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2008年9月

近代の陥穽:聖徳太子と比べなくても……

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 一般に近代的なものといはれるものは欧羅巴的なるものである。近代は政治的・経済的にも文化的にも、欧羅巴的世界が世界全体へ自らを拡大した「近世」の末期に位する。日本に於ける近代的なるものも、明治維新以後に移入された欧羅巴的なるものに基く。然るに、欧羅巴文化の移入における顕著な特色は、文化の諸部門が殆ど相互の連絡なしに離ればなれに輸入されたといふことである。これを例へば聖徳太子の時代以来の支那文化の輸入と比較すれば、そこに著しい相違が見られると思ふ。支那文化の輸入の際には、仏教や儒教を中心にして他の諸部門のものが連関的に輸入されたのである。この相違は、西洋文化が既に各専門的な部門に分類したもの、その意味で所謂「進歩」した文化であつたことによるともいへるかも知れない。併し単に専門的な領域への分化といふだけならば、その間に連関があり得る筈である。然からば日本自身が連関あるものを切れ切れに輸入する仕方をとつたのであらうか。併し原因は寧ろ一層根本的なところにあると思はれる。即ち輸入された西洋文化が、既に西洋自身に於て連関性を喪失してゐたからである。従つて、単に専門的領域への分化といふだけではなくして、其等の分化したものを統一する中心がなく、文化が全体としての統一性を失つてゐたのである。然もそのことは既に欧羅巴近世の初めから伏在してゐる。近世欧羅巴は屢々世界観的無統一の時代といはれるが、一層根本的には、統一的世界観を可能ならしめる基盤の分裂の時代である。近世は、文化的には、宗教改革とルネッサンスと自然科学の成立といふ、三つの運動によつて、中世との訣別を決定的にしたといへる。この三つの運動は近世全体を通じて近代までの西洋の精神文化を支配した三つの大きな流れの源となつたのであるが、然も其等の流れは一つの本流の支流といふべきものではなくして、相独立した、そして根本において相衝突すべきものである。
    --西谷啓治「『近代の超克』私論」、『文學界』(文藝春秋、昭和17年九月)。

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15時に紀要掲載論文を脱稿。
ようやくひとつのやまから解放です。
いつもぎりぎりですが、今回は前日に大幅手直しで、一日で原稿用紙四〇枚の記録達成です。あまり名誉な記録ではありません。

メールにて無事入稿。

ただ完成はしましたが、まだ納得いきません。

とりあえず、夕方に慰労会を強引に開催。
ひといきついて今日は休ませて戴きます。

皆様、励ましありがとうございます。

さあ、次はいよいよ博論を1ヶ月でまとめます。

過酷なロードレースは果てしなく続きます。

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父さん  焼酎と ボク  そのまんま

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 要するに、動物は外的自然を利用するだけであり、もっぱらその存在によってのみ外的自然に変化をもたらすのであるが、人間はみずから変化をもたらすことによって自然を自分の目的に奉仕させ、自然を支配するのである。そして、これが人間をその他の動物から区別する最後の本質的な差異であって、この差異を生みだすものは、またしても労働なのである(1)。
(1)手稿の欄外に、鉛筆で「品種改良」と書きこまれている。
    エンゲルス「猿が人間になるについての労働の役割」、大月書店編集部編『猿が人間になるについての労働の役割 他10編』(大月書店、1965年)。

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こういうのが人間中心主義の典型的な例なのでしょう。
自然を支配し、環境を操作し、あくなき支配欲望のスパイラルに陥っているとでもいいますか。

‥‥‥という場合ではないのですが、30枚まで仕上げましたが、極めて納得いかないので、最初から書き直し始めました。

我ながらチャレンジャーだなと思います。

父さん  焼酎と ボク  そのまんま

ハイサワーのケースに書かれたコピーですが、シュールですな。

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「人間とは何か?」

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「近代は人間性の解放時代だ」などといふ標語と「近代は人間性の喪失時代だ」といふ告白との間には、夢と現実の差がある。その点で教権の圧迫から解放された自由な人間性が、近代の素晴らしい科学文明と社会文化を造つたのだと、如何にも芝居じみた政談演説のやうな尤もらしい無数の教科書的常識の前に、「人間とは何か?」とヨーロッパ知性が真に問ひ始めたのは、つい最近の事であることを考へねばなるまい。カール・アダムが例の『カトリシスムの本質』の中で、十六世紀における「教会よりの分離」は、十七、八世紀における「基督よりの分離」(理神論)となり、十九世紀以来の「神よりの分離」(無神論)へと必然的論理を辿つて行つた事を指摘するものに西欧精神史の現実的弁証法があり、而して「神を殺すのもは人間を殺すものだ」となすベルジアエフの言が直ちにこれに呼応するであらう。も一つ近代的無神論の弁証法をマリタンの仕方で指摘すれば、デカルトにおいて神は人間の造物神(デミウルゴス)の活動の背後に、その合理的世界支配の保証者(garant)として、人間性より方法論的に二元論的に分離されてゐたものから、ヘーゲルにおいて神は限界概念として人間の理性理念のうちに吸収される所の一元論(モニズム)に解消され、やがて唯物論的無神論と人間性の技術主義的規定の文明風土において人間其のものゝ生命停止となる所に、近代人間中心的ヒューマニズムの厳格な弁証法があるのである。
    --吉満義彦「近代超克の神学的根拠」、『吉満義彦著作集 1』(みすず書房、1947年)。

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あいかわらずループしておる宇治家参去でございます。

ただ、考えるのは、徹底的批判としてあらわれたプロテスタンティズムが、自然と文化と人間を分断する側面として機能したのであれば、なんらかのとらえ直しは必要なのだろうということ。

まったく考察できておりませんが、あと2,3日でこの仕事も終わりますので、おわりましたらまたじっくり考えてみようと思います。

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頭の中で、ループするといふやうな

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今日一般に単純な宗教の否定をなす人々は殆ど見当らないがと言つてよいが、然しその際多くは宗教を肯定する仕方が、結局文化としての宗教を認めようといふのであつて、得に宗教的な世界観を自ら認めるといふやうな、宗教の肯定とは自ら異なつてゐるやうに思はれる。近代の十九世紀までのヨーロッパの所謂近代思想の立場では、かのオギュスト・コントの実証主義的な三段階説で言はれるやうに、古代人の神話的な宗教的なものの考へ方から、哲学的形而上学的な抽象的理念で考へる立場に発展して、更に之を克服して実証主義的な科学的な現実の観察と法則の把握へと言つた進展の仕方を以て、次第に合理主義的な考へ方によつて、宗教的な世界観の立場は殆ど理論的にはその立場を失つたと言はれるやうな状況にまでなつて来たのである。かうした帰するところ人間中心的自然主義乃至唯物主義に帰する立場が、広く西洋的な精神史に於いて、無神論的な悲劇的な状況にまで押しつめられて行つた処に、所謂ヨーロッパ文化の危機の問題があるのであるが‥‥
    --吉満義彦「文化と宗教の理念」、『吉満義彦著作集 1』(みすず書房、1947年)。

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どうも、こういう文体ばかりを読んでおりますと‥‥

知らぬうちに文体が体になじんでまゐるやうに思はれます。
不思議なもので、頭の中で、ループするといふやうな情況で、現代の文体が失はれていくやうに思はれてほかなりません。

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今日は、「弱い、ほうけた人間」でお許しを

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 標準時計
 偉大なひとたちにとっては、完成された作品よりも、生涯をつうじてそのための仕事が続く断片のほうが、いっそう重要である。じじつ、完結させることに無類の喜びを覚え、これでまた自分の生活に戻れたなどと思う者は、かれらよりも弱い、ほうけた人間にすぎない。天才(ゲーニウス)にあっては、重大な運命の打撃であれ穏やかな眠りであれ、仕事の中断はことごとく、工房の熱気そのものに転換される。そしてかれの断片で輪廓が示されるのは、かれを捉えて離さぬその工房の広がりなのだ。「天才(ジェニー)とは持続する熱気である。」
    --ヴァルター・ベンヤミン(野村修訳)「標準時計」、『暴力批判論 他十篇 ベンヤミンの仕事1』(岩波文庫、1994年)。

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歴史は繰り返すと言いますか、人間には学習能力がないと申しますか、いつものごとく、ぎりぎりまで手をつけない宇治家参去です。そのことでいたいめにあうのは分かっているのですが、歴史は繰り返します。そしてそのことを学習しないのが人間という生きものかもしれません。

昨日、「ぼちぼち締めきりですよ」ってメールが届いていた。

引用箇所はすべて入力しましたし、プロットも立っている。
……しかし、まだまとめてないんですよね、末締めの論文を。

提出まで今日しか休みがありません。

今日はがんばります。

とりあえず、死ぬまで“持続する熱気”は失いたくはないのですが、“完結させること”そして“完成”させることが目下重要であります。

レポートを書いていらっしゃる皆様もこんな気持ちなのでしょうかね?

とりあえず、サクマ式ドロップスでも舐めてみます。

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すべての人間に対して正しい態度でのぞみ、ひとりの人間を隣人として敬意をこめて扱う

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 国家が個人を、国家よりも高い、独立した力として認識し、国家の力と権威はすべて個人の力に由来すると考えて、個人をそれにふさわしく扱うようになるまでは、真に自由な文明国は決してあらわれないであろう。すべての人間に対して正しい態度でのぞみ、ひとりの人間を隣人として敬意をこめて扱う国家が、ついに出現する日のことを想像して、私はみずからを慰めるものである。そのような国家は、隣人や同胞としての義務をすべて果たしている少数の人間が、国家に口出しせず、かといって歓迎もされず、そこから超然として生きてゆくとしても、それが国家の安寧を乱すものだ、などと考えたりはしないであろう。国家がそのような実を結び、実が熟すればたちまち地上に落下するにまかせるならば、それはいよいよ完璧なすばらしい国家に向かう道を準備することになるであろう。私はこれまで、そのような国家についても想像をめぐらせてきたのだが、そうしたものはまだどこにも見あたらない。
    --H.D.ソロー(飯田実訳)「市民の反抗」、『市民の反抗 他五篇』(岩波文庫、1997年)。

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べつにどうのこうのというわけでもありませんが、「美しい国」と「希望と安心のくにづくり」に続く大きなヴィジョンが「明るく強い国」と出てきました。

極端な言い方ですが、政治家には大きな物語の提示は全く期待しておりませんし、革命的なヴィジョンを仮託しようとも思いません。

グラッドストーンとかチャーチル、ワシントンとかF.ルーズベルトのようなカリスマ的リーダーシップを期待するわけでもありません。もちろんそうしたものがあったならあったでいいのはいいのでしょうが、逆にいえば、問題のある方向へ導いていく可能性も否定できない部分もある。だから、自分としてはそうしたヒーロー政治家よりも、淡々と問題を発見し、現状を漸進させていく実務の人であれば問題ないだろうと思います。

国民国家という制度は、人工物の仮象にすぎません。

強制力と保護力はひとつものの裏表であるがゆえに、そこに何か実体を感じてしまう感覚は現実には存在する。
そうした力をみると、なにかそうした人工物の仮象を実体であるかのように錯覚してしまう側面がありますが、しかし、どのような国家論をとろうとも、近代以降の国家制度は、仮象にすぎません。

しかしその仮象が実体味を覚えれば覚えるほど、「国家の力と権威はすべて個人の力に由来すると考えて、個人をそれにふさわしく扱うよう」とする方向性とは逆の報告へ進んでしまうのがこれまでの世界の歩みであったし、日本の歩みであったのだと思います。

そういう意味では、「美しい」とか「強い」国構想には、その組み立て方の議論は別にしても、なんとなく居心地の悪さを感じてしまいます。

ソロー(Henry David Thoreau,1817-1862)は、不正な政府に対しては断固として非暴力な市民的不服従で抵抗すると宣言した人物です。このソローの発想と運動の定式化がいうまでもなく、ガンジーとM・L・キングの運動に具体性を与えた淵源になっておりますが、ソローの国家観を見ていると、本来そういう方向性へ人々は歩みをはじめるべきだと思うわけですが、現実はほど遠いです。

「すべての人間に対して正しい態度でのぞみ、ひとりの人間を隣人として敬意をこめて扱う国家」こそ、“美しく”“強い”国家なのだと思います。

ソローの謂いは理想的なヴィジョンに過ぎないかもしれません。
しかし、その理想的な在り方を早急に実現しようとして失敗したのがこれまでの急進的な革命・改革だったのであり、それは単なるまた一方での幻想だったのだろうと思います。

「国家がそのような実を結び、実が熟すればたちまち地上に落下するにまかせるならば、それはいよいよ完璧なすばらしい国家に向かう道を準備することになるであろう」

実を結ぶ努力を怠ってはならないなと実感しております。

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Plato, Not Prozac !

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 幸福こそが哲学の目標です。もっと正確に言うなら、哲学の目標とは叡智であり、だからこそ幸福でもあるのです--なぜなら、繰りかえしになりますが、哲学の歴史を通してみると、そしてとりわけギリシアの伝統のなかでもっとも評価されている見解の一つによれば、叡智がそれと認められるのは幸福のもとでのことであり、すくなくとも幸福のある種のあり方においてのことなのですから。というのも、賢者が幸福であるとしても、そのためには、どんな方法によっても、どんな犠牲を払ってもよいというわけではないからです。叡智が幸福であるとしても、そのためには、どんな幸福でもかまわないということではありません。たとえば、麻薬や幻想や気晴らしなどを通じて得られるような幸福ではありません。医者達がこの先数年のうちに--もう先の話ではないと言う人たちもいますが、ご安心ください、まだそれなりの進歩をまたなければならないようです--新薬を、たとえば一種の抗不安剤や絶対の抗鬱剤を、しかも強壮剤でもあり多幸感発現剤でもあるような薬を発明し、さしだすとしてみましょう。いわば幸福の丸薬です。青や赤や緑の小さな丸薬を毎朝飲むだけで、完璧な幸せの状態に、完全な幸福のうちにいつまでもいることができるようになるのです(副作用もなければ、耐性がつくこともなく、依存症になることもありません)……。それを試すのを絶対に拒否しろとは言えませんし、ときには、たとえば人生があまりにつらいときなどには、しばらくのあいだ定期的に服用してみることもなくはないでしょう……。でも私が思うに、ほとんどの人がこの薬を常用するのをよしとはしないでしょうし、いずれにせよ薬による幸福を誰も叡智とは呼ばないでしょう。もちろん、さまざまな幻覚や偽りや忘却からなるそれなりに効果のあるシステムだけから生ずる幸福についても、同じことです。私たちの望む幸福とは、つまりギリシア人たちが叡智と呼び、哲学の目標ともなっている幸福とは、麻薬や偽りの幻覚や、パスカルの言葉を借りれば気晴らしによる幸福などではないのです。幸福とは真理とのある種の関係のなかで得られるものであり、それが正真正銘の幸福、真の幸福なのです。
    --アンドレ・コント=スポンヴィル(木田元・小須田健・C.カンタン訳)『幸福は絶望のうえに』(紀伊國屋書店、2004年)

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フランスには、例えば現代哲学における最新の尖鋭な理論知もあれば、その対極に位置する人間論の系譜としてモラリストの伝統がかっちりと存在する。

アンドレ・コント=スポンヴィル(André Comte-Sponville,1952-)も、そうしたモラリストの伝統にたつ人物ではなかろうかと思われる。もちろん、モンテーニュやアランのそれを期待することはできないが、それでも、日常生活の喧噪のなかで、考えることの意味や、生きることの意味を問い為すその試みは、そうした人間論の系譜におくことができるだろう。

アリストテレスが「善とは幸福である」(『ニコマコス倫理学』)と定式化したように、「幸福こそが哲学の目標」なのでしょう。

幸福とはおそらく何か恣意的なもの、何かに依るもの、何かを宛てにするものではないのかもしれない。感覚的な喜びや楽しみが決して無意味なものということではない。いうまでもなく、そうした潤いを欠いた生活はモノクロームでどこかギスギスした空虚な世界を伴うものである。しかし、そうした喜びや楽しみのみが幸福の本質でもなかろうということは本能的になんとなく理解できる、言葉にできないとしても。

理念が人間を規定してしまうと、人間/非人間という分断化をもたらしてしまう。にもかかわらず、現状を相対化させる超越の契機としての理念は一方で必要である。

それと同じように、幸福にも何らかの理念乃至は真理概念との関わりが必要なのだろう。理念乃至真理が幸福を規定するのではなく、現状を内在的に超越させる契機としての理念乃至真理との関わりはどうしても必要なのだろうと思ってしまう。

そのあたりをスポンヴィルの議論は、巧みな譬えと表現で証示しているようである。

「幸福とは真理とのある種の関係のなかで得られるものであり、それが正真正銘の幸福、真の幸福なのです」

現実の世界とは別の世界に幸福があるわけではない。
しかし今の現実そのものが幸福であるわけでもない。
しかし、得られる場も、同じく現実の実存の生活空間において他にはない。

しかしだからこそ、やはり何か、自己自身の現在の有り様を、理念や真理、叡智との関わりにおいて、なんらかの形で現在を相対化させ、別の世界へ飛ぶという意味合いではなく、内在的に“超越”させていく必要がどうしても必要なのでは……とふと思う。

こういうことを考えているので、どこかバタ臭さがあるのでしょうか。

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許容されたものとして前提したりするという便宜をもっていない

