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“お互いに”賢慮しながら

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 道徳は品性である。品性は彫り込まれたものである。海には品性はない、砂にもない、抽象的な分別にも品性はない。品性とは内面性にほかならないからである。不道徳も、エネルギーとしては、やはり品性である。ところが道徳的でもないし不道徳的でもないのは、曖昧さである。そして善か悪かという質のうえの選言的な対立が、徐々に蝕む反省によって弱められると、人の世に曖昧さが支配することになる。情熱の暴動は原始的な力をもっているが、曖昧さによってなし遂げられる解体は、黙々と、しかし夜を日についで休みなくいとなまれる連鎖式のようなものである。善と悪とを認識する力は、悪についての浅薄でお上品な理論的な知識によって、つまり、善はこの世では真価を認められもしないし報いられもしない--だから善を行うのは愚かだといっていい、と心得た高慢な賢さによって、衰弱せしめられる。善に心ひかれて偉業をなし遂げる者もなければ、悪にせかされて非道な罪を犯す者もない。そのかぎりでは、一方が他方に言って聞かせるようなことはなにもないだろう。しかし、だからこそそれだけ、おしゃべりの種が多くなる。なぜかというに、曖昧さは人を降伏させる刺激剤であって、善にたいする喜びや悪にたいする嫌悪とはまったく違った意味で多弁だからである。
 さまざまな生活関係の発条(ばね)というものは、善悪を質的に区別する情熱があってこそその本来の機能をはたらかせるのだが、その発条が弾力を失っているのである。質の違いとなってはじめて物と物との違いがあらわれてくるのであるが、その違いの距離が、もはや事物の相互関係の内面的な関係を規制する法則ではなくなっている。内面性が欠けているのだ。だからそのかぎりでは関係は現実に存在していない、あるいは関係の粘着力が弱くなっているのである。つまり、その関係を支配している消極的な法則は、“お互いにどちらがいなくても困るのだが、お互いにくっつき会うこともできない”ということであり、積極的な法則は、“お互いにどちらがいなくてもかまわぬし、お互いにくっつくこともできる”、もっと積極的に言うなら、“くっついているんだからお互いにどちらがいなくても結構”ということである。内面性の関係のかわりに、別の関係がはいりこんでくるのである。すなわち、異質的なものが自分と異質的なものと関係するのではなくて、両者はそこにつっ立ったままでお互いに睨めっこをしているのである。
    --キルケゴール(枡田啓三郎訳)『現代の批判 他一篇』(岩波文庫、1981年)。

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倫理(学)や道徳の言説は、確かに、人間の在り方とは何か、そしてその存在者としての人間の向かい合い方とは何かを探究する人文諸科学の一分野である。単純化を怖れず言うならば、前者がその根拠を探究する部門であるとすれば、後者はその成果を訓戒としてしめした部分であろう(カントに置いては後者も前者的な意味合いを持ち、その命令(=定言命法)は自分自身の内なる声から発せられる命令であるがゆえに自律となるので、初等教育でいわれるような“道徳学”とは全く趣を異にする)。

さて、そのなかで、ひとつの課題としてでてくるのが、やはり存在者の関係性の問題となるのだが、そのことは個別の存在者の間柄における相互の存在承認の問題となる。すなわちそれが「人間関係の在り方」の探究および提示という部分である。

人間はひとりで生まれ落ちるわけではない。
物体としても、父母が存在し、存在が発生したとたん、無限の関係性(=社会)のなかにくみこまれるようになっている。だから、そこで人間関係の在り方という部分が問題となってくる。極端にいえば、無人島で一人で存在するのであれば、そこには倫理は必要ないということもいえようが、やはり、人間関係の在り方とは、すなわちその人間そのものの在り方とは何かという部分と密接に関連しているがゆえに、その極端な謂いもある意味では機能不全となる。

さて……。
そうしたことを探究し、生活のなかで意識するにせよしないにせよ行為をなし、心と頭で考え、それぞれの人生を生きるのは、それぞれの個人の存在だけである。自分の人生を、誰かほかの人に生きてもらうこともできないし、他人の人生を、その人の代わり自分が生きていくことも出来ない。

人生を歩むのは、宇治家参去、あなたという個人であって、その場合、自分自身の人生とは、どこまでいっても自分ひとりが歩むしかないのである。そのことは病気をみればよくわかる。宇治家参去が痛飲して、二日酔いになった時の不快感は、宇治家参去一人が悩むしかない。嗚咽と頭痛に身をよじりながら、「誰か、この不快感を、自分に代わって引き受けてくれない?」と叫んだとしても、現実にはこのリアルな不快感を引き受けてくれる他者は存在しない。

