無力なユマニスムの実力?
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ユマニストの王者と言われるオランダ生まれの神学者デシデリウス・エラスムスは、<<キリスト教の復元>>ということを申しまして、その生涯の仕事をこれに沿って発展させましたし、その影響は、全ヨーロッパのユマニスムの発展と成長とにあずかって力がありました。このエラスムスは中世伝来のキリスト教会の制度および指導法が、人間を著しく歪めていることを感じ、キリスト教本来の面目への復帰を熱望していたのでした。エラスムスは、それまでの聖書解釈の誤謬を指摘したり、容赦なくキリスト教会の制度の欠陥や聖職者たちの行動を批判しましたので、カトリック教会中の頑迷な人々からは白眼視されるようになりました。そして、エラスムスよりもやや遅れてこの世に生まれ、公然とカトリック教会に反旗をひるがえしてプロテスタントの教会の礎を築き、ルネサンス時代の最も重要な運動のひとつである宗教改革の祖となったマルチン・ルッターの同類と見なされて、「エラスムスが卵を産み、ルターがこれを孵(かえ)した」とまで、エラスムスは罵られていました。エラスムスとしては、あくまでもカトリック教徒として、カトリックの司祭として、キリスト教の歪みを匡(ただ)そうとしただけなのです。しかし、宗教改革運動の初期において、エラスムスを首領とし、その主張に賛成するユマニストたちと、プロテスタント(新教徒)とが、手を握っていたような感じを与えたのも無理ならぬことでした。ともに、それまでのカトリック教会への批判を行ったからです。しかし、エラスムスは、人間を歪めるものを正しくしようとしたのに対し、ルッターは、人間を歪めるものを一挙に抹殺打倒しようとしたのでした。、前者は、終始一貫、批判し慰撫し解明し通すだけですが、後者は、批判し怒号し格闘して、敵を倒そうとしたのです。ルッターの出発点には、「エラスムスが産んだ卵を孵した」と言われるくらい、ユマニスムに近いものがあったに違いありませんが、キリストの心に帰るために、同じキリストの名を掲げて、意見の違うキリスト教徒(この場合は旧教徒)と闘争するという行動に出て、ヨーロッパに幾多の非キリスト教徒的な暴状を誘発するような事態を作ってしまいました。
(中略)
ユマニストは、批判するだけで、現実を変える力を持ち合わせないし、ユマニスムというものは、所詮無力なものだなどと言われます。しかし、終始一貫批判し通すことは、決して生やさしいことではありませんし、現実を構成する人間の是正、制度の端正を着実に行うことは、現実を性急に変えようとしてさまざまな利害関係(階級問題・政治問題)と結びつき、現実変革の方法に闘争的暴力を導入して多くの人々を苦しめることよりも、はるかにむつかしいことだと思います。わたしのいうユマニスムは、一見無力に見えましょうが、一見無力に見えましょうが、決して無力ではないはずです。ルネサンス期にお互いに血を流し合った新旧両教会の対立は、現在でも残っているとは言えますが、それは、単なる競技場の対立であって、現在、新教徒(プロテスタント)と旧教徒(カトリック)とが鉄砲を撃ち合って殺し合うというような対立ではなくなっています。人々は、同じキリストの名のもとで、キリスト教徒がお互いに殺し合うことがいかに愚劣であるかということを知っているからです。そして、こうした愚劣さや非キリスト教徒的な行為や非人間的な激情をおさえる力に自覚を与えてくれたものは、ユマニスムの隠れた、地味な働きにほかなりますまい。現在、人々は、宗教問題で戦争を起こすことはしない代わりに、経済問題・思想問題で戦争を起こしかねません。しかし、もしユマニスムが今なお生き続けているとするならば、必ずいつか、人々は、こうした諸問題のために争うことも愚劣だと観ずることでしょう。経済も政治も思想も、人間が正しく幸福に生きられるようにするためにあるという根本義を、必ず人々は悟ることでしょう。ユマニスムは無力のように見えてもよいのです。ただ、我々が、この無力なユマニスムが行い続ける批判を常に受け入れ、この無力なユマニスムを圧殺せずに、守り通す努力をしたほうが、殺し合って、力の強い者だけが生き残るというジャングルの掟を守ろうとするよりも、はるかにむつかしいにしても、はるかにとくだということは確かなように思います。
--渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』(岩波文庫、1992年)。
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作家・大江健三郎が師匠と仰いだ渡辺一夫(1901-1975)の一節から。
昨日呑みすぎて、若干調子が悪かったのですが、夕方に短大の成績をつけてから……授業をやるより実は成績をつけるのが一番困難な営みである……、日本のユマニストと称された渡辺一夫の書物を紐解く。
読みながら、涙が溢れ出す。
常々、自分の営み(学問)が、無益な徒労のように思われ、真理を探究しているのではなく、ただ“学問に淫している”のではと感じる部分がしばしばあるが、「そうではないよ」と、渡辺の文章に励ましをうける。
学問を“商売”としている自分自身の営み……すなわち、「人間とは何か」という問いを時折、反省するなかで、まさに自分自身を反省するのだが、つくづつ、その無力感をつきつけられてほかならない昨今です。
さて……
ユマニスムとは、現代的な意味でいうならば、「ヒューマニズム」すなわち「人間主義」のことである。ヒューマニズムは、ラテン語の「フマニタス(humanitas)」由来するが、このフマニタスとは、「人間的なもの」との意味である。
人間主義とは、確かに、極論すれば、「人間に関する」「イデオロギー」である。だからそこには理念があり、範型がある。ただし、そこまで現実の人間はついていっていないし、むしろそれを“喰いもの”にしているのが現状であろう。前者に関して言えば、理念が先行してしまうとプロクルテスのベットとして人間に対峙してしまうし、後者に困泥すれば、自らの存在を内崩させる師子身中の虫となってしまう。固定的な概念がまったく通用しない世界だけに、ひとは手探りで、極端な狂いを避けながら、理想を仰ぎ見つつ、現実を歩んでいくしかない。そこにしか人間は存在しないである。
まさに「寛容と狂信」のあいだで、人間概念を所与のものとせず、自分自身で構築するほかないのである。
ルッターの義侠心もわからなくもない。
不正に対する異議申し立ては、まさに異議申し立てである。
しかし、敵にも見方にも人間存在を見なくなってしまうと、それはもうひとつの狂信の提示になってしまう。
このことはルッターに限られた問題ではない。
自分自身を正義の安全地帯に置かないように常に心がけるしかない。
哲学者ヘーゲルは、「理念的なるものはつねに現実に内在する」と語ったそうだが、現実の苦闘の中で理念を鍛え、それを目指す自己自身であるしかない。理念は現実を離れて存在してしまうとまったく意味がないし、現実は理念の緊張的な批判がない限り、善へと漸進することはできない。
“ジャングルの掟”から卒業し、“無力なユマニスム”を選択するしか人間の未来は存在しないのではないかと思われて他ならない。
感傷的な今日この頃です。
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