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 哲学は、他の諸科学のように、その対象を直接に表象によって承認されたものとして前提したり、また認識をはじめ認識を進めていく方法をすでに許容されたものとして前提したりするという便宜をもっていない。なるほど哲学はまず宗教と共通の対象をもってはいる。両者ともに真理を対象としており、しかも、神が真理であり、神のみが真理であるという最高の意味における真理を対象としている。また両者ともに、有限なものの領域、すなわち自然および人間の精神、それらの相互関係、およびそれらの真理としての神とそれらとの関係を取扱っている。したがって哲学は、われわれがその対象を識っていることを前提しうるのみならず、それを識りそれに関心をもっていることを前提しなければならない、とさえ言える。このことは、意識は、時間からすれば、対象の概念よりも表象の方を先に作るものであり、しかも思惟する精神は、表象作用を通じまた表象作用によってのみ、思惟的な認識および把握へ進むのであることを考えただけでも明らかである。
 しかし、思惟的な考察をしてみればすぐわかるように、思惟的な考察というものは、その内容の必然性を示し、その対象の諸規定のみならずその対象の存在をも証明しようとする要求をそのうちに含んでいるものである。したがって単に対象を識っているだけでは不十分であり、また前提や断言を作ったり承認したりすることは許されないことである。しかしそれとともにはじめを作ることの困難が生じてくる。なぜなら、はじめは直接的なものであるから、それは前提を作るものであり、あるいはむしろそれ自身前提であるからである。
    --ヘーゲル(松村一人訳)『小論理学 (上)』(岩波文庫、1978年)。

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自分としてはいい講義ができなかったなと喘ぎ・実感したときの方が、「よかった」「深く考えることができた」という反応が多い。あとで、学生さんからの感想を読んでいるとそうなのである。また逆に、今日はなかなかナイスな講義となったと満足したときは、「難しかった」「なかなか理解出来なかった」という声が多く寄せられる。しかし、この謎はまだ解明されていない。

さて形而上学としての哲学とはいわば、根本的な根拠を探求する知的試みとなるわけです。
形而上学(Metaphysica/Metaphysics)は、ギリシア語の μεταφυσικάに由来する言葉で、アリストテレス(Aristotélēs,384 BC-322 BC)がそのままの書名の著作を遺しておりますが、physica(自然)のmeta(あと・奧)を探求するという意味をもっています。ですので、自然現象や物理的な存在、そして概念的な対象が存在する理由や根拠についての問い、そしてそれをめぐる議論のことと言ってよろしいかと思います。そのため問いとしては、「それが何か」というおりも「なぜそうなのか」という問いかけが形而上学的な問いかけということができると思います。

いつもの如く、きわめて極初回の講義では、「なぜ人を殺してはいけないのか」議論させることにしております。
こうした議論をさせると、やはりよく寄せられるのが「考えてもみなかった」「殺してはいけないから殺してはいけないと思っていた」というものである。その意味で知的刺激にはなるのでなかろうかと思う。

たしかに、人を殺す行為は、“善い”とはされない行為であり、称賛もうけなければ推奨もされない在り方である。
しかしこのことは、いつまでたっても、前提的なものとして受けとめてしまうと、根拠のない、他律的なルール、ないしは、酷いいい方になってしまうけれども、「理由はよくわらないかが守った方がよい」強制として機能してしまう。

そうした問題に関しては、自分の中である程度は「なぜそうしてはいけないのか」という前提に対する反省がない限り--たとえ、なんらかの結論が出ないまでも--それはそのひと自身の掟にはならないのではないだろうか--そんなことをよく考えます。おそらくそれがカントのいう内面からの絶対命令としての定言命法へとリンクしていくものだとは思うのですが。

形而上学としての哲学は、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)が言うとおり、「対象を直接に表象によって承認されたものとして前提したり、また認識をはじめ認識を進めていく方法をすでに許容されたものとして前提したりする」ので、何に対してもまず「なぜそうなんだ」というぐらいでやっていくのがよいでしょう。

ひとはときにふれ、いろいろな問いを発します。「何」「どれ」「どこ」--。
さまざまな問いが生きている人間存在を取り囲んでいます。しかしそうした種々雑多な問いかけの中で、より根源的な問いかけである「なぜ」(=形而上学的問い)を大切にしたいものです。

詳細は割愛しますが、比較的時間をかけて議論させると、やはり議論している学生さんたちの頭の中は飽和状態になってしまうわけですが、じっくりと考える機会にはなったことなのだろうと思います。こうした問題は四六時中考えると、頭が煮詰まって社会生活が社会生活をおくれなくなってしまうように働いてしまいますが、ときおり、当然と思っている「前提」なるものを根源的に疑い、その根拠を自分で探求することは必要だろうと思います。ただくどいようですが、探求仕舞だけで終わらせても問題で、探求と探求によって掴んだ考え方を対話によって相互交流する中で、すこしだけ自分も他者も前へ進めるのではないだろうかと思います。

木の枝から地面に落ちるリンゴという“現象”をみて、その落下を記述し、落下の有り様を説明することよりも、「なぜそのような現象が存在するのか」ということを考えてみるのも面白いかも知れません。

アリストテレス曰く

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しかしいまここで我々の語ろうとするところ(引用者註--形而上学のこと)は要するにこうである、すなわち、知恵(ソフィア)と名づけられるものは第一の原因や原理を対象とするものであるというのがすべてのひとびとの考えているところであるというにある。
    --アリストテレス(出隆訳)『形而上学 (上)』(岩波文庫、1959年)。

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だから哲学する人の議論は錯綜し、書物が難解になってしまうのでしょう。

さて、ご存じの通り、八王子市は駅前での路上喫煙が制限されており、喫煙スポットが要所に設けられておる地域です。愛煙家としては、喫煙スポットが出来たおかげで逆にありたがいなあと思うようになったわけですが、一服しておりますと、となりでカチカチ、カチカチと音がする。ライターがなかなか着火しないようでした。
これは愛煙家としてはきわめてイタイ状況です。
吸いたいのに吸えない。
さりげなくライターの火を差しだす。
笑顔が交差する。

ライターの炎で、お互いの心が明るくなる瞬間です。全く知らない方と久し振りに心が交差した一コマでした。

これがタバコの良いところです。

では「なぜタバコを吸うのか」そうした根源的探求も時には必要かも知れませんが、時間が無く考察しておりません。

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初期費用0円で・どこからでも・何歳からでも・何に関しても、学ぶことのできる学問

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あらゆる客観的な世界考察は、「外部」でおこなう考察であり、ただ「皮相のもの」、客観的なものをとらえるにすぎない。徹底した世界考察とは、自己自身を外部に「外化」する主観性の、体系的で純粋な内部考察なのである。それはちょうど、生きた有機体の統一におけると同じことであって、有機体というものは、なるほどわれわれはそれを外から観察したり分析したりもできるが、しかしそれを理解しうるのは、われわれが有機体の隠れた根にまで遡り、そのうちにあってそこからより高く昇らんとしながら、内部から形態化してゆく生命を、そのあらゆる能作について体系的に追求するばあいだけであろう。もっとも、このような言い方はただの比喩にすぎず、結局のところ、生きた内的生命と外的表出のすべての問題が解決されるにいたる場所は、そのきわめて深い世界問題群をともなった、われわれの人間存在とこの人間存在に固有な意識生活なのではなかろうか。
    --E.フッサール(細谷恒夫・木田元訳)『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(中公文庫、1995年)。

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たしかにあらゆる客観的な考察は、「外部」でおこなう考察であり、「外部」でおこなう考察だからこそ、なんらかの価値中立性だとか、客観性が獲得できる契機が存在しているのでしょう。ただしかし、その真理なるものを、自己自身にとっての“真理”に内面化する、ないしは、意味を与えるという作業は、どうしても個々人の側に限定された透徹した作業がどうしても必要不可欠である。
その作業は他者から見るならば、「主観的」との誹りをうける営みととらえられがちだが、そうした契機を欠いてしまうと、真理は自分にとっての真理にならないし、価値もそこには生まれない。その意味では、所与の客観的な真理が存在するとしても、それに対する「徹底した世界考察」すなわち、「自己自身を外部に「外化」する主観性の、体系的で純粋な内部考察」を欠くならば、それは自分の財産にはならないのだと思います。

さて、いよいよ、あと数時間もすると(早く寝ろ!)、後期の短大の授業(『哲学入門』)が本格的にスタートします。前回はガイダンスでしたので、授業のアウトラインの解説にどうしても終始するきらいがあったのですが、今日からいよいよ、具体的に突っ込んだ議論をすることになります。

前期は、他の授業とのかぶりで、比較的少人数--といっても50名程度--で行えたので細かい所まで手がはいったのですが、後期はカリキュラムの編成上だと思うのですが、はるかに上回る数の学生さんたちが受講しそうです。

人数が多くなればなるほど、かゆいところに手が届きにくくなるのは現実にはあるのですが、なるべく多様な差異を尊重できる授業にしていきたいものです。

哲学はいわば初期費用0円で・どこからでも・何歳からでも・何に関しても、学ぶことのできる学問だと常々思っております。

何故なら、哲学とはそのひとが人間とは何か、世界とは何か、○○とは何か……と考える作業に他ならないからです。しかし、その考察は決して独りよがりな独善的な考えであってはならないんですね、それが最低限のルールです。だから、哲学は論戦を好むし、スタイルとして「対話」を選択します。相互の意見や差異に耳を傾けながら、「お前のことは大嫌いだけどサ、でもそう考えざるを得ないよな」って式に客観性を確立していく営みだと思います。まあ、「お前のことは大嫌いだけどサ」って部分が不要な場合もありますが。

だからこそ、世界全体が……そして、若い人に顕著な傾向なのですが……内面への孤独な沈潜を好みつつある現在、そうした傾向を避けつつ、作業としては内面への個人の闘いとは現実にはなるわけですが、そうであったとしても、どこかで世界へと繋がる……そうした授業に、そして、そういう発想の訓練の場にでもなればと念願しております。

「ひとそれぞれ」は確かに「ひとそれぞれ」で大いに結構なのですが、「それだけでもない」というのも確かな現実です。

その相剋に悩み呻吟するなかで希望を紡ぎ出すのが哲学徒なのでしょう。

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結局のところ、生きた内的生命と外的表出のすべての問題が解決されるにいたる場所は、そのきわめて深い世界問題群をともなった、われわれの人間存在とこの人間存在に固有な意識生活なのではなかろうか。

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結局のところ、世界的な問題に関しても、そして極私的な問題に関しても、その問題を自分自身に対してリアルな問題として考察できたときにこそ、なんらかの解決への糸口が提示されるのでしょう。

「ああ、ダメだ」
「もう、でもうでもイイや」
「どうしようもないでしょう」

……と捨てゼリフを愚痴る前に、少し考え出すと、思っても見ないところから開けていくものです。

引用した現象学者・フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl,1859-1938)の危機論文に関してはもっと論じたいところですが、環境が落ちつきましたら、後日談ということで。本当に自分自身に対する宿題が多くなりましてすいません。いいわけですが、なんかほんとうに時間が無くて……課題が山積で……やるべきタスクとTo Do の山に呻吟しています。ほんとうに水槽の中だけでもいいです、金魚のように泳いでみたいものです。

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Book ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)

著者:エドムント フッサール
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いちいち考えるまでもないや。大丈夫

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曼珠沙華咲く野の日暮れは何かなしに狐が出る とおもふ大人の今も(木下利玄)

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本当は、いろいろと再開したい趣味もあるのですが、金欠のトホホなので、今は日常生活のなかで喜びと発見を見出すことを日課にしています。

たとえば、会社までの通勤ですが定番の同じ道順で向かわないとか、市井の仕事でレジを打つ際でも、ちょいと姿勢を変えて言葉工夫してみるとか、そういった類です。

日常生活といえば日常生活なので、現実には“ありきたり”で“顧みる対象”ではないのかもしれませんが、心がけひとつ、発想ひとつで、実は結構発見があったりします。

今日は仕事へ行くのに最短コースをとらず、すこし、自転車道で迂回して職場に向かう。

「もうそろそろかなあ~」などと思っていた矢先、一年ぶりに「曼珠沙華」に出会いました。たしかにこの燃えるような赤を日暮れに見ていると、「何かなしに狐が出る」と思わざるを得ない、秋の夕暮れを実感しますし、和歌とか俳句の言葉を味わっております。雑誌やTVの情報で、「もう、秋かよっ」て反応するよりも、自分で発見して「ああ、もう秋か」ってしみじみやるのがようござんす。

常日頃、ナショナル・アイデンティティーの誇示を罵倒しておりますが、こうした言葉に何か安らぎとか喜びを感じる部分はやはりあります。そこに自己自身の文化的に堕馴された日本性を感じるわけですが、別にそれを文化的優位の根拠になどしようとは思いません。ただ、ひとつのペダンティックな趣味的ものとして、こころのなかで、自分にだけ対して大切なものとして持っておこうとは思います。

さて、村上春樹を読んでいるとおもわず、うなずく一言があった。
哲学とか神学の学徒が村上春樹を読むなどとは、“似合わせねえ”などと言われそうで……、細君からも同じように「もっとほかに読むべきものがあるでしょ!」などとどやされそうで……実に確かに、読むべきものは資料も含め山積みなのですが……仕事の休憩中ぐらいは「読ませてくれよ、理由なんてないんだから」とぼやきながら、読んでいますと、頷いてしまった。
※細かい話で蛇足すが、1997年に出版された地下鉄サリン事件の関係者に対するインタビュー集・ドキュメンタリー集である『アンダーグラウンド』(講談社)以降、村上春樹の作風と思想はがらりと変わったような気がします。

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たとえば具体的に言うと、まわりにいる誰かのことを「ああ、この人のことならよく知っている。いちいち考えるまでもないや。大丈夫」と思って安心していると、わたしは(あるいはあなたは)手ひどい裏切りにあうことになるかもしれない。私たちがもうたっぷり知っていると思っている物事の裏には、わたしたちが知らないことが同じくらいたくさん潜んでいるのだ。理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない。それが(ここだけの話だけれど)わたしのささやかな世界認識の方法である。
  --村上春樹『スプートニクの恋人』(講談社文庫、2001年)。

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おもえば確かに、まわりいる誰かのことを「いちいち考えるまでもないや」とか、ひとだけでなく、自分を取りまき、そして“当たり前”のこととして存在している社会とか自然とか共同体とか、そういうものに対して「いちいち考えるまでもないや」って部分は現実はありますし、そのことを集中的に考えてしまうと、疲れ果てて訳が分からなくなってしまうこともある。しかし、どこかで気にかけた方が、全貌とまでもいわなくとも、ささやかながらも、「考えた」おかげで、未知の状況が現出する部分ってあるのだなあと思います。

たしかに、理解というのは、全貌の理解というよりも、部分知の覚知と言った方が正確なのでしょう。その部分知を知って全貌を知ったがのように感じ取り、それ以降顧みず、ある日、「えっそうじゃなかった?」って式に、“裏切られた!”みたいな状況って実は日常茶飯事なのでは……そう思います。

その意味ではある意味で「私たちがもうたっぷり知っていると思っている物事の裏には、わたしたちが知らないことが同じくらいたくさん潜んでいる」し、自分が全貌を知った・顧みる必要は無いと断じた対象に対する「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」のでしょう。

だから、時折、“当たり前”って思っている部分を考え直すことは大切だと思います。

そうすることで、少しだけ、自分の現在が、彩り豊かなものになるのだろうと思います。

そういえば、今日……市井の職場で、先日トラブルに巻き込まれた留学生のレジの女の子からアクセサリーを頂いた。先日、泣いてしまって仕事が出来ず、代わりレジを打ってもらって申し訳御座いませんでしたとのこと。
自分としては“あたり前”って思って対応しただけなのですが、いい意味で“裏切られる”。すなわち、国籍とか人種とか、そういうものに関わらず、「やっぱ、人間の世界って捨てたものじゃねぇな」という部分です。

また帰り際、半月間、旅行と合宿で職場を休んでいたバイトくんが、帰るときにベトナム土産を贈ってくれた。

いや、彼ってそういうキャラじゃないんですけど……。

何か、“当たり前”って錯覚している部分をときどき丁寧に反省してみると、実は世の中がひろがるものですし、“当たり前”って思っていた堅牢な構築物がときどき破壊されると、これもまた思っても見なかったような発見があります。

ただ……。
ストラップは、何かにつけるとしても、このベトナムのドライフルーツ、酒の肴にはちょっと……ですよね。本人も“マズイっす”っていっていたし……だけど、“当たり前”を破壊する練習も必要ですよね。

ちょいと試してみます。

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耐え難きは忘恩

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九月二十日
忘恩は耐えがたいものである。しかし、これは自分の方がまだしも、実際的にも精神的にも優越的立場にあることを示すものだ。だから、忘恩者には忍耐をもってのぞみ、また感謝することを知っている人をそれだけ尊重するのが正しいであろう。だれにも忘恩を非難してはならない。相手が善い人ならば忘恩をみずから非難するであろうし、悪人に対してはそういう非難はなんの感銘をも与えない。それどこかろか、そういう非難を聞くと、悪人は相手が感謝を期待して、つまりいわば前貸し式に、多くの称賛と報酬を予期して親切をほどこしたことを白状でもしたように、むしろ心の重荷をおろすであろう。悪人の目から見れば、ただ相手は投機に失敗しただけで、自分の方が利口にふるまったのだ、ということになる。
    --ヒルティ(草間平作・大和邦太郎訳)『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫、1973年)。

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以下、少し感情的な吐露ですので、興味のない方はスルーを。忘恩をめぐる日常生活の一コマです。

たしかになあと、スイスの公法学者・ヒルティ(Carl Hilty,1833-1909)の言葉を噛みしめる。
詳しくは割愛しますが……
先週、門出を見送った知己に裏切られるとでもいいますか、裏切られるだけならまだしも、根も葉もない放言のプレゼントまで付けてくださいまして……そのことを別の方から、「大丈夫?」と声をかけられて、「なんだったのだろうか」と茫然自失することがありました。