この限りでいうならば、やはり各人の体験は、どこまでいっても私的なそれであり、各存在者の存在とは、それぞれに「単独者」としてのそれである。

しかし、それでも次のような「単独者」も現実には存在する。
すなわち、「できることならその不快感を引き受けたい……」と祈り願う単独者の存在があるのである。このことは思考実験における可能性以上に現実に存在する出来事なのである。例えば、子供が病気で寝込んだ時、「その苦しみを引き受けたい」と願わない親は少なくない。また自分とは全く異なる単独者の呻吟に涙を流し、その何かを引き受けたいと願う単独者は存在するのである。

人間の存在はやはりどこまでいっても、各自は、どこまでいってもそれぞれに単独者である。しかし、各存在者が単独者であると言うことは、すなわち「それぞれに」というだけでなく、「お互いに」単独者として存在しているということである。人間はこの単独者として生活のなかで存在(=生きている)わけだが、やはりどちからに重点をおきながら歩みをつづけている。

「お互いに」という顧慮(ないしは賢慮、フロネーシス)と「それぞれに(=単独で)」という存在様態は決して二者択一の存在様態ではありえない。しかし、にもかかわらず、「お互いに」という在り方が廃棄され、「それぞれに(=単独で)」への極度の集中がなされるような……そうした徴候が最近ふしふしと感じられてしかたがない。

どちらも人間の存在にとって、その存在性を「人間らしく」たらしめる在り方である。しかし極端に走った場合、前者は全体主義への潮流となり、後者は利己主義のそれとなる。その緊張関係のただなかで、七転八倒するのが人間存在の現実の事実だが、その緊張関係を人という生きものがみずから放棄してしまう行為にほかならない。

経験からわかることだが、現実には、この「お互いに」という存在様態を自然に心がけながら、他なる単独者の痛みや、言葉にならない呻吟に耳を傾ける単独者は、ほとんどいないのが事実かも知れない。
しかし、そのことをもってして、自ら「お互いに」という存在様態を廃棄して、「それぞれに」という存在様態へ後退してしまっても、そこには自分の生を肯定してくれるものは何も存在しない。

ひとと向き合えば、たしかに傷つき痛み苦しむのがこの人間世界である。
しかし、それだけの世界ではない。傷つき痛む以上に、喜びや楽しみや幸せも存在する。
自己と向かい合い、他者との向かい合い方を学ぶのが倫理学、道徳であるとすれば、それは生の肯定とは無関係ではない。
生の肯定があってこそ、「いい人生だった」という言葉がリアルになる。
なぜなら、「いい人生だった」との言説は、単独者の独り言ではなく、その言葉を聞き留めてくれる単独者が存在してはじめて生きてくる言葉であるからだ。キルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard,1813-1855)が「道徳は品性である。品性は彫り込まれたものである。海には品性はない、砂にもない、抽象的な分別にも品性はない。品性とは内面性にほかならないからである」と言っているが、どこかでそうした契機を心がけていかないと、品性が彫り込まれないように、人間の存在もどこかうすっぺらい、レディメイドの工業規格製品のようになってしまうのではなかろうかとも思う。

“お互いにどちらがいなくても困るのだが、お互いにくっつき会うこともできない”
“お互いにどちらがいなくてもかまわぬし、お互いにくっつくこともできる”
“くっついているんだからお互いにどちらがいなくても結構”

人間が単独者として“開き直”ってしまうとそうなるのか。

“お互いに”賢慮しながら歩みたいものです。

さて……。
昨日より市井の職場へ復帰する。
店長より、「娑婆世界へようこそ」とのアリガタイ言葉を頂き、いきなりレジに投入される。店長もがっつりレジをうっていたようなので、「お互いに」とおもいながら、甘受する。とわいえ、六日ぶりのレジ打ちなので「忘れたかな?」などと思ったが、予想以上に体が覚えている。不思議なものです。今日もがっつり打たされるので補充まで手が回らない……というか気力の問題ですが……手が回らない。

いうまでもなく帰ってから『酔鯨』を“鯨飲”する。
当然、この「二日酔い」の呻吟を引き受けてくれる単独者は存在しない。
細君からは「自業自得」とのアリガタイ言葉が返ってきた。

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