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2008年8月

「ひゅう、バナナ高いなあ」

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 たしかトム・クランシーの小説『レッド・オクトーバーを追え』に、亡命しようとするソヴィエト時代のロシア人に向かって主人公ジャック・ライアンが「アメリカのスーパーマーケットでは冬だってトマトが買えるんだぞ。そりゃまあちょっと高いけどな」と説明する場面があったと記憶している。ロシア人はそれを聞いても「冗談じゃないや。冬にトマトが何で買えるものか」とあまり信用しなかった。でももちろんジャックは嘘をついているわけではない。皆様ご存じのようにアメリカでも日本でも、冬にだって温室もののトマトはちゃんと買えるわけだけれど、それはそれとして僕は読んでいて「そりゃまあちょっと高いけどな」というところにいたく感心した。ひょっとしたらライアン氏は意志として多忙をきわめる奥さんのかわりに、よくスーパーに行って食品の買い物をしているのかもしれない。そして値段を見ては「ひゅう、トマト高いなあ」と深い溜息をついているのかもしれない。ジャック・ライアンのこのような巧まざる生活リアリティーは、ハリソン・フォードという俳優の持っている本人実物大的な雰囲気に相通じているような気がする。映画『レッド・オクトーバーを追え』ではもっと若くてハンサムなアレック・ボールドウィンがこのライアン役を演じていたが、ハリソン・フォードに比べるとどうしても存在感が稀薄で、まだちょっと役不足という感は否めなかった。ケビン・コスナーでもちと違う。やっぱりジャック・ライアンはなんてったってハリソン・フォードである。
     --村上春樹「ジャック・ライアンの買い物、レタスの値段、猫喜びビデオ」、『村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた』(新潮文庫、平成十一年)。

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「冗談じゃないや。冬にトマトが何で買えるものか」
たしかに……自分の市井の職場はGMSなので、食品メインになるのですが、確かに何でもいつでも揃っているよな……ってとこをいつも思うのですが、いつでも揃うってことは、旬を鈍磨させてしまうなあ……などと感じつつ、そういう食材は、「そりゃまあちょっと高いけどな」です。ですけどそうでなくても“高いもの”も存在します。

仕事へ行くと、やはり接客になるので、「マンゴーは?」っていうお客様がいるので、売り場で案内する。マンゴーの本場がどこかは知らないのですが、運悪く売れ筋マンゴー(400円前後・フィリピン産)が品切れで、高級品?(2000円前後・タイ産)しかなかった。

どう見てもお客様は素人……というか、恐らくうえのジャック・ライアンではないが、奥様に頼まれメモを持って買い物にいらした高齢のおじいさん。

「この、高額のものしか今のところないのですが……」
「わしもよくわからんから、それでいいや、ありがとう!」

多分、帰宅してから、奥様に怒られてしまうことでしょう……そのとばっちりをこちらへむけないで下さいまし。

さて店長と売り場打ち合わせを行うのだが……

「宇治家参去さん、これから、榊を買ってくるからさ、少しの間、売り場の様子を頼むぜ」

「榊ですか……」

「そう、それじゃあよろしく」

不吉な思い出が走馬燈の如く脳裏を回転するのだが、店長が売り場を離れた直後、レジが例の如くパンクする。こ1時間レジを打って、事務所へ戻ると、店長がいた。

「雨が降り出したから、榊を買いに行くのは後日にしたよ」

「はあ」

榊=神棚なんですが、また強要はしないでくださいまし、店長さん。
※以前、店長さんが、係長以上のMgrに結集をかけ、「おい、祈るぞ」などとやりましたので、神学的スタンツから「信教の自由」について苦言を呈したのですが……。

繰り返すと、こちらも、神学の立場から繰り返してしまうのですが、今後は簡潔にします、長いと読まれませんので。ホンマたのみますよ……って感じです。

というわけで(?)……豪雨のお陰で不用意なバトルは一時休戦となる。

今日は久し振りに痛風がひどかったのですが、こちらも豪雨のお陰(?)で、来客数少なく、クレーム・トラブルなどもなかったので、すこし楽をさせて頂きました。

「さ、帰って飲むか」
終業後、帰宅する前に、メールを読むと、細君から「バナナと牛乳を買ってきて(なにやら絵文字)」

宇治家参去は、ジャック・ライアン氏ではありませんぞよ。

体よく利用される意趣返しに、高額商品をチョイスして、領収書まできってもらった。

「そりゃまあちょっと高いけどな」

細君から「ひゅう、バナナ高いなあ」と深い溜息をついてもらいたい。

何しろ、バナナ(2房)と牛乳(1L)で1000円も使ったものだから。

深い溜息ではなく鉄拳制裁になりそうですが……こうして「巧まざる生活リアリティー」を学習するある日の宇治家参去でした。

とりあえず、福島の酒「あだたら吟醸 奧の松」(奧の松酒造株式会社)でも飲んで寝ます。福島の酒は、基本的に「甘口」メインと聞いていますが、この「奧の松」は辛口メインで攻めています。リーズナブルな価格ですが、それなりにいけます。

失敗した……。
安いバナナと牛乳で済ませ、ビールでも買っておくべきだった。

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【覚え書】「いや、実に人間の心は広い、あまり広すぎるくらいだ」、『カラマーゾフの兄弟』より

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寝酒の肴にドストエフスキー(Фёдор Михайлович Достоевский,1821-1881)が良くないことは知っているのだが、読み出すと止まらなくなってしまった。これで8回目。

金が無いので新訳で読めず、古いので読んでいます。

いつ読んでも新鮮です。

ひとつ気になったところを発想のネタとして【覚え書】として記しておきます。

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 俺はつまりこの虫けらなんだ、これは特別に俺のことをいったものなんだよ。我々カラマーゾフ一統はみんなこういう人間だ。お前のような天使の中にもこの虫けらが巣食うていて、お前の血の中に嵐を引き起こすんだ。全くこれは嵐だ。実際、情慾は嵐だ。否、あらし以上だ! 美--美という奴は恐ろしい怕(おつ)かないもんだよ! つまり、杓子定規に決めることが出来ないから、それで恐ろしいのだ、なぜって、神様は人間に謎ばかりかけていらっしゃるもんなあ。美の中では両方の岸が一つに出合って、すべての矛盾が一しょに住んでいるのだ。俺は無教育だけれど、このことはずいぶん考え抜いたものだ。実に神秘は無限だなあ! この地球上では、ずいぶんたくさんの謎が人間を苦しめているよ。この謎が解けたら、それは濡れずに水の中から出て来るようなものだ。ああ美か! その上俺がどうしても我慢できないのは、美しい心と優れた理性を持った立派な人間までが、往々聖母(マドンナ)の理想を抱いて踏み出しながら、結局悪行(ソドム)の理想をもって終わるということなんだ。いや、まだまだ恐ろしいことがある。つまり悪行(ソドム)の理想を心に懐いている人間が、同時に聖母(マドンナ)の理想をも否定しないで、まるで純潔な青年時代のように、真底から美しい理想の憧憬に心を燃やしているのだ。いや、実に人間の心は広い、あまり広すぎるくらいだ。俺は出来ることなら少し縮めてみたいよ。ええ畜生、何がなんだかわかりゃしない、ほんとうに! 理性の目で汚辱と見えるものが、感情の目には立派な美と見えるんだからなあ。一たい悪行(ソドム)の中に美があるのかしらん? ところで、お前は信じないだろうが、大多数の人間にとっては、全く悪行(ソドム)の中に美が潜んでいるのだ、--お前はこの秘密を知ってたかい? 美は恐ろしいばかりでなく神秘なのだ。これが俺には怕かない。いわば悪魔と神の戦いだ、そしてその戦場が人間の心なのだ。しかし、人間て奴は自分の痛いところばかり話したがるものだよ。いいかい、今度こそほんとうに用談に取りかかるぜ。
    --ドストエーフスキイ(米川正夫訳)『カラマーゾフの兄弟 第一巻』(岩波文庫、1957年)。

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“聖なるもの”に眼がくらむ

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 「あなたは、わたしの興味をそそらない。」このような言葉を、ある人に向かって投げつければ、残酷であり、正義に悖らぬわけにはいかない。
 「あなたの人柄 personne は、わたしの興味をそそらない」という言葉なら、親友同志で心のこもったやりとりをしているうちにこぼれでても、友情の秘めているきわめて繊細なニュアンスを傷つけることにはならないだろう。
 おなじく、「私の人格 personne は、取るに足らない」といっても、みずからを貶めることにはならない。しかし、「私は取るに足らない」といえば、そういうわけにはいかない。
 こうしてみると、人格主義的といわれる現代思想の語彙が誤っていることがわかるだろう。そして、こうした領域で語彙に重大な誤謬があれば、思想に大きな誤謬がないということはまずないわけだ。
 だれにでも何かしら聖なるものがある。しかしそれはその人間の人柄 personne ではない。人間的人格 la personne humaine でもない。きわめて単純に、彼、この人、なのだ。
 ここに、ある人が通りかかり、腕は長く、眼は青く、その胸のうちには私の知らない、しかしことによると凡庸なさまざまな思念がよぎっているとする。
 私にとって聖なるものとは、彼の個性 sa personne でも、彼の内なる人間的人格 la personne humanie en lui でもない。それは彼である。彼の全体である。その腕、その眼、その思念、すべてである。私は果てもなく遅疑逡巡を重ねぬかぎり、これらすべてのうちの何一つ傷つけることはないだろう。
 もし、彼の内部で人間的人格が私にとって聖なるものであるとすれば、私は容易に彼の眼を抉ることもできるだろう。盲目になったところで、彼はそれまでどおり、ひとつの人間的人格である。私は彼の内なる人間的人格には全然触れたことにはならないからだ。私は彼の両の眼を潰したにすぎない。
 人間的人格への畏敬は定義することができない。単に言葉で定義することができないだけではない。輝かしい概念ならそのためにもたくさんある。けれどもそうした概念は、やはり抱懐しえぬものなのだ。思惟を無言で働かせてみたところで、それを定義したり規定したりするわけにはいかない。
 定義したり抱懐したりすることのできない概念を、社会倫理の基準として採用すると、それはあらゆる種類の専制に道を開くだろう。
 一七八九年全世界に向かって発せられた権利の概念は、その内実の不十分さのために、人々が委託しただけの機能をはたす力がなかった。
 不充分な二つの概念を組み合わせ人間的人格の諸権利といってみたところで、どうなるはずもなかろう。
 もし私が、その人の両の眼を抉ることが許されていて、そうすることが面白いとするならば、正しくはいったい何が私の行動を妨げるのか。
 彼の全体が私にとって聖なるものであるとしても、彼はすべての点、すべての面で、私にとって聖なるものではない。両腕が長いとか、眼が青いとか、彼の思念がことによると凡庸であるとか、というかぎりでは、彼は聖なるものではない。彼が王侯であっても、王侯であるかぎりでは聖なるものではない。屑屋であっても、屑屋であるかぎりでは、聖なるものではない。そうしたことが、私の手を控えさせるのではない。
 私の手を控えさせるのは、彼がもし誰かに眼を抉られるなら、彼は他人から悪をこうむったという意識のために魂を引き裂かれるだろうと、私が知っていることなのだ。
 幼少期から死にいたるまで、どのような人間存在の心の底にも、犯罪を犯したり、こうむったり、見たりした経験をもちながら、どうしても、みずからに悪ではなく善をなしてくれるものを期待してしまうような何かがある。あらゆる人間存在における聖なるものとは、何よりもこれなのだ。
 善は聖なるものの唯一の源である。善と善に関係するもののほかに、聖なるものはない。
    --シモーヌ・ヴェーユ(中田光雄訳)「人格と聖なるもの」、(渡辺一民・橋本一明編)『シモーヌ・ヴェーユ著作集 II』(春秋社、1968年)。

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昨夜は、土砂降りの中を帰宅しましたので、起きると、今日も豪雨かなと思っていましたが、そうではなく、空模様はよくはないのですが、なんとなく、雲切れ間に青空が姿をみせる。「時雨の中休みか?」と思いつつ、25通のレポート添削を日中に終わらせる。市井の仕事は休みとはいえ、仕事がたまっているので、終日、自室へ引きこもりますが、やはり外へ出たくなり、レポートを大学へ発送した時点で、近所を徘徊する。

時折、無性に飲みたくなるのが、「コカ・コーラ」ですが、それと同じように無性に飲みたくなるのが「ドクター・ペッパー」です。えもいわれぬ薬味のパンチとチープな甘さの絶妙なハーモニーがなんともいえないものです。

子供さんも今日は幼稚園→剣道→英語教室とはしごのため不在、日中は散歩をいれても、比較的仕事に専念でき、大方の大学の仕事は終わらせることができました。さあ、これから来月締めきりの論文をいよいよ書き始めるかと(資料は既に読み尽くしているので)思う矢先、帰ってくる。

「今日、パパ、休みでしょ! ウルトラマンごっこ、ウルトラマンごっこしようよ~」
「パパは、大学のお仕事だからだめ!」

聞き入れてもらえず、30分だけ、そのままやることになってしまう。

ま、しかし、その30分は比較的、いつもより念入り(?)に誠実に対応したため、夕食後に、なんとなくひきつづく第二陣は、「パパ。お仕事でしょ! だからもういいよ」とすんなり引いてくださいました。

ありがとうございます。

さて、今日の後半戦は、いよいよ9月締めきりの論文をまとめよう(資料はすでに精査すみなので)と思っていたのですが、なにやら疲れがどっと出てくる。

ウルトラマンごっこを強要された「彼」の“聖なるもの”に、眼がくらんでしまったのでしょうか。本当は人間論のパラドックスとしてヴェイユ(Simone Weil,1909-1943)の言葉で議論したかったのですが、ちと、疲れたので、議論は後日の宿題に。

ただ自分自身のヴェイユ観だけ最後に紹介しておきます。

うえの言葉を残したのが、フランスのユダヤ系の女性思想家・シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil,1909-1943)です。

その歩みは、生涯、悲惨や孤高さと向かい合いながら、そして寄り添いあいながら、そして自らその渦中の中で、歩み思索を辞めなかった希有の思想家です。
はっきりといえば、「真似できねえ」し、「そこまでやらなくても……」と言えそうな人物です。
だから、ヴェイユを読んでいると、ドライでクールな社会科学者からは、「青くせえ」と言われそうですが、ヴェイユの言葉というものは、確かに一見すると「青臭い」のかもしれませんが、どこか身に染みてくる部分が多々あります。

哲学とか思想を論じる場合、やはりどうしても概念先行になってしまい、現実の人間の存在を無視してしまう場合が多々あり--それがそれで思想の暴力として発動するわけですが--そうした議論の泥沼から、現実の泥沼へと引きずり出してくれるなにかを、ヴェイユの議論はもっています。なので、染みてくるのでしょう。

ヴェイユにおいては、行動とは思索であり、思索とは行動である。

単なる思索や執筆では満たされないものが、この世界には存在する。
それが名もない虐げられた人々の呻吟であり苦しみであり飢えである。

そこにヴェイユは自ら自然に入っていく。
安っぽい憐れみでも理念としてのヒューマニズムという“立場”からの挑戦ではない。

「やむにやまれず」入っていくひとなんですね。

なので……読んでいるとムズカシイ。

中途半端ですが、すこし整理してまたお話しします。

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Come Rain Or Come Shine

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2ヶ月にいちどくらいあるのですが、今日は細君が所用とのことで、息子さんを幼稚園まで迎えに行って欲しいとの陳情が届けられる。

「殿はいかがなされた」
「酔払ったのだ」(フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』(岩波文庫))。

……ですので、これがまた大変である。
昨日は……もとい、昨日も痛飲しているので、朝からダルイ。まだ幼稚園は秋学期がはじまったばかりで、午前保育のため(=出園して2時間やん!)、早めに起床し、シャワーを浴びて着替えてから迎えに行く。

迎えに行く前ですが、月曜から始めましたが語学のリハビリタイムです。
英語とラテン語は必要上、ちょこちょこ対面するのですが、やはりドイツ語とフランス語は、そう毎日対面する言語でもない。
なので、月曜から、起床後の10分はドイツ語、帰宅直後10分はフランス語の文献を適当に読むことにしました。
当初は、へんな話ですが、「これってヤバイよなっ!」って状況の自覚に唖然としたものですが、やはり慣れと継続は大切ですね、じょじょに復活し始めるところが頼もしい。これは死ぬまでの日課にしたいなと思いました。

さて、幼稚園へのお迎えへいざ出発……ですけど、結構苦手なんです。
何がって……?
あるじゃないですか。
幼稚園独特の文化……お母様方の団欒といいますか、その無言じゃない騒音のような圧倒感が。

それを乗り越えるために、スーツを着て一線を画そうとしているのですが、その生命力(?)に例の如く圧倒される。体はメタボですが、彼女たちの存在論的な圧倒感を前にすると、風にたなびく柳のようです。これがいわゆる“ほうりゅうのたち”というもんでしょうか。

ま、いずれにしましても、例の如く、自分から我が子を発見することができないのですが、息子さんがいち早く宇治家参去を発見してくれたので、退園する。

その意味ではスーツで幼稚園へ向かうという在り方もひとつの目印になっているのではと思ってしまいます。

さて、昼食を済ませると、今度は剣道教室の時間。昼食後、再度シャワーを浴びてまたしても着替え、出かけようとしていると細君が帰宅する。剣道教室の送迎は細君にお願いした。まだ時間があるので、細君と話していると、ぼちぼち袴・道着が必要なのだとか。防具は年長さんになってからとのことだが、また金の要る話……お父さんはつらいのお。

母子が自宅を出ると、今度は、バケツをひっくり返したような豪雨となる。

「マジで、市井の仕事にいくのがダルイっす」

という状態ですが、いかざるを得ないので、出勤する。

出勤すると、またトンデモ状態がお待ちかね!

いくら雨が降っているとはいえ、レジの開局台数2台ではマズイでしょう……各々方。
本当にこの会社は、リストラと適正人員の配置を読み違えているんだよなとぼやきつつ、がっつりレジに入るが、やはり豪雨のため、ピークタイムをすぎると、落ち着き始める。

憤懣やるかたなしで休憩に入りますが、ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)に涙する。

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ある人間をにくむとすると、そのときわたしたちは、自分自身のなかに巣くっている何かを、その人間の像のなかでにくんでいるわけだ。自分自身のなかにないものなんか、わたしたちを興奮させはしないもの。
    --ヘルマン・ヘッセ(実吉捷郎訳)『デミアン』(岩波文庫、1959年)。

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他者とは自分自身であり、自分自身そのものも他者なのだなと妙に納得しながら、仕事をこなして帰宅の徒につくのですが、依然として土砂降り&雷鳴状態です。
この様子だと、(もう深夜ですが)夕立という季語よりも時雨という季語の相応しい時期なのでしょうか。8月20日以降、ゆっくりとそして深刻に東京では秋へと足を踏みいれています。

で……土砂降りの中を帰宅すると細君から、不吉な手紙が。
細君の妹……すなわち自分の義妹が、この夏から資格取得の研修のため、とある会計事務所へ研修に行っているのですが、そこで、なんと、宇治家参去が哲学を教えた短大生が会計事務で勤務しているとのこと。義妹さんが、「宇治家参去さんってどんな人?」っていう聞かなくてよい質問をしたらしいのだが、「いつもサスペンダーとかしたり、蝶タイした洒落た人だったですよ」との返答が帰ってきたとのこと。

以後、「サスペンダー」および「蝶タイ」は使用禁止とのこと。

「をゐ!」

それは学問とか、生活の本質とは関わりがないだろうに……。
嗜好性の問題なんですよ!