忘恩は耐えがたいものであります。
ただしそのことを当人に批判しても、「悪人の目から見れば、ただ相手は投機に失敗しただけで、自分の方が利口にふるまったのだ」と思うふしが確かにあります。忘恩の行為すら自覚がないのでしょう。

「忘恩者には忍耐をもってのぞみ、また感謝することを知っている人をそれだけ尊重する」しかありません。

そのためにも、自分自身は決して忘恩者になってはならないし、ひととひととの間柄的関係のなかで、そうした全体のなかで、生されているという感覚を失ってはならないと自覚する。
常々、「うそつきと臆病者にはなってはならない」ということをモットーにしておりますが、そこのカタログ配置に付け加えてもよいかもしれません。
否定的な発想かもしれませんが、裏切るよりは、裏切られる側の方がまだいいかもしれませんが、どうせなら、裏切られない叡智と関係も必要なのでしょう。

で……
そのことはそのこととして置いておきますが、ただいけないのは根も葉もない放言のほうだろう。

ここはシビアにその罪責を確認し、あやまりであることはあやまりであると、言い切っていくしかない。

忙しいのに、いろいろと難事が現出する。

それだけ、考え行動する材料を与えてくれる「この世界は幸いです」。

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いつもとちがう鳥の声 カタツムリ そして風の音

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鳥の歌声がいつも同じ調子にしか聞こえてないというのは、無頓着な人間の粗雑な耳だけのことです。
    --ローザ・ルクセンブルク(秋元寿恵夫訳)『獄中からの手紙』(岩波文庫、1982年)。

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獄中のローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg、1871-1919)がおさな友達に宛てて書き送った手紙を読む。第一次世界大戦末期のドイツ革命の渦中で、惨殺された女性革命家として知られる人物です。ただし、レーニンの指導したロシア革命のような、プロレタリア独裁には終始批判的であり、革命の後でも民主的自由は尊重されなければならないと説いた人物で、いわば極右・極左の両端から疎まれた人物です。共和国誕生の前夜、そのどさくさにまみれてフライコール(Freikorps、ドイツ義勇軍と呼ばれる民兵組織)に惨殺されてしまいます。なにか彼女の足跡をみていると、本朝のアナキスト・大杉栄(1885-1923)を彷彿させるものがあります。

さて、書簡集を読んでいると、そうした闘う女性であったにもかかわらず、みずみずしい感受性と、繊細で心温かな人間性に驚いてしまう。しかも、自然や書物、そして人間に対する眼差しが逆境のただ中であっても少しもかわることがないのである。

いや、闘う女性だったからこそ、どのような局面であっても、変わらぬ丹念な心遣いや繊細な感性があったのかもしれません。

と……、仕事と仕事の合間に読んでいたわけですが、その静寂をやぶるのがやはり息子さんです。幼稚園から帰ってきたようですが、なにやらお土産です。

帰りに捕まえたのでしょうがカタツムリです。
恐らく本人は恐がりなので、細君が捕まえて運んできたのでしょう。

何に対しても興味を示すのはよいのですが、あまり持ち帰ってきて欲しくない1品です。
おそらく、大人が興味を示さない「鳥の歌声」や「風の音」は彼にとっては「いつも同じ調子」には聞こえないのでしょう。

しかしできれば鑑賞(観照)するだけで済ませてください。

世話をするのはコチラになりますので……。

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 すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。
    --アリストテレス(出隆)『形而上学 (上)』(岩波文庫、1959年)。

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“知ることを欲する”から仕方がないのかも知れません。

ただ、どうせなら、梅雨の季節に捕まえてくるべきでしょう。
その方が風流だとは思いますよ、息子さん。

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Book 獄中からの手紙 (岩波文庫)

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形而上学〈上〉 (岩波文庫) Book 形而上学〈上〉 (岩波文庫)

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見よ! わたしはきみたちに最後の人間を示す

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 わざわいなるかな! 人間がもはや星を産まなくなる時が来る。わざわいなるかな! 自分自身をもはや軽蔑することができない最も軽蔑すべき人間の時が来る。
 見よ! わたしはきみたちに最後の人間を示す。
 「愛とは何か? 創造とは何か? 憧憬とは何か? 星とは何か?」--最後の人間はそのように問うて、まばたきする。
 そのとき、大地は小さくなっていて、その上を、一切のものを小さくする最後の人間が跳(と)びはねる。彼の種族はノミトビヨロイムシのように根絶しがたい。最後の人間は最も長く生きる。
--F.ニーチェ(吉沢伝三郎訳)『ツァラトゥストラ(上) (ニーチェ全集9)』(ちくま学芸文庫、1993年)。

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自分自身が軽蔑できる人間はまだマシなのかもしれない。
なぜなら、最後の人間は自分自身をも軽蔑できないから。
また「まだマシ」という序列もいやなので、最後の人間も人間です。

で……
書く必要がないかもしれないが、忘れてはいけないと思い、残しておきます。

市井の仕事は今日も仕事の量的に過酷な一日でありましたが、終了直前に、大問題が勃発する。
レジにて弁当を購入されたお客様に対して、お箸の要不要をお尋ねするわけです。
ちょうど、中年のサラリーマン風のお客様が弁当をカゴにいれていたので、確認したところ、何も反応がない。
ので--、再度レジ担当者が丁寧に確認したところ、

「要(い)るのに決まってんだろ!ボケ」

となってしまった……こういうのを逆キレというのでしょうか。

担当していたのは、外国からの留学生の女の子で、都内の大学の博士課程に在学している、いわば才女です。日本人よりも日本語がウマく丁寧なのですが、初めてまだ1ヶ月。
対応そのものに関しては、上席のものが素早く対応交替して、少し離れたところで対応しましたが、そうした「最後の人間」との遭遇に彼女は涙を流してしまった。

そして、その激昂ぶりに、売り場全体が氷つき、彼女だけが涙を流すだけでなく、普通に買い物に来ていたお客様や、レジでならんでいたお客様もどん引きする。2人くらい後ろでならんでいたベビーカーの乳児さんは、その怒声に驚き、鳴き始める始末です。

その圧倒的な勢いのため、宇治家参去宛てに呼び出しの内線もかかってこないほど、一方的な状況のようでした。対応終了後、ちょうど、外回りの安全確認からもどってくると、くだんの事件がおわったようで、手短に話を対応者から伺い、お客様に謝罪した。

そのリーマンブラザーズではありませんが、声の大きなサラリーマンの方は、帰りがけに曰く……

「外国人は時給が安いから使っているんだろう、察することができねえんだよ。高貴?な日本人を使えよ」

とおっしゃるので、念のために説明しておいた。

0.ひとまず、大きく謝罪したうえで……
1.弊社においては、ビジネスの世界にナショナルアイデンティティの問題が存在するとは考えておりませんので、国籍人種で給料の差は設けていない点。
2.給料の差は、能力による。
3.彼女はまだ始めたばかりのため粗相とお受けられたのでしょうが、日本語の運用能力に関しては問題が全くないので採用した。
4.で、もう一度謝罪。

5.しかし、お客様のおっしゃる「高貴な日本人」の意味が、無学な自分としては理解不可能なため、是非、丁寧にご教授頂きたいと思います。今後、同じような不始末があると大変ですので、高貴な振る舞いをされたお客様自身からお教え頂けませんか?

6.蛇足ですが、ビジネスの世界に「察する」はなかろうかと思います。

というながれですが、5.と6.は割愛した。
※怖かったので!

とやかくいうつもりも、そのサラリーマンの方を責めるつもりも毛頭無いし、その方を「非人間」であると対象化するつもりも全くありません。そうした生命に内在する獣性は誰にでも内在するから、そんなことは百も承知です。

存在は承知しています。
しかし、その“振る舞い”は承服できません。
泣かせることはないだろうに。
村上春樹さん的に表現すれば、「元気なフェミニストの方からは“マチスモ(machismo;男性優位主義)”と叱られそうですが」、女を泣かす男は最低です。

「最後の人間」の到来を予感する宇治家参去です。

冒頭に、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)の言葉を紹介しましたが、ニーチェの言葉は何とも預言めいた響きをもっております。彼の最大のテーマはなんといっても近代の人間の正確とその運命だと思います。それがニーチェの近代批判になるわけですが。

さて、ニーチェによると、どうやら、近代の人間は星を産まない人間であるらしい。もはや星とは何かがわからなくなっているから星を産まないし、自分の生の力が枯渇しているから産むこともできない。

星を産まない近代の人間は、そうした弱さを曝すこともできない。
曝すこともできないから「自分を軽蔑できない」人間なのです。
自分を軽蔑できる人間は、まだなにかをもっているのでしょうが、「最後の人間」たる近代の人間にはそれもないのでしょう。

近代の問題とは、まさに生の枯渇の問題なのでしょう。あらゆる対象が概念化され、標本のように整理され、規定されるなかで、窒息しはじめる。しかも窒息しはじめたことの自覚がないままに、標本台に並べられていく……。なんとも空恐ろしい光景です。ニーチェは、近代のヒューマニズムは徹底的に批判しましたが、それは近代のヒューマニズムがまさにその生の渇望を正当化するものであったがゆえに、ニーチェにとってそれは、まやかしやまぼろしに過ぎないものと映ったのでしょう。ハイデガーのいうところの「存在の忘却」というやつだと思いますが、ニーチェにしろ、ハイデガーにしろ、やたらにペシニズムを煽ったというよりも、どのように超克していくのか、それが課題だったのだと思います。

近代の問題を、この生きているただなかで、もう一度検討し、新しき人間主義を、実践原理として探求する必要はいやまして大きいと思います。

これから本論やん!という感じですが、今日はほとほと疲れ果てましたので、新商品をゲットしたので、飲みましたが、“軽るすぎる”!

麒麟麦酒の「淡麗 Smooth(スムース)」(@その他の雑酒)ですが、低アルコール(4%)、低炭酸、低発酵……麒麟の「秋味」と対極にある存在です。

もっとパンチのあるやつがよかった。

で……
桂小枝風にいえば、「しかし、まぁ~何ですね~」

考える時間があまりとれないのは現実ですが、世界と人間について、いつもネタと考えるきっかけを絶え間なく与えてくれる今の状況はありがたいと思った方がよいのでしょう。本当にネタ切れになりません。

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人間における理性的存在の本質は最初はある概念--人類--の外延に属していた個人が、その類のなかでは唯一のものとして、それゆえ、他のすべてのものと絶対的に異なるものとしてみずからを措定する能力をも指している。この差異のなかで、個人は単なるものに無-関心-ならざる者と化するのだが、ただしその際、論理的概念が再構築されて、再び自我がそれに捕えられることはない。<<無-関心-ならざること>>、根源的な社会性-善良さ、平和ないし平和への願い、「シャローム」〔平安あれ〕という祝福、出会いという最初の出来事。差異--<<無-差異-ならざること>>--、そこでは、他なるもの--それも絶対的に他なるもの--、こう言ってよければ、「同じ類」--自我はそこからすでに解き放たれた--に属する諸個人相互の他者性より「以上に他なるものであるような」他なるものを私が見つめている。私を「知覚する」ためではない。そうではなく、他なるものは「私と係わり」、「私が責任を負うべき誰かとして私にとって重きをなす」のだ。この意味・方向において、他なるものは私を「見つめる」、それは顔なのである。
    --E.レヴィナス(合田正人訳)「人間の諸権利と他者の諸権利」、『外の主体』(みすず書房、1997年)。

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Book ニーチェ全集〈9〉ツァラトゥストラ 上 (ちくま学芸文庫)

著者:フリードリッヒ ニーチェ
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【覚え書】)E.レヴィナス「人間の諸権利と他者の諸権利」

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政治、平和、自由、尊厳性、友愛の感覚……いろいろと考えるところしばしあり。

何も考えることができておりませんが、チト重要だと思い、自分自身に対する覚え書として残しておきます。

政治の世界での泥試合や企業や責任ある個人の不祥事……。
本当に考えなければいけないことがあるはずなのに、何かセンセーショナル話題でガス抜きをされ、気が付くと社会全体が、なんとなく、右旋回を始めているような、そしてその笛にひかれて、歩みを辞めないというか……今世紀に入った当たりから、そうした雰囲気がどうも濃厚にたちこみはじめているのではないだろうか。

ワァァーッと、感覚的なものに左右されるなかで……それはそれとしてシカタガナイのかもしれませんが……考える感覚が鈍磨しているとでもいえばいいのでしょうか、それが何かはまだはっきりとは浮かび上がってこないのですが、何かが違うんだよなって、市井の泥沼にどっぷりつかり、泥水を飲みながらも、精神的には暇なので、なにかそういう不安を感じ取るある日の神学徒・宇治家参去です。

本当に考える時間がなくすいません。

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人間の諸権利の擁護は、国家の外なる使命に応えるものだという意味でもある。政治的社会にあっては、国家の祖となる使命は一種の治外法権を享受している。旧約での政治的諸権力を前にした、予言の使命と同様なのだが、政治的知性とはまったく異質な警戒・監視であり、また、普遍性の形式主義の前に屈服することなく、己が限界に踏み止まりつつも正義を指示するような明晰さであろう。このような治外法権と独立性を保証する可能性、それが自由な国家を定義すると共に、政治と倫理の接合がおのずと可能となるような様態を描き出すのである。

 しかし、そうだとすれば、人間の諸権利を擁護する際には、これらの権利を、ただ自由を起点としてのみはもはや理解しないのが妥当であろう。ある自由は潜在的にはすでに他のすべての自由の否定であり、そこでは、正しい配置は相互の制限にしか由来しないだろうからだ。譲歩と妥協、である! 回避不能な正義には、まずもって敵対し合い、敵対の可能性をはらんだ意志と意志のあいだに確立される比率という権威以外の「権威」が必要である。ここにいう比率が、それに先立つ平和ゆえに、諸々の自由な意志によって承認されなければならないのだ。しかも、平和は単なる非=攻撃性ではなく、こう言ってよければ、それ固有の肯定性・積極性をそなえた平和である。そこにはらまれた善良さの観念はまさに、愛から生じた没-利害を示唆している。それゆえに初めて、唯一者ならび絶対的に他なる者はその意味を、愛される者ならび自己自身のなかで表現できるのだ。正義において、互いに排斥し合う諸項の純粋な尺度--適度--という基準で事足れりとすること、それはまたしても、人類の成員同士の諸連関を、あるひとつの論理的外延に属する諸個体同士の諸連関と同一視することに帰着するのだが、このような個体は互いに、否定や付加や、あるいはまた無関心をしか表しはしないのである。それに対して人間にあっては、個人から個人へと、近さ(proximité)が確立される。しかも近さは、ある概念の外延に関する空間的比喩を介して意味を得たりはしない。二人の個人がいる場合には、当初から一方の面前に他者がいる。自我が他のためにあるのだ。人間における理性的存在の本質は単に、知識としての心性が諸事物のなかに到来することを指しているのではない。因みにここにいう知識とは、矛盾に陥ることを拒む意識=共同の知識の謂であるが、それは自分以外の諸事物を普遍的なものの同一性へと疎外することで、概念のもとにそれらを包摂してしまうのだ。そうではなく、人間における理性的存在の本質は最初はある概念--人類--の外延に属していた個人が、その類のなかでは唯一のものとして、それゆえ、他のすべてのものと絶対的に異なるものとしてみずからを措定する能力をも指している。この差異のなかで、個人は単なるものに無-関心-ならざる者と化するのだが、ただしその際、論理的概念が再構築されて、再び自我がそれに捕えられることはない。<<無-関心-ならざること>>、根源的な社会性-善良さ、平和ないし平和への願い、「シャローム」〔平安あれ〕という祝福、出会いという最初の出来事。差異--<<無-差異-ならざること>>--、そこでは、他なるもの--それも絶対的に他なるもの--、こう言ってよければ、「同じ類」--自我はそこからすでに解き放たれた--に属する諸個人相互の他者性より「以上に他なるものであるような」他なるものを私が見つめている。私を「知覚する」ためではない。そうではなく、他なるものは「私と係わり」、「私が責任を負うべき誰かとして私にとって重きをなす」のだ。この意味・方向において、他なるものは私を「見つめる」、それは顔なのである。

 平和のなかの善良さ、それはまた自由の行使でもあって、そこでは自我は、他者に責任を負うために、他の人間の諸権利を擁護するために、その「自己回帰」から、その自己肯定から、存在者としての、その己が存在への固執から解放される。責任における<<無関心-ならざること>>ならびに善良さ、これら二つの事態は、愛と敵意に挟まれた中立的な事態ではない。平和への願い--善良さ--が最初の言語でるような出会いを起点として、これら二つの事態を思考しなければならないのだ。

 共和国の標語のうちに姿を現す友愛であるが、この先行的な<<一方が他方に無-関心-ならざること>>のうちに、この根源的な善良さのうちに、友愛を認知すべきではなかろうか。自由が根づくのもそうした善良さにおいてであって、人間の諸権利に関する正義はそこに、国家によって保証される以上に揺るぎない射程と安定性を見いだすのである。友愛のなかの自由。友愛においては、一方の他方に対する責任が肯定されるのだが、かかる責任を介して、人間の諸権利は具体的なもののなかで、私が責任を負うべき他者の権利として意識に現れることになるのだ。他の人間の諸権利として、私にとっての義務として、友愛における私の義務として、根源的に現出すること、それこそが人間の諸権利についての現象学である。ただし、この種の現象学の根源的な「配置」では、強いられる者の諸権利もまた自由として肯定されるのだが、それは単に転移によってや、他者のうちに現れるような人間の諸権利の一般化のおかげではない。他者に対するこの者の義務は彼の責任を呼び覚ますもので、それは彼自身の自由の信任でもある。以上に述べたようなものとして、忌避不能かつ不断の責任において、私は交換不能な者として創設される。私は唯一で比較不能な者として選ばれるのだ。他の人間の自由や諸権利に対する私の異議提起のうちに姿を現すに先立って、私の自由ならびに私の諸権利は、まさに責任として、人間の友愛のなかに姿を現す。汲み尽くしえない責任である。なぜなら、他者から放免されることは決してありえないからだ。
    --E.レヴィナス(合田正人訳)「人間の諸権利と他者の諸権利」、『外の主体』(みすず書房、1997年)。

