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飛べ、つばめの雛よ、大空へ。

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帰宅すると驚くことに、台所にてツバメの子を発見する。
産毛が抜けきらぬところを見ると、飛行訓練をはじめて間もないツバメの子のようだが、どうしてうちに入ってきたのであろうか。

ちかくにツバメの巣は散見されない。
とりあえず、部屋を見てみると、窓が少し開いていた。
そこから流れ入ってきたのであろうか。

掬い上げてみると、かなり弱っている。
部屋の中に置いておくのも何なので、一度、外へ出て空へ放りなげてみるが、すぐに落ちるというか……2-3m先の植え込みにしがみつき、ぜえぜえいっている。

このまま放置するのも“忍びない”ので、とりあえず、もう一度拾い上げ、ベランダにおいておくことにした。

ミルワームはないが、猫フードが若干あったので、明朝、ふやかして与えてから、野に放とうと思う。

ツバメは飼育がムズカシイ鳥だと聞く。
まちがっても、うちに居残りなんてことはしないで下さいよ、ツバメさん。
早く野に帰って下さい。

しかし、その瞳をみると、放ってもおけないよなあ~。

ともあれ、明朝考えてみようと思います。

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……事実は生命は有機体に釘付けにされ、有機体は生命を無生な物質の一般法則にしたがわせる。たしかにそうだとしてもやはり一切の経過からいって、生命はそうした法則からのがれようと全力をつくしているかのようにみえる。生命には物理変化をカルノの原理できまる方向から逆転させる力はない。しかし少なくとも絶対的には、生命の振舞いかたはある力がひとり歩きをゆるされて逆の方向にはたらくときの様子に似ている。生命は物質変化の歩みをとめることはできないけれども、それを遅らせるところまではゆける。
    --ベルクソン(真方敬道訳)『創造的進化』(岩波文庫、1979年)。

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我が子ではないが、動物のつぶらな瞳をお互いに眼差し合うと、やはりどうしても何か“忍ばず”にはおれない“情念”がふつふつとわき起こってくる。
動物とは確かに“動く物”であり、人間という動物は同じでありながら、まったく異なる存在として存在しているにもかかわらず、同質性も実感する。有限でありながらその自然界の法則をうちやぶりつつ“生きていく”という創造性にその生命力があるのかもしれないし、生命が論じられる場があるのかも知れません。

実に……
生命と生命の対峙とは、“忍ばず”にはおれない無作為の歩み寄りなのかもしれません。

生命論をもういちどきちんと整理する必要がありそうです。

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