やるかたなしで、とっとと飲んで寝ます。

http://jp.youtube.com/watch?v=jBZNZ_A7QZk&feature=related

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著者:ヘルマン ヘッセ
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思わず知らずハッとしてかけつける

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孟子曰、人皆有不忍人之心、先王有不忍人之心、斯有不忍人之政矣、以不忍人之心、行不忍人之政、治天下可運之掌上、所以謂人皆有不忍人之心者、今人乍見孺子将入於井、皆有怵惕測隠之心、非所以内交於孺子之父母也、非所以要誉於郷党朋友也、非悪其聲而然也、由是観之、無測隠之心、非人也、無羞悪之心、非人也、無辭譲之心、非人也、無是非之心、非人也、測隠之心、仁之端也、羞悪之心、義之端也、辞譲之心、禮之端也、是非之心、智之端也、人之有是四端也、猶其有四體也、有是四端而自謂不能者、自賊者也、謂其君不能者、賊其君者也、凡有四端於我者、知皆擴而充之矣、若火之始然、泉之始達、苟能充之、足以保四海、苟不充之、不足以事父母、

孟子曰く、人皆人に忍びざるの心有り。先王人に忍びざるの心有りて、斯(すなわ)ち人に忍びざるの政(まつりごと)有りき。人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行なわば、天下を治むること、之を掌(たなごころ)の上に運(めぐ)らす〔が如くなる〕べし。人皆人に忍びざるの心有りと謂う所以の者は、今、人乍(にわか)に孺子(こじゅうし・幼児)の将に井(いど)に入(お・墜)ちんとするを見れば、皆怵惕測隠(じゅうてきそくいん)の心有り、交(まじわり)を孺子の父母に内(むす・結)ばんとする所以にも非ず、誉を郷党朋友に要(もと・求)むる所以にも非ず、其の声(な・名)を悪(にく)みて然るにも非ざるなり。是れに由りて之を観れば、測隠の心無きは、人に非ざるなり。羞悪(しゅうお)の心無きは、人に非ざるなり。辞譲の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。測隠の心は、仁の端(はじめ)なり。羞悪の心は、義の端なり。辞譲の心は、礼の端なり。是非の心は、智の端なり。人の是の四端あるは、猶其の四体あるがごときなり。是の四端ありて、自ら〔善を為す〕能わずと謂う者は、自ら賊(そこの)う者なり。其の君〔善を為す〕能わずと謂う者は、其の君を賊う者なり。凡そ我に四端有る者、皆拡めて之を充(だい・大)にすることを知らば、〔則ち〕火の始めて然(も・燃)え、泉の始めて達するが若くならん。苟も能く之を充にせば、以て四海を保んずるに足らんも、苟も之を充にせざれば、以て父母に事(つか)うるにも足らじ。

孟子がいわれた。「人間なら誰でもあわれみの心(同情心)はあるものだ。むかしの聖人ともいわれる先王はもちろんこの心があったからこそ、自然に温かい血の通った政治(仁政)が行われたのだ。今もしこのあわれみの心で温かい血の通った政治を行うならば、天下を収めることは珠でも手のひらにのせてころがすように、いともたやすいことだ。では、誰にでもこのあわれみの心はあるものだとどうして分かるのかといえば、その理由(わけ)はこうだ。たとえば、ヨチヨチ歩く幼な子が今にも井戸に落ち込みそうなのを見かければ、誰しも思わず知らずハッとしてかけつけて助けようとする。これは可哀想だ、助けてやろうと〔の一念から〕とっさにすることで、もちろんこれ(助けたこと)を縁故にその子の親と近づきになろうとか、村人や友達からほめてもらおうとかのためではなく、また、見殺しにしたら非難されるからと恐れてのためでもない。してみれば、あわれみの心がないものは、人間ではない。善し悪しを見わける心のないものは、人間ではない。あわれみの心は仁の芽生え(萌芽)であり、悪をはじにくむ心は義の芽生えであり、譲りあう心は礼の芽生えであり、善し悪しを見わける心は智の芽生えである。人間にこの四つ(仁義礼智)の芽生えがあるのは、ちょうど四本の手足と同じように、生まれながらに具わっているものなのだ。それなのに、自分にはとても〔仁義だの礼智だのと〕そんな立派なことはできそうにもないとあきらめるのは、自分を見くびるというものである。またうちの殿様はとても仁政などとは思いもよらぬと勧めようとしないのは、君主を見くびった失礼な話である。だから人間たるもの、生れるとから自分に具わっているこの心の四つの芽生えを育てあげて、立派なものにしたいものだと自ら覚りさえすれば、ちょうど火が燃えつき、泉が湧きだすように始めはごく小さいが、やがては〔大火ともなり、大河ともなるように〕いくらでも大きくなるものだ。このように育てて大きくしていけば、逐には〔その徳は〕天下をも安らかに納めるほどにもなるものだが、もしも育てて大きくしていかなければ〔折角の芽生えも枯れしぼんで〕、手近な親孝行ひとつさえも満足にはできますまい。」
    --「巻第三 公孫丑章句上・六」、小林勝人訳注『孟子 上 』(岩波文庫、1968年)。

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仕事の必要上、中国の古典文献--もちろん原典ではありませんが--を時折読んでいます。通常、講壇で語られる「哲学」ないしは「哲学概論」は、基本的には西洋哲学におけるその史的歩みを押さえておけば、講座は成立するのですが、「倫理学」の場合、西洋圏での思想の営みだけでなく、概論としては、やはり、東洋におけるそれも把握しておいたほうがよいので、読んでいます。今日も市井の職場の休憩時間を利用してひといきつく。

以前にも書いたかも知れませんが、つくづく実感するのが、「儒教イデオロギー」とか「儒学の発想の封建的体質」などと、近代以降、孔孟の教えは、廃棄されてしかるべきあり方として知識人たちの間で受け止められ、そうした評価のみが先行しているフシがあります。しかしながら、『論語』や『孟子』など現実に彼らの言葉に向かい合ってみると果たしてどうか--そうでもない生き生きとした人間学的発想が浮かび上がってくるものです。

通俗的ですが、人は伝聞・推測・他者の評価によって、対象を退け、即断しがちな部分があります。しかしながら、実際に自分の頭と心で対象に向かい合ってみるとそうではない“豊かな”ものが浮かび上がってくるのも一面の真実かも知れません。

儒教道徳は、確かに、漢代に国教化されて以降、孔子や孟子が弟子たちと活発に対話した溌剌な精神や豊かな人間主義の営みは、固定化され、その生気を失ってしまった。

厳密には儒学は単なる宗教でもないし、学問でもない。

その両者にまたがる人間学といってよいのだが、国教化され、ひとつのイデオロギーと化してしまったとき、その精神は失われ、固定化された言葉--例えば仁義礼智--が、人間という存在自身を阻害するという結果を導いてしまった。

思想や宗教が公定のイデオロギーと化すことの不毛さのひとつの歴史、そして見本なのでしょう。その意味では、国教化以降、何度も繰り返される儒学の刷新運動--宋学にしろ陽明学にしろ--その運動とは、孔孟の原初のリアリティを再活性化する営みではなかったのであろうか……などと思うこともしばしばあります。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、ひとつ考えたいのが、倫理の現出する場所のことです。上で『孟子』の一節「巻第三 公孫丑章句 上 六」を引用してみましたが、孟子によると、人間が倫理しだす瞬間というのは、千の倫理学説を暗記して、万の実践判例をひもといたうえで、生活に還元するというようなあり方では、どうやらないようである。

目の前にいる、(おそらくそれは全き他者としての)幼な子が、井戸におちそうになったとき、ひとはどうするのか--。孟子によれば、「誰しも思わず知らずハッとしてかけつけて助けようとする。これは可愛想だ、助けてやろうと〔の一念から〕とっさにする(今人乍見孺子将入於井、皆有怵惕測隠之心)」のである。そこにはその行為が後日利益をもたらすからだからとか、賞讃をもとめてとか、非難を避けるためにとかのうえでの行動ではない。目の前の目的とは別に目的を置いた作為からの行動ではないのである。

孟子によれば、人間とは「思わず知らずハッとしてかけつける」存在なのである。
もちろん孟子は歴史的には“性善説”の立場をとった人物だからそう発想するのだろうとの批判も出てきそうだが、人間とは確かに悪いこともするが、いいこともする。そして「思わず」それをしてしまう存在なのである。孟子は人間存在の原初事実から議論を始めるのが通例だが、その議論は、通俗的な善か悪かの二元論に収まりきらない、豊かな人間学の土壌を展開しているように思われて他ならない。もちろん、光の側面に焦点を宛てているというきらいはあるものですが。

フランスの思想家レヴィナスは、存在者の「顔」という概念にこだわる中で、他者の顔が発する、いわば無限の倫理要求(罪責性)に倫理の立ち上がる場所をみているが、孟子も同じかも知れません。他者とは不思議なもので、自己に対して「思わず」自己自身をつき動かしてしまう何者かなのである。そこに応答する、ないしは応答せざるを得ない人間論的事実に、倫理が立ち上がる場所が発生するのではなかろうか--最近そう考えています。

もちろん、七面倒くさい精緻な議論や学説を検討することが無意味ということではない。専門家の作業としてはそれは極めて重要で必要な取り組みである。なにしろ、そこで向かい合う言葉そのものが、そうした事実の評価的表現であり、そこに人間存在や顔を確認することができるからだ。しかし、そうした活字や思想化されたもの以前の人間の世界に、実は倫理の原初の場が存在するのだから、その事実も確認する必要があるのでは--乃至は--言葉と現実を向かいあわせたうえで実践しつつ思索しつつという部分が必要なのでは--そういうところです。

ただし、面白いことに、逆に考えてみると、私という自己自身の存在者も、全き他者からするならば--すなわち、他者が自己の視点からみてみるならば--自己自身という存在者も、「思わず知らずハッとしてかけつけ」させる存在者なのである。そうであるとすれば、自己自身をどのように組み立て直し、他者と相対(あいたい)していくのか、深く考えるべき課題があるように思われます。

人間という生きものは、それが善かれ悪しかれ、“他者に対して何らかの「影響」を与えてしまう”存在なのかもしれません。その生きもの性を自覚することがまずは肝要かもしれません。

などと考えていくと--神経質なな倫理学者はますますナーバスになる。
論理的にはまったく身動きとれません。
しかしながら、そうしたところで、手探りで確認しながら、生きていくしかないのだなアと。
こんなことをいつも考えているので、細君からは「変人」扱いされるわけですが(「ハア~今日は儒学ですか。封建制度のニオヒがする」などと)、そこが自分の売りなのですがねえ。

……と、そんなことを考えているうちに休憩時間が終了する。
終了直前(?)に一本吸ってから、作業の進捗状況を確認する。
本日は、運悪く、出勤時より職場にだれも自分以上の上席責任者が存在しないので、緊張した一日であったが、特にクレームもトラブルもなく、作業が進行する。

で……。
後半戦はレジの様子を見ながら、ビール・発泡酒関係の補充をぼちぼち行う。
6缶パックはそれなりに補充されていたので、単缶中心に補充を行ったのだが、フト気が抜けていたのか、手から滑ったビールの缶が宙を舞う。

その様子は、まるで映画『戦艦ポチョムキン』の名シーン「オデッサの階段」を転げ落ちる、乳母車のように、自分の前で、手が届くかどうかのせめぎ合いのなかで、届かずに、レギュラー缶は大地にキッスする。

その刹那、泡が噴き出すわけで……当たり所がわるかったのか、下半身に噴射ビールが直撃する。後始末はささっと済ませましたが、明らかにビール臭いので、業務の様子を後方から監督するに留め、無事本日の仕事は完了(?)する。

結果としては、転げ落ちていくビールのレギュラー缶には手は届かなかった。
しかし、手が自然と伸びるのが不思議である。

そういう理性とか概念以前の、無作為(?)の動きのなかに真実の人間の歩み(?)があるのかな……などと思ったひとときです。

とわいえ、手が届くようにフットワークを軽く(?)しておく必要性があります。
ですけど、今日は少し楽をさせて頂きました。

絶好の口実を与えてくれた噴射ビールさん、ありがとう。
とりあえず感謝しつつ、「Four Roses」で一息ついて寝ます。

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善はただ善の実践を通してのみ知らるる

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これさだのみこの家の歌合のうた
いつはとは時はわかねど 秋の夜ぞ物思ふことのかぎりなりける(189/巻第四 秋歌上)
--佐伯梅友校注「巻第六 冬歌(319)」、『古今和歌集』(岩波文庫、1981年)。

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先週末より降り続く雨のお陰か、昨年とうってかわって秋の気配を感じる東京です。
暦の上ではとっくに秋ですが、やはり「夏と秋と行きかふそらの通路(かよひぢ)は かたへすゞしき風やふくらん」(168 巻第三 夏歌/古今集)のとおり、いわば夏と秋が混在した状況なので、湿度がいささか高く部屋の中は、微妙な状況です。

さて……。
昨日は市井の仕事が休みなのですが、たまった課題と格闘するために、自室に引きこもり状態です。夕方、束の間雨足がひいたので、気分転換に近所の、誰もいない公園など散策しつつ、煙草を買いに行く。室内よりもひんやりとした外気とそぞろ鳴り響く虫の声が秋の到来を実感させる。そして、最寄りの自販機に到着、銭を入れるのですが、タスポを忘れたことに気づき、コンビニへ。そこで「限定商品」をゲットする。

で……。
デッドラインのレポートがひとまず終わったので、先にスクーリング試験の採点を行う。倫理学なんてえものは、機械的な試験なんぞで判定できる学問とは思ってないので、一題目は教材から出題したが、二題目は、「あなたにとって倫理(学)とは何か」と問う。こういう出題をすると、逆に書き手の力量といいますか、倫理力とでもいいますか、人生観とでもいいますか……ある程度、本人に蓄積がないと書けない問題を敢えて出題する。しかしながら、このお題ですと、書き手の自由な発想をうかがい知ることができるので、不思議なものですがこちらも勉強になる。

しかしながら、一番読んでいて面白い(?)のが解答用紙の末尾にコメントのようなカタチでメモ書きされた学生さんからのメッセージ。

「先生は偏っていないですよ、控えめに踏み込んでいただきありがとうございます」

「私自身もたいがい変わった方ですが、先生も変わった方で安心して楽しく授業を聞けました。先生が息子と同じ年なのでお話が興味深かったです。是非ドイツにお越しの際は声をかけてください」(ドイツ在住の方)

「先生は、ご自身の歩みに無力感を感じないで下さい」

ありがたい励ましである。
本来、教員としては自分自身が学生さんを励まさなければならないものだが、いつも学生さんに励まされてしまい忸怩たるものがあるのだが、試験を採点しながら、良い授業ができたのではないかと安堵する(しかしこの安堵に安住してはいけないよ、宇治家参去さん)。

で……
ときどき、こうした倫理学とか、哲学ないしは、神学・宗教学といった学問は、近代諸学問の成果を前にすると、いわばすでに“実験済み”“期限切れ”のような、カビ臭い・古くさい伝統的な学問であることから、講じているなかで時々無力さを実感することがある。

すなわち、これまで、いわば諸学の王として君臨してきた伝統的な人文諸科学が、人間を特定の方向に導いてきてしまったがゆえに、そうした伝統は唾棄されるべき、書斎で参考程度に聞いておくぐらいでちょうどいい……そうした雰囲気も現実にはアカデミズムの潮流にも存在するし、現代哲学は、そうした伝統的な人文科学が果たしてきた暴力性の追求に余念がない。

また研究者自身も「善をなせ」などと訓戒を垂れることは、控えるべきだと自分自身も思うので、「善」を探究しながら、それ以上踏み込めないというのでしょうか……もどかしい部分があります。

学問としてアカデミズムとしては、そうした矜持を護りながらコツコツと研鑽するのでいいのですが……やはり、研究したこと内容を人間を前にしてかたると(すなわちそれが研究の両輪である教育・講義という側面)、そういう二律背反とでもいいますか、そうした引き裂かれたジレンマ、ないしは隔靴掻痒に直面します。

ゆえに、「私見ですが……」、「個人的見解ですが……」、「私は偏った人間なので……」等々の前フリをしながら、語るわけですが、ああ、もどかしい。

しかし、そのもどかしさをいつも痛感しながら、自分自身が語るという契機は、その営みを自分が終えるまで、忘れてはいけないのだろうと思う。たとえば、理念と現実にしてもそれは対立ではなく相互的な緊張関係にあるとき、よりよい成果を生み出すものである。どちらかの立場に開き直ってしまうと、理念が現実を圧迫し、現実が理念を呑み込んでしまう。いかなる在り方にせよ、どこかで、その現実の営みを照射するとでもいえばいいのでしょうか、批判の契機が必要なのだと思われる。

だから、「もどかしさ」を実感しながら、善とは何か、そして価値とは何か、自分自身が善とは何かを考えるだけでなく、身近な生活の中でその実践で七転八倒しなければならない。

戦前日本を代表するいわばモラリストといってよいキリスト者・三谷隆正(1889-1944)は次のような言葉を残している。

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 中学を卒業して専門学校に入学した頃の青年、即ちわれに眼醒(めざ)め始めた頃の青年がよく言う、善を為せというが、その善がわからない、何が善であるかが分からない。これが善だとはっきり分かれば、その善を実践するにやぶさかなるものではないが、善が善と分からないのに、ただ実践せよ善戦せよと言われたって、小学生ではあるまいし、そんな勧説に唯々諾々と盲従するわけには往かない。盲従すべきものでないと思う。そういう風に青年たちはいう。つまり青年たちは知を求めているのだ。そうして知を求めるのは正しい。これは善いことだ。すくなくともこの一善はかれらもまた善と知っているのだ。だが道徳的善は先ずこれを実践してからでないと、善が善とはっきり分からないような性質のものなのである。何故なれば善はその本質において実践的なものであり、従って又実践的にしかこれを把握する道がないからである。例えば水泳を学ぶようなものである。水泳についての理論的知識は単に水泳の可能性について議論し得るに過ぎない。そういう議論をいくら重ねたところで、水泳の現実は会得できるものでない。現実の水泳は、現実の水に現実に飛び込んで泳ぎを実践してみるのでなければ、他にこれを会得する方法がないのである。畳の上の水練では現実の水を泳ぐことはできないのである。善もまたかくの如し。善はただ善の実践を通してのみ知らるるのである。そうして人生の究極の善はいさ知らず、日常茶飯の現前の小善事がひとつもわからぬということはない。盗むなかれ。欺くなかれ。姦淫するなかれ。懶(なま)けるなかれ。虚心にして善を追求すれば、足前数歩の光明を得られぬということはない。得られぬとは言わせない。得ようとしないのだ。足前数歩の光明を頼りに先ず立って歩くが良い。歩いて躓くなら躓いてみるが良い。かくして真摯に実践するものは、進むも躓くも必ず得るところがあるのである。それによって善を把握し進むのである。
 だからわれらの実践生活における最も根柢的な問題は知識ではないのである。悪は無知の生むところではないのである。そもそも善を追い求めようとする熱心がないのである。熱心がないから善を追い求めず。追い求めないから善を知らず、知ろうともせず。随って又善を為さず、為そうともしないのである。即ち人間の悪の根柢にあるものは、善知識の貧困であるよりは、善意志の欠乏である。カントのいわゆる根元的悪性である。
    --三谷隆正「パウロとニコデモス」、『三谷隆正全集 第2巻』(岩波書店、一九六五年)。