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始めの条件としての思惟の自由

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 我々は哲学の概念を定義して、『哲学とは、普遍的内容として、あらゆる存在であるような思想である』とした。そこで、これから哲学史において、この内容をもつ諸規定がどんな風に相次いで立ち現われて来るかということを示すであろう。ただ最初に、哲学と哲学史とが何処に始まるかということは、やはり問題としておかねばならない。

  a 始めの条件としての思惟の自由

 一般的な答は上述したところである。哲学は一切を包括する存在者としての普遍性が把捉される所、或いは存在者が普遍的な形で捉えられる所、思惟の思惟が現われる所に始まる。そうすると、このことは何処に起こったのか。どこに始まったのか。これは、まさに歴史的な問題である。思惟が自立的にならなければならない。思惟が自分の自由において実存するようにならなければならない。思惟が自分を自然的なものから解放し、直観への没入の状態から脱却しなければならない。思惟が自由なものとして自分の中に向い、それによって自由の意識に達しなければならない。哲学の本来の始まりは、絶対者がもはや表象としてあるのでないのはもちろん、自由な思想が単に絶対者を思惟するのみでなく、絶対者の理念を把捉する所におかれねばならない。即ち思想が存在を把捉し(そうなると、その存在はまた思想自身でもありうる)、その存在を諸物の本質として認識し、すべてのものの絶対的全体と内在的本質として把捉し、それによって(外見上はいままで通り外的存在であるにしても)この存在を思想として把捉する所、そこに哲学の本来の始めがある。その意味で、ユダヤ人が神として思惟した単純な非感性的な本質は(というのはどの宗教も思惟であるから)、哲学の対象ではない。しかし例えば「諸物の本質または原理は水だ、火だ、或いは思想だ」といったような諸命題は、たしかに哲学の対象である。
 この自分自身を定立する思惟という普遍的規定は抽象的な規定性である。それは哲学の始元〔始めをなす原理〕であるが、しかしこの始元は同時に歴史的なものであり、或る民族の具体的形態である。しかも、その原理こそ、我々が上述したもの〔理念の歴史的展開〕を形成するものなのである。哲学が出現するためには自由の意識が必要であると我々は言っているが、哲学がそこに始まる民族には、この原理が根柢になければならない。そうして、この自由の意識をもつ民族が自分の存在を、この原理の上に打ち建てねばならない。というのは、その民族の立法とか、その他の全状態の根拠は、全くただ精神が自分から作る概念の中にのみ、即ち精神がもつ諸〻のカテゴリーの中にのみ、あるのだからである。実践的な面で言えば、現実的自由、政治的自由の興隆も、これに関連する。この自由は、ただ個人が自立的に個人としてありながら自分を普遍的なものとして、また本質的なものとして知る所に、個人が無限の価値をもつ所に、或いは主観が人格性の意識を獲得し、それ故に全くの自立を主張する所に、はじめて始まる。ところが、自由な哲学的思惟は実践的自由とそのまま関連するものである。即ち、前者が絶対的、普遍的、本質的な対象の思惟をもつようになると共に、後者も自分を思惟することによって普遍者の規定を獲得するのである。ところで、思惟とは一般に或るものを普遍性の形式に持ち来すものである。それゆえに思想は第一に、普遍的なものを自分の対象とする。或いは対象的なものを、即ち感性的意識の中にある自然的諸物の個別性を普遍的なものとして、客観的思想として規定する。第二に、このために必要なことは、次の点である。ワタシがこの客観的で無限な普遍者を認識し、知ろうとするときには、私自身もまた対象性〔普遍者〕の立場に立って、あくまでも普遍者に立ち向かわねばならないということである。
 政治的自由と思想の自由とのこの一般的関連のために、哲学はただ自由な憲政が敷かれる所にのみ、しかもただそのかぎりにのみ歴史に現われる。従って精神が哲学をやろうとする場合には、精神はその自然的意欲と素材への沈没の状態とから離脱しなければならないから、精神は世界精神がそこに始まるところの形態、即ちそういう離脱の段階に先行する形態の中では、まだ哲学はやらないのである。
    --ヘーゲル(武市健人訳)『哲学史序論 哲学と哲学史』(岩波文庫、1967年)。

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月曜は休日でしたが、授業回数の調整の必要上、講義となる。
初日ですのでガイダンスですが、それで終わらせるのも“もったいない”?と思い、少し講義をさせて頂く。

半期15回講義であっても、なかなかすべてが終わらないといいますが、脱線が多いので、ガイダンスのあと、哲学とは何か--日常生活の中で使われる場合に注目しながら、学生さんたちに自由に議論させてみた。

哲学に対してさまざまなイメージ、先行理解をもって参加しているのは承知ですが、それをあらためて分析してみると、実に実り豊かな自己認識・他者認識へと繋がるものです。
固い、難しい……ワケワカラン。

たしかにそうなのですが、「何で固いと思っているのだろうか」「どうして難しいと感じるのだろうか」そこを確認することだけでも、自分自身の盲点をつき、対象へ接近することが可能になる。

「○○だから固いって思っていたんだ。だとすれば本当はどうなのだろうか」

この「だとすれば本当はどうなのだろうか」と自由に思索し始める瞬間に、ひとは哲学しはじめるのでしょう。たしかに学問の作業としての哲学なるものは、煩瑣な議論や文献解釈の問題に引きずられる部分が殆どですが、そうした原初の感覚を忘れてしまってはならないだろう。

その「本当は?」を探求する努力のなかに喜びや希望が生まれてくるのである。
そうした自由な探求を保障する学問の府が大学なのである。

「始めの条件としての思惟の自由」……何者にも囚われず、また囚われている自己自身を自覚点検する中で、人間やその人間の住まう世界のすばらしさ、そして愚かさを学んで欲しい。そして生きている生活の中で、ふと考える自己自身をどこかに作って欲しい……そう願う宇治家参去です。

「思惟が自立的にならなければならない。思惟が自分の自由において実存するようにならなければならない。思惟が自分を自然的なものから解放し、直観への没入の状態から脱却しなければならない。思惟が自由なものとして自分の中に向い、それによって自由の意識に達しなければならない。」

遠慮することなく、自由に自分自身を解き放って、授業の中で、自分自身で、まず考えてみる空間を作っていこうと思います。

「この自由は、ただ個人が自立的に個人としてありながら自分を普遍的なものとして、また本質的なものとして知る所に、個人が無限の価値をもつ所に、或いは主観が人格性の意識を獲得し、それ故に全くの自立を主張する所に、はじめて始まる。」

そうした自由な?労作業があってこそ、自分自身の価値を見出し、世の中に価値を見出し、「それでもなお」歩み続ける精神の力が生み出されてくるのだろうと思います。

さて、伝統的な分類で恐縮ですが、西洋の知と血の歩みは「政治的自由と思想の自由」に核心があったのに対し、全般的に東洋の社会では、共同体優先的な発想がつよく、「政治的自由と思想の自由」の発想が稀薄である。だからヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)は「哲学はギリシアの世界で、はじめて始まるのである」と断じており、東洋思想を除外している。
ま、ヘーゲルのものの見方は画一的といえば画一的な見方ですが、十分に当てはまる部分はたしかにあります。だから「政治的自由」とか「思想の自由」を探求した知の先駆者たちは、とくに東洋においては体制からの異端者として絶えず屠られてきたものであります。

体制としては、そうしたものが保障された現代日本ですが、ときおり、そう自由に発想できる、考えることのできるアリガタサを確認するとともに、その内実を内実たらしめる不断の努力を忘れてはいけないのでしょう。

……と、
授業が終わると、夕方から市井の仕事のため大学を後にするのですが、秋学期の授業のみ持っていらっしゃる、ビジネス・エシックス(企業倫理・職業倫理)の非常勤の先生にばったり出会う。もともとシンクタンクに勤務されていた方で、今は企業家として、コンプライアンス関連の事業をされているかたで、秋学期だけ授業を1コマ担当しています。その先生もそのまま名古屋へ出張だとかで、駅までタクシーに乗せてもらった。

ラッキーです。

で……電車のなかで、やはり職業倫理関連で、ヴェーバーのプロテスタンティズムの倫理から、カントの自律論など、ふかく談義でき、有意義な時間を過ごす。
やはり生活の中で、学問を論じることが出来る瞬間が一番幸福なひとときであります。とわいえ、まわりのひとからするとやはりヘンな連中だったのでしょう。

目の前に坐って、安倍晋三『美しい国へ』(文藝春秋)を読んでいた若いお兄さんも、カントの話に興味があるようでした。

とわいえ、今更『美しい国』でもないだろうに……と。

さて、最後に全く脈絡のない話でも。

箱をみていると思わず噴き出した。

「暴君ハバネロに直射日光は厳禁」

……だそうです。

なぜに?……ふと探求が始まりました!

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言語に対する責任とは、責任そのものであり、まさに人間的責任

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君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性をいつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し、決して単なる手段として使用してはならない。
    --イマヌエル・カント(篠田英雄訳)『道徳形而上学原論』(岩波文庫、1976年)。

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人間はいかなる場合にも同時に目的として使用し、決して単なる手段として使用してはならないのですが、得てして、どうも手段として扱ってしまう場合が多々あります。
端から戦略的に人間を手段として使用する事例には事欠かないし、そこが不幸の源泉になっている。しかし気が付かないうちにも、人間を手段として取り扱ってしまう場合もあります。例えば、夫婦の間においても、その役割性が強調されればされるほど、本来、人間を目的として使用するために設定されたはずの役割が、手段に転落してしまうこともある。

人間はいかなる場合にも同時に目的として使用し、決して単なる手段として使用してはならない……たしかにそうなのですが、そのことを知らず知らずに誤解・誤用してしまうのも人間であるとすれば、生活の中で“尊厳の感覚”を鋭敏に養い続けるほかに手はないのでしょう。

さて今日も市井の仕事ですが、実に嫌な携帯内線が鳴り響く。
レジのスケジュール・ミスでどうしても30分程度、レジを誰かに担当して欲しいという要件だ。

しかし……その言い方に少し違和感を感じてしまう。

すなわち……

「宇治家さん、そういうわけで、S君を、レジに“借りる”ことはできませんか?」

人間を“借りる”?……のは不可能だろう。
なぜなら、金やモノではないからだ。

「“貸す”ことはできませんが、S君にレジ業務を“お願いする”ことは可能です」

……と答えてしまった。
受話器越しの相手はきょとんとしていたようである。

忙しさの中で、人間を“使う”という感覚になっていたのでしょう。
本人を責めてもしょうがないので、その背景と、今回の事例を、カントの言葉を添えて報告書に記しておいた。

こういう言い方ひとつにも、実はさりげなく、人間を“モノ”として扱い、そして“モノ”として扱うがゆえに、手段として“利用”してしまう“心根”が出てくるのかかもしれません。いずれにせよ、自分自身もそういうかたちで、知らないうちにやってしまうことがあるので、自戒を込めながら記しておきます。

言葉ひとつといえば、言葉ひとつです。
ただし、どのような言葉を使うのか、何を意味して指示させるのか、慎重にも慎重を重ねる、ないしは時折点検する必要はありそうです。言葉に対する責任とでもいえばいいのでしょうか。

さて……
ナチス・ドイツに抵抗し、亡命生活を余儀なくされたドイツ人のノーベル文学賞作家にトーマス・マン (Paul Thomas Mann,1875-1955)という人物がいます。ヒトラー政権は、マンの著作を焚書に指定し、財産を没収しドイツ国籍を剥奪しましたが、戦争が終わるまで一貫して放送や文書で、第三帝国と闘い続けた人物です。その一連の渦中で、1936年、マンはボン大学(ライン州フリードリヒ・ヴィルヘルム大学)から授与された名誉哲学博士号が剥奪されてしまいます。マンの発言や行動が当時のドイツに徒(あだ)なすものだったからなのでしょう。

そうした異常事態に対して、マンは公開書簡をもって、ファシズムとその走狗と化した体制協力文化(人)を批判し、ナチズムによっていびつなものとされたドイツ的なるものへの訣別宣言をおこないました。

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 言語の神秘は大いなるものであります。言語とその純粋さに対する責任は象徴的精神的性質のものであり、決して単に芸術的な意味を持つのみにとどまらず、広く倫理的な意味を持っております。言語に対する責任とは、責任そのものであり、まさに人間的責任であって、自民族のために、自民族の姿を人類の面前で純粋に保つために責任を負うことであります。そして、このような責任を負うことにおいて、人間的なるものの一体性が、人間の問題の全体性が体験されるのでありますが、この全体性は、精神的芸術的なものを政治的社会的なものから切り離して、後者と絶縁して高貴なる「文化的なもの」の中に引きこもることを許しません。それも今日という時代にはとりわけ許されないのであります。この真の全体性とはすなわち人間性そのものであり、人間的なるものの部分的領域に過ぎない政治とか国家とかを「全体化」しようと企てたりする者は、この真の全体性に違反する罪を犯すことになるでありましょう。
    --トーマス・マン(青木順三訳)「ボン大学との往復書簡」、『講演集 ドイツとドイツ人 他五篇』(岩波文庫、1990年)。

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さすがに、言葉を手足のごとく使いこなす人物です。
言葉に対する責任の把持も深大であります。

「言語とその純粋さに対する責任は象徴的精神的性質のものであり、決して単に芸術的な意味を持つのみにとどまらず、広く倫理的な意味を持っております」

「言語に対する責任とは、責任そのものであり、まさに人間的責任」

言葉に対して倫理的、そして人間的責任を引き受けることができる存在者のみが、部分的領域を全体化しようとする暴挙へ、否の声をあげることができるのかもしれません。人間の全体性を破壊する部分の肥大化へ抵抗しつづけたマンの発言には学ぶべきものが多いです。

人間とは何か……ある意味では定義不可能な全体性かもしれません。

しかし、人間に対して語られるひとつひとつの言葉に対する責任を自覚しながら、生きている人間に迫っていくことで、何か人間を非人間化させようとする蠢動に、責任をもって抵抗できるのかもしれません。しかも、その自覚や抵抗は強制ではなく、自発という形で……。

いよいよ明日……というよりも正確には本日……から勤務先の短大の『哲学入門』の秋学期がはじまります。語る言葉に責任をもって授業に望みたいものです。

授業ができるのは、本当にうれしくもありたのしくもあります。全力で取り組み、学生さんと語り合う中で、哲学することの意味(=この生きている世界のなかで、人間とは何か、世界とは何か、とフト考えてみることの醍醐味)を協同作業で紡ぎ出していこうと思います。

とわいえ、寝る前に、久し振りにスコッチでサクッと一杯やってから寝ます。

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夏去らむとして冷気きたるころ 寄り添う 介在しない慈愛

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 善八は、浜松をすぎて、舞坂の〔きょうが屋〕という旅籠へ泊まってくれ、明日の昼ごろまでには、かならず追いつくからといい、
 「どうかね、平さん……わしといっしょに、これからもやって見る気になってくれたかえ?」
 「うむ……よかろう」
 「よし、きまった。だがね、平さん、もうすこし、お前さんの様子を見させてもらうよ。なにせ、この伊砂(いすが)の善八が三十何年もかけてものにした奥義秘伝をつたえようというのだからねえ」
 「なるほど……」
 「ともかく、わしが死んだのち、これをねむらせてしまうにはもったいないのだ。血をながさず、争わず、有るところから盗(と)って無いところからは盗らぬ。女子供に手をつけてはいけない……と、まあ、盗人(ぬすっと)の本道をまっすぐに歩いて行ける人でねえと、この秘伝が却って毒になるものねえ」
 いいつつ善八が、ふところから何か出した。
 うすい帳面のようなものである。
 「岡部の旅籠で、お前さんに見せようとおもい、ちょいと書いておいたのだが……ま、今夜ゆっくり眼を通しておいて下さいよ。わしの奥義秘伝のうちの、ごく初歩(はじめ)のことだけを書いてあるのさ。お前さんしだいで、もっともっと、むずかしくて、しかも、おもしろいことを教えてゆくつもりだよ」
 「ほほう……」
 「では平さん。明日また……」
 にっこりとして見せ、伊砂の善八は木立の中から出て行き、田地の道を北の方へ去って行ったのである。
 平蔵は、その善八を見送るうち、後をつけようとする姿勢を見せたけれども、すぐ思い直したように苦笑をもらし、木立の奧へ入って行き、草の上へすわりこみ、善八がよこした帳面を見た。
 おもてに〔盗法秘伝〕と書いてあった。
(なるほどな……)
 第一頁に、こうある。

 一、つとめ(盗み)するときは、まず、月の出入りの時刻をよくよく知りわきまえおくべきこと。夜のつとめには月のひかり大敵なり。
 一、家やしきへ忍び入るには、やしき内の人のねむりがふかければ、もっともよし。まず、ことに中春から末は、いよいよあたたかく、人のねむりふかし。夏は暑さはげしく、人の気もちからだもくたびれつくし、そのくせ、夜に入りても暑きゆえ、宵のうちにはなかなか寝つけぬものなり。ゆえに、みじかき夏の夜なおさらにみじかくなるものなり。真の盗人(ぬすびと)なれば、夏ばたらきはせぬがよし。なれど、夏去らむとして冷気きたるころこそ、つとめばたらきにはもっともよし。

