« 始めの条件としての思惟の自由 | トップページ | 見よ! わたしはきみたちに最後の人間を示す »

【覚え書】)E.レヴィナス「人間の諸権利と他者の諸権利」

01_r0010976

政治、平和、自由、尊厳性、友愛の感覚……いろいろと考えるところしばしあり。

何も考えることができておりませんが、チト重要だと思い、自分自身に対する覚え書として残しておきます。

政治の世界での泥試合や企業や責任ある個人の不祥事……。
本当に考えなければいけないことがあるはずなのに、何かセンセーショナル話題でガス抜きをされ、気が付くと社会全体が、なんとなく、右旋回を始めているような、そしてその笛にひかれて、歩みを辞めないというか……今世紀に入った当たりから、そうした雰囲気がどうも濃厚にたちこみはじめているのではないだろうか。

ワァァーッと、感覚的なものに左右されるなかで……それはそれとしてシカタガナイのかもしれませんが……考える感覚が鈍磨しているとでもいえばいいのでしょうか、それが何かはまだはっきりとは浮かび上がってこないのですが、何かが違うんだよなって、市井の泥沼にどっぷりつかり、泥水を飲みながらも、精神的には暇なので、なにかそういう不安を感じ取るある日の神学徒・宇治家参去です。

本当に考える時間がなくすいません。

-----

人間の諸権利の擁護は、国家の外なる使命に応えるものだという意味でもある。政治的社会にあっては、国家の祖となる使命は一種の治外法権を享受している。旧約での政治的諸権力を前にした、予言の使命と同様なのだが、政治的知性とはまったく異質な警戒・監視であり、また、普遍性の形式主義の前に屈服することなく、己が限界に踏み止まりつつも正義を指示するような明晰さであろう。このような治外法権と独立性を保証する可能性、それが自由な国家を定義すると共に、政治と倫理の接合がおのずと可能となるような様態を描き出すのである。

 しかし、そうだとすれば、人間の諸権利を擁護する際には、これらの権利を、ただ自由を起点としてのみはもはや理解しないのが妥当であろう。ある自由は潜在的にはすでに他のすべての自由の否定であり、そこでは、正しい配置は相互の制限にしか由来しないだろうからだ。譲歩と妥協、である! 回避不能な正義には、まずもって敵対し合い、敵対の可能性をはらんだ意志と意志のあいだに確立される比率という権威以外の「権威」が必要である。ここにいう比率が、それに先立つ平和ゆえに、諸々の自由な意志によって承認されなければならないのだ。しかも、平和は単なる非=攻撃性ではなく、こう言ってよければ、それ固有の肯定性・積極性をそなえた平和である。そこにはらまれた善良さの観念はまさに、愛から生じた没-利害を示唆している。それゆえに初めて、唯一者ならび絶対的に他なる者はその意味を、愛される者ならび自己自身のなかで表現できるのだ。正義において、互いに排斥し合う諸項の純粋な尺度--適度--という基準で事足れりとすること、それはまたしても、人類の成員同士の諸連関を、あるひとつの論理的外延に属する諸個体同士の諸連関と同一視することに帰着するのだが、このような個体は互いに、否定や付加や、あるいはまた無関心をしか表しはしないのである。それに対して人間にあっては、個人から個人へと、近さ(proximité)が確立される。しかも近さは、ある概念の外延に関する空間的比喩を介して意味を得たりはしない。二人の個人がいる場合には、当初から一方の面前に他者がいる。自我が他のためにあるのだ。人間における理性的存在の本質は単に、知識としての心性が諸事物のなかに到来することを指しているのではない。因みにここにいう知識とは、矛盾に陥ることを拒む意識=共同の知識の謂であるが、それは自分以外の諸事物を普遍的なものの同一性へと疎外することで、概念のもとにそれらを包摂してしまうのだ。そうではなく、人間における理性的存在の本質は最初はある概念--人類--の外延に属していた個人が、その類のなかでは唯一のものとして、それゆえ、他のすべてのものと絶対的に異なるものとしてみずからを措定する能力をも指している。この差異のなかで、個人は単なるものに無-関心-ならざる者と化するのだが、ただしその際、論理的概念が再構築されて、再び自我がそれに捕えられることはない。<<無-関心-ならざること>>、根源的な社会性-善良さ、平和ないし平和への願い、「シャローム」〔平安あれ〕という祝福、出会いという最初の出来事。差異--<<無-差異-ならざること>>--、そこでは、他なるもの--それも絶対的に他なるもの--、こう言ってよければ、「同じ類」--自我はそこからすでに解き放たれた--に属する諸個人相互の他者性より「以上に他なるものであるような」他なるものを私が見つめている。私を「知覚する」ためではない。そうではなく、他なるものは「私と係わり」、「私が責任を負うべき誰かとして私にとって重きをなす」のだ。この意味・方向において、他なるものは私を「見つめる」、それは顔なのである。

 平和のなかの善良さ、それはまた自由の行使でもあって、そこでは自我は、他者に責任を負うために、他の人間の諸権利を擁護するために、その「自己回帰」から、その自己肯定から、存在者としての、その己が存在への固執から解放される。責任における<<無関心-ならざること>>ならびに善良さ、これら二つの事態は、愛と敵意に挟まれた中立的な事態ではない。平和への願い--善良さ--が最初の言語でるような出会いを起点として、これら二つの事態を思考しなければならないのだ。

 共和国の標語のうちに姿を現す友愛であるが、この先行的な<<一方が他方に無-関心-ならざること>>のうちに、この根源的な善良さのうちに、友愛を認知すべきではなかろうか。自由が根づくのもそうした善良さにおいてであって、人間の諸権利に関する正義はそこに、国家によって保証される以上に揺るぎない射程と安定性を見いだすのである。友愛のなかの自由。友愛においては、一方の他方に対する責任が肯定されるのだが、かかる責任を介して、人間の諸権利は具体的なもののなかで、私が責任を負うべき他者の権利として意識に現れることになるのだ。他の人間の諸権利として、私にとっての義務として、友愛における私の義務として、根源的に現出すること、それこそが人間の諸権利についての現象学である。ただし、この種の現象学の根源的な「配置」では、強いられる者の諸権利もまた自由として肯定されるのだが、それは単に転移によってや、他者のうちに現れるような人間の諸権利の一般化のおかげではない。他者に対するこの者の義務は彼の責任を呼び覚ますもので、それは彼自身の自由の信任でもある。以上に述べたようなものとして、忌避不能かつ不断の責任において、私は交換不能な者として創設される。私は唯一で比較不能な者として選ばれるのだ。他の人間の自由や諸権利に対する私の異議提起のうちに姿を現すに先立って、私の自由ならびに私の諸権利は、まさに責任として、人間の友愛のなかに姿を現す。汲み尽くしえない責任である。なぜなら、他者から放免されることは決してありえないからだ。
    --E.レヴィナス(合田正人訳)「人間の諸権利と他者の諸権利」、『外の主体』(みすず書房、1997年)。

-----

02emalevinas

外の主体 Book 外の主体

著者:エマニュエル レヴィナス
販売元:みすず書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 始めの条件としての思惟の自由 | トップページ | 見よ! わたしはきみたちに最後の人間を示す »

覚え書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/451663/23805130

この記事へのトラックバック一覧です: 【覚え書】)E.レヴィナス「人間の諸権利と他者の諸権利」:

« 始めの条件としての思惟の自由 | トップページ | 見よ! わたしはきみたちに最後の人間を示す »