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三谷は譬えがうまい。
畳の上で水泳の練習をしても会得することは不可能である。

「畳の上の水練では現実の水を泳ぐことはできないのである。善もまたかくの如し。善はただ善の実践を通してのみ知らるるのである。そうして人生の究極の善はいさ知らず、日常茶飯の現前の小善事がひとつもわからぬということはない。盗むなかれ。欺くなかれ。姦淫するなかれ。懶(なま)けるなかれ。虚心にして善を追求すれば、足前数歩の光明を得られぬということはない。得られぬとは言わせない。得ようとしないのだ。足前数歩の光明を頼りに先ず立って歩くが良い。歩いて躓くなら躓いてみるが良い。かくして真摯に実践するものは、進むも躓くも必ず得るところがあるのである。それによって善を把握し進むのである」

逃げ出すことができないのがこの生命活動の舞台である日常生活である。その舞台のうえで、自分の頭と心と、そして足をつかって、驚いたり、躓いたりしながら、歩み続けるしかありませんね。そのなかで、自分の語る善とか価値といった命題が光りだしてくるのだと思います。根源的悪は、善の知識の貧困よりも、善意志の欠乏ですから。

学生さんにもつくづくいいましたが、「自分の歩みを無駄だとお思いなさんな」。

さ、仕事に戻ろう……かと思ったのですが、今日は朝から頑張ったので……コンビニで一年ぶりに対面した「秋味」(麒麟麦酒株式会社)飲んで締めます。

ちなみに、KIRINのビールでは、「秋味」と「ブラウマイスター」が一番旨いと思っています。「ブラウマイスター」は通年販売(取扱店が希少)ですが、「秋味」は限定なので、これから1ヶ月お世話になりそうです。KIRINさんありがとう。

ちなみにトリビアルなネタですが、麒麟の図表にキ・リ・ンの隠し文字がありますよ。

もうこんなものの出回る季節になってしまいました。

「秋の夜ぞ物思ふこと」で、限りなく考察できる季節なのですが、今日は素直に(?)飲んで寝ましょう。

水曜は市井の職場で“大人”が誰もいず“店長代行”なので。

明日も頑張ろう。

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“お互いに”賢慮しながら

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 道徳は品性である。品性は彫り込まれたものである。海には品性はない、砂にもない、抽象的な分別にも品性はない。品性とは内面性にほかならないからである。不道徳も、エネルギーとしては、やはり品性である。ところが道徳的でもないし不道徳的でもないのは、曖昧さである。そして善か悪かという質のうえの選言的な対立が、徐々に蝕む反省によって弱められると、人の世に曖昧さが支配することになる。情熱の暴動は原始的な力をもっているが、曖昧さによってなし遂げられる解体は、黙々と、しかし夜を日についで休みなくいとなまれる連鎖式のようなものである。善と悪とを認識する力は、悪についての浅薄でお上品な理論的な知識によって、つまり、善はこの世では真価を認められもしないし報いられもしない--だから善を行うのは愚かだといっていい、と心得た高慢な賢さによって、衰弱せしめられる。善に心ひかれて偉業をなし遂げる者もなければ、悪にせかされて非道な罪を犯す者もない。そのかぎりでは、一方が他方に言って聞かせるようなことはなにもないだろう。しかし、だからこそそれだけ、おしゃべりの種が多くなる。なぜかというに、曖昧さは人を降伏させる刺激剤であって、善にたいする喜びや悪にたいする嫌悪とはまったく違った意味で多弁だからである。
 さまざまな生活関係の発条(ばね)というものは、善悪を質的に区別する情熱があってこそその本来の機能をはたらかせるのだが、その発条が弾力を失っているのである。質の違いとなってはじめて物と物との違いがあらわれてくるのであるが、その違いの距離が、もはや事物の相互関係の内面的な関係を規制する法則ではなくなっている。内面性が欠けているのだ。だからそのかぎりでは関係は現実に存在していない、あるいは関係の粘着力が弱くなっているのである。つまり、その関係を支配している消極的な法則は、“お互いにどちらがいなくても困るのだが、お互いにくっつき会うこともできない”ということであり、積極的な法則は、“お互いにどちらがいなくてもかまわぬし、お互いにくっつくこともできる”、もっと積極的に言うなら、“くっついているんだからお互いにどちらがいなくても結構”ということである。内面性の関係のかわりに、別の関係がはいりこんでくるのである。すなわち、異質的なものが自分と異質的なものと関係するのではなくて、両者はそこにつっ立ったままでお互いに睨めっこをしているのである。
    --キルケゴール(枡田啓三郎訳)『現代の批判 他一篇』(岩波文庫、1981年)。

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倫理(学)や道徳の言説は、確かに、人間の在り方とは何か、そしてその存在者としての人間の向かい合い方とは何かを探究する人文諸科学の一分野である。単純化を怖れず言うならば、前者がその根拠を探究する部門であるとすれば、後者はその成果を訓戒としてしめした部分であろう(カントに置いては後者も前者的な意味合いを持ち、その命令(=定言命法)は自分自身の内なる声から発せられる命令であるがゆえに自律となるので、初等教育でいわれるような“道徳学”とは全く趣を異にする)。

さて、そのなかで、ひとつの課題としてでてくるのが、やはり存在者の関係性の問題となるのだが、そのことは個別の存在者の間柄における相互の存在承認の問題となる。すなわちそれが「人間関係の在り方」の探究および提示という部分である。

人間はひとりで生まれ落ちるわけではない。
物体としても、父母が存在し、存在が発生したとたん、無限の関係性(=社会)のなかにくみこまれるようになっている。だから、そこで人間関係の在り方という部分が問題となってくる。極端にいえば、無人島で一人で存在するのであれば、そこには倫理は必要ないということもいえようが、やはり、人間関係の在り方とは、すなわちその人間そのものの在り方とは何かという部分と密接に関連しているがゆえに、その極端な謂いもある意味では機能不全となる。

さて……。
そうしたことを探究し、生活のなかで意識するにせよしないにせよ行為をなし、心と頭で考え、それぞれの人生を生きるのは、それぞれの個人の存在だけである。自分の人生を、誰かほかの人に生きてもらうこともできないし、他人の人生を、その人の代わり自分が生きていくことも出来ない。

人生を歩むのは、宇治家参去、あなたという個人であって、その場合、自分自身の人生とは、どこまでいっても自分ひとりが歩むしかないのである。そのことは病気をみればよくわかる。宇治家参去が痛飲して、二日酔いになった時の不快感は、宇治家参去一人が悩むしかない。嗚咽と頭痛に身をよじりながら、「誰か、この不快感を、自分に代わって引き受けてくれない?」と叫んだとしても、現実にはこのリアルな不快感を引き受けてくれる他者は存在しない。

この限りでいうならば、やはり各人の体験は、どこまでいっても私的なそれであり、各存在者の存在とは、それぞれに「単独者」としてのそれである。

しかし、それでも次のような「単独者」も現実には存在する。
すなわち、「できることならその不快感を引き受けたい……」と祈り願う単独者の存在があるのである。このことは思考実験における可能性以上に現実に存在する出来事なのである。例えば、子供が病気で寝込んだ時、「その苦しみを引き受けたい」と願わない親は少なくない。また自分とは全く異なる単独者の呻吟に涙を流し、その何かを引き受けたいと願う単独者は存在するのである。

人間の存在はやはりどこまでいっても、各自は、どこまでいってもそれぞれに単独者である。しかし、各存在者が単独者であると言うことは、すなわち「それぞれに」というだけでなく、「お互いに」単独者として存在しているということである。人間はこの単独者として生活のなかで存在(=生きている)わけだが、やはりどちからに重点をおきながら歩みをつづけている。

「お互いに」という顧慮(ないしは賢慮、フロネーシス)と「それぞれに(=単独で)」という存在様態は決して二者択一の存在様態ではありえない。しかし、にもかかわらず、「お互いに」という在り方が廃棄され、「それぞれに(=単独で)」への極度の集中がなされるような……そうした徴候が最近ふしふしと感じられてしかたがない。

どちらも人間の存在にとって、その存在性を「人間らしく」たらしめる在り方である。しかし極端に走った場合、前者は全体主義への潮流となり、後者は利己主義のそれとなる。その緊張関係のただなかで、七転八倒するのが人間存在の現実の事実だが、その緊張関係を人という生きものがみずから放棄してしまう行為にほかならない。

経験からわかることだが、現実には、この「お互いに」という存在様態を自然に心がけながら、他なる単独者の痛みや、言葉にならない呻吟に耳を傾ける単独者は、ほとんどいないのが事実かも知れない。
しかし、そのことをもってして、自ら「お互いに」という存在様態を廃棄して、「それぞれに」という存在様態へ後退してしまっても、そこには自分の生を肯定してくれるものは何も存在しない。

ひとと向き合えば、たしかに傷つき痛み苦しむのがこの人間世界である。
しかし、それだけの世界ではない。傷つき痛む以上に、喜びや楽しみや幸せも存在する。
自己と向かい合い、他者との向かい合い方を学ぶのが倫理学、道徳であるとすれば、それは生の肯定とは無関係ではない。
生の肯定があってこそ、「いい人生だった」という言葉がリアルになる。
なぜなら、「いい人生だった」との言説は、単独者の独り言ではなく、その言葉を聞き留めてくれる単独者が存在してはじめて生きてくる言葉であるからだ。キルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard,1813-1855)が「道徳は品性である。品性は彫り込まれたものである。海には品性はない、砂にもない、抽象的な分別にも品性はない。品性とは内面性にほかならないからである」と言っているが、どこかでそうした契機を心がけていかないと、品性が彫り込まれないように、人間の存在もどこかうすっぺらい、レディメイドの工業規格製品のようになってしまうのではなかろうかとも思う。

“お互いにどちらがいなくても困るのだが、お互いにくっつき会うこともできない”
“お互いにどちらがいなくてもかまわぬし、お互いにくっつくこともできる”
“くっついているんだからお互いにどちらがいなくても結構”

人間が単独者として“開き直”ってしまうとそうなるのか。

“お互いに”賢慮しながら歩みたいものです。

さて……。
昨日より市井の職場へ復帰する。
店長より、「娑婆世界へようこそ」とのアリガタイ言葉を頂き、いきなりレジに投入される。店長もがっつりレジをうっていたようなので、「お互いに」とおもいながら、甘受する。とわいえ、六日ぶりのレジ打ちなので「忘れたかな?」などと思ったが、予想以上に体が覚えている。不思議なものです。今日もがっつり打たされるので補充まで手が回らない……というか気力の問題ですが……手が回らない。

いうまでもなく帰ってから『酔鯨』を“鯨飲”する。
当然、この「二日酔い」の呻吟を引き受けてくれる単独者は存在しない。
細君からは「自業自得」とのアリガタイ言葉が返ってきた。

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「さあ、仕事を続けよう(laboremus)」

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 「ああ、どうしておれは学んでおかなかったのか」。これは怠け者の言い訳である。それなら学ぶがいい。学んだといっても、もう今やめてしまったならば、それは大したことではないと思う。過去を当てにするのは、過去を嘆くのとまったく同じように愚かなことだ。なされてしまったことについては、それに安んじ得ることほどりっぱなものはなにもないし、それを繕えないほどにみにくいものはない。ぼくには、幸運に身を委ねるのは不運に身を委ねるよりむずかしいように思われてならない。もし自分の揺りかごが妖精たちによって飾られたとしたら、気をつけたまえ。ミケランジェロのような男にあってぼくがすばらしいと思うのは、自然の賜物を手に取りなおして、容易な人生を困難な人生に変えて行くあの客気あふれる意志である。自分に満足することを知らないこの男は、彼自身の語るところによれば、学校へ行って何かを学ぼうとした時には髪が真っ白だったという。そのことは優柔不断な人たちに、いつだって、今こそ意志する時であることを教えている。最初の舵の動かし方で一航海のすべてが決まると言ったら、船乗りはきっと笑うだろう。ところが、子どもたちに信じ込ませようとしているのはそれなのだ。さいわいにして、子どもたちはほとんど聞いていない。もし子どもたちがb(ベー)a(アー)は「バ」といった具合に自分の一生を決める形而上学的観念をつくるようにでもなれば困ったことだ。こういう有害な観念は、幼い頃にはほとんど彼らを変えないが、もっとあとになって害となる。なぜなら、弱者の言い訳が弱者をつくるのだから。宿命とはメドゥーサの頭(こうべ)である。
    一九二二年十二月十二日
    --アラン(神谷幹夫訳)「宿命」、『幸福論』(岩波文庫、1998年)。

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昨日はしっかりと寝させて頂き、本日より現実の業務に着手する。夕方から市井の仕事もはじまるので、本日中にある程度、デッドラインの迫っているレポート添削を終えておかねばならない。

今朝より一通一通確認する。

確かに、集中講義を担当する前に、ある程度は「終わらせて」おけばよかったのですが、そのことを嘆いてもはじまらない。それは“怠け者の言い訳”にすぎないし、「過去を当てにするのは、過去を嘆くのとまったく同じように愚かなことだ。なされてしまったことについては、それに安んじ得ることほどりっぱなものはなにもないし、それを繕えないほどにみにくいものはない」からだ。いつも思うのだが、哲学者・アラン(ちなみに“アラン”とはペンネームで、本名はエミール=オーギュスト・シャルティエ(Emile-Auguste Chartier)、1868-1951)はうまいことを言う。

人間とは不思議なもので過去を嘆くようにできているのだが、あまりにもそのことにひっぱられすぎると、前へと歩みをすすめることができなくなるし、運命決定論のように、一本筋の道しか前途に見えなくなるものである。しかし、現実に生きている人間の<現在>には無数の筋道が前途に広がっている。まさに「最初の舵の動かし方で一航海のすべてが決まると言ったら、船乗りはきっと笑う」のである。

過去を忘却せよ……ということではない。
そのことを踏まえた上での現在であり、これからの歩みである。
人間には一本の獣道しか残されているのではない。いな、無限の獣道が横たわっているのである。

今から始めることは決して遅いことではない。
遅くしてしまうのは、遅いと嘆く自分自身である。
遅いと思っても、そして嘆いたとしても、その仕事に着手することはできるのである。
かの大歴史家・トインビー(Arnold Toynbee,1852-1983)は「さあ、仕事を続けよう(laboremus)」をモットーにしたという。

雨の中でも、自然の営みは運行を決してやめない。
寒い雨のなかでも、朝顔は花を開く。

始めるのはいつからでも遅くない……と自分を励ましながら、再び目の前の山を崩していきましょうか。

何しろその山のひとつひとつの地層が人間なのだから、誠意でがんばります。

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夢の教室、そして、現実の教室

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本日、勤務校・通信教育部の夏期スクーリング(集中講義)が終了する。
1限目が、最終講義。2限目が試験となる。

今回は、じっくりとやったので、一番進行速度の遅い講義となったが、自分としては真剣に全力で講義できたのではないかと思われる。ただしそこに安住してはいけない。
より素晴らしき講義を目指し、日々の生活の“ただ中”で、ひとの顔を見つめながら、学問と向かい合わなければならない。

授業でも紹介したスピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)が言っている。

 「生きることはダブルバインドそのもの。しかし生きて何かをするというゲームから降りることはできません」

人間とはそういう生きものである。

授業をしめくくるにあたり次のような言葉を学生さんたちに贈った。

「この教室での4日間の授業は、“夢”の世界です。そして“机上”の世界です。“夢”の世界の4日間の教室です。授業は今日で終わりです。終わった瞬間から、その人自身の日常生活が再開します。仕事、家事、学業……すべての日常生活が再開します。“現実”の世界です。では現実の教室はどこにあるのか。今からはじまる“現実”の世界こそが、倫理学の教室です。時には涙することもあるし、笑うこともある。挫けることもあれば、意気軒昂と前進できるときもある。その“現実”の世界の“ただ中”という教室で、身近なものに注目し、発見し、考えてもらいたい。この“夢”の世界を出た瞬間の、“現実”の世界という教室から倫理学の学習ははじまります!」

本当に受講された皆様、ありがとうございました。
倫理学などを語るのは、本来、熟練した教員が語るべき科目なのかもしれません。
しかし、人間のできていない、常に悩みの現場で格闘しているヘタレ教員の授業を眠りもせずに、聞き続けてくださいまして、ほんとうにありがとうございました。

皆様本当にありがとうございました。

そしてもうひとつ。

こうした教鞭を取る機会を与えてくださった、人生の師匠、本当にありがとうございました。この感動を忘れず、報恩できる一歩一歩の歩みを続けて参らねばと、再び決意する。

で……。

答案をぱらぱらみていたのですが……最後にちょっとしたコメント(授業の感想)なんかが書いてあるのですが、次のようなものを発見する。

すなわち……

「先生はとても「しかしながら」の接続語が好きなようです。今日の9:15~9:45の30分の間で、5回使用しました。先生が学問道一筋で食べていけるよう祈ってます!奥様、お子さまを大切に」

「No!」

自分では意識していないのですが、そうした身近なところに注目し、発見し、そして自分で考え、その内容を思索から自覚へ高め、そして絶えず社会と歴史に学ぶのが倫理学であるとすれば、このコメントを書いた学生さんは既に倫理学を始めだしたことになるのであろう。

教室以外でも出会い、語らった皆様、本当にありがとうございました。

で……。
この4日間、基本的に寝不足でしたので(理由は聞くまでもない)、今から少し飲んで寝ます。肴が何もないので、庭で育ったゴーヤでも眺めながら……。

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朋あり遠方より来る

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学びて時にこれを習う。また説(よろこ)ばしからずや。朋あり遠方より来る、また楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや。
    --金谷治校注『論語』(岩波文庫、1999年)。

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人間は学ぶ喜びを知っている。
ひとは、何かを知りたいと思い学ぶ。
そして、そのことを復習しながら、自分の財産へと転換する。

そしてそのことを友と胸襟をわって話しあう喜びは何ものにも代え難い財産である。そうした友の訪問を待つのではなく、友のところへ出かけてその語らいをしたいものである。

そして、自分の努力を無意味とは思ってはいけない。
賞讃する人間がだれもいないとして、気にかけてはならない。その歩みの中に人間の歩みが存在する。

……そうしたことを実感したスクーリング2-3日目の宇治家参去です。

2日目夕刻。
名前しか知らなかった学生さんたちと、盃を交わす。
リアルな顔(レヴィナス)と眼差しで対峙しながら、友誼をあたためる。
いつも、飲み始めると、“壊れる”まで“飲んでしまう”のですが、今日は初めての方もいらっしゃいましたので、“壊れる”わけにはいかず極めてセーブする。

