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仁愛の感覚は、人間の生得的善性のひとつの現れ

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正義にしても愛にしても、その問題は人間という存在をどのように理解し、そしてその当人と他者との関係はいかなるものであるか、といった問題を抜きに語ることは決して出来ない。その意味では両者の問題には密接な関係が存在する。

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の後半部で、「友愛(フィリア)、φιλία 」について論じている。

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事実、もしひとびとがお互いに親愛的でさえあれば何ら正義なるものを要しないのであるか、逆に、しかし、彼らが正しき人々であるとしても、そこにやはり、なお愛(引用者註--フィリア、友愛)というものを必要とする。まことに、「正」の最高のものは「愛という性質を持った」それ(フィリコン)にほかならないと考えられる。
    --アリストテレス(高田三郎訳)『ニコマコス倫理学(下)』(岩波文庫、1973年)。

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人間は互いに友だちの関係(=友愛状態)であれば、もはや正義は必要ないのだが、しかし、正義の人であっても、なお友愛が必要である、というアリストテレスの言葉である。アリストテレスにおいては、正義と友愛の問題は、決して別個の問題ではないし、どちらが先かという優先権の主張の問題でもない。両者が相互補完的な関係にあるのだろうし、どちらかといえば、友愛こそが正義の基盤にあってそれを支ている。

近代以降の社会契約思想は、いわば友愛ぬきで正義を理論的に構築しようと試みたため、ともするとそうした営みが形式に堕してしまい、いわば内実を伴わない議論になってしまった感がどうしても否めない。もちろん形式と内実に関してもカントがくどく論じているように両者は決して自存して存在することの出来ない概念であり、密接に関わっている。しかし、普遍的概念への追及の試みが、どうしても形式性へ執着するあまり、やはり、いささか無味乾燥になりがちな傾向があるようだ。

その営みは、もちろん、「誰にでも当てはまる・そう考えざるを得ない」在り方の探究、そしてその提示という意味で、決して廃棄できない在り方ではあるのだが……。

さて、そうした近代知以前の、哲学の起源としてのギリシアの伝統に耳を傾けると、こんどは逆に、リアルな人間論が提示されている。特に面白いのがソクラテス以前の哲学者たちのことばである。まとまった散文は少ないが、箴言風の言葉のなかに、豊かな人間観察と人間論が多分に論じられている。

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 不正をなすを阻止するは立派なこと。さもなければ、一緒に悪事をなさぬこと。

 よき人であるか、あるいはよき人を真似るべし。

 多くの者はロゴス〔理〕を学んでいないが、ロゴス〔理〕に従って生きている。

 度はずれに欲求することは子供に属することであって、大人のすることではない。

 誰ひとり愛さない人は、誰からも愛されないとわたしは思う。

    --日下部吉信編訳『初期ギリシア自然哲学者断片集 3 』(ちくま学芸文庫、2001年)。

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上の5つの言葉は、ギリシアの自然哲学者のひとりデモクリトス(Dēmokritos,B.C.460頃-B.C.370頃)の言葉である。
こうした人間観察と人間論の豊富な伝統を蒸留し、昇華させていったのが、おそらく、ソクラテス、プラトンであり、そしてアリストテレスだったのではなかろうか。もちろん、その三者に共通しているのは、普遍的な真理とは何なのか、そしてそれは一体どういうものなのか……という議論の中で、幸福とは何か、善とは何か、そして正義とは何かが議論された。だから、すこし偏りの嫌いもなくはないが、読んでいると血湧き肉躍るようなわくわく感があるのかもしれない。

さて、金曜日の早朝、ツバメが自然に帰ったように、細君と息子さんが帰省した。
2週間弱の独身ライフの開始です。
とりあえず、先立つ金(おたから)が制限されているので、節制しながら凌いでいくほかありません。日中は、短大のレポート40余通に一気に目を通し、試験の内容も確認した。評価までやろうと思ったが、目がしょぼしょぼしはじめたので、今日はこれで仕事はおしまいにします。このあたりで、一杯飲んで早く起きようと思います。

最後に蛇足ですが、ちょうどそうしたギリシア流哲学者の系譜に属する現代のギリシア人哲学者・K・I・ブドゥリス(Konstantinos Ioannis Boudouris,1935-)の著作を読んでいて感心した部分を一つ紹介します。うえの記述とおなじ目的意識ですが。

