(井上章子訳)『生のなかの螺旋 自己と人生のダイアローグ』(青土社、1993年)。

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通俗的な人生論レベルの話題で恐縮ですが、知識も必要だが、知識を使いこなす知恵(ないしは智慧)も必要なのが生の現実である。その知恵を最終局面において押しい出すのが、実は宗教とか信仰とかで語られるレベルでの生の飛躍(ベルクソン)ではなかろうかと思われるのだが、その部分は、宇治家参去自身も纏まっていないのでひとまず置く。

このところノージックの著作をずんやりと読んでいるわけですが、結局のところ、全体というなかでの自己という極点が、全体をふまえてなにかしら歩み出せねばならぬものなのが人生なのかなあと実感する昨今ですが、そのことを授業しながら、そして市井の仕事をしながら身にしみる宇治家参去です。

知識/智慧といった二元論にも勿論問題があるわけですが、伝統的な議論に従えば、知識は学ぶことはできても、智慧は学ぶことができない。いわば知識を身につけた自分自身が古今東西の叡智に耳を傾けながら、その沃野を切り開く中で試行錯誤するなかでしか身につけることは出来ないのであろう。そのことを強く実感する。

アリストテレスの説く中庸とか、大乗仏教で説かれる中道思想的な、いわば“なにものにも左右されない人間としての根本的在り方”を身につけることは、ひとがより幸福に生き抜く為には必要な在り方ではあるが、それは何かできあがったものではなく、失敗したり、成功したりするなかで、自分自身の知として獲得する労作業なくしては獲得不可能な在り方なのではなかろうかと思っている。そのことをノージックの言葉はうまく説明している。

六月一杯で、市井の職場を退職するのがバイトのN君だ。
月曜が最終出勤日。彼は大学生で、なかなかふつうのバイト君よりも仕事も出来、頭も切れる逸物だが、勤務パターンが今の生活にあわないことと、めざすべき方向性と比較的合致した新しい仕事も見つかったとのことでこのたび退職となる。

嬉しいことである(仕事的にはきつくなるが)。

業務の終了後、慰労会となる。
3月にいち早く退職したM君も駆けつける。もうじき辞める予定のS君も休日なのに参加してくれる。

嬉しいことである。

乾杯。
飲み始めると止まらない。体調は良くないが結果論としては宇治家参去が一番飲んでいた。彼らはこれからカラオケへ流れる。宇治家参去は仕事もたまっているので帰宅する。

「知恵は老年医学である必要はない」

いまの努力や薫陶がそのまま未来の自己自身へ直結するわけではない。
しかし、その努力や薫陶は全く無意味なものではないはずだ。
自己自身を見つめ直し、努力する青年ほど美しい姿はない。

その試行錯誤のなかで、ひとはようやく“中庸”を手にするのであろう。

N君がんばれ、M君頑張れ、そしてS君頑張れ、そしてをつづけるならば宇治家参去も頑張れ!!

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