“壊れる”ことを期待した皆様、申し訳御座いませんでした。
実は、自分は、きわめてシャイでナーバスなチキン野郎ですので、結構、人見知りする人物です。酒の力を今回は借りずに、大人しく飲みまして、本性を現さず申し訳御座いませんでした……とはいえ、淡々と言葉を紡ぎ出し、味わうように飲む宇治家参去の姿も、またそのひとつの実像です。

悠々と電車で帰宅すると、田舎から戻ってきた息子さんと対峙する。
あらかじめ買って置いたウルトラ怪獣セットにご満悦。
その演説の長いこと、長いこと。感謝のあらわれなので、よしとしましょう。

ただし、酒をあまり飲まなかったのここから弔い合戦が開始する。
思った以上に痛飲したため、翌日(土曜日)がキツかった。

朝一番で大学へ出講する。
今日も全力で講義。
今日の八王子の涼しいこと、涼しいこと。
文系棟の電光表示の温度計をみると、18度。秋の訪れを実感する。ぼちぼち出始める「秋味」(Kirin)に舌鼓を打ちたいところです。

本日は、当初学生さんとの予定があったのだが、予定日変更になる予測になりそうだったので、とりあえず、見込んで家族との予定をいれたが、どちらもぽしゃる。

さあ、今日は大人しく帰ろうかとおもったのだが、授業終了後、わざわざ、茨城から学生さんが宇治家参去を尋ねてきて登場する。15時から19時まで大学でお話を交わす。
※学生さんゑ、ちょい自分眠かったので、機嫌がわるそうに思われましたらごめんなさい。

茨城からかけつけてくださった学生さんの大学にかける思い、そして実践、そしてこれまでの人生経験や思い出を語り合ううちに、時間が過ぎてゆく。とても40うん歳には見えません。生涯現役、そして生涯青春の歩みに感動する。
そして最後に、「先生、はやく専任になって下さい」との激励に感涙する。
学生さんに激励される例の如くの宇治家参去です。

しかし実感します。
こうした本当に、師への誓いと理想を抱き、大学建設に手弁当で関わろうとする真摯な学生さんが存在する大学とは幸福な大学である。教員は決してそのことに安住しては為らない。ダ・ヴィンチではないが、まさに、自分自身が「完成の未完成」「未完成の完成」を目指してたゆみなく前進するほかあるまいと決意させられる。

で……。
途中から合流した一学生の立場として参加された自然科学者(某国立大准教授)さんと、八王子の夜へ繰り出す。
真摯で紳士な素敵な自然科学者と、破天荒で荒野を彷徨うフリーの神学者との対談になる。

原子物理論から、生物論。
そして、人間論から、存在論まで幅広く、何ものにも、学説にも囚われない、自由な対談となる。

人間とは何か。
概念化の孕む暴力。
実験用マウスに見る生命の問題。
生命とは何か。
真空状態とはなにか(理論家のものの見方と実験屋のものの見方の差異)。

昨日も自然科学者さんとは飲んだのですが、自分は今回、この自然科学者さんと出会い、思ったことはひとつ。

科学者と神学者の世界と人間をめぐる共著を出版したいなと実感した部分です。
いうならば、世界と人間の存在をめぐってアインシュタインと視線と、トマス・アクィナスの視線で、対話をしたものを記録として残したいなって思った部分です。一学生の立場として参加された自然科学者(某国立大准教授)さんからすると、「やだぜボケ」っていわれそうですが、いつか実現したいです。

とわいえ……ふたりで酩酊です。

そこになにか大きな“人間”を見出すことができました。

悩みのない人間なんて存在しない。悩みがあるからこそ成長がある。

その現実の「ただ中」で格闘するしかない……そんな実感です。

「ただ中」から降りてしまうことは、自分自身の存在を空虚にしてしまう行為に他ならない。

気が付くと良い時間になっていた。今日は携帯電話を自宅に忘れていたのですが、一応細君に連絡を一本入れておく。

「学生さんの質問を聞いていると、遅くなったのだけど、どうやら中央線が人身事故で不通のようなので、帰るまでにもうちょい時間かかりそうだから、先に寝ていていいよ」

あやしさ全開……が不味かった。
はっきり言った方がベターだった。

無言で電話が切電されてしまい慟哭するある日の宇治家参去です。

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二日目スタート

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昨日は初日のため、午前授業のみ。
本日より昼過ぎまで授業です。

昨日は暑くて大変でした。
帰宅後、爆睡して、夕方、細君と二人しかいないので、近所の焼鳥屋へいく。あるいて5分の焼鳥専門店ですが、入ったのは初めて。

絶品でした。基本的には焼鳥専門なのですが、やはり専門店の出すものの方が、オールマイティの居酒屋のものよりうまい。

歓喜地(かんきち)というお店です。

さて・・・

今日より二日目。
朝、八王子駅で学生さんに偶然であう。

「宇治家さん、タクシーでいくから、一人も二人もいっしょだから、どうぞ」

ラッキー。

幸先のよいスタートです。

今日も全力で講義してきます。

教室のパソコンより。
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学は道にいたる問なり

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学は道にいたる問なり。此問をとをりて道にいたる也。しかれば学は問也、家にあらず。問を見て家也とおもふ事なかれ。家は紋をとをり過ぎて、おくにある物也。
    --柳生宗矩(渡辺一郎校注)『兵法家伝書 付・新陰流兵法目録事』(岩波文庫、2003年)。

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今日から授業なので、早く寝ないとマズイのですが、うろうろと本を読みながら、軽く飲んでいます。

剣術を昔、かじっていたので、兵法書も読みますが、葵三代の将軍に使えた柳生宗矩(1571-1646)の「兵法家伝書」もなかなか面白いですね、早く寝ないとマズイのですが、読み耽っています。

学問とは何なのか……。
それはある意味では生活の本質ではない。しかし生活や人生を導く何かなのであろう。
柳生宗矩は、それを家における「門」と表現している。学問とはまさに「問いを学び」そこから「自己探究」のきっかけを形成する一つの契機である。

本日より、「倫理学」を100名あまりの学生に講じてきます。
言うまでもありませんが、受け手にとっては、同じ言説でも千差万別ですが、なんらかの「門」になればと思います。

ようやく、パワーポイントの手直しがほぼほぼ終わったので、もうすこし飲んでから寝ます。

明日は、5:45起きだあぁぁぁ~。
細君に起こしてもらおっと。

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人と作(な)るには、一点の素心を存するを要す

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友に交わるには、須く三分の侠気を帯ぶべし。人と作(な)るには、一点の素心を存するを要す。
    --洪自誠(今井宇一郎訳注)『菜根譚』(岩波文庫、1975年)。

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先年スクーリングで拙講を受講していた学生さん……といっても65の壮年の方ですが……から、暑中見舞いが届いており、そのなかで、一度お会いできませんかとありましたので、昨日、昼過ぎ、八王子駅でお会いする。

と……書くと、また飲みにいったのか!と思われそうですが、そうではなく、昼食をとりしばし懇談する。

特段の倫理学的議論をするわけではないのですが、お互いの近況を語り合い、なごやかに談笑する。

とはいえ、やはり人生の大先輩である。
どちらかといえば、こちらが激励される結果となってしまう。

「先生、早いところ、人生を決めて、専任になってくださいよ」

ありがたいことです。
こうした一人ひとりに支えられて、今の自分の存在があるのだなと再度実感する。
明代末期の思想家・洪自誠は、「人よく菜根を咬みえば,則ち百事なすべし」と説き、菜根は堅くて筋が多いが、これをかみしめてこそものの真の味わいがわかると説いた。人間の世界も同じなのであろう。

倫理や哲学や宗教(神学)に関わっていると、ともすると自己の無力感に悩まされることがあるのですが、それでもそうした学問を熱心に聞いてくださる学生さんはいるのである。ありがたいことです。

明日から講義がはじまるので、全力を尽くしたいと思います。

で……。

受講される方へ

いうまでもありませんが、テキストは全編に渡って読んできて欲しいのですが、集中講義の都合上、対面授業では、テキスト全てに渡ってまんべんなく講義をするということが不可能です。
序論および1章に一番時間をかけてお話をします。序論および1章に『倫理学』のエッセンス(倫理学とは何か、そして倫理学的に考える(=実践)とは何か)になりますので、この部分だけは、分量にしても50頁程度ですので、必ず読んできて欲しいと思います。もちろん目を通せなかった方への配慮も考えていますので大丈夫ですが、一応、そのあたりのフォローをお願いしたいところです。
また七面倒くさい、些末な議論とか難解な試験も準備しておりませんので、リラックスして聞いて頂ければ幸いです。

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「唯一性」を表象してくれる他者の帰還

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 政治的生にあって、人類がその作品から理解されることはまちがいない。交換可能な人間たちの、相互的な関係による人間性というわけである。人間たちを相互に置き換えることは本源的な不敬であって、ほかならない搾取が可能となるのもこの置き換えによってである。歴史--それは国家の歴史である--において人間存在は、そのさまざまな作品の総体としてあらわれる。人間は生きながらにして、相続されるべきじぶんの遺産なのである。正義とは表出をあらためて可能にすることにあり、表出にあっては、相互性を欠いたかたちで人格が唯一的なものとして現前する。正義とはことばを語ることの権利である。宗教のパースペクティヴが開かれるのは、おそらくここにおいてである。宗教は政治的生から遠ざかる。哲学もまた政治的な生へと必然的につうじるものではないのである。
    --レヴィナス(熊野純彦訳)『全体性と無限 (下)』(岩波文庫、2006年)。

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ようやく、こうした人格自身を自分自身に相対させてくれる「相互的な関係」である「唯一性」を表象してくれる他者としての存在者が東京へ戻ってくる。

その存在者とは誰か……。
いうまでもなく、自己自身に“他者の練習”をさせてくれる“細君”だ。そして“相互性を欠いたかたちで人格が唯一的なものとして現前する”立場から“正義”を語ってくれるのが頼もしいし、“宗教のパースベクティブ”を見事なまでに見せてくれるのが嬉しいところである。

今回は比較的事前準備をしていたので、あまり大クレーム(掃除をしてないとか)にならず、ホッとする。

息子さんの帰還はまだ先なので、筋肉痛になることもあるまい。

というような……やりとりを繰り返しながら、市井の職場へ出勤する。
月曜で一区切りをつけ、火曜から日曜まで休みをとり、大学での集中講義といいますかスクーリング授業です。
その欠勤分の仕込みをごつんと本日行う。
自分がいなくても仕事は多分まわるだろうと思うのだが、今回は中盤で棚卸しも絡んでいるので、綿密に作業指示書を作っておいた。
今日も例の如く体調が良くないので、体が甘いものを欲する。この夏3個目ですが、アイスを食ってしまう……自称・ナイスミドルとしては“俺って弱いなア~”などと思いつつアイスを食うが“旨かった”。
ちなみに先日一緒に飲んだ巨漢の方は、アイスを肴にビールを飲まれるという“大人物”であったが、その真似は出来なさそうである。

さていよいよ自分の授業である。
火曜・水曜と授業前の日程に休みを取ったので、仕込んで置かないと……という現実です。最高の授業ができるように全力で挑戦しなければならない。
そこを放棄すると教師として成立しなくなってしまうからだ。
そして授業……。
それが終わると次は論文の締めきりだ。
そして博論の中間報告も秋口にまっている。
課題は山積だが、ナーバスを吹き飛ばし、燃料たる酒を注入し、学生さんとの交流の中で元気をお互いにもらい、前進していこう。

とりあえず……明日昼過ぎに、アポがあるので、早く寝ないといけないのですが、飲んでいる宇治家参去でした!

何で飲んでいるのかって?
それは細君がビールを買ってきてくれたからですよ。

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「私の自由を任命し、正当化するように呼びかけられた師」の帰還

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 <他者>との関係は、分離を無効にするものではない。その関係が浮かび上がるのは全体性のただなかにおいてではなく、その関係によって全体性が創出されて、<<私>>と<他者>がそこに統合されるわけでもない。対面というむすびあいにあっても、主観性がそこに九州される普遍的真理、それを観想するだけで<<私>>と<他者>が合一の関係に参入するのに充分な真理が現実に存在することが、前提されるわけではなおさらない。最後の論点については、反対のテーゼを主張しなければならないのである。<<私>>と<他者>のあいだの関係は、たがいに対して超越しているふたつの項の不等性からはじまる。その不等性にあって他性は、たんに形式的に他方を規定するのではない。Aに対するBの他性はただ、Aの同一性とは区別されたBの同一性から帰結するのではない。<他者>の他性は、ここではその同一性から帰結するのではなく、逆に<他者>の同一性を、すなわち<他なるもの>とは<他者>であるという同一性をかたちづくる。他者としての他者は高さと低さ--ただし栄光に充ちた低さ--の次元に位置している。他者は貧しい人、異邦人、寡婦、孤児の側面を有している。と同時に他者は、私の自由を任命し、正当化するように呼びかけられた師という側面も有しているのである。ここで問題の不等性は、私たちを数としてかぞえる第三者にはあらわれるおとがない。不等性が意味しているのは、私と<他者>とを包括しうる第三者が不在であるということにほかならない。
    --エマニュエル・レヴィナス(熊野純彦訳)『全体性と無限 (下)』(岩波文庫、2006年)。

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宇治家参去にとってのきままな独身ライフも本日で終了です。
宇治家参去にとって永遠の<他者>である細君が本日、東京へ戻ってくるためです。
ある意味でアリガタイ(財布の中身は31円也)のですが、ある意味で叱責されるのもわかっているので、どうそれを受け流すのかが本日の課題です。
今日は早めに起きて、洗濯と掃除は必須のようですね。

ただ、例の如く、飲み始めてしまったので……お昼過ぎまで爆睡しそうでチトそこが難点です。帰ってきたときまで寝ていたら、大激怒だと思うので。

昨年のこの時期は、まだ帰ってこず、帰宅は十日あまり先でしたので、スクーリングも思う存分楽しめたのですが、今回は細君の目があるので、ご自愛専一です。

なにしろ、永遠の他者なのですが、「私の自由を任命し、正当化するように呼びかけられた師という側面も有している」ので……。

世のご主人諸氏よ。
細君は大切にした方がいいですよ。

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「センティメンタリズム」か「ファナティシズム」を避け(酒)ながら

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 このように、物質に対する遠い昔からの恐怖や嫌悪によって、物質は、精神に敵対し、精神を脅かすもの、承認を最低限にとどめるべきもの、理念的目標を侵して、果ては現実の世界からこれを締め出すことのないよう極力否認すべきもの、と考えられて来たが、この恐怖や嫌悪は、既に知的に無力であったのみならず、実際的にも不合理であることが明らかになった。物質が何を為すか、いかに作用するか、という唯一の科学的見地から見ると、物質とは諸条件を意味する。物質を重んずるのは、成功の諸条件を重んずることである。阻止し妨害する条件、変えねばならぬ条件、助長し促進する条件、妨害物の除去や目的の達成に役立ち得る条件などを重んずることである。物質、すなわち、消極的にせよ、積極的にせよ、あらゆる努力の成功を左右する諸条件というものに対して真面目な永遠的な関心を持つことを学んだ時、初めて、人々は、目的や目標に対して真面目な効果的な関心を示すようになった。目的を持つといいながら、目的達成の手段を無視するというのは、この上なく危険な自己欺瞞である。教育や道徳が、化学工業や医学などが自分で見出したのと同じ進歩の道を進み始めるのは、やはり手段および条件に対して--言い換えれば、人類が、長い間、物質的とか機械的とかという理由で軽蔑して来たものに対して--誠実かつ着実に注意を払う訓練を身につけた時のことであろう。手段を無視して目的を考えれば、私たちはセンティメンタリズムに堕落する。理念的なものという名に隠れて、単なる運命、チャンス、魔法、訓戒、説教に逃げ込むか、そうでなければ、予め立てた目的実現のために何も犠牲にするファナティシズムに逃げ込むことになる。
    --ジョン・デューウイ(清水幾太郎・清水禮子訳)『哲学の改造』(岩波文庫、1968年)。

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今はデューイ(John Dewey,1859-1952)が旬でしょう。デューイの話でもひとつ。
プラグマティズムの代表的思想家・哲学者・教育学者として知られるデューイの最大の関心とは何かといった場合、「人間の不在の社会」をどのように転換していくべきか……という点であろうかと思われる。プロパーとしては、哲学・倫理学から教育学(教育哲学)、社会哲学(制度としての民主主義)に至るまで、幅広いジャンルで言及し続けた人物だが、どの著作に置いても見られるのが、上で紹介した関心事である。だから、教育に深く関わり、実験的な試みを行ったり、人間を支えるフレームワークとしての社会哲学にも関わり、そしてそうした道具としての「思考」を人間的な経験と反省の世界で再構築し、それが哲学論として結実する。

さて、デューイは、ウィリアム=ジェームズの影響のもとに、人間の経験を生命活動として理解する。だからそこにおいては、生物学をはじめとする自然科学の成果が重視される。これは思弁を第一とする伝統的な西洋哲学の歴史からみるとすれば、まさに「20世紀の哲学」とでも表現すべき、試みであり、狭い文系とか理系といったジャンルの対立を越境する大きな知の試みである。だからといって、思弁がダメで、自然科学オンリーだとか、またその逆でもない。人間の心理や倫理を、抽象的・観念的な哲学的概念によってのみ説明することが不可能だと見抜いたからこそ、生きた環境(生態系だけでなく人間の社会という意味まで含めて)とのつながりにおいて説明していこうとするのである。

だから単純な観念VS自然科学でもないし、中途半端な結合でもない。デューイがめざしたのは、まさに「人間の不在の社会」を「人間存在の社会」に転換するためには如何にすべきかということだから、そうした対立とか折衷など眼中にはないわけだ。そうした在り方は、まさに学問における「センティメンタリズム」か「ファナティシズム」といった在り方に他ならない。そうしたところをどこか見抜いていたのかも知れません。

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物質、すなわち、消極的にせよ、積極的にせよ、あらゆる努力の成功を左右する諸条件というものに対して真面目な永遠的な関心を持つことを学んだ時、初めて、人々は、目的や目標に対して真面目な効果的な関心を示すようになった。目的を持つといいながら、目的達成の手段を無視するというのは、この上なく危険な自己欺瞞である。教育や道徳が、化学工業や医学などが自分で見出したのと同じ進歩の道を進み始めるのは、やはり手段および条件に対して--言い換えれば、人類が、長い間、物質的とか機械的とかという理由で軽蔑して来たものに対して--誠実かつ着実に注意を払う訓練を身につけた時のことであろう。

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物質の問題も、科学の問題も、そして社会の問題も、倫理・哲学の問題も単律な自存的な在り方として見てしまうと、それは人間の問題となってこない。だから、物質も、科学も、そして人間の幸福を外面から保障しようと形成された社会が、そして冷静に物事を見つめ直そうとした哲学が、人間自身を疎外する結果となってしまうのだ。だから、「目的達成の手段を無視するというのは、この上なく危険な自己欺瞞」に他ならない。

自分と向き合うものすべてに対して、どこかで「誠実かつ着実に注意を払う訓練」をしていかないとなア~という今日この頃です。

ガンジーも常々言っていたが、目的は手段を正当化することはできないし、崇高な目的には崇高な手段が絶えず同伴しなければならない。そうした在り方なんてできねーよって、ニヒルになってしまうと、「目的の為には手段を選ばない」ってことになっちゃんですよね。

なんとかしないとな

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Book 哲学の改造 (岩波文庫 青 652-1)

著者:ジョン・デューイ
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鉄扉は開けた! 密林の路は見えてきた!