 などとあって、それから微細にわたり、なかなかどうして、善八の〔秘伝〕なるものは穿ったことを書きつけてあるのだ。
    --池波正太郎「盗法秘伝」、『鬼平犯科帳 (三)』(文春文庫、1975年)。
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日中はまだまだ暑い日が続きますが、夜にもなると秋の訪れを感じざるを得ない今日この頃です。冒頭は、ひょんなことから、独りばたらきの老盗・伊砂の善八と知り合うことになった長谷川平蔵が、その人格と度胸をみとめられ、「オレの後継者にならないか」とスカウトされ、その盗みの秘伝を伝えられた一コマから。

「夏去らむとして冷気きたるころこそ、つとめばたらきにはもっともよし」

夏の疲れが一挙に噴き出すこの季節、夜も涼しくなり始め、深い眠りがひとびとをいざなう季節です。月はこうこうと出ておりますが、戸締まりはご用心のほどを。

……とわいっても、この「世知辛い世の中」、本格のおつとめを行う手練れの盗人はいないかもしれませんが……。

ということで(?)……
市井の仕事へ出勤すると、夕方より東京では断続的な豪雨。
今日は帰るときも雨かなあ~、濡れて帰らなければならないのかなあ~、と懸念しておりましたが、思った以上に雨がはやくあがり、22時過ぎからはお月様も顔をだす。
24時に仕事を終えましたが、このまま帰るのも「MOTTAINAI」と思いましたので、ビールを買って、自宅への途上の公園にぶらりとたちよる。

虫の音がここちよい一夜です。

頭上には、お月様があたたかいともしびをふり注いでくれる。
誰もいない、雨後の公園で、「秋味」@KIRINをのみつつ、せんだってから読み続けている有島武郎(1878-1923)をひもとく。

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 パンの為に精力のあらん限りを用い尽さねばならぬ十年--それは短いものではない。それにも係わらず、君は性格の中に植え込まれた憧憬を一刻も捨てなかったのだ。捨てる事が出来なかったのだ。
 雨の為とか、風の為とか、一日も安閑としてはいられない漁夫の生活にも、為す事もなく日を過ごさねばならぬ幾日かが、一年の間には偶(たま)に来る。そう云う時に、君は一冊のスケッチ帖(小学校用の粗雑な画学紙を不器用に網糸で綴ったそれ)と一本の鉛筆とを、魚の鱗(うろこ)や肉片がこびりついたまま、ごわごわに乾いた仕事着の懐ろにねじ込んで、ぶらりと朝から家を出るのだ。
 「逢う人は俺ら事気違いだというんです。けんど俺ら山をじっとこう見ていると、何もかも忘れてしまうです。誰だったか何かの雑誌で『愛は奪う』と云うものを書いて、人間が物を愛するのはその物を強奪(ふんだ)くるだと云っていたようだが、俺ら山を見ていると、そんな気は起したくも起らないね。山がしっくり俺ら事引きずり込んでしまって、俺ら唯惘(あき)れて見ているだけです。その心持が描いてみたくって、あんな下手なものをやってみるが、から駄目です。あんな山の心持を描いた画があらば、見るだけでも見たいもんだが、ありませんね。天気のいい気持のいい日にうんと力瘤(ちからこぶ)を入れてやってみたらと思うけんど、暮しも忙(せわ)しいし、やっても俺らにはやっぱり手に余るだろう。色も付けてみたいが、絵具は国に引っ込む時、絵の好きな友達にくれてしまったから、俺らのような絵には又買うのも惜しいし。海を見れば海でいいが、山を見れば山でいい。勿体ないくらいそこいらに素晴らしい好いものがあるんだが、力が足んねえです」
    --有島武郎「生まれ出づる悩み」、『小さき者へ・生まれ出づる悩み』(新潮文庫、昭和五十五年)。

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巧まざる自然に何かを望んだり、願ったりしたことはありません。
しかし、何か、神々しいまでの真理に対して頭を深く垂れざるを得ないような……そういう祈りにも似た、圧倒感は時折感じております。
それを祈りといえば祈りなのかもしれませんが、そういう宗教学的な定義化のカテゴリーに選別される以前の、何か、人間としての向かい合い方を感じることがあります。

これは自然に対してだけでなく、人に対してもそうなのかもしれません。

「勿体ないくらいそこいらに素晴らしい好いものがある」

大自然ドキュメンタリーで垣間見る自然の営みにのみ“素晴らしい”自然があるのではないのでしょう。

都会を優しく照らす月光にも、
郊外をさやさやと包み込む月光にも、
そして、
田舎にひとしく降り注ぐ月光にも、
……巧まざる自然の営み、「しっくり俺ら事引きずり込んでしまって、俺ら唯惘(あき)れて見ているだけ」の現在が絶え間なく営まれているのだろうと思います。
しかも、さりげない日常生活の一コマとして。
実際のところ、日常生活とかけ離れた○○とは、仮想の○○なのかもしれません。
これが「超越的内在」のひとつの契機かもしれません。

おもえば、ビールをもう一本買っておくべきだった。

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 君よ!!
 この上君の内部生活を忖度(そんたく)したり揣摩(しま)したりするのは僕のなし得る所ではない。それは不可能であるばかりでなく、君を瀆(けが)すと同時に僕自身を瀆す事だ。君の談話や手帳を綜合した僕のこれまでの想像は謬っていない事を僕に信ぜしめる。然し僕はこの上の想像を避けよう。ともかく君はかかる内部の葛藤の激しさに堪えかねて、去年の十月にあのスケッチ帖と真率な手紙とを僕に送ってよこしたのだ。
 君よ。然し僕は君の為めに何を為す事が出来ようぞ。君とお会いした時も、君のような人が--全然都会の臭味から免疫されて、過敏な神経や過量な人為的智見に煩わされず、強健な意力と、強靱な感情と、自然に哺(はぐく)まれた叡智とを以て自然を端的に見る事の出来る君のような土の子が--芸術の棒誓者となってくれるのをどれ程望んだろう。けれども僕の喉まで出そうになる言葉を強いて抑えて、凡てを擲(なげう)って芸術家になったらいいだろうとは君に勧めなかった。
 それを君に勧めるものは君自身ばかりだ。君が唯独りで忍ばなければならない煩悶--それは痛ましい陣痛の苦しみであるとは云え、それは君自身の苦しみ、君自身で癒さなければならぬ苦しみだ。
 地球の北端--そこでは人の生活が、荒れくれた自然の威力に圧倒されて、痩地(やせち)におとされた雑草の種子にように弱々しく頭を擡(もた)げてい、人類の活動の中心からは見逃される程隔たった地球の北端の一つの地角に、今、一つのすぐれた魂は悩んでいるのだ。若し僕がこの小さな記録を公けにしなかったならば誰もこのすぐれた魂の悩みを知るものはないだろう。それを思うと凡ての現象は恐ろしい神秘に包まれて見える。如何なる結果を齎(もた)らすかも知れない恐ろしい原因は地球のどの隅っこにも隠されているのだ。人は畏れないではいられない。
 君が一人の漁夫として一生を過すのがいいのか、一人の芸術家として終身働くのがいいのか、僕は知らない。それを軽々しく云うのは余りに恐ろしい事だ。それは神から直接君に示されなければならない。僕はその時が君の上に一刻も早く来るのを祈るばかりだ。
 そして僕は、同時に、この地球の上のそこここに君と同じ疑いと悩みとを持って苦しんでいる人々の上に最上の道が開けよかしと祈るものだ。この切なる祈りの心は君の身の上を知るようになってから僕の心の中に殊に激しく強まった。
 ほんとうに地球は生きている。生きて呼吸している。この地球の生まんとする悩み、この地球の胸の中に隠れて生れ出ようとするものの悩み--それを僕はしみじみと君によって感ずる事が出来る。それは湧き出で踊り上る強い力の感じを以て僕を涙ぐませる。
 君よ! 今は東京の冬も過ぎて、梅が咲き椿が咲くようになった。太陽の生み出す慈愛の光を、字面は胸を張り拡げて吸い込んでいる。春が来るのだ。
 君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春が微少(ほほえ)めよかし……僕はただそう心から祈る。
    --有島武郎、前掲書。

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月光を浴びながら読んでいた有島武郎(1878-1923)のつづきでも……。

上に引用した書物の筋はつぎのとおりです。

すなわち……
すぐれた絵の才能をもちながらも、貧しさゆえに漁夫として生きなければならない主人公の青年は、激しい労働と不屈な芸術的魂の相剋の間で逞しく“生きざる”を得ない。
多感であればあるほど、かえって親兄弟や世間との絆をガムシャラに断ち切ることもできない。
告げようもない苦しみを苦しむ若者によせた限りない人間愛の書物と呼ばれているのが、この『生れ出づる悩み』であります。

人間という生きものは、この話にあるように、どうしようもない、そして切れないしがらみや悩みの網の目のなかで現実には格闘しながら生きている。そして、それが本意でないときも種々あるものです。だからこそ、ゲーテがいうように“努力すれば迷う”ものであり、そこに実は人間の成長も存在する。

そこに第三者は介在することはある意味で不可能である。

ただ、それでも、そうした苦悩や葛藤に対して、寄り添い、祈ることはできる。
うえから介在したり、理論として忠告したりすることは「君を瀆(けが)すと同時に僕自身を瀆す」ことになってしまうことが殆です。

だからといって“関わり”を断つことも出来ない。

話を聞き、寄り添い、そして祈る。
しかしそのなかで、決断するのは、当人自身である。

しかし、関わりを断ってはいけない。

なにも指示も、示唆も、道を示すことも出来ないかもしれない。道を示すということすら存在に対する冒瀆といってもよいかもしれない。

しかし、関わりを断ってはいけない。

関わり続ける努力のなかに、人間愛の感情、ないしは慈悲の勇気が生まれてくるのではなかろうか。

有島の作品を読むとそのことを考えさせられます。

有島は人物として、優等生であり、孝行息子であり、模範的紳士であったという。
しかし、そうした在り方と現実との相剋で苦悩し続けた人物である。
最後は『婦人公論』記者と不倫のあげく縊死心中を図る歩みなので、到底、長谷川平蔵の人生観とは相容れない人物ではあります。しかし、その容赦のない自己呵責が崇高に歌い上げられた作品にはどうしてか、この年になってくると惹かれてしまうようになってしまった……。

ともすれば、人間はスパッと、熱く対象に関わり、喧々諤々のすえ、同抱するような在り方に若い頃はひかれたものでありますが、それだけがすべてというわけでもないのでしょう。

苦悩や葛藤に直接介在しなくてもよい、在り方における人間愛とか、慈悲を有島はそれとなく示してくれてるように思われる。

こういうのを読むと、本当に“焦らなくてもよい”し、奥底で決断したことはかならず「冬の後には春が来る」ように、自ずと道は開けるのではないだろうか……などと思ってしまいます。

もちろん、いうまでもありませんが、それに対する努力は必要ですけど。

存在と存在に対する関わりの多様性だけは、なんといっても認めざるを得ません。

例の如く、いっぱいやりながら書いているので支離滅裂でセンチメンタルですいません。
お月様のおかげです。

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行け。勇んで。小さき者よ。

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「それは理由になっていないだろう」
8月は確かに“飲み過ぎた”……わけですが、それもひとつの“学び”の場であり“啓発”の場であるとすれば、遊んでいるわけではない(というのも屁理屈ですが)。

しかし、細君には申し訳ないと思っていたので、先月は焼き鳥に連れて行ったが、その“申し訳のなさ”の子供さんに対する還元を受けとっていないとのことで、どこかへ連れて行ってくれと強要されてしまう。

「金がないので……」
「カード使えばいい」
「カードってワタシのですか?」
「カードも現金も、貴方のオゴリでしょ?」
「確かに……」

いずれにせよ……「それは理由になっていないだろう」
今日は特に何も予定がないし、これから忙しくなるのは目に見えているので、ちょうどいいのだそうな。
昼から資料に目をとおし一段落したところで、30通のレポートを仕上げ、さあ、夜から読んだ資料を整理して、論文を組み立て直そうとしていたのですが、「それは理由になっていないだろう」企画で外へ出る。

1週間ほどまえ、そこへいったときは、改装中だった店で、今週からオープンした『さかなや道場』へ向かう。ちょうど時間的には早い時間だったので、入れ込みのテーブル席で自由にやり始める。

どうやらマグロがウリのようなので、マグロ中心にセレクトし、久しぶりに、にぎりや刺身、そして豆腐などを頂く。

ビールではじめ、日本酒で締めるいつものパターンですが、はじめて見る辛口吟醸酒があったので頂戴する。

花の舞酒造(静岡)の限定酒『超辛口 純米吟醸 日本刀(かたな)』という一品です。
“超辛口”というふれこみですが、飲むと“超”というほど“超”ではありませんが、キレのよいさっぱりとした味わいの一品で、酒と云えば日本海側だよなという通年を打破してくれる一品でした。やはりこのお店は“花の舞”等のチムニーグループなので、花の舞酒造なのでしょうか。詳しくは存じておりません。

さて、三人で堪能し、外へでると既に真っ暗。
秋の夜はつるべ落としです。

……というところでおわると“らしく”ないので、ひとつ。

今日は仕事の合間に久し振りに有島武郎(1878-1923)を読んでいたのですが、ご存じの通り、有島は札幌農学校時代に、キリスト教の洗礼を受けた日本の作家です。志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加し、白樺派を代表する文筆家といっていいでしょう。厳格なピューリタン的なプロテスタンティズムな自己自身への“しばり”と自由を渇望する自己自身という二つの相剋に悩みながら、やがては棄教してしまう人物です。
内村鑑三もこの有島武郎に期待をしていたようで、有島が棄教し、最後には自殺してしまう在り方に大層落胆したようです。

さて、この有島に代表される白樺派。大正デモクラシーなど自由主義の空気を土壌に、人間の生命を高らかに歌い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作したグループです。この理想主義・人道主義・個人主義的な発想から、後に“大正生命主義”と呼ばれる思潮も誕生してくるわけですが、理想を仰ぎ見つつ、個々の存在者としての人間を肯定していこうとする眼差しは、文学としての実践だけでなく、作家をしてさまざまな社会運動へ関わらせる嚆矢となったようです。そのひとつが実験農場とか実験共同体とよばれる、あらゆる搾取のない原始共産主義的な共同体の立ち上げでした。有島がはじめた「有島農場」、そして武者小路がはじめた「新しき村」などがその代表でしょう。

結果としてはどちらの運動も、“夢想的”なきらいがあり頓挫してしまいます。

しかし、そういう取り組みを始めた、理想と現実を繋ごうとした試みは、無駄だったと早計することはできないのではないのだろうかとも思います。

ただ、よく言われるように、白樺派の作家たちは、ほとんど学習院出身の上流階級に属するひとびとで、現実感覚といった場合には、疑わしい部分もあるので、そうした矛盾をまえにして、ひとびとは、大正末期から力を得てくる、無産主義の運動へ引かれていったようです。

さて……。
いずれにしましても、読むのは読むのですが、例のごとく、有島武郎の作品も苦手な宇治家参去です。白樺派に対してはどこか近親憎悪に似たリアリティーを実感する部分も拍車をかけており、なかなか入ってこないところがあったのですが、ここ数年、なんどか読み返していくうちに、「悪くはないな」というところにまではきたようです。

ただし、“偏った”宇治家参去からしてみれば、やはり、ダンテの葛藤、ドストエフスキーの深奧、ゲーテの天空ほどの“深さ”“広大さ”を白樺派に望むことはできないなとは思いますけれども、やはり限界を有した日本人の発想としては、理想と現実の対峙・相剋という部分では、ひとつの見本を良くも悪くも見せてくれたのではなかろうかと思えるようにはなってきました。

有島の有名な作品に「小さき者へ」というものがあります。三人の子供を授かったのち、若くしてなくなった妻、そして残された有島と三人の子供たち。その母の死を経験した子供たちへ有島が言葉をかけるというスタイルをとった体験にもとづく小文ですが、読むとなかなか味わいぶかい。その冒頭とラストより一節づつ。

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 お前たちが大きくなって、一人前の人間に育ち上がった時、--その時までお前たちのパパは生きているかいないか、それは分らない事だが--父の書き残したものを繰り広げて見る機会があるだろうと思う。その時この小さな書き物もお前たちの眼の前に現れれ出るだろう。時はどんどん移って行く。お前たちの父なる私がその時お前たちにどう映るか、それは想像もできない事だ。恐らく私が今ここで、過ぎ去ろうとする時代を嗤(わら)い憐れむのかも知れない。私はお前たちの為にそうあらんことを祈っている。お前たちは遠慮なく私を踏台にして、高い遠い所に私を乗り越えて進まなければ間違っているのだ。然しながらお前たちをどんなに深く愛したものがこの世にいるか、或いはいたかという事実は、永久にお前たちに必要なものだと私は思うのだ。お前たちがこの書き物を読んで、私の思想の未熟で頑固なのを嗤う間にも、私たちの愛はお前たちを暖め、慰め、励まし、人生の可能性をお前たちの心に味覚させずにおかないと私は思っている。
    --有島武郎「小さき者へ」、『小さき者へ・生まれ出づる悩み』(新潮文庫、昭和五十五年)。

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 深夜の沈黙は私を厳粛にする。私の前には机を隔ててお前たちの母上が坐っているようにさえ思う。その母上の愛は遺書にあるようにお前たちを護らずにはいないだろう。よく眠れ。不可思議な時というものの作用にお前たちを打任してよく眠れ。そうして明日は昨日よりも大きく賢くなって、寝床の中から跳り出して来い。私は私の役目をなし遂げる事に全力を尽すだろう。私の一生が如何に失敗であろうとも、又私が如何なる誘惑に打負けようとも、お前たちは私の足跡に不純な何物をも見出し得ないだけの事はする。きっとする。お前たちは私の斃れた所から新しく歩み出さねばならないのだ。然しどちらの方向にどう歩まねばならぬかは、かすかながらにもお前達は私の足跡から探し出す事が出来るだろう。
 小さき者よ。不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。
  行け。勇んで。小さき者よ。
    --有島武郎、前掲書。

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あれだけ、白樺派への忸怩たる思いをくどくどと述べたわけですが、読んでみると、いいものでしょ?

