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人間は後悔するように出来ておる

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 「矢田作之丞どのに話を聞いた。道場の若い者の中ではもっとも筋がいいそうだな。はげめ」
 助左衛門がそう言ったとき、一枚だけ襖をあけはなしてある部屋の入り口に、さっきの武士が姿を現した。
 「牧助左衛門、それまでだ」
 と男が声をかけて来た。助左衛門は振りむくようにして男に一礼すると、文四郎を見て微笑した。眼がうす暗い光に馴れて、文四郎には乳の笑顔がはっきりと見えた。
 「登世をたのむぞ」
 助左衛門はそう言うと、いさぎよく膝を起こした。文四郎は何か言おうとしたが言葉が出ず、入り口に歩み去る父親にむかって深々と一礼しただけだった。
 兄の市左衛門と一緒に仏殿を出た文四郎を、真夏の光が照らし、耳にわんとひびくほどの蝉の声がもどって来た。
 門を出ると、小和田逸平が待っていた。
 「知人か」
 逸平が市左衛門にも会釈を送って来たのでそれと気づいたらしく、市左衛門は足をとめて文四郎を振りむいた。
 「漆原町の小和田逸平です。道場と居駒塾の同門で、いまは小姓組に勤めています」
 「話したいか」
 「はい」
 市左衛門は思案するようにうつむいて沈黙したが、顔を上げるとよかろうと言った。
 「叔母御には、わしから無事対面が終わったと伝えよう。おまえが取りみださなかったことも言っておく」
 「ご足労をかけます」
 「いや、わしも顔を出さずに帰るわけにはいかん」
 「……」
 「ただし、あまり遅くならぬようにいたせ」
 市左衛門はそう言うと、逸平の方に軽い会釈を残して先に帰って行った。
 すぐに逸平がそばに寄って来た。袴をはいてきちんと両刀を帯び、麻の羽織を着た逸平は、背丈があるので大人びて見えた。
 「対面が許されたそうだな」
 「うん」
 「会ったか」
 会ってきたと文四郎は言った。二人はそのまま口をつぐんで、龍興寺の土塀に沿って、寺の横手の方に歩いて行った。
(中略)
 「おやじどのの様子はどうだった?」
 と逸平が聞いたのは、寺の塀が尽き、足軽屋敷の生け垣も尽きるころになってからである。百人町はその名が示すようにはじめ足軽百人を収容する長屋を置いたことから出来た町で、城下の北東の隅にあっていまも辺鄙な感じがする町だった。実際には町の中に田畑があり、農家がある。
 足軽屋敷が尽きる先の方に、畑とそばにある雑木林が見えて来た。
 「いつもと変わりなかった」
 と文四郎は言った。
 「二人だけで会えたんだな」
 「そうだ」
 「何か話したか」
 「いや」
 と文四郎は言った。小さく首を振った。
 「何が起きたのか、聞きたいと言ったのだが……」
 言いたいのはそんなことではなかったと思ったとき、文四郎の胸に、不意に父に言いたかった言葉が溢れて来た。
 ここまで育ててくれて、ありがとうと言うべきだったのだ。母よりも父が好きだったと、言えばよかったのだ。あなたを尊敬していた、とどうして率直に言えなかったのだろう。そして父に言われるまでもなく、母のことは心配いらないと自分から言うべきだったのだ。父はおれを十六にしては未熟だと思わなかっただろうか。
 「泣きたいのか」
 と逸平が言った。二人は、歩いて来た道と交叉する畑に沿う道に曲がり、幹の太い欅の下に立ちどまっていた。旧街道の跡だというその道は、欅や松の並木がすずしい影をつくり、そこにも蝉が鳴いていた。
 「泣きたかったら存分に泣け。おれはかまわんぞ」
 「もっとほかに言うことがあったんだ」
 文四郎は涙が頬を伝い流れるのを感じたが、声は顫(ふる)えていないと思った。
 「だが、おやじに会っている間は思いつかなかったな」
 「そういうものだ。人間は後悔するように出来ておる」
 「おやじを尊敬していると言えばよかったんだ」
 「そうか」
 と逸平が言った。文四郎は欅の樹皮に額を押しつけた。固い樹皮に額をつけていると、快く涙が流れ出た。そしてそあとにさっぱりとした、幾分空虚な気分がやって来た。
 「少しみっともなかったな」
 「そんなことはないさ。男だって木石じゃない。時には泣かねばならんこともある」
 文四郎はあたりを見回した。景色がさっきと変わっているような気がしたのだが、気がつくといつの間にか日が翳っていた。
 「ひと雨来そうだな。もどるか」
    --藤沢周平『蝉しぐれ』(文春文庫、1991年)。

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昨日は大学で講義。

出勤するために、定時に起床しますが、時計をみるとまだ余裕があるのであと10分と思いもう一度寝る。そうしてはっ!と起きて、時計をみると同じ時間で止まったままだった。

ヤバっ!

寝るときはいつも腕時計をはめたまま寝ますが、日曜の深夜は、手巻き時計のねじをまくのを忘れていたので止まっていたのであった。

いつもより1本遅いバスになるので、八王子駅から大学までタクシーで向かう。時間的には全く問題なかったが、正門前の温度計をみると、32度……。

蝉の声はまだ聞こえませんが、ありえない暑さです。
地面がゆらゆらと萌え立つというか……宇治家参去は暑さが苦手なので、過酷な夏の到来に今から悲鳴です。

さて……。
藤沢周平の『蝉しぐれ』(文春文庫)を再読する。
舞台は藤沢の故郷・山形県鶴岡市にあった庄内藩をモチーフとする架空の藩「海坂藩」を舞台にした長編時代小説である。

政変に巻きこまれて父を失い、家禄を没収された少年牧文四郎の成長が描かれている。淡い恋、友情、そして悲運と忍苦……容赦なく照りつける真夏の日射しと、それを後押しする蝉の声を背に受けて成長していく牧文四郎と親友たちとの交流がとても美しく描かれており、電車の中で読むことが難しい作品である。

ちょうど引用個所は政変に巻き込まれ捕らえられた父と息・文四郎の対面の一情景です。涙なくして読み進めないワンシーンです。

「人間は後悔するように出来ておる」

しかし、後悔があるからこそ、成長できる。
そして、努力するのである。
後悔しなくなると、それは現状に対する傲慢な居直りになってしまう。
そうなると、悲しいかな……ただ堕ちるだけしかない。
後悔はたしかに疲れるし、悲しいし、自分がいやになるひとつの契機である。
しかし、そのことによって人間という世界がひとつづつ豊かな彩りを増してくるのも事実である。

人間なんて……っていうようなシニカルな雰囲気が、哲学とか思想という分野だけでなく、なんとなくこの世の中全体を包み込もうとしているような雰囲気をひしひしと感じるのですが、藤沢や池波の小説を読んでいると、「人間なんて……ちっぽけな存在にすぎない、考えるに値しない」といわれても、やはり「それでもなお……」というかたちで、「人間とは何か」を考え出したくなります。

その歩みが無益で生産性が低いといかに揶揄されようとも、文四郎の如く「蟻のごとく」背に蝉の声を受けながら、歩み続けることしかないことを実感する。

そうした泣き出しそうな、そして難しい顔をして、電車の中で本を読んでいるものですから、とりわけヘンな人間として周囲の人間からは認知されたのではなかろうかと思うのですが、まあいいか。

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