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ぼちぼちスクーリングも中盤。
八月に入ってから東京では比較的涼しい毎日が続いたのですが、昨日頃から炎天下が復活する。ものを食べていない生活が続いているので、バテ気味です。

昨日は夕方から、急遽、大阪、愛知、東京の友と八王子でがつんと飲む。
生(中)×3
日本酒×4-5合
山形の出羽桜がおススメです。

細君不在のため、連日飲んでおりますが、今回は無事故で帰宅。

特段の哲学的な議論をするわけではありませんが、生活から学問まではばひろく自由に討議できるのが、夜の講義(?)のいいところ。皆様ありがとうございました。

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 舟はくるしそうに砂丘の間を分けながら、ゆるゆるとオコヴェ河を遡って行った。私は引き舟の甲板の上に茫然と坐っていた。心中にはいかなる哲学の中にも書いていない根本的な普遍的な倫理性の概念を考えて苦心惨憺しながら紙に一枚一枚と連絡のない文章を書き記した。
(中略)
……三日目の晩、日没の頃、河馬の群の間を舟が進んで行ったとき、突如今まで予感もしなければ求めたこともない『生命に対する畏敬』という言葉が心中に閃いたのであった。--鉄扉は開けた! 密林の路は見えてきた! ついに私は世界人生肯定と倫理とが共に思惟の中に基礎づけられることが、明白となったのである!
    --シュヴァイツァー(竹山道雄訳)『わが生活と思想より』(白水社、1959年)。

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行きの電車のなかで、密林の聖者・シュバイツァー(Albert Schweitzer,1875-1965)を読んでいたのですが、最近つくづく実感する。いろいろなことがあったりして、凹んだり悩んだり、悲観的になったりしてしまうことが昨今多いのですが、「それでもなお」どこかで世界とか人生を肯定する倫理(それは逆に言えば悲観的な部分をもみとめながら、「なおかつ」進むべき道へむかっての歩みをやめない強さ)を自分自身のなかに構築していかない限り、そこでおわりになってしまうなあ……と、杯を交わしながら思った次第です。

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【覚え書】「ひと コソボ・フィルハーモニーの常任指揮者 柳澤寿男さん(36)」、『毎日新聞』(2008年8月14日付(木))。

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ちょゐと新聞を読んでいるとまた覚えておかなくてはならない記事に遭遇する。【覚え書】として紹介しておきます。

90年代より耳目をあつめたバルカン半島の内戦です。
通俗的ですが、武力では問題は解決しない。
解決に必要なのは人間力だ。
今日は8月15日。
深く考えたいし、それぞれの“生きている現場”で“できること”から手をつけるしかない。
何かをやるにはどこかへいく必要はない。
行く使命のある人間はいけばよい。
行けないならば、自分とあいたいする人間に“人類”とか“平和”というものを見出せばそれでよい……と思うのだが。

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「ひと コソボ・フィルハーモニーの常任指揮者 柳澤寿男さん(36)」、『毎日新聞』(2008年8月14日付(木))。

 独立したコソボで、自ら設立したバルカン室内管弦楽団の演奏会を終えた瞬間、満面の笑みで充実感を表現した。「民族の共栄」を目指すコンサートは大きな拍手に包まれ、「ここで指揮できて感激です」。
 昨年3月、首都プリシュティナでの初めての公演では、軍人が小銃を抱えて並び、国際治安部隊(KFOR)に頼るコソボの現実を知った。アルバニア系とセルビア系が川の南北に分かれて住む民族分断のまちミトロビツァで、花屋の女性店員に「橋を渡ったことは」と尋ねると、橋を通ったことのない店員は答えられず涙を流した。民族対立の深刻さに打ちのめされた。
 「怒ることも多いが、感動はもっと大きい」。2月の独立宣言、6月の新憲法施行と、新しい国家コソボの歴史的な場面に立ち会った。「まちに活気があり、人々は明るい」とコソボに愛着を感じる。
 コソボ・フィルハーモニーの常任指揮者を引き受けたのも「音楽に国境はない」と語る総監督の心意気に動かされたからだ。停電も断水も日常風景となったコソボで、ろうそくの灯で楽譜に向かう。
 子どものためのコンサートなど新しい試みも始めた。ベートーベン作曲の交響曲第九番の「すべての人が兄弟になる」というメッセージを伝え続けたいと願う。コソボと日本を行き来する日々は長く続きそうだ。 文と写真・中尾卓司
 長野県出身。マケドニア国立歌劇場の首席指揮者を経て、07年10月から現職。

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常に個性として生き、個性であることによって生きている

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個体性とは一個の実存の一回性のことである。それゆえ、ただそれが在るがごとくに在りうるのみであって、他のようでは在りえない。したがって、けっして単に他の実存の反復であったり、他の実存において完全に反復されはしない実存のことである。この個体性こそ、すべての生が、少なくともこの惑星上におけるわれわれ人間にとって現われる形式である。われわれは、生がわれわれに自らを示す他の仕方を知らない。あるのはただ個体的実存だけである。われわれの経験の領域の中で生きているものは、常に個性として生き、個性であることによって生きている。生の形式とは--すべての生は自己を特定の形式において表現する--個性とは同じ意味である。生の形式は、個性、すなわちこの特定の個性が存在するところに始まる。生の形式は、何らかの仕方で、この特定の個性から、それと劣らず一回的に規定された他の一つの個性が生ずるところに展開する。そして生の形式は、一つの個性、すなわちこの特定の個性が実存することをやめるところで終わる。これははなはだ平凡な例であるが、常に新たに想起されねばならない。われわれは、いまだかつて一本の樹木を見たことはないのであり、常にただこの個別の松とか、個別の橅(ぶな)を見ているだけである。われわれは言葉によって惑わされてはならない。
    --レオ・べック(木田献一訳)「言い表しえぬ固体」、(エラノス会議編・井筒俊彦他監修)『人間のイメージI』(平凡社、1992年)。

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昨日の痛飲がたたるわけですが、職場放棄もできず、出勤する。

例の如く--
ニヒルな店長は、「宇治家参去さん、今日もがっつりレジですよ」って不敵な笑みを浮かべるわけですが、今日は店長自身も「がっつりレジ」打ちをしてくださり、助かりました。基本的にはべらんめえなひとなのですが、たまにいいところもあります。今日も自分のファン(?orストーカーさん?)のお客様がいらしていたようなのですが、「宇治家参去は、まだ出勤していません」って店長がフォローしてくださいました。ありがたい。

が--現実に二日酔いでがっつりレジを打つと、基本的には、かなり身体的・精神的ダメージが倍増する。ま、もどすことはないのですが、一日がっつり疲れました。

そんな状況ならば、そこまで飲むなって話になるわけですが、やはり、この「一個の実存の一回性」を雄雄しく生きていくためには、その一度一度の特殊な実存の状況を、「こんなもんでいいや」って的におざなりにするわけにもいかないので、ついつい「飲んでしまう」(--ってただ飲みたいだけなのかもしれませんが)。

思えば、30を越えてから、「弱くなった」ように思う。ちょど結婚したのが、29のときだが、細君は全く飲まない人間なので、その相乗効果で「弱くなった」のかもしれません。

数々の人跡未踏の経験をしてきたつもりですが、最近では「弱くなって」いけませんね。ある意味で学生の区切りがついていないので、体は30過ぎですが、どこまでも18-20の感覚で生きているので、全力投球してしまい地面にキッスという状況です。

さて思想・哲学が発展したひとつのおおいなる契機とは、いわば「抽象的思考」の存在が大きな起因となっている。「世界は神が創った!」という神話的思考を乗り越える概念として、哲学の営みが始まるわけですが、哲学では、「神が創った」という言い方をあらため、「万物の根源(アルケー)とは何か」という言い方に切り替えます。「神が創った!」という場合、それを信じるか否かで、議論が紛糾してしまう。そのかわり「万物の根源(アルケーとは何か」といった場合、信じる・信じないに関わらず、出自や文化に関わらず、議論のテーブルにつくことができるようになる。そこが哲学の出発点である。

最初の哲学者タレス(Θαλής,B.C.624-B.C.546頃)は「万物の根源とは水である」と主張した。すなわち、水は液体にも、気体にも、固体にもなるから、万物の大礎だと主張したのである。これが歴史に即された最初の哲学的営みである。もちろん、万物の根源が水かどうかに関しては様々な議論が噴出してくるのは当たり前のことである。だから、その議論に関してひとびとは「テーブルにつく」ことを望んでできたのである。タレス以後、百家争鳴、さまざまな議案に対する議論に花咲いた。

たしかに、抽象化の思考には、「議論のテーブル」に着くという意味では一定の功績があったと思われるが、ひとつの罪責もある。いうまでもないことだが、抽象化することによって、抽象化される以前の当体を見過ごしてしまう問題だ。このことは哲学の議論に限定される問題ではない。政治、経済、宗教--すべての人間に関わる議論に存在する陥穽である。

たしかに抽象化する必要性も現実にはあるし、議論がスムーズに進行する局面も存在する。しかしそれだけが現実ではないということだ。以前にも両眼思考として書いたかもしれないが、抽象化すると同時に、現実をまざまざと見つめる格闘も必要だということ。その両者の緊張的な相関性があってこそ、議論は生きてくる。抽象化オンリーでもだめなのでしょう。そして現実オンリーでも不毛な水掛け論で終わってしまう。その両者をみなくてはならない。

「われわれは、いまだかつて一本の樹木を見たことはないのであり、常にただこの個別の松とか、個別の橅(ぶな)を見ているだけである。われわれは言葉によって惑わされてはならない。」

著者のレオ・べック(Leo Baeck,1873-1956)はドイツ系のユダヤ人のラビである。最近ユダヤ系の文献を紐解くことが多いが、不思議なことに、ユダヤ思想には、そういう意味では普遍志向(抽象化)と個別志向(一個の実存の一回性)のみごとな調和が存在する。べック自身、ナチスの絶滅収容所から奇跡的に生還した人物だが、信仰としての神に普遍と個別性を見出し、そして相対する人間に普遍と個別を見出した、生々しい経験をもっている。そうした人物の言葉に耳を傾けると、講壇化し、知の遊戯と化した思想の議論の薄っぺらさをいやというほど感じてしまう。

自分自身の生(飲み記録?)から眼をそらざすに、直視し、そことつながり行く他者との生々しい相対を自覚しないと、学問は実は成立しないのかもしれませんね。

とりあえず、飲んで寝ます。

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月島、有楽町界隈

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飲み友達と痛飲する。

もんじゃを食べたいということで、夕方から月島へ。
月島へいくのも10年ぶりとなれば、もんじゃを食べるのも10年ぶり。

焼き方がわからない……ので、しゃきしゃきしたおかみさんに焼いていただく。

店のスペシャルと、メキシカンもんじゃを堪能する。
旨い。生(中)×4杯。

腹もすこしふくれてきたところで、有楽町へ移動。
有楽町で飲むのも久しぶり。有楽町とは高低が共存している不思議な町だ。
生(中)×3杯。山形の日本酒×3合で閉店タイム。

今日は電車で帰宅することができた。
うえのりょうぐらいが、帰宅できるリミット量であることを学ぶ。

ただし、家に帰ってからさらに飲んだので、酩酊で二日酔いです。
何やってんだがって感じですが、この夏で一番の栄養をとりました。
八月より、細君が帰省した為、節約生活を実行し(単なる食費きりつめ)、5kgほどやせました。もう少しやせて行こうと思います。

とわいえ、これから仕事なのでツライなあ。

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日常でがんばれ

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高くへ登ろうと思うなら、自分の脚を使うことだ! 高いところへは、他人によって運ばれてはならない。ひとの背中や頭に乗ってはならない!
    --ニーチェ(氷上英広訳)『ツァラトゥストラはこう言った(下)』(岩波文庫、1970年)。

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例の如く“永劫回帰(ewig wiederkehren)”が続く毎日です。
これは、一面では、誤読された意味合いなのですが、日常の連続という側面と、面目躍如としての日々の新たな価値創造という意味合いでよろしいかと思います。

人間はこうしよう、ああしようと、考え、そして実行(もしくは挫折)しながら、毎日の生活をおくっております。

その営みは、営みの主体者自身が振り返ってみた場合でも、また他者がそれを観察・評価した場合でも、ぐだぐだの繰り返しじゃあねえかって評価が下ることがしばしばあります。

それは自分も同じです。

しかし、人間は、永遠にぐだぐだを繰り返すこともある一面ではできないのです。そこが不思議なところです。

一挙手一投足としてはおなじ動きであったとしても、そうでない場合がしばしば存在する。それが、人間が価値創造するという営みではないかと思われる。

価値とは外部から与えられ、存在するあり方ではない。
自己がそれに意味を意味を見出す存在であり、そこに価値が現出する。

自分自身を含め、そうしたなかで七転八倒されているひとへ、その歩みを無意味なものだとあきらめないでほしい。そう思う昨今です。

ひとはその営みが、自分にとって無益に思われる、あきらめざるを得ない状況だと当人が実感してしまうっていう状況である場合でも、それは他者的なあり方ではないし、「他人によって運ばれて」いる状態ではないようにすることができる。

それが営みに、動きとしては同じであったとしても、価値を見出すができるのが人間という存在のあり方だ。

自分の営みを無意味なものだと思うこと勿れ。
それが今の実感です。

ちと感情的な雑文ですいません。
安ワインで泥酔して寝ます。

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ツァラトゥストラはこう言った 下 岩波文庫 青639-3 Book ツァラトゥストラはこう言った 下 岩波文庫 青639-3

著者:ニーチェ
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千のレコード、万のCDよりも一つの生の歌声

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 踏み切りに近づくと、ちょうど列車がさしかかったところだった。間に合った、先頭の機関車から最後尾の車掌車まで、全部見られる--。ユリシーズは機関士に手を振ったが、機関士は手を振り返してくれなかった。五人のただ乗りの男たちにも手を振ったが、応えてくれてもよさそうなのに、やはり誰もが知らん顔である。やがて、屋根のない貨車から身を乗り出す黒人の男の姿が近付いてきた。列車の轟音を越えて、男の歌う歌が聞こえた。

 ああわが君、しのびたまえ。
 いざ歌わん、別れの節を
 さらばケンタッキーの家よ。 (津川圭一訳詞)

 ユリシーズは歌声の主にも手を振った。すると、予期しなかった不思議なことが起きた。ほかのただ乗り男たちはユリシーズを無視したのに、彼らとは肌の色の違うこの浮浪者が、手を振り返してくれたのだ。「坊や、俺は家に帰るんだよ、故郷(くに)に帰るんだ!」と叫びながら。
 少年と黒人の男は、見えなくなるまで手を振り合った。
    --ウイリアム・サローヤン(関汀子訳)『ヒューマン・コメディ』(ちくま文庫、1993年)。

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日曜日の夜--。
市井の職場の仕事があるのだが、実は本日、大切なソロ・ライブが控えていた。
大親友というか--親友というには年の差がありすぎるので--大後輩といったほうがよいか、Nさんのソロ・ライブの日である。もともと自分の職場で働いていたバイト君なのだが、3月に専門学校を卒業し、自分の道を歩んでいる。

基本的には、バンド活動(?)になるのだが、本日は本人ひとりでのソロ・ライブだ。どうしても休みがとれず当日となったが、課長に相談し、早退させてもらおうかと思い話したのだが、店長との飲み会があるため困難とのこと--ガクッ。

行かないわけにはいかない--ので、自分の休憩中に、「外食してきます」との理由で、中抜けさせてもらい、一瞬だが、かけつけ参加・鑑賞させてもらう。

ライブハウスというよりも、20名も入れば満席といったふうなジャズバーといった呼び名が正しいような、ライブカフェ。扉をくぐると、ちょうど一部が終了した時点でのintermission。ソロの当人N君の御母堂も来られていたようで、挨拶される。

懐かしい顔の面々(彼らも既に退職したバイト君たち)を発見し、しばし懇談。

「宇治家さん! 仕事中ですよねえ、飲んだらだめですよ」
「オレが飲むの期待してんだろ~」
「図星です」
※あるこーるは全く飲みませんでした。蛇の生殺しです!

とか、やっていると、2部がスタートする。
1部を見ていないのでわからないが、2部は、ソロの弾き語りといよりも、バンド編成でのソウルフルな熱唱(ベースとドラムの女の子はマスターが今日のライブのために手配してくれたようです)。前から聞いていましたが、今日はオリジナルよりも、名曲に絞ったような選曲。なので、聞いていても乗ってくる。

1曲だけ聴いて、タイムアウト。
職場に戻らねばならないので、そおっーと抜け出す。
彼のお母さんが挨拶に来る。

さて実感。

まずいえることは、巧かろうが下手であろうが、千のレコード、万のCDよりも、生演奏がいいってこと。もちろん趣味の問題もあるが、迫力と熱と汗が伝わってくる。

そして高評(?)。

以前に一度、当人の弾き語りを聞いたことがあるのだが、歌唱力・技術力では、正直、まだまだなところがある。それは一番本人が理解している。それは当人が奮闘修行するその分野である。しかし、今回発見したのは、そういったテクニカルな問題ではない。

すなわち--
①歌っている本人が、“どうしようもないほどに”音楽が大好きだ!ってこと。
②(そして)歌っている自分に酔うのではなく、歌っている自分も音楽を楽しみながら、そしてお客様にも楽しんでもらうっていう無作為なあり方(聞き手に媚をうるとかそういうのではなく、一緒に音楽楽しもうぜ!っていうのがびんびん伝わってきました)。

そこが彼の音楽の彼の音楽性というか等身大の人間性ということなのだろう。1曲しか聴くことはできなかったが、いいひと時であった。

そして--。

終了後、隣に座っていて、聞いていた知り合いからメールがはいる。

「宇治家参去さん、いつの間にいなくなったんですか? 仕事へ戻るのは分かっていましたが--」

彼の音楽の強さがそこにある。

それとなく自分としては抜け出したつもりなのだが、それに気づかないほど、聴衆は、熱心に聴いていたことだろう。

課題は沢山あることだと思う。
だけど、それをこなして奮闘してほしい。
宇治家参去には、音楽の道では使命はない。
だけど、自分の道を着実歩んでいく営みを無益だとせず、大地のうえで、開かれたあり方として、その歩みを続けいくのが大切だと実感した。

ライブ・カフェを後にして、職場に速攻で戻る。
席を外して、ものの30分でしたが、クレームなどなにも問題事なく一安心(その日の“大人”が自分しかいなかったもので)。

うえには、サローヤン(William Saroyan,1908-1981、※ちなみに宇治家参去が最初に通しで英文(原文)で読んだ小説がこの「ヒューマン・コメディです!)の『ヒューマン・コメディ』を引用しましたが、まさにヒューマン・コメディのような30分でした。

手を振れば、振り替えす--そうした人間の“あいたい(相対)する”起爆力が生の音楽にはあるのかもしれません。

いうまでもないことですが、

ガンバレ!