さて、今日は子供さんに「もうしわけない」を形にせよと強要されたわけで、結果としては自分も堪能したわけですが、常々そういう子供と向かい合うなかで実感するのが次の部分です。すなわち、子供に対する親の感情は、内容としては特別な感情でありながら、その在り方は普遍的な形式をもつものだろうということです。この感情を、我が子にだけ向けるのではなく、自分とかかわりあう人間達へその眼差しをむけることができれば、少しだけ世の中はよくなるのではなかろうか、そしてそこに希望が存在するのではなかろうか……などと思ってみたりもします。

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盗人のモラル

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 真の盗賊のモラルは、

 一、盗まれて難儀するものへは、手を出さぬこと。
 二、つとめするときに、人を殺傷せぬこと。
 三、女をてごめにせぬこと。

 の三カ条が金科玉条というもので、これから外れた、どこにでもころがっているような泥棒を真の盗賊たちは「あさましい」と見るのである。
 なればこそ、盗みすることを、つとめするなどといい切ってはばからぬのだ。
 またそれだけに仕事もむずかしく、大盗賊になると十年がかりで、ねらいをつけた商家や寺院へ網をかける。この間の投資もなみなみのものではないのだ。
    --池波正太郎「浅草・御厩河岸」、『鬼平犯科帳 (一)』(文春文庫、1974年)。

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本物の盗賊とは、単に“盗む”のではない。
なかまうちでも厳しい職業倫理を課すことによって、職業としての犯罪を遂行のである。
だから、金のないところからは盗まないし、盗んでから換金する手間や運ぶのに苦労するものへは手をかけない。
本物の盗賊は、通常、ねらいを定めた商家へ手の者を奉公人として忍び込ませ内情を観察する。数年越し、なかには数十年越しで計画を立て、盗みをおこなう。盗みの当夜は、まさに煙のように忍び込み、お宝を頂戴し、煙のように去っていく。家人は深い眠りの渦中で、盗賊が忍び込んだことすら察知していない。

一種の“芸”である。

本格の盗賊一味は、この芸を競い合ったものだとか。
血は一滴も流れないし、女をてごめにすることもない。厳しい倫理が要求される、まさにストイシズムの極地である。そのことが本物の盗賊たちの倫理であり、誇りである。だからこそ、盗みという行為を“つとめ”と呼ぶのである。

その対極にあるのが、“急ぎ盗(ばたらき)”ないしは“畜生盗(ばたらき)”と呼ばれる、作中では18世紀後半の江戸で、盗み業界を瞬く間に席巻していったやり方である。

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 「お前、江戸から来た、と言ったな」
 「へい」
 「それじゃあ、おれの急ぎ盗(ばたらき)のありさまをうわさにもきいたろう」
 「えい、ききました。ですがどうも、わっしにはぴんと来ませぬでございましたよ」
 「ふん……」
 丹兵衛は恥ずることころもなく鼻で笑って見せ、
 「いまのおれは、むかしの丹兵衛じゃあねえ。このせわしねえ世の中に、むかしのようにのんびりしたお盗(つとめ)がしていられるものかい」
 「へい…へい……」
 「おれも年齢(とし)だ。いつまでも、ゆっくりと手足をうごかしちゃいられねえ。急ぎ仕事ゆえに血も流そうし、あこぎなまねも平気でするのさ。そうでなくちゃあ、当節生きてはゆけねえ。なに、こいつはおれたちの稼業にかぎらねえことよ。上は大名から下は百姓まで、手前が生きのびるためには他人を蹴落してゆかねえじゃあどうにもならねえ。いい儲けをしてにたにた笑っていやがるのは商人(あきんど)どもばかりの世の中だ。だからよ……」
 いいさして、粂八を見つめた丹兵衛の顔かたちは変わっていないのだが、かつて〔仏の丹兵衛〕などともよばれた平穏な人相は消え果て、あぶらぎった欲望が面(おもて)にぎらぎらと燃えたっている。
    --池波正太郎「血頭の丹兵衛」、『鬼平犯科帳 (一)』(文春文庫、1974年)。

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かつて〔仏の丹兵衛〕ともよばれた本格の盗賊の首領「血頭(ちがしら)の丹兵衛」すらも晩年には、平気で「急ぎばたらき」をする盗賊に堕してしまったものである。

うえの作品では、もと丹兵衛の配下であり、つとめの最中に「女をてごめ」にしたことで破門された小房の粂八が捕縛後、もとのお頭である丹兵衛が急ぎばたらきをしているとのウワサを耳にして、そのことが信じられなかった。急ぎばたらきをする血頭の丹兵衛は「にせもの」である。だからこそその「皮」をはがしてやる!……ということで盗賊改メの密偵として捜索の渦中で、丹兵衛と出会うのである。しかし、急ぎばたらきをしていた丹兵衛こそ、かつては〔仏の丹兵衛〕と呼ばれた本人であった……。

「急ぎばたらきをするときは、皆殺しが一番いいのだ。痕跡(あと)が残らねえからのう」(血頭の丹兵衛)

だから火付盗賊改メ方長官・長谷川平蔵は、本格の盗賊に対しては一目おくものの、急ぎばたらきの盗賊に対しては容赦がないのである。

……という急ぎばたらきをしてしまいまして、さいど作り直しの平成を彷徨う宇治家参去です。
月末締めの論文を10日をめどに1本まとめていたのですが、集めた資料が1本散逸してしまい、そこの分を諦めて纏めていました。ほぼほぼそれを考慮せずとも完成するかたちで仕上がり始めていたのですが……。
ちなみに結論から先に言えば、その部分をスルーしても論文としては成立するのですが重濃味にかける内容となっしてまう。

その散逸した資料が、息子さんの本棚から発見されてしまった……。
ウルトラなんとかの図鑑とかの間に、国立国会図書館でコピーした資料が一本、うらには、ネズミがはったようなウルトラマンの絵が描かれていたわけですが、たまたま細君が今日発見してしまった。

「これ必要なやつでしょ」

なぜそこに行ってしまったのか、分からないのですが、とりあえず受領する。
内容はコピーしたときに一度確認していたのですが、読み直すとその重要性を改めて認識する。

ちょうど、今扱っているのが、プロテスタントからカトリックへ“改宗”した思想家なんですが、その改宗の消息にあたる文章があまり存在しておりません。その経緯を物語るひとつ証拠でしたものですので(証拠と言うよりは後日談的講演)、全体をもう一度組み立て直すことにする。

論旨全体をひっくり返す、組み立て直すわけではありませんが、想定していた結論に対する、ひとつの説得力を与える記録となるので、省くところを省き、入れ直す作業、全体の手直しがもう一度必要になりました。

へんな言い方ですが、〆切もあるし、他の学問の仕事も山積しているので、とりあえず、あと10日をめどに再度組み立て直していきます。

ま、このタイミングで発見できたのは不幸中の幸いかもしれません。

急ぎばたらきはくれぐれもしない方がいいですね。かえって二度手間になりますから。

さて今日はもう手を入れる気力がないので、一足早いですが、今日は「湯豆腐」で一杯やっています。珍しいビールを細君が買ってきてくれていたので味わってみましょう。

ベルギー産・ヒューガルデンです。

「世界でもっとも人気のあるホワイトビール」とのふれこみです。

一切ろ過や加熱を行わず、生きた酵母をそのまま瓶詰めしてそうだとか。
ラベルに書かれていますが、飲み方にもこだわりがあるようです。
①冷えたグラスに2/3ほどそそぐ。
②そして、瓶に残った1/3を振り回してからグラスへ注ぐ。
そのことによって生きた酵母がうまい具合に、グラスのなかで、暴れ出すのだとか。

で……。

フルーティ!
※語彙が貧弱です!

ホワイトビールは、本当にフルーティです。なんといいますか、「おっ、これなかで○○菌(からだにいいやつ)がいきているよなっ」てのを実感できます。
真夏や真冬向けではないかもしれないの、この季節が一番よろしいかと。

とりあえず、もうこの後は仕事にならないので、すこしウルトラセブンにでも変身して布団へ潜ります。

とわいえ飲み出してからナンですが、カトリシズムは不思議なものです。
プロテスタンティズムからカトリシズムへ“改宗”した人物はよく聞きますが、その逆はあまり聞きません。しかし、カトリシズムへ向かうことは、当人とっては“改宗”ではなく、信仰の“完成”なのですよね。

“カトリック”とは“普遍的”という意味ですが、その普遍さとは、個別の存在者と宇宙をつなぐ“universe”としての“普遍”なのでしょう……だから完成されるのかもしれません。

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 初めに申上げておかねばならないが、筆者はカトリシズムなる語の下に、キリスト教そのものを意味するので、プロテスタンティズムに対するカトリシズムと言う観念で考へてはゐないといふことである。この事はキリスト教会史の上からしても直ちに知らるゝ如く、カトリシズムは単にプロテスタンティズムに対して丈け言はれるものではなく、プロテスタンティズム以前においても又今後幾世紀の間に幾つ現はれるかも知れない凡ての分派主張に対してもカトリシズムなのである。然しその事は別として、筆者の主観的気持ちからしても、カトリシズムにおける基督への信仰の告白において対プロテスタントという関心は甚だ稀薄で、世紀の無信仰と無神性に対し、宗教的人間の実存的意識といふことが根本問題である。
(中略)
……カトリック者にとっては問題は「無神論かカトリシズムか」といふことに帰するし、神の存在を認めれば必然的にカトリシズムの真理性肯定に至る所以を言ふものに共鳴さぜるを得ないのである。カトリック者にとつては、真の天主、真の宗教、真の基督教、真の教会と言ふ概念は一貫して、カトリシズムの信仰告白となつてゐるのである。プロテスタンティズムよりカトリシズムに改宗した人々にも色々の経路があり動機があるであらうが、恐らく真面目なプロテスタントであつた人なら凡て、カトリシズムに至つて自らがプロテスタンティズムにおいて信じたキリスト教の真理の一つをも失つたとは思はないであらうし、自らがそこを通じて、そこにおいて神とキリストの真理に導き入れられた古き親しき兄弟姉妹の家を去るに断腸の思ひなきを得なかったであらう。然し彼は今やカトリック教会において旧き信仰の友等のために祈りつゝ彼がそこに導入され開眼せしめられた使徒伝来の生ける信仰のうちに、嘗て感謝し歓喜した恩寵の真理の根源的な完き姿を賛美し告白するのである。
    --吉満義彦「カトリシズムと現代人」、『新興基督教』昭和十七年十一月。

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【覚え書】「記者の目:ボスニア内戦、戦犯・カラジッチ被告=町田幸彦(欧州総局)」、『毎日新聞』(2008年09月10日付(水))。

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読んでいていよいよかと実感する。
大学在学中から今日まで、人間の醜さをいやというほど突きつけられ、自分自身の問題として考えることができたのが旧ユーゴスラビアの内戦です。どこまで人間は人間に対して愚かに振る舞えるのか、そしてどこまで人間は人間をモノとして扱ってしまうのか……哀しみと絶望の呻吟の中で考えさせられた“世界史的出来事”です。こうした出来事は長くなればなるほど、ひとびとは問題に鈍感になり、次のニュースを求めだす。

人間を幸福にした民族とか国家とかイデオロギーは全く存在しない。

人間をあるがままの人間として認め合いながら、お互いに薫発していくなかでしか幸福は存在しない。だからこそ、人間は絶望の彼方からでも希望を紡ぎだすことができるのである。

はっきりいうと、フランクフルト学派を代表するドイツの思想家・ハーバーマス(Jürgen Habermas,1929-)は苦手です。コミュニケーション的理性を論じる中で、市民の側から公共空間を創出する理論を説いたわけです。が、そこで論じられている市民像には、19世紀的な教養人のサロン空間が色濃く意識されているがゆえに苦手です(ちなみにそこを読み違えた本邦の市民主義者たちが、敵の首をとって自喜する行動と言説にも違和感があります)。
しかしながら、次のハーバーマスの言葉は重く受けとめる必要は十全に存在するのではないでしょうか。

「集団の罪はあり得ない。あるのは個人の罪だけだ」

集団として人間存在を見てしまうとそこには生きた人間の姿を見出すことは不可能になる。得てして集団同士の殴り合いとなったとき、個々人の罪責性が見失われてしまうことが多々あるがそれは虚偽にすぎない。いかなる理由があるにせよ、関わることには必然的に罪責性を伴うものである。

今回の法廷開催の意味は大きいであろう。
それがたとえ、勝者の裁きであったとしても、意味はある。
ヘゲモニー的な勝者も敗者も殺しているのでしょう。しかし、ひとを殺すという意味を真摯に見つめ直す舞台であれば、そこには意味がある。そもそも勝者か敗者かだけで、英雄になるのか、犯罪者になるのか、なんて根源的にはナンセンスだ。やったことは確認しておかなければならない。意味はそれから作られる。

さて逆説的な叙述になるが、セルビア人もクロアチア人も、そして介入した人々をも責めたくはない。
なぜなら、関わった総ての存在が、そこでは一様に敗者になっているからだ。戦争は決して勝者を作らない。勝った者も負けた者も、一様に敗者であり被害者である。だからこそ、その罪責性は冷静にそして霊性に追及される必要がある。

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 95年夏、クロアチア政府軍のクライナ地区進攻、ボスニアのセルビア人勢力撤退で、多くのセルビア人がセルビア本国に逃れた。でも、彼らは難民として扱われ、当時ユーゴ連邦(セルビア、モンテネグロ)の住民になれなかった。セルビア民族主義を鼓舞されながら、本国に助けを求めたら結局「よそ者」でしかない。威勢のいい民族主義の冷たい仕打ちだった。

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威勢のいいひとびと、号令だけ掛けるひと、そして生活を大切にしないひとにはついていけません。

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「ボスニアの同胞が攻撃されたら、ナイフを持ってでも米国と戦う」と豪語したセルビア人は黙り込むだけだった。みんな自分の生活を守るので精いっぱいだった。

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自身の生活を顧みずして、他者への虚仮威しの差し伸べほど、ありがた迷惑なものはない。自己の生活を顧みながら、その生活実感のなかで、できることを始めるしかないのだ。

どこにもファイナルアンサーは存在しない。
大きな声、威勢のいい叫び、生活と遊離したスローガン……何かが空虚です。

哲学を講ずる身でありながら、内容が理路整然とせず恐縮です。
違和感への感情こそ原動力になるのでは、常々思っている次第でして……

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記者の目:ボスニア内戦、戦犯・カラジッチ被告=町田幸彦(欧州総局)
 ◇「辺境の民族主義者」の末路--自国民からも見捨てられ
 欧州を揺るがしたボスニア・ヘルツェゴビナ内戦(92~95年)の大物戦犯が裁かれようとしている。元セルビア人勢力指導者、ラドバン・カラジッチ被告(63)。約12年の逃亡の末7月21日、セルビアの首都ベオグラードで拘束され、オランダ・ハーグの旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に姿を現した。

 「集団の罪はあり得ない。あるのは個人の罪だけだ」。ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスが述べたように、欧米では個々の責任者の罪を最重視する。20世紀末の欧州の一角で荒れ狂った民族主義。その破綻(はたん)の末路をカラジッチ被告は体現している。

 ボスニア内戦は冷戦後、イタリアやオーストリアと国境を接した旧ユーゴスラビア連邦が解体する過程で起きた惨事だった。

 92年秋以降、旧ユーゴ紛争を現地取材する中で、カラジッチ被告には93年、94年に計2回インタビューした。印象に残っているのは2度目の会見のときに見た、指先のかみ裂かれた無残なつめだ。優勢だった戦況がほころび始めていた。彼は精神科医出身の政治家だが、かなり神経質な人物だった。

 表向きカラジッチ被告は大胆な急進的民族主義者に見えた。あるいはそういう姿を演じていた。内戦前にボスニアの人口約440万人の44%を占めたイスラム教徒勢力に対して、「掃滅も辞さない」と公言した。セルビア人勢力(人口比率31%)の代表として強気に出られたのは、何よりもセルビア本国の軍事支援があったからだ。内戦初期、カラジッチ被告はベオグラードに行くとホテルのカジノで興じ、豪放ぶりを誇示した。

 ユーゴ紛争が本格化する一方で、欧州の非力があらわになるばかりだった。欧州連合(EU)の調停工作の相次ぐ失敗。さらに欧州主体の国連防護軍の停戦監視も有名無実になっていた。セルビア人が国際世論を見くびる要因だった。

 状況が根本的に変わったのは米国の政策転換による。当時のクリントン米大統領は2期目再選を目指し、ボスニアへの積極介入に転じ、北大西洋条約機構(NATO)軍の懲罰空爆強化の道を開いた。

 セルビア本国に加え、ボスニア、クロアチアのセルビア人居住地域を訪れて、次第に人々の心理的変化を本国ベオグラードで察知した。「セルビアは一つ」を合言葉に民族主義の大号令を発した本拠地で、住民は自国の経済危機に見舞われていた。かつて「ボスニアの同胞が攻撃されたら、ナイフを持ってでも米国と戦う」と豪語したセルビア人は黙り込むだけだった。みんな自分の生活を守るので精いっぱいだった。

