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「センティメンタリズム」か「ファナティシズム」を避け(酒)ながら

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 このように、物質に対する遠い昔からの恐怖や嫌悪によって、物質は、精神に敵対し、精神を脅かすもの、承認を最低限にとどめるべきもの、理念的目標を侵して、果ては現実の世界からこれを締め出すことのないよう極力否認すべきもの、と考えられて来たが、この恐怖や嫌悪は、既に知的に無力であったのみならず、実際的にも不合理であることが明らかになった。物質が何を為すか、いかに作用するか、という唯一の科学的見地から見ると、物質とは諸条件を意味する。物質を重んずるのは、成功の諸条件を重んずることである。阻止し妨害する条件、変えねばならぬ条件、助長し促進する条件、妨害物の除去や目的の達成に役立ち得る条件などを重んずることである。物質、すなわち、消極的にせよ、積極的にせよ、あらゆる努力の成功を左右する諸条件というものに対して真面目な永遠的な関心を持つことを学んだ時、初めて、人々は、目的や目標に対して真面目な効果的な関心を示すようになった。目的を持つといいながら、目的達成の手段を無視するというのは、この上なく危険な自己欺瞞である。教育や道徳が、化学工業や医学などが自分で見出したのと同じ進歩の道を進み始めるのは、やはり手段および条件に対して--言い換えれば、人類が、長い間、物質的とか機械的とかという理由で軽蔑して来たものに対して--誠実かつ着実に注意を払う訓練を身につけた時のことであろう。手段を無視して目的を考えれば、私たちはセンティメンタリズムに堕落する。理念的なものという名に隠れて、単なる運命、チャンス、魔法、訓戒、説教に逃げ込むか、そうでなければ、予め立てた目的実現のために何も犠牲にするファナティシズムに逃げ込むことになる。
    --ジョン・デューウイ(清水幾太郎・清水禮子訳)『哲学の改造』(岩波文庫、1968年)。

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今はデューイ(John Dewey,1859-1952)が旬でしょう。デューイの話でもひとつ。
プラグマティズムの代表的思想家・哲学者・教育学者として知られるデューイの最大の関心とは何かといった場合、「人間の不在の社会」をどのように転換していくべきか……という点であろうかと思われる。プロパーとしては、哲学・倫理学から教育学(教育哲学)、社会哲学(制度としての民主主義)に至るまで、幅広いジャンルで言及し続けた人物だが、どの著作に置いても見られるのが、上で紹介した関心事である。だから、教育に深く関わり、実験的な試みを行ったり、人間を支えるフレームワークとしての社会哲学にも関わり、そしてそうした道具としての「思考」を人間的な経験と反省の世界で再構築し、それが哲学論として結実する。

さて、デューイは、ウィリアム=ジェームズの影響のもとに、人間の経験を生命活動として理解する。だからそこにおいては、生物学をはじめとする自然科学の成果が重視される。これは思弁を第一とする伝統的な西洋哲学の歴史からみるとすれば、まさに「20世紀の哲学」とでも表現すべき、試みであり、狭い文系とか理系といったジャンルの対立を越境する大きな知の試みである。だからといって、思弁がダメで、自然科学オンリーだとか、またその逆でもない。人間の心理や倫理を、抽象的・観念的な哲学的概念によってのみ説明することが不可能だと見抜いたからこそ、生きた環境(生態系だけでなく人間の社会という意味まで含めて)とのつながりにおいて説明していこうとするのである。

だから単純な観念VS自然科学でもないし、中途半端な結合でもない。デューイがめざしたのは、まさに「人間の不在の社会」を「人間存在の社会」に転換するためには如何にすべきかということだから、そうした対立とか折衷など眼中にはないわけだ。そうした在り方は、まさに学問における「センティメンタリズム」か「ファナティシズム」といった在り方に他ならない。そうしたところをどこか見抜いていたのかも知れません。

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物質、すなわち、消極的にせよ、積極的にせよ、あらゆる努力の成功を左右する諸条件というものに対して真面目な永遠的な関心を持つことを学んだ時、初めて、人々は、目的や目標に対して真面目な効果的な関心を示すようになった。目的を持つといいながら、目的達成の手段を無視するというのは、この上なく危険な自己欺瞞である。教育や道徳が、化学工業や医学などが自分で見出したのと同じ進歩の道を進み始めるのは、やはり手段および条件に対して--言い換えれば、人類が、長い間、物質的とか機械的とかという理由で軽蔑して来たものに対して--誠実かつ着実に注意を払う訓練を身につけた時のことであろう。

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物質の問題も、科学の問題も、そして社会の問題も、倫理・哲学の問題も単律な自存的な在り方として見てしまうと、それは人間の問題となってこない。だから、物質も、科学も、そして人間の幸福を外面から保障しようと形成された社会が、そして冷静に物事を見つめ直そうとした哲学が、人間自身を疎外する結果となってしまうのだ。だから、「目的達成の手段を無視するというのは、この上なく危険な自己欺瞞」に他ならない。

自分と向き合うものすべてに対して、どこかで「誠実かつ着実に注意を払う訓練」をしていかないとなア~という今日この頃です。

ガンジーも常々言っていたが、目的は手段を正当化することはできないし、崇高な目的には崇高な手段が絶えず同伴しなければならない。そうした在り方なんてできねーよって、ニヒルになってしまうと、「目的の為には手段を選ばない」ってことになっちゃんですよね。

なんとかしないとな

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