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The Human Comedy Book The Human Comedy

著者:William Saroyan
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その思想に言表的生命を与え、その思想をして我國に於て郷土的発展をなさしめることでなければならぬ

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 他の國語にて物せられた思想家の書を謂み、深く之を理解するには、先づその國語に通ぜざるべからざるは云ふまでもない。まして我國の今日、フィヒテの哲学を理解し得る程のものの独逸語を解せざるものも少かるべきにと云はれるかも知れない。併し大思想家かの書を我國語に訳することは、単に他國語を知らざるものをしてその思想を理解せしめるのみでなく、我國語をしてその思想家の思想を語らしめることによつて、その思想に言表的生命を与え、その思想をして我國に於て郷土的発展をなさしめることでなければならぬ。言語と思想とは離すべからざる内面的関係を有つて居る、生きた思想は自らそれ自身の表現を生み出さねばならぬ、生きた表現は自らそれ自身の思想を生み出さねばならぬ。フィヒテを我國語に訳することは、フィヒテに我國語的生命を与えることによつて、我國に於てフィヒテ的思想を生み出すに資することでなければならぬ。フィヒテの訳はフィヒテを日本的に歪めるかも知れない。併しそれは一方から見れば却つてフィヒテを郷土化することでなければならない。
 私は常に思ふ。我々の心の奥底から出た我國の思想界が構成せられるには、徒らに他國の新なる発展の跡を追ふことなく、我々は先づそれ等の思想の源泉となる大なる思想家の思想に沈潜して見なければならぬ、そしてその中から生きて出なければならぬ。フィヒテの哲学の如きはかゝる意味に於て何人も一たび之に沈潜して見なければならないものではなかろうか。希臘哲学の深さ大さに比すべき深く大なる独逸理想主義の哲学の出立点をなしたものはフィヒテそのひとでなければならない。独逸理想主義の哲学の核をなすガイストは実に独逸化せられたイデヤである、而してヘーゲルによつてその発展の極致に達したガイストの哲学はその源をフィヒテに発したと云ひ得るであらう。希くば、かゝる訳書によつてフィヒテの哲学が我國に移植せられ、我國の文化に培はれて新なる意義と生命とを得来らんことを。若し私自身のことを一言するを許されるならば、嘗てベルグソンの如き立場とリッケルトの如き立場との統一に苦心した私は、それをフィヒテの事行に求めた。数年前までは、私は尚フィヒテの旗印の下に立つてゐたものと云つてよい。今日といへどもフィヒテを離れたのではないが、唯フィヒテの事行的発展の背後にプロチノスのそれに類する自己自身を見るものを求め、かかる立場からフィヒテの事行的発展の思想をも包容したいと思ふのである。

 昭和五年三月        西田幾多郎
    --西田幾多郎「序」、フィヒテ(木村素衛訳)『全知識学の基礎 上巻』(岩波文庫、1949年)。

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教養(Bildung)ってものがひとつの文化的エートスとして整備されるのは19世紀後半のことなのだが、それが整備されたとたん、実は当初目指していた幅広い人格形成の一助となる理想が失われ、教養層と非教養層を分断する契機として作動したのが、人間のあゆみである。ドイツでは、教養をもった人物という存在ないしはグループが、官僚層および知識人階級を独占し、教養を排除の構造として形成し、新興市民(ブルーカラーから技術系官僚・科学者・商人)を一段低い存在としてつきはなし、結句はナチズムへの合流へとつながる、暗い歴史をもっている。

教養とは、本来的には、うえにも書いたように、まさに幅広い人格を形成し、所属や信条に左右されない、市井の知の巨人としてあり方を提示したはずなのに、結局は、門地や信条に左右されるひとつの契機として機能したことは、まことに悲しい歴史である。この問題は後日論じようと思うのだが、そういう教養概念を準備した人物のひとりが、「ドイツ国民に告ぐ」の演説で有名なドイツ観念論の大家のフィヒテ(Johann Gottlieb Fichte,1762-1814)である。今日はそうした経緯を追跡するためにフィヒテの著作を紐解く(……んな時間があるなら専門研究の時間に当てなさいとの声も聞こえてきそうだがお許しあれ)。

さて、そのことを論じる前に、耳朶に染み付いて離れなくなってしまったのが、上に紹介した邦訳文献に対する西田幾多郎(1870-1945)の序文である。

そこを読み始めると、本論へ入る前に脱線する。

先日、中村元博士の「奴隷の学問」論を紹介したが、西田の議論は奴隷を避ける、内発化の試みのひとつとしての、それを文化内開花ないしは文化内受肉(incarnation)と呼ばれる方向性を提示しているからである。

西田がいみじくも指摘している通り、異文化の思想・宗教をその意味において理解するためには、確かに、その言語に精通することが一番である。しかし、「我國語をしてその思想家の思想を語らしめることによつて、その思想に言表的生命を与え、その思想をして我國に於て郷土的発展をなさしめることでなければならぬ」のも事実である。それが翻訳であり、文化内開花ないしは文化内受肉の営みである。

しかし、そこが難しい。

日本的フィヒテなんては必要ない。
必要なのは、フィヒテを日本の言語が理解し、その営みを提示することである。それこそが、「我國語をしてその思想家の思想を語らしめることによつて、その思想に言表的生命を与え、その思想をして我國に於て郷土的発展をなさしめること」。

かつて戦前において、思想の世界ではないが、キリスト教の世界においては、「日本的基督教」の主張がさけばれた。日本におけるキリスト教の受容を振り返ると、歴史的なキーワードとして抽出するなら、切支丹、洋教、基督教……それが日本人の一般的なキリスト教理解である。一番目は邪教としてのキリスト教であり、二番目は文明開化の宗教としてのそれであり、三番目は、市民権を得たけれども、どこか東洋世界においてはよそよそおさしさののこるそれである。

そのなかで提示された一つの方向性が「日本的基督教」である。
端折っていうならば、日本における神概念(国家神道)とキリスト教における神概念の一致である。これは、「その思想に言表的生命を与え、その思想をして我國に於て郷土的発展をなさしめること」あり方とはまったくかけ離れたあり方であろう。キリスト教としての独自性のあり方を全く払拭して、誤受容したあり方である。
戦後、こうしたあり方は批判され、メインストリームとしては語られなくなるが、まだ、輸入教のほうが無害でよいかもしれない。

しかし、文化における、独自性の発揮は、そうした体制への擦り寄りでない、独自の開花・受肉があるはずだ。

キリスト教においては、それが一つのあり方として提示されたのが内村鑑三(1861-1930)の歩みである。内村はあえて現世の組織制度としての日本という共同体を撃つとともに、西洋の借り物としての、そして輸入品としてのそれを拒絶する中で、ひとつの道を提示した。それが無教会主義であり、「ふたつのJ(JesusとJapan)」である。内村のあゆんだ営みには、神道的な「日本的基督教」と異なる歩み方でもある。

さて話がそれたが、西田の序文を読みながらそのことをつくづく実感する。中村元のいう輸入品の紹介に終始する「奴隷の学問」としてあり方も避けなければならないが、あやまった受容も避けなければならない。

そのためにも必要なのが、通俗的だが、ひとつは公定史の学習と、その内在的理解(生きている生活の中での反芻)であろう。その生きている現場とは、国家ではない。いきているその人自身の……ふるい言い方ですが……郷土なのでしょう。

そのアンビバレントな状況の中で、学び、反芻する必要が必要不可欠なのでしょう。

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言語と思想とは離すべからざる内面的関係を有つて居る、生きた思想は自らそれ自身の表現を生み出さねばならぬ、生きた表現は自らそれ自身の思想を生み出さねばならぬ。フィヒテを我國語に訳することは、フィヒテに我國語的生命を与えることによつて、我國に於てフィヒテ的思想を生み出すに資することでなければならぬ。フィヒテの訳はフィヒテを日本的に歪めるかも知れない。併しそれは一方から見れば却つてフィヒテを郷土化することでなければならない。

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興味深いのは、西田がどこまでも“日本化”とは言っていないことである。“郷土化”である。郷土にこめた言葉とは、擬似的創造の共同体としての国家に対する愛着ないしは公定化ではなく、そのひとが生きている現場で創出する創造的思想性のあり方なのではなかろうかと思われる。

そうしたあり方を考えていかないといかないなと思うのですが、ぼちぼち、冷やしトマトと酒ですこしまわってきたので、今日はこのあたりで。

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「きょうも、暑うなるぞ」

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 おそらく『東京物語』は、そのほとんどが快晴の空の下に展開される小津のモノクロームの作品系列の中でも、暑さの印象をとりわけみごとに定着しえた作品だろう。感動的なのは、その一貫した暑さなのだ。日本的な季節感からすれば、こんなときに一雨降ってくれればなどとつぶやきたくなろうというものなのに、ここでの作中人物たちは、誰ひとりとしてそんなことなど思っても見ず、ひたすら暑さと晴天とをうけ入れているかにみえる。妻を失ったばかりの笠智衆が高みから尾道の港を見おろしながら、「きょうも、暑うなるぞ」と口にするとき、彼は、まるでそのことを祝福しているかのようだ。あるいは。自分が小津的な世界を見失っていないことを実感し、ふと安堵しているようだといってもよい。『秋日和』で何度も思い出話として言及されている原節子の夫の葬儀の日のように、『東京物語』の東山千栄子の死んだ日も、その厳しい暑さ故に記憶されるだろう。『小早川家の秋』で中村鴈治郎が死ぬのも、秋とはいえ、そうした暑い一日になることだろう。老人たちは、例外もなく快晴の日に息を引きとる。『東京物語』は、その好天と高温とを白黒画面に定着しえたが故に、とりわけ重要な作品なのだ。その後の色彩映画には、もはやこの鈍く乾いた画面の輝きはない。
 だがそれにしても、仰角で空を見あげる画面が多く含まれいるわけでもないのに、この作品ほど陽光のまばゆさを残酷に実現した作品もあるまい。これをみながら、われわれは、小津が陰影の作家ではなく、白昼の鮮明さに貫かれた作家であったことに、改めて感動する。もちろん、夜がまったく描かれていないわけではないし、初期の犯罪映画には闇が生なましく息づいていることさえあるのだが、にもかかわらず、小津はあくまで白昼の作家だというべきであり、澄みきった空から、一滴の雨も落ちてこないことにこそ感動すべきなのである。小津が白昼の作家であるが故に、不意に雨が降ったり、夜の湿りけが寒さとともに迫ってくるような作品がまた感動的になるのだ。
    --蓮實重彦『監督 小津安二郎』(ちくま学芸文庫、1992年)。

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昨日は休みでしたが、家事に追われる一日に明け暮れる。
その日、東京では猛暑日を記録したといわれるが、誰に言われなくとも暑い一日であった。布団を干して洗濯機をまわし、雑事を片づけるだけで汗が出てくる。

何度も風呂に入り汗を流すわけですが、それでも疲れます。

夜は豪華に自作の回鍋肉です。

さておもえば、小津作品の登場人物ではありませんでしたが、不思議なもので、少年時代は、夏の暑さを暑いと思うことがあまりなかったようである。自分の子供をみていてもそうなのだが、確かに汗をかき、アイスを食べ、冷たい飲み物を欲しますが、どうも見ているとクーラーがなくても生きてはいけるような生きものとして存在している。

そういうのを見るにつけ、ひとはいつから暑さを暑さとして認識するようになるのか、ふと考えてしまう今日このごろです。

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ここでの作中人物たちは、誰ひとりとしてそんなことなど思っても見ず、ひたすら暑さと晴天とをうけ入れているかにみえる。妻を失ったばかりの笠智衆が高みから尾道の港を見おろしながら、「きょうも、暑うなるぞ」と口にするとき、彼は、まるでそのことを祝福しているかのようだ。

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実に、大人が「きょうも、暑うなるぞ」と口にしても、少年少女は、「まるでそのことを祝福」しているのです。現在の宇治家参去としては、暑さを祝福するほどの人間としての厚さの幅はまったく持ち合わせていませんので、「きょうも、暑うなるぞ」といわれると、「堪りません」と答えるほかない。

池波氏もどこかで、若い頃は、「夏の暑さ」は平気だったと語っているが、年を重ねるにつれ、「耐え難い」ものになってきたと吐露している。

猛暑・熱帯夜が続きますが、皆様方ご自愛専一心よりお祈り申しあげます。

で……。
昨日、ひとつ、家事を忘れていたので、今朝行う。
金魚の水槽の水替えである。
水槽を洗い、新しく、すこし冷たい水をいれてやると喜んでいるようである。

自分もこれからもう一風呂浴びてから、仕事へ向かおうかと思います。

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たらしめる努力、人間の関与

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かつて仏教学の大碩学・中村元博士(1912-1999)は、日本における学問受容の歴史--特に哲学や宗教学の分野の--を振る返りながら、そのあり方を「奴隷の学問」として批判した。すなわち、明治以来のそれは、単なる受け売りにほかならず、自らその学を吟味せず、解説のみに専念してきたとのことである。だから、結局は西洋で流行っている哲学・思潮がつぎつぎと輸入され、その流行が廃ると、次のムーブメントがまたそ知らぬ顔で紹介されてゆく。また、その断絶と連続の検討や意義の確認が行われないから、つぎつぎと吟味の伴わない流行の紹介が続いていくというものである。自戒をこめながら、日々学問と向かいあう中で、「奴隷の学問」とならぬように取り組みたいものである。

さて、大正時代から昭和戦前期にかけて、ひとつ流行ったのが、新カント派の哲学である。戦前はよく読まれたようですが、最近ではあまり一部の専門家を除き、本邦の読書空間では顧みられなくなった一群の潮流である。

ハインリヒ・リッケルト(Heinrich John Rickert,1863-1936)もその一人である。新カント派のなかにおける西南ドイツ学派に属した哲学者で、価値哲学を説き、自然科学に対して、学としての文化科学を整備した。

対象の認識とは、素朴な自然科学でいうような価値が全く関与しないということはあり得ない。だからリッケルトは、対象の認識するという判断の際に、必ず価値が働くことを発見する。リッケルトにとって認識とは、雑多な現実世界の中から、知ることに値するものだけを選択して把握する行為なのである。この人間の行為こそ、価値判断に他ならない。

マックス・ヴェーバーの説く、価値自由を髣髴させる議論であり、素朴な認識論として退けることも簡単だが、リッケルトの価値をめぐる議論を紐解いてみると、いまだその骨格は魅力を失っていないように思われる。

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 自然と文化なる語は一義的でない、殊に自然の概念は常に、これと対立せしめられる概念によつて初めて詳細に規定せられる。今の場合、もし我々が先づ第一に言葉の意味にたよるならば、恣意らしい外見は最もよく避けられるであらう。即ち、自由に大地から生ずるのは、NaturProdukt(自然産物)であり、人間が耕作播種したときに田畑の産するのはKulturprodukt(文化産物)である。これに従へば、自然はひとりでに発生したもの・「生まれたもの」およびおのれ自らの「成長」に任せられたものの総体である。文化は、価値を認められたもろもろの目的に従つて行動する人間によつて直接に生産されたもの、或ひは(もしそれがすでに存在してゐるならば)少なくともそれに附着せる価値のゆゑにわざわざ養護されたものとして、自然に対立する。
 我々がたとひ此の対立をおよそ欲する限りどこまで拡げて行かうとも、常にこれと必然的に関連することは、一切の文化事象には何か或る(人間によって承認された)価値が具体化されてゐるので、そのためにそれは生み出されるか、或ひは(それが既に発生してゐるときには)養護されるのであるが、ひとりで発生し成長したものは総べて価値にかまはず考察され得るし、もしそれが真に上述の意
味での自然にほかならないものなら、実際さうされなければならぬといふことである。
 文化客体にはかやうにいつも価値が附着している。そこで我々は文化客体を財と呼び、かく呼ぶことによつて同時にそれを価値に充ちた現実として、価値そのものから区別しようと思う。価値そのものはそれだけとして観れば何ら実在のものではなく、ひとはそれを抜きにして考へることもできる。科学は自然客体を財としてではなく、価値との関係を離れたものとして考へるが、もし頭の中で文化
客体からあらゆる価値を剥がしてしまへば、文化客体も単なる自然となる、或ひは科学的には自然客体同様に取扱ひ得ると言つて差支へない。だから、価値への関係がそこに有るか無いかによつて、我々は安んじて諸科学の客体を二種に分けることができるのであるが、あらゆる実在的文化事象はそれに附着せる価値を抜きにして考へるときは、いずれにも自然と関連のあるものと看做され、次いでは
自然とさへ看做され得る筈であるから、我々は此処では方法論のために、ただ価値への関係の有無といふことによつてのみそれを分けることにする。価値関係といふことがどの程度まで歴史的諸文化科学の論理的構造に対して決定的な事であるかは、後に示されるであらう。
    --リッケルト(佐竹哲雄・豊川昇訳)『文化科学と自然科学』(岩波
文庫、1939年)。

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冷静に考えれば、納得できる議論であるが、こうした素朴な実感を確かな言葉に置き換えてゆくリッケルトの議論は鮮やかである。新カント派は、認識論にこだわった学派だから、こうした人間世界を確かな言葉に置き換えてゆくことが可能であったのだろうか。

さて--
価値への関係は、人間の関与が必ずそこに存在しない限り、「価値あるもの」にはならない。そこに人間の文化、そして財が立ち上がるという筋道だが、確かに、価値を価値たらしめるのは人間の存在であることだけは実感できる。ともすると、生活のなかで、なにか自分とは離れたところに価値を見出したり、意義付けしたりすることがあるが(それはそれで大切な契機なのかもしれないが)、それだけではない。自分がその対象と向かいあい、価値あるもの足らしめる努力のなかに、そこに価値が見出され、価値あるものや、幸せが見出されるものなのであろう。

おもえば、暴力と鮮血の臭う現代世界ではあるが、生命の尊厳といっても、それがどこか自分と遠い世界に存在する作業仮説の理念とか理論と捕らえてしまうと、それは、ひとつの対抗的な価値として機能することは不可能なのであろう。

自分自身が、その理念や考え方なりを、価値あるものたらしめる努力の営みのなかにこそ、真実の歩みがあるのではなかろうかと思われて他ならないある日の宇治家参去です。

いいかげん毎日暑くてだるだるなので、今日はカンフル剤的にあつあつのてんぷらそばで、暑さを飛ばしてみようと思ったのですが、汗だらだらです。

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【覚え書】「原爆開発計画に参加した女性科学者」、『毎日新聞』(2008年8月6日(水)付)。

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ちょゐと新聞を読んでいると気になる記事があったので、覚え書として紹介しておきます。

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原爆開発計画に参加した女性科学者

◇初めて見た広島 「ひどい」絶句
 米国による第二次大戦中の原爆開発計画に携わった女性科学者、ジョアン・ヒントンさん(86)が初来日し5日、広島を訪れた。数万人の命を一瞬で奪った科学に絶望して米国を離れ、中国へ渡って60年。科学者であることを捨て、酪農に従事したが、苦悩がなくなることはなかった。「自分がつくったものがどんな結果をもたらすか。それを考えず、純粋な科学者であったことに罪を感じている」。しょく罪の意識から、広島訪問をかねて望んでいた。【平川哲也、黒岩揺光】

 「オーフル(awful、ひどい)……」。5日午後、原爆ドーム。ヒントンさんは鉄骨がむき出しの最上部を仰いだ。ドーム脇の英語の説明文を一語一語かみしめるように読んだ。
 「私はただ、実験の成功に興奮した科学者に過ぎなかった」
 1945年7月16日、米国南西部のロスアラモス近郊。立ち上がる人類初の核実験のきのこ雲に、ヒントンさんは胸を躍らせた。原爆を巡るドイツやソ連との開発競争に打ち勝つため、42年に米国が始めた「マンハッタン計画」。最大時で12万9000人を動員した原爆開発が結実した瞬間だった。

◇「使われないと考えていた」
 「科学を信じていた」。大学で物理学を専攻した21歳のころ、放射線の観測装置を完成させた才女は44年春、請われるまま同計画に参加した。
 ヒントンさんはプルトニウム精製を担い、全資料閲覧と全研究施設立ち入りを許可される「ホワイト・バッジ」を与えられた。約100人しかいなかったという。核実験の2カ月前にドイツは無条件降伏しており「研究目的の原爆開発であり、使われないと考えていた」。
 しかし8月6日。広島上空で原爆がさく裂する。新聞で原爆投下を知ったヒントンさんは声を失った。「知らなかった。本当に知らなかったの」と、まゆをひそめて話した。

◇反核運動に参加 中国に渡り酪農
 戦後は核兵器の使用に反対する動きに加わった。48年、内線が続く中国・上海に渡った。内モンゴルに移住し酪農を営んだ。消えた足跡に、米国の雑誌は「原爆スパイ」と書き立てた。健在が知られたのは51年、全米科学者連盟にあてた手紙が中国の英字紙で報じられたからだ。それにはこうあった。
 <ヒロシマの記憶--15万の命。一人一人の生活、思い、夢や希望、失敗、ぜんぶ吹き飛んでしまった。そして私はこの手でその爆弾にふれたのだ>
 あの朝から63年。今なお後遺症に苦しむ人がいる。今なお米国を憎む人がいる。「なんと言えばいいか……」。ヒントンさんは絶句し、宙を仰いだ。
    --「原爆開発計画に参加した女性科学者」、『毎日新聞』(2008年8月6日(水)付)。

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無力なユマニスムの実力?

