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自分で考えてやってみ?

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自然の状態にある人間は、処理すべき障害、克服すべき困難がなければ、考えるものではない。安楽な生活、努力しなくても成功する生活というのは、考えることのない生活であろうし、したがって、全能の神の生活もそういうものなのであろう。考える人間というのは、生活が閉じ込められ締めつけられていて、目標達成の道を一直線に進むことができない人間である。窮地にありながら、行動が権威によって命ぜられている場合も、人間は考えようとしない。兵士には障害や拘束が沢山あるが、しかし、兵士である限り(アリストテレスがよく言ったように)、彼らは考える人間として名を挙げることあない。上官が彼らに代わって考えるからである。同じことは、現在の経済的条件における多くの労働者についても言える。生涯が思惟を生むのは、思惟が絶対的な出口、緊急の出口である場合に限る。解決への道と判っている場合に限る。外的な権威が支配している時は、思惟は必ず怪しまれ嫌われるものである。
    --ジョン・デューイ(清水幾太郎・清水禮子訳)『哲学の改造』(岩波文庫、1968年)。

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考えるという行為、すなわち思惟は人間存在にとってその存在を存在たらしめるうえでの確かに大切なひとつの契機であるが、これがなかなかに難しい。

デューイ(John Dewey,1859-1952)が言っている通り、やっぱり“何かないと”考えることなどないのかもしれない。兵士として動くことは可能だが、その動きにおいて考えることは全く必要ない。考え決断を下すのは将校の役割であり、兵士はその命令に忠実であればあるほど、“いい兵士”である。

さて……。
市井の職場で5月くらい入社した新しいバイト君がいるのだが、まだ、やはり、なかなか“自分で考えて行動する”という段階へステップアップするのが難しい。

出勤後、朝礼を行い作業指示を出す流れなのだが、宇治家参去自身がレジへ入っていたり、接客中であったりすると細かい指示が出せないまま作業開始となるのだが、なかなか自信を持ってひとりで動きだすということが難しいようである。
もちろん、1年近くやってきたベテランだと、何も言わずともまさに、“適当”(=適切)に仕事をし始めることができるのだが、やはり、2-3ヶ月目では、自信を持って自分ひとりで作業し始めるというのは難しいようである。

とはいえ、ぼちぼち慣れてきたようなのだが、「次何をしたらいいでしょうか?」という段階はそろそろ卒業してほしいものである。

試しに今日は、「自分で考えてやってみ?」とつき返した。
かわいそうといえば、かわいそうな“指示”であり、業務的にも、ある程度作業における優先順位がある中で、“放置”してみるのは、体制としてはきつい部分があるのだが、あえて試みた。

1時間程度、本人が考えて作業をさせてみる。
もちろん、上から指示をだして、それを組み立てさせるほうが能率もよいし、作業もはかどるのだが、それだけが仕事ではないのだろう。

店長からも
「宇治家さんは、今日はがっつりレジですよ」
……ってあり得ない通告を受けていたのですが、そのとおりとなってしまい、細かく指示をだせない部分もあったので、任せてみた。

おっかなびっくり本人も悩みながら作業をしていたようだが、なんとか形にはなってきている。もちろん、ベテラン君や細かい指示を出したうえでの作業よりは時間がかかり、能率も悪いのだが、それはそれで今日はよかったのであろう。

お互いに勉強になったようである。

人間は単純な機械ではないが、機械のように生きていくことも不可能ではない。しかし、機械のように生き続けることは不可能である。それは生きていることではないからだろう。

「安楽な生活、努力しなくても成功する生活というのは、考えることのない生活であろうし、したがって、全能の神の生活もそういうものなのであろう。考える人間というのは、生活が閉じ込められ締めつけられていて、目標達成の道を一直線に進むことができない人間である」

まさにデューイの言葉は至言である。
努力するからこそ迷う(ゲーテ)けれども、そうした試行錯誤のなかに人間が存在する。目標達成には、さまざまな困難や締めつけが待ち構えているのが人生だ。

負けずに考え、歩み続けるほかあるまい。

さて……。
先日、昨年末の地方スクーリングで受講されていた学生さんから手紙が届いていた。今年の夏期スクーリングも参加(1・2期)されるそうである。

「もし先生の御都合がよければ逢ってお話など伺いたいです」

とのことである。

ありがたいものである。
自分からすれば、自分の父母と同世代の壮年の方ですが、学び求める姿に感動する。

都合の折り返し連絡がほしいとのコトで、休憩中に電話する。
確定には至らなかったが、おおむねその日でということで、終話する。

ゲーテが次のように言っている。

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鐘が鳴ったらすぐ教室にはいるのだ。
あらかじめよく予習をして、
ほんの一章一節をよく調べておく。
するとあとで、先生が、
本に書いてあることしか何もいわぬことがよくわかる。
    --ゲーテ(相良守峯訳)『ファウスト 第一部』(岩波文庫、1958年)。

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考え研鑽するのは生徒さんだけではない。
自分自身も限りなき飛翔を目指して研鑽を継続しなくてはならない。

ただし……。
この二日、コーンフレークしか食っていないので(晩酌は別)、今日はすこし豪華に、手製の肉豆腐とハンバーグでがっつり飲んで食ってから寝ます。

おやすみなさい。

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