 95年夏、クロアチア政府軍のクライナ地区進攻、ボスニアのセルビア人勢力撤退で、多くのセルビア人がセルビア本国に逃れた。でも、彼らは難民として扱われ、当時ユーゴ連邦(セルビア、モンテネグロ)の住民になれなかった。セルビア民族主義を鼓舞されながら、本国に助けを求めたら結局「よそ者」でしかない。威勢のいい民族主義の冷たい仕打ちだった。

 セルビア悪玉論に憤慨し被害者意識を強調するベオグラードの友人に批判したことがある。「一番の被害者はクロアチア、ボスニアのセルビア人じゃないか」。友人は力なく答えた。「少なくともセルビア本国が最後まで支援するのでないと伝えるべきだった」

 こうした思い出は今、ロシアが軍事介入したグルジアの南オセチア、アブハジアの独立派住民の運命と重なってくる。民族主義の旗振り役にされがちな辺境の人々は結局、大国や中核国の都合によって犠牲を強いられるだけではないのか。カラジッチ被告擁護の声をセルビアのメディアは熱心に報じたが、ベオグラードでの真の雰囲気は、「あきらめに尽きる」と友人は言う。

 ボスニア内戦では十数万人が死亡した。スレブレニツァ虐殺などの責任は無論、カラジッチ被告に問うべきだ。今後2~3年の審理を経て終身刑を言い渡されるであろう。被告のほおのこけた表情には辺境の民族主義者の無念がにじむ。彼は自分が夢見た民族主義に見捨てられた戦犯である。

(出典) http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20080910ddm004070131000c.html

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※蛇足ですが、ちなみに写真の男性はハーバーマスではなく、カラジッチ被告です。1枚目の写真は、破壊されたサラエボの国立図書館で演奏するチェロ奏者です(1992年)。
書物を焼く国民はやがて自らをも焼いてしまいます by ハイネ

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「右顧左眄のグズ」ですが……

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汗冷やす、風の匂いに、秋を知る
    宇治家参去

まだまだ日中は暑いですが、湿度もひくくなりはじめ、夕方夜は過ごしやすいというよりも一種、寒さを感じるようになった今日この頃です。秋が大好きな宇治家参去です。

さて、休日と言っても休みにならないある日の宇治家参去です。
昨日は日中、レポート添削に専念する。
レポートを担当するようになったのは今年からなので、夏のスクーリング後の投函状況に実に驚いている。まだ9月前半だというのに、通常の一月分の分量が届けられている。レポートの執筆者の皆様、ほんとうにありがとうございます。またお疲れ様です。

さて、鉄は熱いうちに打てというが、やはりスクーリング後の記憶や体験が残っているうちに仕上げたほうが、いいものが書けるのだろうし、能率もよいのであろう。こちらも頑張らなければならない。来週からは短大の後期の授業もはじまるし、たまった学問の仕事も決着していかねばならないので、今月はいろんな意味で勝負の月です。

が……やはり平日なので、お子様が帰ってくると、彼は宇治家参去が本日休みであることを承知しているので、怪獣ごっこを例の如く強要してくる。はっきり言って疲れるのですが、これもこうした交流が彼にとって不可欠であるとすれば、闘わざるを得ない。

本当は来週からの授業の組み立てを前もってやっておこうと思ったのだが、まあ、明日にでもしましょう。久し振りの焼き肉のあと、一戦交えるはめに。

風呂にいれてやり、父子ともに果てしのない睡眠のかなたに沈没です。

しかし、落ちるのが早かった分、夜中に目が覚めてしまったので、今から仕事を再開です。

一度、どこかのタイミングで、何も考えずに温泉に入り、ただ飲みたい酒を無心に飲み、知らぬ間に眠りこけるように、ゆっくりと休みをとりたいものですが、もう今年は無理かも知れません。ひとつの峠をこえれば、そういう機会を取りたいものです。

さて、連日、どうしようもないニュースが飛び交っている。
本当に自分自身を含めて、世の中の問題を「自分自身の課題」として理解し、考え、事象へ関わっていかなければならないのであろう。
見えぬ支配の構造は狡猾になるばかりで、何か大切なこと、考えなければならないことがスルーされているような実感を、この10年持ち続けてきた。それが今、ますます大きな暗雲として大きく、ひとびとを囲み込もうとしているよう思えて他ならない。芥川龍之介ならば「将来に対する漠然とした不安」と表現するところでしょうが、そうした個別の存在者の存在に救う実存的関心が、実はなにかおおきな構造のなかで誘導されているとでも言えばいいのでしょうか……そうした不安と懸念が実に大きくなってきている。

犯罪件数は減少しているにもかかわらず、センセーショナルな表現で「防犯カメラ」の増設をスローガンが掲げられ、ひとびとのあいだから“支配”されることへの恭順の意が示されて始めているように、何かが違うのです。

価値観が一元的に集約され、異質なもの、差異が圧殺され、排除の構造がいや増して大きくなりつつある。

我が子と戯れながら、この子が大きくなったとき、どのような社会になっているのだろうか、不安に思われて他ならない。

しかし、その不安と重圧を、なんとかしなくてはならない
嘆いていてもはじまらない。
それが自分の責任であり、課題であるのだと思う。

かつてファシズム時代の国家構造を丹念に分析し、戦後思想史の一画期を築いた人物のひとりに藤田省三(1927-2003)がいる。丸山眞男(1914-1996)の弟子で、戦後日本を代表するリベラル派知識人のひとりである。彼の文章に次のような言葉がある。

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 理解や認識はできるだけ多面的であることを必要とする。場合によっては多義的(アイマイ)な表現をさえ要求する。決断はそうではない。多面的な理解の上に立って行動を決める決断は、その前提をなす理解の多面的で多義的な世界から一躍して、一義的でどこから見ても一つにしか見えないような明晰さを持ったものになっていなければならない。むろん、行動の原理である決断は一つ一つの行動に関するものだから、次にはまた理解の世界に投げ返されてその決断の良否・適不適を検討されなければならない。この往復運動を失って、ただ決断ばかりをやっているような決断主義は、ハネ上りとなったり行動ニヒリズムとなったりする。他方、理解の多面的で多義的な世界に入りっぱなしで一切決断しないものは右顧左眄のグズとなる。また、行動にも他のものと同じく次元というものがあるから、ある社会的次元での決断と他の次元での決断とは一枚である必要は必ずしもない。一義的な決断が同時に重ねって存在していることはある。つまり決断における重層的構造は存在しうる。さきに上げたM・ポールの誤読はこの点に関係している。彼は、日本の支配者が「降伏」という文句を使っていないのは、表面を「胡麻化すこと」をハッキリと決めておいて、本当のところでは軍国主義の再建をひそかにハッキリと決意していることの表われなのではなかろうか、と疑ったのだった。ずいぶんと高度の決断能力を認められたものだ。徹底的に決断能力がないと、時々知らない人間からは最高度に複雑な決断能力を持っているように見られることがある。虚弱体質を見て柔軟でしなやかな筋肉の持ち主と見まちがえるようなものである。むろん、一九四五年八月十五日における日本の支配者は複雑高度の決断力どころか決断の名に値する要件をほとんど全く備えていなかったということは、その後の数年の経過を見ただけで明瞭である。高い理解力のないところに次元を区別する複雑な決断が生まれる筈もなかろう。彼らは数年ウロウロしていた。
    --藤田省三「『昭和』とは何か」、『精神史的考察』(平凡社、2003年)。

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藤田が指摘するとおり、「理解や認識はできるだけ他面的である」ことは間違いない。そして対象や事物に対する理解や認識に基づき、人々は一義的な「行動を決める決断」を選択する。しかし、多面的であることと一義的であることは、内的な関連を欠いた全く別個の存在とは異なるものである。

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行動の原理である決断は一つ一つの行動に関するものだから、次にはまた理解の世界に投げ返されてその決断の良否・適不適を検討されなければならない。この往復運動を失って、ただ決断ばかりをやっているような決断主義は、ハネ上りとなったり行動ニヒリズムとなったりする。他方、理解の多面的で多義的な世界に入りっぱなしで一切決断しないものは右顧左眄のグズとなる。また、行動にも他のものと同じく次元というものがあるから、ある社会的次元での決断と他の次元での決断とは一枚である必要は必ずしもない。

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大切なのは、一人の人間の中における「理解や認識」と「決断」における不断の「往復関係」なのであろう。往復関係を欠いた行動主義は「行動ニヒリズム」になってしまうし、同じように、理解や認識への沈潜は「右顧左眄のグズ」となってしまう。ちなみに自分はどちらかといえば「右顧左眄のグズ」のきらいがありますので、このことは自覚しておく必要があります。

で……
前者が「敗戦」を「終戦」と表現したひとびとであるとすれば、後者はそうした流れに棹さすことのできなかった知識人であるのかもしれない。

いかなる決断をなすにせよ、そして事象に対していかなる理解や認識をなすにせよ、つねにこの「往復関係」のなかで、よりよい在り方を選択したいものであります。

それが我が子に対する責任なのかもしれません。

日本でリベラルというと己の言説に対してすらも自由であることがリベラルという人々であったように思われるのですが、そうならない、自分で引き受ける選択と行動を開始していきたいものです。「高い理解力のないところに次元を区別する複雑な決断が生まれる筈もなかろう。彼らは数年ウロウロ」していましたから。

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Small Is Beautiful  一般のひとびとの知恵と行動の実力

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 希望がもてるのは、一般の人たちが専門家よりも幅広い見方と「人間らしい」考え方をとりうることが多いことである。現在、彼らはややも無力を思い知らされているが、彼らの力は新しい行動を自分で始めることではなく、すでに行動を起こしている少数者を理解し、支援するというかたちで発揮される。
(中略)
 私は技術の発展に新しい方向を与え、技術を人間に真の必要物に立ち返らせることができると信じている。それは人間の背丈に合わせる方向でもある。人間は小さいものである。だからこそ、小さいことはすばらしいのである。巨大さを追い求めるのは、自己破壊に通じる。では、方向転換にはどれくらいのコストがかかるのか。生き残るためのコストを計算するのは邪道だということを忘れてはならない。もちろん、価値あるものはただでは手に入らない。技術の方向を切り替えて、人間破壊ではなく、人間に奉仕させるには、何よりも想像力を働かせ、恐れを捨てる努力が必要である。
    --E・F・シューマッハー(小島慶三・酒井懋訳)『スモール・イズ・ビューティフル 人間中心の経済学』(講談社学術文庫、1986年)。

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いつもの通りですが、人員不足のため、レジを打っていますと、やはりレジ袋を辞退される方が増えつつあるのを、現場的に実感します。

レジ袋と言えば、スーパー、コンビニをはじめとして、いわばあらゆる小売業であつかうサービスのひとつですが、これが一般化するのが1960年代のことです。ちょうど高度経済成長と重なる時期で、ひとびとは右肩上がりの経済成長が無限に続くと夢想していたころですが、そうした夢想は夢想でしかなく、有限資源の問題や地球環境に対する意識、そして経済的な要因が絡み合い、レジ袋が象徴する“使い捨て”のライフスタイルの見直しをどこか感じるようになってきたのでしょうか。

市井の職場は有料でレジ袋を提供するようなことはしておりませんが、ちょっとしたサービスをつけています。そのサービスが目当ての方ももちろんおりますが、いい年齢のビシッとネクタイを締めた紳士が、素敵な書類カバンから、マイ・バックを取りだし、「袋はいいよ」って声を掛けてくれる。主婦を絵に描いたようなおばちゃんが、カゴ2つも3つも買い物しながら、ナイロンのエコ・バックを二つか三つ取りだして、「いらないから」といってくれる。

会社の説明によると、レジ袋は、お猪口1杯分程度の原油コストが製造・精算・流通にかかるそうです(ただしその根拠は自分自身で文献やデータで確認したことはないのでなんともいえない部分もありますが)。しかし、そうした有限資産を使い捨てず、Co2削減へなんらかのアクションをおこしていこう、取り組んでいこうとするひとびとの姿をみると、やはり人間はなんと美しい存在なのかとも思ったりもします。

いつも出てくる、ガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi,1869-1948)で恐縮ですが、ガンジーの有名な運動のひとつに「塩の行進」という運動があります。1930年にガンジーは、イギリス植民地政府による塩の専売に反対し、製塩の為にダーンディー海岸までの約380kmを行進した抗議行動のことですが、ガンジーは、「塩」という人間の生活にとってもっとも不可欠な存在を運動のシンボルにおくことによって、植民地支配の不合理性をこの運動で訴えます。

「塩」は人間にとって不可欠な存在です。そのわかりやすさが大切だったのでしょう。
ひとびとは、「塩」を支配するイギリス植民地政府の在り方に違和感を感じ、人間を支配するその構造と心に「魔性なるもの」を読みとったのでしょう。ひとびとはガンジーの行進に続きました。

そしてこの行進が、インドのイギリスの植民地支配に対する独立運動の全インド的な運動へ発展するおおきなきっかけ・転換点になっていくわけです。

その意味では、レジ袋辞退という運動も確かにわかりやすい運動である。
生活に密着し、できるところから挑戦できる、漸進主義の運動、これこそ時代を大きく変革できるチャンスなのかも知れません。

もちろん、うえにも書きましたとおり自分でもその根拠は確認しておりませんので、何とも言えないし、「単純な」「分かりやすい」という在り方に多大な問題が含まれていることも重々承知しております。

しかし、「自分でも実践できる!」という感動と運動論が提示できない限り、そうした運動は、結局は絵に描いた餅でおわります。悪くすれば、前衛理論に牽引され、引きずられ、人間という存在そのものを結果としては阻害する要因として働いてしまうだけですし。
最初に引用したのは、経済学者・E・F・シューマッハー(Ernst Friedrich Schumacher,1911-1977)の言葉から。物質至上主義の現代文明に対する批判の嚆矢といえようが、今読んでも実に含蓄深いものがあります。すなわち、生活者の生活実感こそが時代を支えそして変えていくということです。

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希望がもてるのは、一般の人たちが専門家よりも幅広い見方と「人間らしい」考え方をとりうることが多いことである。

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ともすれば、複雑な現実の世界に、ひとびとは時として無力になったり希望を失ったりすることが多々ありますが、いや、そうではない。一般の人たちが持っている「幅広い見方」と「人間らしい考え方」こそ、思想やイデオロギー以前の人間の現実感覚なんだと思います。そこからはじめるしかありません。あらゆる変革運動が挫折したのはそこに根ざしていなかったからだと思います。それに対して上ではガンジーの例を引きましたが、ガンジーはおそらく、一般の人たちが持っている「幅広い見方」と「人間らしい考え方」に内在したがゆえに、その歩みは偉大な歩みとなったのだと思います。

そのためには何が必要か。
シューマッハーによれば、それは知恵(prudentia)と正義(justitia)、勇気(fortitudo)と節制(temperantia)という徳目である。

このなかで核となってくるのが知恵である。
シューマッハー自身の言葉に耳を傾けてみよう。

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 二十世紀の人類が、先人も知らなかった真理を見いだす使命を背負っているとは考えられない。人類の全ての正しい伝統におけると同じように、キリスト教の伝統でも、真理は宗教の言葉で表現されてきた。しかし、その言葉は現代人の大多数にとって、ほとんど理解できないものになってしまった。だが、表現は変えることができる。現に真理を生かしながらそれを実行している現代作家がいる。キリスト教の長い伝統の中でも、四つの基本道徳、すなわち知恵(prudentia)、正義(justitia)、勇気(fortitudo)、節制(temperantia)という、すばらしく行きとどいた現実的な教えがある。これ以上に今日の困難に対処する上でふさわしいものはおそらくあるいまい。
 知恵は、他のあらゆる徳目の「母」ともいわれているのも意味深いが、その意味は今日の分別(prudence)という言葉では伝えることはできない。それはすぐに利益になることを約束してくれないものには目をくれず、評価もしないような、狭量で卑しく打算的な生活態度の正反対を意味する。

 知恵がとくに重要だというのは、善を実行するには現実をよく知ることが先決だという意味である。ものごとをよく知り、それがどういう状態にあるかを心得ている人だけが、善をなしうる。知恵がとくに重要だということは、いわゆる「よき意図」とか「善意」では不十分だということである。善を行うには、われわれの行動の現実の状況、すなわち具体的な人間行動のための「環境」をなす具体的な現実に適合していること、しかもわれわれがこの具体的な現実を偏見のない客観性をもって真剣に受けとることが前提となる。

 しかしながら、現実を「静かに黙想」し、その間、自己中心的な関心を一時的でも抑えるような態度をとることによって、はじめて偏見のない客観性に手が届き、十全な知恵をもつことができるのである。
 分別よりさらに大きなこの知恵があってはじめて、正義と勇気と節制を身につけることができる。節制というのは、足るを知ることを意味する。「知恵とは真理の知識を現実に即した決定に変えることを意味する」とすれば、この知恵を学び、育てること以上に重要なことが今日あるだろうか。知恵さえあれば、文明が生きのびるのに絶対欠かせない他の三つの徳目を深く理解できるようになることは、まず間違いないのである。
 正義は真、勇気は善、節制は美と結びつく。一方、知恵はある意味ではこれら三つの徳をすべて含んでいる。善も真も美も社会生活や個人生活の最高目的とするには漠然とし主観的でありすぎると主張するような現実論、あるいは、真善美は富と権力がうまく手に入ればおのずから生まれてくるとする現実論が、「歪んだ現実論」と呼ばれてきたのは正しい。いたるところで「私には実際何ができるのでしょうか」という質問を受ける。答えは簡単であって簡単ではない。各自が自分の心をととのえること、というのがその答えである。このために必要な手引きは、科学・技術に求めても得られない。科学・技術の価値はすべてそれが仕える目的に左右されるからである。だが、われわれは人類の叡智の伝統の中にこの手引きをいまでも見いだすことができる。
    --E・F・シューマッハー、前掲書。