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 ユマニストの王者と言われるオランダ生まれの神学者デシデリウス・エラスムスは、<<キリスト教の復元>>ということを申しまして、その生涯の仕事をこれに沿って発展させましたし、その影響は、全ヨーロッパのユマニスムの発展と成長とにあずかって力がありました。このエラスムスは中世伝来のキリスト教会の制度および指導法が、人間を著しく歪めていることを感じ、キリスト教本来の面目への復帰を熱望していたのでした。エラスムスは、それまでの聖書解釈の誤謬を指摘したり、容赦なくキリスト教会の制度の欠陥や聖職者たちの行動を批判しましたので、カトリック教会中の頑迷な人々からは白眼視されるようになりました。そして、エラスムスよりもやや遅れてこの世に生まれ、公然とカトリック教会に反旗をひるがえしてプロテスタントの教会の礎を築き、ルネサンス時代の最も重要な運動のひとつである宗教改革の祖となったマルチン・ルッターの同類と見なされて、「エラスムスが卵を産み、ルターがこれを孵(かえ)した」とまで、エラスムスは罵られていました。エラスムスとしては、あくまでもカトリック教徒として、カトリックの司祭として、キリスト教の歪みを匡(ただ)そうとしただけなのです。しかし、宗教改革運動の初期において、エラスムスを首領とし、その主張に賛成するユマニストたちと、プロテスタント(新教徒)とが、手を握っていたような感じを与えたのも無理ならぬことでした。ともに、それまでのカトリック教会への批判を行ったからです。しかし、エラスムスは、人間を歪めるものを正しくしようとしたのに対し、ルッターは、人間を歪めるものを一挙に抹殺打倒しようとしたのでした。、前者は、終始一貫、批判し慰撫し解明し通すだけですが、後者は、批判し怒号し格闘して、敵を倒そうとしたのです。ルッターの出発点には、「エラスムスが産んだ卵を孵した」と言われるくらい、ユマニスムに近いものがあったに違いありませんが、キリストの心に帰るために、同じキリストの名を掲げて、意見の違うキリスト教徒(この場合は旧教徒)と闘争するという行動に出て、ヨーロッパに幾多の非キリスト教徒的な暴状を誘発するような事態を作ってしまいました。
(中略)
 ユマニストは、批判するだけで、現実を変える力を持ち合わせないし、ユマニスムというものは、所詮無力なものだなどと言われます。しかし、終始一貫批判し通すことは、決して生やさしいことではありませんし、現実を構成する人間の是正、制度の端正を着実に行うことは、現実を性急に変えようとしてさまざまな利害関係(階級問題・政治問題)と結びつき、現実変革の方法に闘争的暴力を導入して多くの人々を苦しめることよりも、はるかにむつかしいことだと思います。わたしのいうユマニスムは、一見無力に見えましょうが、一見無力に見えましょうが、決して無力ではないはずです。ルネサンス期にお互いに血を流し合った新旧両教会の対立は、現在でも残っているとは言えますが、それは、単なる競技場の対立であって、現在、新教徒(プロテスタント)と旧教徒(カトリック)とが鉄砲を撃ち合って殺し合うというような対立ではなくなっています。人々は、同じキリストの名のもとで、キリスト教徒がお互いに殺し合うことがいかに愚劣であるかということを知っているからです。そして、こうした愚劣さや非キリスト教徒的な行為や非人間的な激情をおさえる力に自覚を与えてくれたものは、ユマニスムの隠れた、地味な働きにほかなりますまい。現在、人々は、宗教問題で戦争を起こすことはしない代わりに、経済問題・思想問題で戦争を起こしかねません。しかし、もしユマニスムが今なお生き続けているとするならば、必ずいつか、人々は、こうした諸問題のために争うことも愚劣だと観ずることでしょう。経済も政治も思想も、人間が正しく幸福に生きられるようにするためにあるという根本義を、必ず人々は悟ることでしょう。ユマニスムは無力のように見えてもよいのです。ただ、我々が、この無力なユマニスムが行い続ける批判を常に受け入れ、この無力なユマニスムを圧殺せずに、守り通す努力をしたほうが、殺し合って、力の強い者だけが生き残るというジャングルの掟を守ろうとするよりも、はるかにむつかしいにしても、はるかにとくだということは確かなように思います。
    --渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』(岩波文庫、1992年)。

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作家・大江健三郎が師匠と仰いだ渡辺一夫(1901-1975)の一節から。

昨日呑みすぎて、若干調子が悪かったのですが、夕方に短大の成績をつけてから……授業をやるより実は成績をつけるのが一番困難な営みである……、日本のユマニストと称された渡辺一夫の書物を紐解く。

読みながら、涙が溢れ出す。
常々、自分の営み(学問)が、無益な徒労のように思われ、真理を探究しているのではなく、ただ“学問に淫している”のではと感じる部分がしばしばあるが、「そうではないよ」と、渡辺の文章に励ましをうける。

学問を“商売”としている自分自身の営み……すなわち、「人間とは何か」という問いを時折、反省するなかで、まさに自分自身を反省するのだが、つくづつ、その無力感をつきつけられてほかならない昨今です。

さて……
ユマニスムとは、現代的な意味でいうならば、「ヒューマニズム」すなわち「人間主義」のことである。ヒューマニズムは、ラテン語の「フマニタス(humanitas)」由来するが、このフマニタスとは、「人間的なもの」との意味である。

人間主義とは、確かに、極論すれば、「人間に関する」「イデオロギー」である。だからそこには理念があり、範型がある。ただし、そこまで現実の人間はついていっていないし、むしろそれを“喰いもの”にしているのが現状であろう。前者に関して言えば、理念が先行してしまうとプロクルテスのベットとして人間に対峙してしまうし、後者に困泥すれば、自らの存在を内崩させる師子身中の虫となってしまう。固定的な概念がまったく通用しない世界だけに、ひとは手探りで、極端な狂いを避けながら、理想を仰ぎ見つつ、現実を歩んでいくしかない。そこにしか人間は存在しないである。

まさに「寛容と狂信」のあいだで、人間概念を所与のものとせず、自分自身で構築するほかないのである。

ルッターの義侠心もわからなくもない。
不正に対する異議申し立ては、まさに異議申し立てである。
しかし、敵にも見方にも人間存在を見なくなってしまうと、それはもうひとつの狂信の提示になってしまう。
このことはルッターに限られた問題ではない。
自分自身を正義の安全地帯に置かないように常に心がけるしかない。
哲学者ヘーゲルは、「理念的なるものはつねに現実に内在する」と語ったそうだが、現実の苦闘の中で理念を鍛え、それを目指す自己自身であるしかない。理念は現実を離れて存在してしまうとまったく意味がないし、現実は理念の緊張的な批判がない限り、善へと漸進することはできない。

“ジャングルの掟”から卒業し、“無力なユマニスム”を選択するしか人間の未来は存在しないのではないかと思われて他ならない。

感傷的な今日この頃です。

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永遠の相のもとに

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 定理四一 たとえ我々が我々の精神の永遠であることを知らないにしても、我々はやはり道義心および宗教心を、一般的に言えば我々が第四部において勇気および寛仁に属するものとして示したすべての事柄を、何より重要なものと見なすであろう。
 証明 徳の、あるいは正しい生活法の、第一にして唯一の基礎は、自己の利益を求めることである(第四部定理二二系および定理二四により)。しかし理性が何を有益として命ずるかを決定するのに我々は精神の永遠性ということには何の考慮も払わなかった。精神の永遠性ということを、我々はこの第五部においてはじめて識ったのである。このようにして、あの当時はまだ精神の永遠であることを知らなかったけれども、我々はそれでも、勇気と寛仁に属するものとして示した事柄を何よりも重要なものと見なした。だからたとえ我々が今なおそのことを知らないとしても、我々はやはり、理性のそうした命令を重要なものと見なすであろう。Q・E・D・
 備考 民衆の一般の信念はこれと異なるように見える。なぜならたいていの人々は快楽に耽りうる限りにおいて自由であると思い、神の法則の命令に従って生活するように拘束される限りにおいて自己の権利を放棄するものと信じているように見えるからである。そこで彼らは道義心と宗教心を、一般的に言えば精神の強さに帰せられるすべての事柄を、負担であると信じ、死後にはこの負担から逃れて、彼らの隷属--つまり彼等の道義心と宗教心--に対して報酬を受けることを希望している。だがこの希望によるばかりでなりでなく、特にまた死後に恐るべき責苦をもって罰せられるという恐怖によって、彼らは、その微力とその無能な精神との許す限り、神の法則の命令に従って生活するように導かれている。もしこの希望と恐怖とが人間にそなわらなかったら、そして反対に、精神は身体とともに消滅し、道義心の負担のもとに仆(たお)れた不幸な人々にとって未来の生活が存しないと信ぜられるのであったら、彼らはその本来の考え方に立ちもどってすべてを官能欲によって律し、自分自身によりむしろ運命に服従しようと欲するであろう。こうしたことは、人が良い食料によっても身体を永遠に保ちうるとは信じないがゆえに、むしろ毒や致命的な食物を飽食しようと欲したり、精神を永遠ないし不死でないと見るがゆえに、むしろ正気を失い理性なしに生活しようと欲したりする(これらのことはほとんど検討に価しないほど不条理なことである)のにも劣らない不条理なことであると私には思われる。
    --スピノザ(畠中尚志訳)『エチカ (下)』(岩波文庫、1975年)。

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大雨のため、本日は比較的、来客者が少なく、今日は比較的楽といいますか、余裕をもって仕事をさせて頂いた。20時過ぎに休憩に入ったが、この休憩時間がたいせつな学びのひとときである。

今日は、久しぶりにスピノザ(Baruch De Spinoza,1632-1677)の『エチカ(倫理学)』を紐解く。ちょうど勤務校の通信教育部の夏期スクーリングの予定受講者人数の通知があったが、幣職の担当する『倫理学』は昨年とほぼ同様の100名程度。対して『哲学』は300名近くで……やはりマイナーさに、すこし忸怩たるものもあるが、御受講される皆様方よろしくお願いします。

その関連で、仕込みとして『エチカ』を読み直す。副題に「幾何学的秩序に従って論証された」とあるように、ユークリッド幾何学を髣髴させる定義・公理・定理・証明の壮大な体系となっている。ひとつの定理の証明のあとには必ずQ.E.D.との署名で終わる。これは、ラテン語で、「これが証明されるべき事柄であった」を意味するもので、まさにその体系構築への熱意と詳細な現実観察の反映をそこにみてとることができる、かっちりとした書物である。

さて……読みながら、徳のある生活とは何かとふと考えながら、個の存在とその共同体とのかかわりを考えていたわけですが、10分足らずで、内線が鳴り響く……。

いや~な予感がしたのですが、
「お客様からサービスに関する問い合わせ? ……要望かもしれません」
……って呼び出しを食らう。

携帯内線だと音声が途切れ途切れになってしまう部分があるので、固定電話に切り替え、サービスカウンターで話を伺うと、要点は次の通りである。

「いつも沢山買い物しているから、公定のサービスに幅を持たせた対応をしろ」とのことである。

うちの市井の職場はGMSになるのですが、設定された時間内(AM10:00-PM5:00)にいくら以上買うと、地域と配達件数の制限はあるのですが、当日配達できるというサービスを提供している。

設定があるので、もちろん、お住まいの地域が対象外の地域だと配達できないし、受諾件数オーバーでお受けできないこともある。ただし条件を満たせば配達料金は無料である。だからサービスである。

しかし……
受付時間を延ばせ!
明日からそういうシステムしろ!
自分は沢山買い物している(=たくさんのお金を落としている)から“ひいき”しろ!

との主張は無茶振りである。
ひとまずは、「御意見」を伺いながら、できる部分とできない部分、そしてそうした提案に関して実現可能かどうかのやりとりを繰り返し、その「御意見」の授受部分に関しては、ものの5分で案件は終了する。

専門店とか百貨店とちがい、基本的にはGMS(General merchandize store,ないしはHypermarket)は、個別のお客様に対する“特別扱い”はしないのがその存立の前提である。もちろん株主優待とかそういうものは存在するけれども。だから、どういうお客様であれ、基本的に“特別扱い”しないから、“セルフ”の対応になるし、それを理解いただいた上での価格提示となる。それが専門店とか百貨店との大きな違いである。

暴論すれば、自分だけ贔屓してもらいたいのなら、その要求は専門店とか百貨店における“お得意様”になってもらうしかない。

自分としては大嫌いな職場ではあるが、そういう意味では、“特別扱い”を許容しない「平等」原理について、種々考察させてくれる局面であり、商取引の現場に限定されえない広大な思考空間を実は提示させている。自分自身が、極論すれば、えこ贔屓してもらうためには、自分自身に関わる他者に対してもえこ贔屓せざるを得なくなってしまう。しかし、すべてのひとにたいするえこ贔屓は不可能である。であるとすれば、自己を自己自身で制御しながら、お互いに向かい合っていくほかない。

いうまでもないが、自己を特別な代替不可能な存在とみなすならば、自己と対峙する他者をも代替不可能な存在として尊重しなければならない。そうした心根がない限り、約束事で形成されている“共同体”は存在することが不可能である。

そのことが理解できないひとびとが跋扈しつつあるのが現状だろう。だから、宇治家参去は“大声”を挙げることもしないし、“相手の非”を衒い、片手に刀を、そして片手に敵将の首をぶら下げることを潔しともしない。

さて……。
お話のお伺いとそれに対するレスポンス自体は、上述したとおり、ものの5分でクローズするが、その流れ(?)で、お客様の人生論の講義が2時間も続く。こっちは仕事がのこっているのだが終話(=切電)することもできないので、真摯に伺う。

受話器をおろしたたら2時間あまり時間が経過していた。
しかも携帯電話からのコレクトコールである。

わるいひとでもないし、話も理解できるし、こちらの状況も理解して頂いたが、なんとなくおさまりがしごく悪い。

確かにスピノザのいうとおり「徳の、あるいは正しい生活法の、第一にして唯一の基礎は、自己の利益を求めることである」。
しかしそこに「勇気と寛仁」が伴わない限り、無制約的な利への追求は自分自身をも損なう結果になりかねないと思うのだが……。

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スピノザ エチカ 倫理学〈下〉 (ワイド版岩波文庫) Book スピノザ エチカ 倫理学〈下〉 (ワイド版岩波文庫)

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自由研究はしたほうがよい

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 「なぜ?」という原因をたずねる問いについては、まず因果関係について考え、ついで目的論的な見方から、できごとやふるまいの目的をたずねる問いを取りあげた。意味や目標や意図や目的というテーマでは、道徳についての問いを立てた。これらはさらに二つの問いに分かれる。一つは、世界には道徳の規律も目的もあるとうけあってくれる造物主がいるのか、という問い、もう一つは、善についての問いだ。そしてここであきらかになったのは、善というものを厳密に定義すると、どうしてもこの世界にマイナス評価をあたえなければならなくなり、世界をつくった造物主が批判の矢面に立たされることだった。
 道徳的な理由から神を信じることができなくなったとしたら、独力で自分の幸せをきずくしかない、と人間は肝にめいじて生きなければならない。神をあてにすることも、自分の失敗を悪魔のしあわざだと言いのがれることもゆるされてはいないのだ。そうすると人間にあたえられたつとめは、自由な自己決定にもとづき、理性、ここでは道徳的理性に支えられて、自分のふるまいの掟を自分で定めることになるだろう。
    --ローラント・ジーモン・シェーファー(須田朗・鈴木仁子訳)『ベレーニケに贈る小さな哲学』(青土社、2001年)。

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短大の『哲学入門』の定期試験では、れいのごとく「貴女にとって哲学とはいかなるものか」と問うことにしている。

さまざまな、いわば「哲学観」が出てくるのだが……人生論から知への探求観に至るまで……今回、面白いなアと思う“表現”がひとつあった。

すなわち……

「哲学とは、私にとって小学校でやった夏休みの自由研究のようなものです」

とのことである。

確かになあと納得する。
自由研究だから、極論すれば、提出しなくても問題ない。
しかし、自由に自己自身が探求するからこそ意味があり、醍醐味がある。

面白表現をするものだなあと感銘する。

ソクラテスは無智の知があるからこそ、ほんとうのことを知りたいと人を思い、そこから真の知への愛としての探求が始まると語った。

アリストテレスは「哲学は驚きから始まる」と説き、対象に関して驚くからこそ、その対象が何か探求がはじまると語った。

哲学とはその意味で、個人としての人間に対峙した自由研究なのであろう。
選択してもよいし、選択しなくても生きていける。

確かに、哲学者の書いた文物は読んでいると難しくその議論は煩瑣にさえ思えるふしもあるが、その心根は自由研究の探求なのであろう。

しかし、人間としての行き方としてみた場合、どちらが、いわば“価値的”なのか。人生を無意味と思えば無意味になってしまうし、意味あるものと位置づければ意味あるものとして浮かび上がってくる。それと同じかもしれない。

これから出勤ですが、大雨でちとつらい。
しかし、探究心をわすれずに、何からでも学びたいものである。

そういえば、うえに引用した書物は、ドイツ人の哲学者(大学教授)が、自分の娘に哲学とは何かを語るというスタイルをとって、哲学の大きな見取り図を示したものである。その帯に「十二歳からでも百歳からでも」とある。

はじめようと思えばどこからでもいつからでもはじめることができるのが哲学だ。

ベレーニケに贈る小さな哲学 Book ベレーニケに贈る小さな哲学

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自分で考えてやってみ?