正義の感覚と友愛(ないしは仁愛、愛)の問題。
他者論。
隣人とは誰か。
人間として存在すること。

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 では、正義は、はたして善そのものに対する優先性を有するのでしょうか。また、わたしたちがそれによって人間の社会領域に立ち向かう、諸価値からなるネット・ワークのなかで、正義の置かれている真の位置はいかなるものなのでしょうか。
 この点に関するヒュームの考え方はよく知られております。それによれば、充分なだけの善が存在し、ひとびとに仁愛(benevolence)の徳があるのなら、正義は不要だということになります。たとえ、ヒュームが、いま言及された箇所において、正義という言葉で社会正義のことを考えているのだといたしましても、彼の所見には、ある意義が認められます。というのは、仁愛の感覚は、人間の生得的善性のひとつの現れであるので、優先性を持つからです。
(中略)
……たぶん、正義はひとつの重要な徳ではあるにしても、わたしたちを救済してくれる徳ではないのでありましょう。
 正義や他の徳や価値に対する関係をめぐる問題は、一方で正義の優先性が措定され、他方で他の諸徳がこれと持つことになる関係が措定されるといった仕方では述べえられないものです。人格のもつ一定の道徳的特性は、必ずしもこの徳とは結びつきませんし、また、それら他の徳が、これを論理的に前提するというわけでもないからであります。これは、たぶん、カントやロールズによる人格概念をわたしたちが受け入れ、人間の根源的状態についてのジョーン・ロールズの見解を正しいものと考える場合にのみ意味をなすものでありましょう。しかし、先に申しましたように、この点に関する彼らの件気会は、満足のいくものではありません。キリスト教的考え方によれば、人間の道徳性の核心をなす、たとえば愛(アガペー<<αγάπη>>)の徳といった、もろもろの徳があります。そしてこの愛は、キリスト教倫理によれば、正義に優先するものであります。
 ひとつの根本的戒めとしての愛は、人間の感受性と結びつけられないものではありませんが、それのうちにひとつの義務を含み、人格(ひとつの魂)としての他者への私の義務に、根拠を与えるのです。このことは、愛を正義に結びつけますが、同時に、愛が正義を凌駕するものであることを示す何事かであります。
 愛と正義のつながりは、もしわたしたちが、もろもろの事柄を、個人についてのわたしたちの考え方、そして、社会において個人がつくりだす諸関係というプリズムを通じて眺め、この見方をE・レヴィナスの思想に関連づけるなら、とりわけ意義のあるものとなります。
 レヴィナスによれば、個人は談話(discourse)の領域において互いに出会うわけですが、しかもそれと同時に、彼らの人格の基底をなすものは、還元しがたいままにとどまります。この領域に置いて他者は、はじめて、たとえ彼が異邦人であろうと、私がその人を愛し、意志を通じ合わせるべき隣人となります。使徒パウロによって明らかにされ、S・キェルケゴールの鋭い神学的精神によって解釈されましたように、キリスト教の第二の戒めとしてのこの愛こそが、社会内部に根源的な共同体精神を創造し、カントやロールズの無味乾燥で貧弱な主体を内容で満たし、他者を、異邦人ではなく、親しい人格と化すのです。この考えによりますと、愛は絶対的な善ですが、それだけではなく、具体的に要求されるものでもあります。そして、これの無前提の選好だけが、個人の倫理的統合を保証しうるのです。ところでしかし(他のひとが私に対して正義として押しつけてくるそれをも含めて)、この要求を認めるということは、同時に、この条件が、他のなにをさしおいても、談話の世界にほかならないところの、共同体の領域における個人相互の出会いと意志疎通を通じて課せられるのでなければならない、ということを明らかにいたします。
 正義と愛の間の関係が、このようなものとして考えるならば、いかなる点で正義についてのリベラルな考え方が不足しており、個人についての共同体第一主義的見解がいかなる点でゆきすぎているかを、洞察することができます。
 さて、正義と倫理の関係をめぐる問題は、ひとつの新たな次元を獲得いたします。現代人は、テクノロジーや非人間的で抑圧的な国家権力に対する反動として、自分の優越性または優先性を確証したがる(同一性理論の勝利を讃え、それに基礎づけを与える)傾向があるようですが、それと同時に、みずからの解体と疎外を、間接的で技術的なコミュニケーションを通じて乗り越えようともしております。こうした場面におきましては、わたしたちが実存的・社会的にコミュニケートすべき他者なるものは、本来的人格ではなく、同一性論理に支配された仮面であるにすぎません。テクノロジーによって急速に変貌し、ホロコーストによる真の脅威にさらされることによって、正義が第一の戒めとならざるをえないこの世界にありましては、「私が愛さねばならぬ隣人、それは、いったい誰のことか?」という問いは、いささか逆説的な響きをもちます。けれども、その問いは、思想的にも現実的にも、その重大性において低く見積もられるべきものではないのです。
 何故ならば、隣人とは、端的に、ただそのひとが、ひとりの人間として存在するというだけの理由によって、私がなにものかを負うている者のことだからです。彼は、私の傍らにいます。が、しかし、私からはるかに離れたところにいる者でもあります。彼は、ホメーロスの世界の貧者、漂白の乞食であり、福音書にいう富める者です。彼は、「正義のおこなわれる」「法治」国家で盗賊に出会うひとびと、支えてやるのが私の義務であるひとびとです。彼は、「豊かな社会」における貧しき者・富める者であり、アフリカやインドで飢餓に苦しむひとびとです。こうして、私の隣人で現にあり・あるであろう、多くのひとびとが存在するのです。ですから、社会科学や政治科学その他の諸科学は、これまで未解決であった社会問題を解決できる方法やテクニックを発見・応用することによって、生活の万端においてあらわれてくる正義への要求に応え、これがひろく普及するよう努力を積み重ねなければなりませんが、それらの努力は、共同体、社会、国家のなかでわたしたちすべてが仕える目標が見失われないようにと援助する、哲学的・理論的考察と別個のものとされてはならないのです。
    --K・I・ブドゥリス(山川偉也訳)「正義と倫理」、『正義・愛・政治』(勁草書房、1991年)

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いちばん身近な隣人はしばし、いなくなりましたが、とりあえず独身者として過ごしていく中で、決して隣人としての感覚を忘れずに過ごしていきたいものです。

とりあえず、携帯電話のストラップを半年ぶりに変えてみる。
いうまでもなく、ウルトラマン・フェスティバル2008で、細君に買ってもらった一品だが、キューピーとキングジョー@ウルトラセブンのコラボレーションです。

人間の顔をしたウルトラ怪獣を眺めながら、尊厳の感覚を保ちながら隣人を考えてみます。

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