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永遠の相のもとに

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 定理四一 たとえ我々が我々の精神の永遠であることを知らないにしても、我々はやはり道義心および宗教心を、一般的に言えば我々が第四部において勇気および寛仁に属するものとして示したすべての事柄を、何より重要なものと見なすであろう。
 証明 徳の、あるいは正しい生活法の、第一にして唯一の基礎は、自己の利益を求めることである(第四部定理二二系および定理二四により)。しかし理性が何を有益として命ずるかを決定するのに我々は精神の永遠性ということには何の考慮も払わなかった。精神の永遠性ということを、我々はこの第五部においてはじめて識ったのである。このようにして、あの当時はまだ精神の永遠であることを知らなかったけれども、我々はそれでも、勇気と寛仁に属するものとして示した事柄を何よりも重要なものと見なした。だからたとえ我々が今なおそのことを知らないとしても、我々はやはり、理性のそうした命令を重要なものと見なすであろう。Q・E・D・
 備考 民衆の一般の信念はこれと異なるように見える。なぜならたいていの人々は快楽に耽りうる限りにおいて自由であると思い、神の法則の命令に従って生活するように拘束される限りにおいて自己の権利を放棄するものと信じているように見えるからである。そこで彼らは道義心と宗教心を、一般的に言えば精神の強さに帰せられるすべての事柄を、負担であると信じ、死後にはこの負担から逃れて、彼らの隷属--つまり彼等の道義心と宗教心--に対して報酬を受けることを希望している。だがこの希望によるばかりでなりでなく、特にまた死後に恐るべき責苦をもって罰せられるという恐怖によって、彼らは、その微力とその無能な精神との許す限り、神の法則の命令に従って生活するように導かれている。もしこの希望と恐怖とが人間にそなわらなかったら、そして反対に、精神は身体とともに消滅し、道義心の負担のもとに仆(たお)れた不幸な人々にとって未来の生活が存しないと信ぜられるのであったら、彼らはその本来の考え方に立ちもどってすべてを官能欲によって律し、自分自身によりむしろ運命に服従しようと欲するであろう。こうしたことは、人が良い食料によっても身体を永遠に保ちうるとは信じないがゆえに、むしろ毒や致命的な食物を飽食しようと欲したり、精神を永遠ないし不死でないと見るがゆえに、むしろ正気を失い理性なしに生活しようと欲したりする(これらのことはほとんど検討に価しないほど不条理なことである)のにも劣らない不条理なことであると私には思われる。
    --スピノザ(畠中尚志訳)『エチカ (下)』(岩波文庫、1975年)。

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大雨のため、本日は比較的、来客者が少なく、今日は比較的楽といいますか、余裕をもって仕事をさせて頂いた。20時過ぎに休憩に入ったが、この休憩時間がたいせつな学びのひとときである。

今日は、久しぶりにスピノザ(Baruch De Spinoza,1632-1677)の『エチカ(倫理学)』を紐解く。ちょうど勤務校の通信教育部の夏期スクーリングの予定受講者人数の通知があったが、幣職の担当する『倫理学』は昨年とほぼ同様の100名程度。対して『哲学』は300名近くで……やはりマイナーさに、すこし忸怩たるものもあるが、御受講される皆様方よろしくお願いします。

その関連で、仕込みとして『エチカ』を読み直す。副題に「幾何学的秩序に従って論証された」とあるように、ユークリッド幾何学を髣髴させる定義・公理・定理・証明の壮大な体系となっている。ひとつの定理の証明のあとには必ずQ.E.D.との署名で終わる。これは、ラテン語で、「これが証明されるべき事柄であった」を意味するもので、まさにその体系構築への熱意と詳細な現実観察の反映をそこにみてとることができる、かっちりとした書物である。

さて……読みながら、徳のある生活とは何かとふと考えながら、個の存在とその共同体とのかかわりを考えていたわけですが、10分足らずで、内線が鳴り響く……。

いや~な予感がしたのですが、
「お客様からサービスに関する問い合わせ? ……要望かもしれません」
……って呼び出しを食らう。

携帯内線だと音声が途切れ途切れになってしまう部分があるので、固定電話に切り替え、サービスカウンターで話を伺うと、要点は次の通りである。

「いつも沢山買い物しているから、公定のサービスに幅を持たせた対応をしろ」とのことである。

うちの市井の職場はGMSになるのですが、設定された時間内(AM10:00-PM5:00)にいくら以上買うと、地域と配達件数の制限はあるのですが、当日配達できるというサービスを提供している。

設定があるので、もちろん、お住まいの地域が対象外の地域だと配達できないし、受諾件数オーバーでお受けできないこともある。ただし条件を満たせば配達料金は無料である。だからサービスである。

しかし……
受付時間を延ばせ!
明日からそういうシステムしろ!
自分は沢山買い物している(=たくさんのお金を落としている)から“ひいき”しろ!

との主張は無茶振りである。
ひとまずは、「御意見」を伺いながら、できる部分とできない部分、そしてそうした提案に関して実現可能かどうかのやりとりを繰り返し、その「御意見」の授受部分に関しては、ものの5分で案件は終了する。

専門店とか百貨店とちがい、基本的にはGMS(General merchandize store,ないしはHypermarket)は、個別のお客様に対する“特別扱い”はしないのがその存立の前提である。もちろん株主優待とかそういうものは存在するけれども。だから、どういうお客様であれ、基本的に“特別扱い”しないから、“セルフ”の対応になるし、それを理解いただいた上での価格提示となる。それが専門店とか百貨店との大きな違いである。

暴論すれば、自分だけ贔屓してもらいたいのなら、その要求は専門店とか百貨店における“お得意様”になってもらうしかない。

自分としては大嫌いな職場ではあるが、そういう意味では、“特別扱い”を許容しない「平等」原理について、種々考察させてくれる局面であり、商取引の現場に限定されえない広大な思考空間を実は提示させている。自分自身が、極論すれば、えこ贔屓してもらうためには、自分自身に関わる他者に対してもえこ贔屓せざるを得なくなってしまう。しかし、すべてのひとにたいするえこ贔屓は不可能である。であるとすれば、自己を自己自身で制御しながら、お互いに向かい合っていくほかない。

いうまでもないが、自己を特別な代替不可能な存在とみなすならば、自己と対峙する他者をも代替不可能な存在として尊重しなければならない。そうした心根がない限り、約束事で形成されている“共同体”は存在することが不可能である。

そのことが理解できないひとびとが跋扈しつつあるのが現状だろう。だから、宇治家参去は“大声”を挙げることもしないし、“相手の非”を衒い、片手に刀を、そして片手に敵将の首をぶら下げることを潔しともしない。

さて……。
お話のお伺いとそれに対するレスポンス自体は、上述したとおり、ものの5分でクローズするが、その流れ(?)で、お客様の人生論の講義が2時間も続く。こっちは仕事がのこっているのだが終話(=切電)することもできないので、真摯に伺う。

受話器をおろしたたら2時間あまり時間が経過していた。
しかも携帯電話からのコレクトコールである。

わるいひとでもないし、話も理解できるし、こちらの状況も理解して頂いたが、なんとなくおさまりがしごく悪い。

確かにスピノザのいうとおり「徳の、あるいは正しい生活法の、第一にして唯一の基礎は、自己の利益を求めることである」。
しかしそこに「勇気と寛仁」が伴わない限り、無制約的な利への追求は自分自身をも損なう結果になりかねないと思うのだが……。

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