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“聖なるもの”に眼がくらむ

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 「あなたは、わたしの興味をそそらない。」このような言葉を、ある人に向かって投げつければ、残酷であり、正義に悖らぬわけにはいかない。
 「あなたの人柄 personne は、わたしの興味をそそらない」という言葉なら、親友同志で心のこもったやりとりをしているうちにこぼれでても、友情の秘めているきわめて繊細なニュアンスを傷つけることにはならないだろう。
 おなじく、「私の人格 personne は、取るに足らない」といっても、みずからを貶めることにはならない。しかし、「私は取るに足らない」といえば、そういうわけにはいかない。
 こうしてみると、人格主義的といわれる現代思想の語彙が誤っていることがわかるだろう。そして、こうした領域で語彙に重大な誤謬があれば、思想に大きな誤謬がないということはまずないわけだ。
 だれにでも何かしら聖なるものがある。しかしそれはその人間の人柄 personne ではない。人間的人格 la personne humaine でもない。きわめて単純に、彼、この人、なのだ。
 ここに、ある人が通りかかり、腕は長く、眼は青く、その胸のうちには私の知らない、しかしことによると凡庸なさまざまな思念がよぎっているとする。
 私にとって聖なるものとは、彼の個性 sa personne でも、彼の内なる人間的人格 la personne humanie en lui でもない。それは彼である。彼の全体である。その腕、その眼、その思念、すべてである。私は果てもなく遅疑逡巡を重ねぬかぎり、これらすべてのうちの何一つ傷つけることはないだろう。
 もし、彼の内部で人間的人格が私にとって聖なるものであるとすれば、私は容易に彼の眼を抉ることもできるだろう。盲目になったところで、彼はそれまでどおり、ひとつの人間的人格である。私は彼の内なる人間的人格には全然触れたことにはならないからだ。私は彼の両の眼を潰したにすぎない。
 人間的人格への畏敬は定義することができない。単に言葉で定義することができないだけではない。輝かしい概念ならそのためにもたくさんある。けれどもそうした概念は、やはり抱懐しえぬものなのだ。思惟を無言で働かせてみたところで、それを定義したり規定したりするわけにはいかない。
 定義したり抱懐したりすることのできない概念を、社会倫理の基準として採用すると、それはあらゆる種類の専制に道を開くだろう。
 一七八九年全世界に向かって発せられた権利の概念は、その内実の不十分さのために、人々が委託しただけの機能をはたす力がなかった。
 不充分な二つの概念を組み合わせ人間的人格の諸権利といってみたところで、どうなるはずもなかろう。
 もし私が、その人の両の眼を抉ることが許されていて、そうすることが面白いとするならば、正しくはいったい何が私の行動を妨げるのか。
 彼の全体が私にとって聖なるものであるとしても、彼はすべての点、すべての面で、私にとって聖なるものではない。両腕が長いとか、眼が青いとか、彼の思念がことによると凡庸であるとか、というかぎりでは、彼は聖なるものではない。彼が王侯であっても、王侯であるかぎりでは聖なるものではない。屑屋であっても、屑屋であるかぎりでは、聖なるものではない。そうしたことが、私の手を控えさせるのではない。
 私の手を控えさせるのは、彼がもし誰かに眼を抉られるなら、彼は他人から悪をこうむったという意識のために魂を引き裂かれるだろうと、私が知っていることなのだ。
 幼少期から死にいたるまで、どのような人間存在の心の底にも、犯罪を犯したり、こうむったり、見たりした経験をもちながら、どうしても、みずからに悪ではなく善をなしてくれるものを期待してしまうような何かがある。あらゆる人間存在における聖なるものとは、何よりもこれなのだ。
 善は聖なるものの唯一の源である。善と善に関係するもののほかに、聖なるものはない。
    --シモーヌ・ヴェーユ(中田光雄訳)「人格と聖なるもの」、(渡辺一民・橋本一明編)『シモーヌ・ヴェーユ著作集 II』(春秋社、1968年)。

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昨夜は、土砂降りの中を帰宅しましたので、起きると、今日も豪雨かなと思っていましたが、そうではなく、空模様はよくはないのですが、なんとなく、雲切れ間に青空が姿をみせる。「時雨の中休みか?」と思いつつ、25通のレポート添削を日中に終わらせる。市井の仕事は休みとはいえ、仕事がたまっているので、終日、自室へ引きこもりますが、やはり外へ出たくなり、レポートを大学へ発送した時点で、近所を徘徊する。

時折、無性に飲みたくなるのが、「コカ・コーラ」ですが、それと同じように無性に飲みたくなるのが「ドクター・ペッパー」です。えもいわれぬ薬味のパンチとチープな甘さの絶妙なハーモニーがなんともいえないものです。

子供さんも今日は幼稚園→剣道→英語教室とはしごのため不在、日中は散歩をいれても、比較的仕事に専念でき、大方の大学の仕事は終わらせることができました。さあ、これから来月締めきりの論文をいよいよ書き始めるかと(資料は既に読み尽くしているので)思う矢先、帰ってくる。

「今日、パパ、休みでしょ! ウルトラマンごっこ、ウルトラマンごっこしようよ~」
「パパは、大学のお仕事だからだめ!」

聞き入れてもらえず、30分だけ、そのままやることになってしまう。

ま、しかし、その30分は比較的、いつもより念入り(?)に誠実に対応したため、夕食後に、なんとなくひきつづく第二陣は、「パパ。お仕事でしょ! だからもういいよ」とすんなり引いてくださいました。

ありがとうございます。

さて、今日の後半戦は、いよいよ9月締めきりの論文をまとめよう(資料はすでに精査すみなので)と思っていたのですが、なにやら疲れがどっと出てくる。

ウルトラマンごっこを強要された「彼」の“聖なるもの”に、眼がくらんでしまったのでしょうか。本当は人間論のパラドックスとしてヴェイユ(Simone Weil,1909-1943)の言葉で議論したかったのですが、ちと、疲れたので、議論は後日の宿題に。

ただ自分自身のヴェイユ観だけ最後に紹介しておきます。

うえの言葉を残したのが、フランスのユダヤ系の女性思想家・シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil,1909-1943)です。

その歩みは、生涯、悲惨や孤高さと向かい合いながら、そして寄り添いあいながら、そして自らその渦中の中で、歩み思索を辞めなかった希有の思想家です。
はっきりといえば、「真似できねえ」し、「そこまでやらなくても……」と言えそうな人物です。
だから、ヴェイユを読んでいると、ドライでクールな社会科学者からは、「青くせえ」と言われそうですが、ヴェイユの言葉というものは、確かに一見すると「青臭い」のかもしれませんが、どこか身に染みてくる部分が多々あります。

哲学とか思想を論じる場合、やはりどうしても概念先行になってしまい、現実の人間の存在を無視してしまう場合が多々あり--それがそれで思想の暴力として発動するわけですが--そうした議論の泥沼から、現実の泥沼へと引きずり出してくれるなにかを、ヴェイユの議論はもっています。なので、染みてくるのでしょう。

ヴェイユにおいては、行動とは思索であり、思索とは行動である。

単なる思索や執筆では満たされないものが、この世界には存在する。
それが名もない虐げられた人々の呻吟であり苦しみであり飢えである。

そこにヴェイユは自ら自然に入っていく。
安っぽい憐れみでも理念としてのヒューマニズムという“立場”からの挑戦ではない。

「やむにやまれず」入っていくひとなんですね。

なので……読んでいるとムズカシイ。

中途半端ですが、すこし整理してまたお話しします。

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