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自然の状態にある人間は、処理すべき障害、克服すべき困難がなければ、考えるものではない。安楽な生活、努力しなくても成功する生活というのは、考えることのない生活であろうし、したがって、全能の神の生活もそういうものなのであろう。考える人間というのは、生活が閉じ込められ締めつけられていて、目標達成の道を一直線に進むことができない人間である。窮地にありながら、行動が権威によって命ぜられている場合も、人間は考えようとしない。兵士には障害や拘束が沢山あるが、しかし、兵士である限り(アリストテレスがよく言ったように)、彼らは考える人間として名を挙げることあない。上官が彼らに代わって考えるからである。同じことは、現在の経済的条件における多くの労働者についても言える。生涯が思惟を生むのは、思惟が絶対的な出口、緊急の出口である場合に限る。解決への道と判っている場合に限る。外的な権威が支配している時は、思惟は必ず怪しまれ嫌われるものである。
    --ジョン・デューイ(清水幾太郎・清水禮子訳)『哲学の改造』(岩波文庫、1968年)。

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考えるという行為、すなわち思惟は人間存在にとってその存在を存在たらしめるうえでの確かに大切なひとつの契機であるが、これがなかなかに難しい。

デューイ(John Dewey,1859-1952)が言っている通り、やっぱり“何かないと”考えることなどないのかもしれない。兵士として動くことは可能だが、その動きにおいて考えることは全く必要ない。考え決断を下すのは将校の役割であり、兵士はその命令に忠実であればあるほど、“いい兵士”である。

さて……。
市井の職場で5月くらい入社した新しいバイト君がいるのだが、まだ、やはり、なかなか“自分で考えて行動する”という段階へステップアップするのが難しい。

出勤後、朝礼を行い作業指示を出す流れなのだが、宇治家参去自身がレジへ入っていたり、接客中であったりすると細かい指示が出せないまま作業開始となるのだが、なかなか自信を持ってひとりで動きだすということが難しいようである。
もちろん、1年近くやってきたベテランだと、何も言わずともまさに、“適当”(=適切)に仕事をし始めることができるのだが、やはり、2-3ヶ月目では、自信を持って自分ひとりで作業し始めるというのは難しいようである。

とはいえ、ぼちぼち慣れてきたようなのだが、「次何をしたらいいでしょうか?」という段階はそろそろ卒業してほしいものである。

試しに今日は、「自分で考えてやってみ?」とつき返した。
かわいそうといえば、かわいそうな“指示”であり、業務的にも、ある程度作業における優先順位がある中で、“放置”してみるのは、体制としてはきつい部分があるのだが、あえて試みた。

1時間程度、本人が考えて作業をさせてみる。
もちろん、上から指示をだして、それを組み立てさせるほうが能率もよいし、作業もはかどるのだが、それだけが仕事ではないのだろう。

店長からも
「宇治家さんは、今日はがっつりレジですよ」
……ってあり得ない通告を受けていたのですが、そのとおりとなってしまい、細かく指示をだせない部分もあったので、任せてみた。

おっかなびっくり本人も悩みながら作業をしていたようだが、なんとか形にはなってきている。もちろん、ベテラン君や細かい指示を出したうえでの作業よりは時間がかかり、能率も悪いのだが、それはそれで今日はよかったのであろう。

お互いに勉強になったようである。

人間は単純な機械ではないが、機械のように生きていくことも不可能ではない。しかし、機械のように生き続けることは不可能である。それは生きていることではないからだろう。

「安楽な生活、努力しなくても成功する生活というのは、考えることのない生活であろうし、したがって、全能の神の生活もそういうものなのであろう。考える人間というのは、生活が閉じ込められ締めつけられていて、目標達成の道を一直線に進むことができない人間である」

まさにデューイの言葉は至言である。
努力するからこそ迷う(ゲーテ)けれども、そうした試行錯誤のなかに人間が存在する。目標達成には、さまざまな困難や締めつけが待ち構えているのが人生だ。

負けずに考え、歩み続けるほかあるまい。

さて……。
先日、昨年末の地方スクーリングで受講されていた学生さんから手紙が届いていた。今年の夏期スクーリングも参加(1・2期)されるそうである。

「もし先生の御都合がよければ逢ってお話など伺いたいです」

とのことである。

ありがたいものである。
自分からすれば、自分の父母と同世代の壮年の方ですが、学び求める姿に感動する。

都合の折り返し連絡がほしいとのコトで、休憩中に電話する。
確定には至らなかったが、おおむねその日でということで、終話する。

ゲーテが次のように言っている。

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鐘が鳴ったらすぐ教室にはいるのだ。
あらかじめよく予習をして、
ほんの一章一節をよく調べておく。
するとあとで、先生が、
本に書いてあることしか何もいわぬことがよくわかる。
    --ゲーテ(相良守峯訳)『ファウスト 第一部』(岩波文庫、1958年)。

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考え研鑽するのは生徒さんだけではない。
自分自身も限りなき飛翔を目指して研鑽を継続しなくてはならない。

ただし……。
この二日、コーンフレークしか食っていないので(晩酌は別)、今日はすこし豪華に、手製の肉豆腐とハンバーグでがっつり飲んで食ってから寝ます。

おやすみなさい。

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仁愛の感覚は、人間の生得的善性のひとつの現れ

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正義にしても愛にしても、その問題は人間という存在をどのように理解し、そしてその当人と他者との関係はいかなるものであるか、といった問題を抜きに語ることは決して出来ない。その意味では両者の問題には密接な関係が存在する。

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の後半部で、「友愛(フィリア)、φιλία 」について論じている。

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事実、もしひとびとがお互いに親愛的でさえあれば何ら正義なるものを要しないのであるか、逆に、しかし、彼らが正しき人々であるとしても、そこにやはり、なお愛(引用者註--フィリア、友愛)というものを必要とする。まことに、「正」の最高のものは「愛という性質を持った」それ(フィリコン)にほかならないと考えられる。
    --アリストテレス(高田三郎訳)『ニコマコス倫理学(下)』(岩波文庫、1973年)。

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人間は互いに友だちの関係(=友愛状態)であれば、もはや正義は必要ないのだが、しかし、正義の人であっても、なお友愛が必要である、というアリストテレスの言葉である。アリストテレスにおいては、正義と友愛の問題は、決して別個の問題ではないし、どちらが先かという優先権の主張の問題でもない。両者が相互補完的な関係にあるのだろうし、どちらかといえば、友愛こそが正義の基盤にあってそれを支ている。

近代以降の社会契約思想は、いわば友愛ぬきで正義を理論的に構築しようと試みたため、ともするとそうした営みが形式に堕してしまい、いわば内実を伴わない議論になってしまった感がどうしても否めない。もちろん形式と内実に関してもカントがくどく論じているように両者は決して自存して存在することの出来ない概念であり、密接に関わっている。しかし、普遍的概念への追及の試みが、どうしても形式性へ執着するあまり、やはり、いささか無味乾燥になりがちな傾向があるようだ。

その営みは、もちろん、「誰にでも当てはまる・そう考えざるを得ない」在り方の探究、そしてその提示という意味で、決して廃棄できない在り方ではあるのだが……。

さて、そうした近代知以前の、哲学の起源としてのギリシアの伝統に耳を傾けると、こんどは逆に、リアルな人間論が提示されている。特に面白いのがソクラテス以前の哲学者たちのことばである。まとまった散文は少ないが、箴言風の言葉のなかに、豊かな人間観察と人間論が多分に論じられている。

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 不正をなすを阻止するは立派なこと。さもなければ、一緒に悪事をなさぬこと。

 よき人であるか、あるいはよき人を真似るべし。

 多くの者はロゴス〔理〕を学んでいないが、ロゴス〔理〕に従って生きている。

 度はずれに欲求することは子供に属することであって、大人のすることではない。

 誰ひとり愛さない人は、誰からも愛されないとわたしは思う。

    --日下部吉信編訳『初期ギリシア自然哲学者断片集 3 』(ちくま学芸文庫、2001年)。

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上の5つの言葉は、ギリシアの自然哲学者のひとりデモクリトス(Dēmokritos,B.C.460頃-B.C.370頃)の言葉である。
こうした人間観察と人間論の豊富な伝統を蒸留し、昇華させていったのが、おそらく、ソクラテス、プラトンであり、そしてアリストテレスだったのではなかろうか。もちろん、その三者に共通しているのは、普遍的な真理とは何なのか、そしてそれは一体どういうものなのか……という議論の中で、幸福とは何か、善とは何か、そして正義とは何かが議論された。だから、すこし偏りの嫌いもなくはないが、読んでいると血湧き肉躍るようなわくわく感があるのかもしれない。

さて、金曜日の早朝、ツバメが自然に帰ったように、細君と息子さんが帰省した。
2週間弱の独身ライフの開始です。
とりあえず、先立つ金(おたから)が制限されているので、節制しながら凌いでいくほかありません。日中は、短大のレポート40余通に一気に目を通し、試験の内容も確認した。評価までやろうと思ったが、目がしょぼしょぼしはじめたので、今日はこれで仕事はおしまいにします。このあたりで、一杯飲んで早く起きようと思います。

最後に蛇足ですが、ちょうどそうしたギリシア流哲学者の系譜に属する現代のギリシア人哲学者・K・I・ブドゥリス(Konstantinos Ioannis Boudouris,1935-)の著作を読んでいて感心した部分を一つ紹介します。うえの記述とおなじ目的意識ですが。

正義の感覚と友愛(ないしは仁愛、愛)の問題。
他者論。
隣人とは誰か。
人間として存在すること。

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 では、正義は、はたして善そのものに対する優先性を有するのでしょうか。また、わたしたちがそれによって人間の社会領域に立ち向かう、諸価値からなるネット・ワークのなかで、正義の置かれている真の位置はいかなるものなのでしょうか。
 この点に関するヒュームの考え方はよく知られております。それによれば、充分なだけの善が存在し、ひとびとに仁愛(benevolence)の徳があるのなら、正義は不要だということになります。たとえ、ヒュームが、いま言及された箇所において、正義という言葉で社会正義のことを考えているのだといたしましても、彼の所見には、ある意義が認められます。というのは、仁愛の感覚は、人間の生得的善性のひとつの現れであるので、優先性を持つからです。
(中略)
……たぶん、正義はひとつの重要な徳ではあるにしても、わたしたちを救済してくれる徳ではないのでありましょう。
 正義や他の徳や価値に対する関係をめぐる問題は、一方で正義の優先性が措定され、他方で他の諸徳がこれと持つことになる関係が措定されるといった仕方では述べえられないものです。人格のもつ一定の道徳的特性は、必ずしもこの徳とは結びつきませんし、また、それら他の徳が、これを論理的に前提するというわけでもないからであります。これは、たぶん、カントやロールズによる人格概念をわたしたちが受け入れ、人間の根源的状態についてのジョーン・ロールズの見解を正しいものと考える場合にのみ意味をなすものでありましょう。しかし、先に申しましたように、この点に関する彼らの件気会は、満足のいくものではありません。キリスト教的考え方によれば、人間の道徳性の核心をなす、たとえば愛(アガペー<<αγάπη>>)の徳といった、もろもろの徳があります。そしてこの愛は、キリスト教倫理によれば、正義に優先するものであります。
 ひとつの根本的戒めとしての愛は、人間の感受性と結びつけられないものではありませんが、それのうちにひとつの義務を含み、人格(ひとつの魂)としての他者への私の義務に、根拠を与えるのです。このことは、愛を正義に結びつけますが、同時に、愛が正義を凌駕するものであることを示す何事かであります。
 愛と正義のつながりは、もしわたしたちが、もろもろの事柄を、個人についてのわたしたちの考え方、そして、社会において個人がつくりだす諸関係というプリズムを通じて眺め、この見方をE・レヴィナスの思想に関連づけるなら、とりわけ意義のあるものとなります。
 レヴィナスによれば、個人は談話(discourse)の領域において互いに出会うわけですが、しかもそれと同時に、彼らの人格の基底をなすものは、還元しがたいままにとどまります。この領域に置いて他者は、はじめて、たとえ彼が異邦人であろうと、私がその人を愛し、意志を通じ合わせるべき隣人となります。使徒パウロによって明らかにされ、S・キェルケゴールの鋭い神学的精神によって解釈されましたように、キリスト教の第二の戒めとしてのこの愛こそが、社会内部に根源的な共同体精神を創造し、カントやロールズの無味乾燥で貧弱な主体を内容で満たし、他者を、異邦人ではなく、親しい人格と化すのです。この考えによりますと、愛は絶対的な善ですが、それだけではなく、具体的に要求されるものでもあります。そして、これの無前提の選好だけが、個人の倫理的統合を保証しうるのです。ところでしかし(他のひとが私に対して正義として押しつけてくるそれをも含めて)、この要求を認めるということは、同時に、この条件が、他のなにをさしおいても、談話の世界にほかならないところの、共同体の領域における個人相互の出会いと意志疎通を通じて課せられるのでなければならない、ということを明らかにいたします。
 正義と愛の間の関係が、このようなものとして考えるならば、いかなる点で正義についてのリベラルな考え方が不足しており、個人についての共同体第一主義的見解がいかなる点でゆきすぎているかを、洞察することができます。
 さて、正義と倫理の関係をめぐる問題は、ひとつの新たな次元を獲得いたします。現代人は、テクノロジーや非人間的で抑圧的な国家権力に対する反動として、自分の優越性または優先性を確証したがる(同一性理論の勝利を讃え、それに基礎づけを与える)傾向があるようですが、それと同時に、みずからの解体と疎外を、間接的で技術的なコミュニケーションを通じて乗り越えようともしております。こうした場面におきましては、わたしたちが実存的・社会的にコミュニケートすべき他者なるものは、本来的人格ではなく、同一性論理に支配された仮面であるにすぎません。テクノロジーによって急速に変貌し、ホロコーストによる真の脅威にさらされることによって、正義が第一の戒めとならざるをえないこの世界にありましては、「私が愛さねばならぬ隣人、それは、いったい誰のことか?」という問いは、いささか逆説的な響きをもちます。けれども、その問いは、思想的にも現実的にも、その重大性において低く見積もられるべきものではないのです。
 何故ならば、隣人とは、端的に、ただそのひとが、ひとりの人間として存在するというだけの理由によって、私がなにものかを負うている者のことだからです。彼は、私の傍らにいます。が、しかし、私からはるかに離れたところにいる者でもあります。彼は、ホメーロスの世界の貧者、漂白の乞食であり、福音書にいう富める者です。彼は、「正義のおこなわれる」「法治」国家で盗賊に出会うひとびと、支えてやるのが私の義務であるひとびとです。彼は、「豊かな社会」における貧しき者・富める者であり、アフリカやインドで飢餓に苦しむひとびとです。こうして、私の隣人で現にあり・あるであろう、多くのひとびとが存在するのです。ですから、社会科学や政治科学その他の諸科学は、これまで未解決であった社会問題を解決できる方法やテクニックを発見・応用することによって、生活の万端においてあらわれてくる正義への要求に応え、これがひろく普及するよう努力を積み重ねなければなりませんが、それらの努力は、共同体、社会、国家のなかでわたしたちすべてが仕える目標が見失われないようにと援助する、哲学的・理論的考察と別個のものとされてはならないのです。
    --K・I・ブドゥリス(山川偉也訳)「正義と倫理」、『正義・愛・政治』(勁草書房、1991年)

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いちばん身近な隣人はしばし、いなくなりましたが、とりあえず独身者として過ごしていく中で、決して隣人としての感覚を忘れずに過ごしていきたいものです。

とりあえず、携帯電話のストラップを半年ぶりに変えてみる。
いうまでもなく、ウルトラマン・フェスティバル2008で、細君に買ってもらった一品だが、キューピーとキングジョー@ウルトラセブンのコラボレーションです。

人間の顔をしたウルトラ怪獣を眺めながら、尊厳の感覚を保ちながら隣人を考えてみます。

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飛べ、つばめの雛よ、大空へ。

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帰宅すると驚くことに、台所にてツバメの子を発見する。
産毛が抜けきらぬところを見ると、飛行訓練をはじめて間もないツバメの子のようだが、どうしてうちに入ってきたのであろうか。

ちかくにツバメの巣は散見されない。
とりあえず、部屋を見てみると、窓が少し開いていた。
そこから流れ入ってきたのであろうか。

掬い上げてみると、かなり弱っている。
部屋の中に置いておくのも何なので、一度、外へ出て空へ放りなげてみるが、すぐに落ちるというか……2-3m先の植え込みにしがみつき、ぜえぜえいっている。

このまま放置するのも“忍びない”ので、とりあえず、もう一度拾い上げ、ベランダにおいておくことにした。

ミルワームはないが、猫フードが若干あったので、明朝、ふやかして与えてから、野に放とうと思う。

ツバメは飼育がムズカシイ鳥だと聞く。
まちがっても、うちに居残りなんてことはしないで下さいよ、ツバメさん。
早く野に帰って下さい。

しかし、その瞳をみると、放ってもおけないよなあ~。

ともあれ、明朝考えてみようと思います。

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……事実は生命は有機体に釘付けにされ、有機体は生命を無生な物質の一般法則にしたがわせる。たしかにそうだとしてもやはり一切の経過からいって、生命はそうした法則からのがれようと全力をつくしているかのようにみえる。生命には物理変化をカルノの原理できまる方向から逆転させる力はない。しかし少なくとも絶対的には、生命の振舞いかたはある力がひとり歩きをゆるされて逆の方向にはたらくときの様子に似ている。生命は物質変化の歩みをとめることはできないけれども、それを遅らせるところまではゆける。
    --ベルクソン(真方敬道訳)『創造的進化』(岩波文庫、1979年)。

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我が子ではないが、動物のつぶらな瞳をお互いに眼差し合うと、やはりどうしても何か“忍ばず”にはおれない“情念”がふつふつとわき起こってくる。
動物とは確かに“動く物”であり、人間という動物は同じでありながら、まったく異なる存在として存在しているにもかかわらず、同質性も実感する。有限でありながらその自然界の法則をうちやぶりつつ“生きていく”という創造性にその生命力があるのかもしれないし、生命が論じられる場があるのかも知れません。

実に……
生命と生命の対峙とは、“忍ばず”にはおれない無作為の歩み寄りなのかもしれません。

生命論をもういちどきちんと整理する必要がありそうです。

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