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たらしめる努力、人間の関与

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かつて仏教学の大碩学・中村元博士(1912-1999)は、日本における学問受容の歴史--特に哲学や宗教学の分野の--を振る返りながら、そのあり方を「奴隷の学問」として批判した。すなわち、明治以来のそれは、単なる受け売りにほかならず、自らその学を吟味せず、解説のみに専念してきたとのことである。だから、結局は西洋で流行っている哲学・思潮がつぎつぎと輸入され、その流行が廃ると、次のムーブメントがまたそ知らぬ顔で紹介されてゆく。また、その断絶と連続の検討や意義の確認が行われないから、つぎつぎと吟味の伴わない流行の紹介が続いていくというものである。自戒をこめながら、日々学問と向かいあう中で、「奴隷の学問」とならぬように取り組みたいものである。

さて、大正時代から昭和戦前期にかけて、ひとつ流行ったのが、新カント派の哲学である。戦前はよく読まれたようですが、最近ではあまり一部の専門家を除き、本邦の読書空間では顧みられなくなった一群の潮流である。

ハインリヒ・リッケルト(Heinrich John Rickert,1863-1936)もその一人である。新カント派のなかにおける西南ドイツ学派に属した哲学者で、価値哲学を説き、自然科学に対して、学としての文化科学を整備した。

対象の認識とは、素朴な自然科学でいうような価値が全く関与しないということはあり得ない。だからリッケルトは、対象の認識するという判断の際に、必ず価値が働くことを発見する。リッケルトにとって認識とは、雑多な現実世界の中から、知ることに値するものだけを選択して把握する行為なのである。この人間の行為こそ、価値判断に他ならない。

マックス・ヴェーバーの説く、価値自由を髣髴させる議論であり、素朴な認識論として退けることも簡単だが、リッケルトの価値をめぐる議論を紐解いてみると、いまだその骨格は魅力を失っていないように思われる。

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 自然と文化なる語は一義的でない、殊に自然の概念は常に、これと対立せしめられる概念によつて初めて詳細に規定せられる。今の場合、もし我々が先づ第一に言葉の意味にたよるならば、恣意らしい外見は最もよく避けられるであらう。即ち、自由に大地から生ずるのは、NaturProdukt(自然産物)であり、人間が耕作播種したときに田畑の産するのはKulturprodukt(文化産物)である。これに従へば、自然はひとりでに発生したもの・「生まれたもの」およびおのれ自らの「成長」に任せられたものの総体である。文化は、価値を認められたもろもろの目的に従つて行動する人間によつて直接に生産されたもの、或ひは(もしそれがすでに存在してゐるならば)少なくともそれに附着せる価値のゆゑにわざわざ養護されたものとして、自然に対立する。
 我々がたとひ此の対立をおよそ欲する限りどこまで拡げて行かうとも、常にこれと必然的に関連することは、一切の文化事象には何か或る(人間によって承認された)価値が具体化されてゐるので、そのためにそれは生み出されるか、或ひは(それが既に発生してゐるときには)養護されるのであるが、ひとりで発生し成長したものは総べて価値にかまはず考察され得るし、もしそれが真に上述の意
味での自然にほかならないものなら、実際さうされなければならぬといふことである。
 文化客体にはかやうにいつも価値が附着している。そこで我々は文化客体を財と呼び、かく呼ぶことによつて同時にそれを価値に充ちた現実として、価値そのものから区別しようと思う。価値そのものはそれだけとして観れば何ら実在のものではなく、ひとはそれを抜きにして考へることもできる。科学は自然客体を財としてではなく、価値との関係を離れたものとして考へるが、もし頭の中で文化
客体からあらゆる価値を剥がしてしまへば、文化客体も単なる自然となる、或ひは科学的には自然客体同様に取扱ひ得ると言つて差支へない。だから、価値への関係がそこに有るか無いかによつて、我々は安んじて諸科学の客体を二種に分けることができるのであるが、あらゆる実在的文化事象はそれに附着せる価値を抜きにして考へるときは、いずれにも自然と関連のあるものと看做され、次いでは
自然とさへ看做され得る筈であるから、我々は此処では方法論のために、ただ価値への関係の有無といふことによつてのみそれを分けることにする。価値関係といふことがどの程度まで歴史的諸文化科学の論理的構造に対して決定的な事であるかは、後に示されるであらう。
    --リッケルト(佐竹哲雄・豊川昇訳)『文化科学と自然科学』(岩波
文庫、1939年)。

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冷静に考えれば、納得できる議論であるが、こうした素朴な実感を確かな言葉に置き換えてゆくリッケルトの議論は鮮やかである。新カント派は、認識論にこだわった学派だから、こうした人間世界を確かな言葉に置き換えてゆくことが可能であったのだろうか。

さて--
価値への関係は、人間の関与が必ずそこに存在しない限り、「価値あるもの」にはならない。そこに人間の文化、そして財が立ち上がるという筋道だが、確かに、価値を価値たらしめるのは人間の存在であることだけは実感できる。ともすると、生活のなかで、なにか自分とは離れたところに価値を見出したり、意義付けしたりすることがあるが(それはそれで大切な契機なのかもしれないが)、それだけではない。自分がその対象と向かいあい、価値あるもの足らしめる努力のなかに、そこに価値が見出され、価値あるものや、幸せが見出されるものなのであろう。

おもえば、暴力と鮮血の臭う現代世界ではあるが、生命の尊厳といっても、それがどこか自分と遠い世界に存在する作業仮説の理念とか理論と捕らえてしまうと、それは、ひとつの対抗的な価値として機能することは不可能なのであろう。

自分自身が、その理念や考え方なりを、価値あるものたらしめる努力の営みのなかにこそ、真実の歩みがあるのではなかろうかと思われて他ならないある日の宇治家参去です。

いいかげん毎日暑くてだるだるなので、今日はカンフル剤的にあつあつのてんぷらそばで、暑さを飛ばしてみようと思ったのですが、汗だらだらです。

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