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いたるところで「私には実際何ができるのでしょうか」という質問を受ける。

答えは簡単であって簡単ではない。

各自が自分の心をととのえること……世界の中で存在し、生きている自分自身が自分自身と対話し、世界へ開いていくことができれば、「実際には何でもできる」のだと思います。

ただ、しかし……最初の話に戻りますが……レジをこれだけ打っていながらも、いまだにグレープフルーツとオレンジの区別ができません。これにデコポンとかいよかんが混ざってくるともう大変です。

……ということは、宇治家参去自身は、“生活者”としては“まだまだ甘えよ”ってところでしょうか。

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両目を閉じて引き金を引く

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チョイと自戒と反省を込めて書きます。
ナーバスで神経質な文章ですので、スルーしてください。

反省を込めた自分自身の内面との対話です。
存在論的にはあってはならない事態であり、教員・研究者というカテゴリー以前の「人間としてお前はどうよ」って問われる部分ですが、それを平然と平気で時折やってしまいますので、自戒を込めて記録として残しておきます。

ですから、興味のない方はスルーしてください。

では。

ときどきやってしまうのですが、「ひとこと多い」んですよね、宇治家参去の場合。

今日もそうなのですが、市井の仕事先で、バイトくんと終業後、タバコをぷかぷかしながら、らちもない話をしていたわけですが、そこでまた「ひとこと多く」言ってしまい、お互いに居心地の悪い始末となってしまう。

凹むわけです。
これまで何度も繰り返してきては凹んでいますので、凹むほどに更地はのこっていませんが、不思議なことに凹むわけです。

倫理学とか哲学乃至神学は、やはり、言葉に注目しながら、その内在的な意味を現代という世の中で、いわば“解釈”していく部分が主要なフィールドになっています。ですから、核燃料でも扱うが如く、その言葉を扱う上では慎重にも慎重を重ねて扱わなければならないのに、話をするなかでときとしてそのルールを自ら破ってしまうことが多々あります。

映画系の映像エンジニア(?)を目指す学生さんのバイトくんと話をしているなかで……

「おれは自分の作品で勝負するんですよ!」

ここで、すなおに……

「頑張れよ!」

……で止めておけばよいものを、

「でもな……」

「資本の圧力や権力の利益誘導なんかあって、なかなか自分のものを作るのは大変だぞ。何故なら……」
……などとやってしまう。

映像作家の総てがもちろんそうではないし、そんなことは、そういう現場に彼が入っていけば不可避的に気づくことであり、そこからが彼の本当の闘いがはじまるわけなのです。
しかしどうもそういう解説に熱が入ってくると、生来の悪い癖で、「これだけは知っておいてもらわなければならない!」などと妙に“正義感”を感じてしまい「ひとこと余計に言ってしまう」。加えて、その行為に自分自身が“酔う”ことによって、結果としてお互いに傷つけてしまうのである。

夫婦の間でもたまにやってしまいます。

ほんまにこの癖は直さないとマズイです。

ひょっとすると、リアルな世界だけの出来事ではなかったらどうしよう……などと、生来のドストエフスキー(Fyodor Dostoevsky,1821-1881)愛好者は悪いことばかりへ目を向けてしまうのです(※)が、焦燥し、久し振り--でもないですかね--光明の見えぬ奈落のそこです。
※ただし、本論とかけはなれたところでいえば、そういう人間の暗闇性に目を背けず真正面から捉えていくことは必要ですが。

さて、話は戻ります。
こうした学問をやっていると、どうしても所与の前提とか常識と呼ばれるものに対する“疑い”がそもそもの出発点になります。そうすると同時に「では真実とは何か」っていう探求心が旺盛になってきますので、そうした前提を支えている構造を確認するものです。
例えば、目に見えぬ権力構造とか、支配-被支配の構図(※)なんかを確認してしまうと、その問題に関わるひとに、そのことを教えなきゃ!って……嫌悪すべきヘンな啓蒙主義が顔をのぞかせてしまいます。ヘンな啓蒙主義とは、プラトンが『メノン』の中で手厳しく批判したソフィスト流の知っている者と知らない者を分断する二元論、そしてそこでの一方通行な正義の開示というやつです。
一番あってはならない在り方ですが、そんなところを“自然と”やってしまうので、本当にあきれかえるばかりです。
※これまた本論からかけ離れますが、しかしながら、その構図や構造を覚知したとしても、それはそれでまたそれを包摂する構造を形成するひとつのスケープゴートなのかもしれないとすると、自分は真実を語っていないことになりますが。

さて、ここにおいて実は一番やっかいなのが、そのことをお話するなかで--嫌らしい言い方ですが--自分が正義であることを、その行為によって確認しているんですね、自分自身が。
西洋思想を批判的に吸収し、その暴力性を踏まえながら……などと自分自身で謳いながら、それに籠絡されているというオサムイ現状です。
西洋形而上学の暴力性を暴き出したジャック・デリダ(Jacques Derrida,1930-2004)は「形而上学の歴史は絶対的な<自分が話すのを聞きたい>である」というかたちで、自己同一性の暴力を手厳しく指摘しましたが、宇治家参去もまさに「絶対的な<自分が話すのを聞きたい>」のでしょう。単にそのことに酔っているだけなんです。ここには、正義は全く存在しない。正義とは全く異なる、チープな感情として正義に“酔っている”だけですから、結果として、単なる暴力を発動させている……とんでもない情況です。

たしかにある一面では、いいきらなきゃいけないところもある。
しかし、言われなくても、本人があとから気づく問題もそのなかにある。

いいきらなきゃいけないけど、そこで感情としての正義に酔わないようにもしなければならない。感情という裏付けのない正義というのもこれは人間に内在しないから違和感があるけれども、正義を語るという行為のもつ暴力も回避しなければならない。

いつもそうなんです。
そのときは、おお、いい話できた!などと思っても、その直後、なんとなく居心地の悪さを感じてしまうことが縷々あります。

しかし、言うべきこともいわないといけないし、いうと結果として相手が傷ついてしまう。そんな境界線上をいつも彷徨っているのですが、ときおり、ストーンと落っこちて凹み、崖下からまた境界線へはい上がり“立ちすくんで”しまうという永劫回帰を繰り返しております。

あとにもひけないし、まえにもすすめない(進んでないというわけではありませんが)。
たとえ、自分が「一言多く」言ってしまった内容が、(百歩譲って)「いいきらなきゃいけない」必然性と妥当性をもったものであったとしても、その語りが、正義に酔う「一方的な」発言であったり、放言であったり、罵倒であった場合、それが本来正義的なるものであったとしても、正義自体が自壊してしまう契機となってしうのかもしれません。正義とはたしかにプラトンが模索したように、所与のイデアとして存在するのかもしれない(自分としてその発想に極めて違和感がありますが)。しかし、いずれにせよ、その語りが一歩通行になってしまった場合、正義が正義を押し殺してしまうのでしょう。そこには対等な尊敬も敬意もなく、相手に“教える”とか、“諭す”という道学的在り方しか存在せず、分断と対立しか結果として招かないからだ。

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……肝要なのは自分自身に嘘をつかぬことですじゃ。自ら欺き、自らの偽りに耳を傾けるものは、ついには自分の中にも他人の中にも、まことを見分けることが出来ぬようになる、すると、当然の結果として、自分に対しても、他人に対しても尊敬を失うことになる。何者をも尊敬せぬとなると、愛することを忘れてしまう。ところが、愛がないから、自然と気を紛らすために淫らな情慾に溺れて、畜生にも等しい悪行を犯すようになりますじゃ。それもこれもみな他人や自分に対する絶え間のない偽りから起こることですぞ。自ら欺くものは、何より第一番に腹を立てやすい。実際、時としては、腹を立てるのも気持のよいことがある。そうではありませんかな? そういう人はな、誰も自分を馬鹿にした者はない、ただ自分で侮辱を思いついてそれに色どりをしただけなのだ、ということをよく承知しております。一幅の絵に仕上げるため自分で誇張して、僅かな他人の言葉に突っかかり、針ほどのことを棒のように触れ廻る、--それをちゃんと承知しておるくせに、自分からさきになって腹を立てる。こうしてほんとうのかたき同志のような心持になってしまうのじゃ……さあ立ってお坐りなされ、お願いですじゃ。それもやはり偽りの身振りではありませぬか。
    --ドストエーフスキイ(米川正夫訳)『カラマーゾフの兄弟』(岩波文庫、1957年)。

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そうした正義に酔っている自分自身は、ドストエフスキーが描いて見せたフョードルであり、「一幅の絵に仕上げるため自分で誇張して、僅かな他人の言葉に突っかかり、針ほどのことを棒のように触れ廻る、--それをちゃんと承知しておるくせに、自分からさきになって腹を立て」ている状況なのでしょう。
知らず知らずにやるのが怖いのですが、「自分に対しても、他人に対しても尊敬を失うことになる。何者をも尊敬せぬとなると、愛することを忘れてしまう」のである。

いいたいこと・つたえたいことを演説してはならない。
いいたいこと・つたえたいことだからこそ、話し合わなければならないのでしょう。
おたがいのやりとりをしないと、いいたいこと・つたえたいことはつたわらない。
単なる訓戒は、単なる押しつけの暴力である。

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 ザグルーは、いま窓をみつめていた。一台の自動車が、戸口の前を、軽い咀嚼音をたてながらゆっくりと通りすぎていくのが聞えた。ザグルーは身動きもせず、この四月の朝の非人間的な美しさを凝視しているようであった。右のこめかみにピストルの筒先を感じても、かれは目をそむけはしなかった。だが、かれをみつめていたパトリスは、かれの視線が涙でいっぱいになるのを見た。両目を閉じたのはかれのほうだった。かれは一歩うしろにさがり、引き金を引いた。一瞬、壁に寄りかかり、両目は相変わらず閉じたまま、かれは、まだ自分の眼が両耳のところで脈打っているのを感じた。かれは凝視した。顔は左肩の上にのけぞってしまったが、身体はほとんど曲がっていなかった。それゆえザグルーの顔はもはや見えず、見えているのは、ただ、脳漿や、骨や、血がもりあがっている大きな傷痕だけだった。メルソーは慄えだした。
    --カミュ(高畠正明訳)『幸福な死』(新潮文庫、昭和五十一年)。

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つねづね、対話的人間構造の核として、レヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)の顔・眼差し・眼ということを倫理の原初として語っておきながら、このザマではどうしようもありませぬ。

上に引用したのはカミュ(Albert Camus,1913-1960)の小説の一節からです。
主人公メルソーが金持ちの不具者・ザグルーを射殺するシーンですが、メルソーは引き金を引く瞬間に、殺そうとしている相手の顔を見ることができなかった。

しかし、見ることができなかったがゆえに、引き金をひくことができたのである。

「ひとこと多く」真理を語っている、正義を語っている自分自身の声に酔っている状態の宇治家参去とは、実はこのメルソーと同じかも知れません。

眼差しを閉ざし引き金を引くことが、「ひとこと多く」語るありようなのでしょう。

なんとかしないとな。
常々、人間を見よ、と人間を論じておきながら、このザマです。
陥穽の陥穽とはこのことをいうのでしょう。

ほんま、今日の彼だけでなく、これまでに宇治家参去によって数多く撃たれた彼・彼女、すんませんでした。

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信仰は夫れ自身、社会の各方面に現はれて直にデモクラシーとならざるを得ない

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どうも、宇治家参去です。
年に数回やってしまうのですが、久ぶりにやってしまったです、ハイ。
暑いので仕事へ行く前にシャワーを浴びるのですが、シャンプーで髪を洗うじゃないですか。シャンプーの後は、コンディショナーなんかで整えるわけですが、コンディショナーを馴染ませている間に、宇治家参去は髭を剃ります。

で……。
髭を剃った後、コンディショナーを流すことを忘れ、日常生活へ帰っていきました。
今日は仕事だったので、入浴後、着替えてから髪を整えて、「さあ、出勤するか」とやるわけですが、鏡の前の髪がやけにテラテラしている。

「おおっ! 今日は髪質がよいぞ」

……などと思いつつ、そのままどうやら出勤したようです。

何か頭がごわごわします。なかには固まり始めた“流れ”も……。

「宇治家参去さん、なんか、頭オカシクないですか?」
「いやいや、いつも哲学者の頭はオカシイものですよ」
「それは知っていますが、そういう意味じゃなくて、髪の毛ヘンですよ!」
「マジで?」

事務所前の姿見で確認すると、なにやら実に“ヘン”である。

ここに至って、コンディショナーを流すことを忘れていたことを自覚する。
しょうがないので、上半身裸になって、頭を再度浄める。
「はぁ~気持ちの良いものでござる」

というわけで今日も疲れ切ってしまいましたので、省察は全くできませんが、たまたま、民本主義の主張で大正論壇をリードしたクリスチャン・デモクラットの吉野作造(1878-1933)の文章を読んでいたので一つ紹介します。

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(引用者註……デモクラシーの本質とは何かのという議論に関して、巷には次の意見が主流を占めている。すなわち①「階級的反抗」、②「自由平等の観念」、③「公正の観念」がそれである。そうした見解にも意味はあるけれどもより根源的な本質とは何かといった場合……)
 かくして私一個としては、デモクラシーの本質は人格主義であると云ひたい。人格主義の何たるかはカントの云つた様うな意味に解すべきは云ふを俟(また)たない。之等の点は多くの読書の既に知悉せられる処なりと信ずるが故に詳しくは述べない。

 デモクラシーの本質が人格主義であると云へば、吾々は直にデモクラシーと基督教の密接なる関係を連想せざるを得ない。デモクラシーの依つて立つ処の理論的根拠は何かと云へば人格主義である。従てデモクラシーを徹底的に実現せしめんが為めには、人格主義の理論に密接なる根底を置かなければならぬ。然し乍ら理論の徹底は直に実現の活動力とはならぬ。デモクラシーが徹底的に社会の各方面に実現するが為めには、人格主義が人類の間に生きた信念として働て居ることを必要とする。理論は之よりかゝる信念の活動力を助けるには相違ない。然し活動力の本源は何処までも之を宗教的信仰に求めねばならない。而して人格主義が其信仰の内容として一層著しく活動して居るものは吾が基督教ではないか。吾々は総ての人類を神の子として総ての人類に一個の神聖を認め、固く基督に結んで居る。之れ程確実な人格主義の深淵がまたと世にあらうか。故に基督教の信仰は夫れ自身、社会の各方面に現はれて直にデモクラシーとならざるを得ない訳である。
    --吉野作造「デモクラシーと基督教」、『新人』一九一九年三月。

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 開発経済学を専門とするアジア人として初めてノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン(Amartya Sen,1933-)も常々言っているが、民主主義とは形にあるのではないのかもしれない。こういうとそうした形式には意味がないのかと言われそうだが、それが目的ではない。その形式に至る闘争と成果も非常に重要である。秘密選挙、代議士制度……それがある意味では内実を保障するひとつの形式であることには間違いない。しかし、それはあくまで方法であって目的ではない。であるとするならば、われわれはその内実とは何かを探究し、その多様性の在り方も模索する必要がある。

 吉野の言説には、そこを考えさせてくれる一つのヒントがある。
 吉野も言及している通り、カントの人格主義にあるのは、人間を手段とせず目的とする(目的の王国)ものの見方である。これまでの人類の歴史における惨禍の総ては、人間を手段として認識した点に起因する。だから、人間のためとの主張であったとしても、人間自身を疎外・迫害する歩みとなってしまった。
 だからカントは人間目的論としての人格主義を説いたのである。
そしてそこに注目しながら、自己自身の信仰の立場から、デモクラシーの本質を人格主義に置いて見せたのが吉野作造である。しかしこのことは吉野の信仰、すなわち、キリスト教に限定された問題でもなかろうかとおもう。おおよそ、あらゆる世界宗教と呼ばれる宗教的伝統には、この宗教的伝統が根付いているからだ。どのようなアプローチを取るにせよ、またどのような結果を描いて見せようとも、宗教が個々人に関わるのが救済の問題である。救済の問題とは何か。当人の個別の問題と世界が関わる問題である。そこにおいて、当人の人格を最大限の目的と置くところに救済の物語は成立する。その意味では、人格主義は、乱暴な言い方だが、(それが現実に根付いていようがいまいが関係なく)あらゆる世界宗教の伝統にその徴候や傾向を見て取ること出来る在り方である。

だから、この吉野の文章は、「基督教」を「仏教」に置き換えても、「イスラーム」におきかえても、何等違和感を感じることがない。強弱はさまざまあろうが、宗教が現世に関わらざるをえない部分を絶妙に示した部分と読むことも出来よう。吉野作造は、「自分の信仰を宣教するために発言しているのではない」といつも言っている。しかし、その信仰によって薫発された人間性や他者感覚とは、しらずしらずに出てしまうものなのだ。そしてその自然でよい。「キリスト教のために」ともし吉野作造がやってしまったならば、それで議論が終わってしまうのである。

宗教によって薫陶された人格が、自己の人格だけでなく、他者の人格の向上を目指していく、そしてそうした諸人格のこのましい在り方を真剣に考えていく……おもえばその自然さが美しいものである。

「之れ程確実な人格主義の深淵がまたと世にあらうか。故に基督教の信仰は夫れ自身、社会の各方面に現はれて直にデモクラシーとならざるを得ない訳である。」

自然に動き出そうと思うある日の宇治家参去でした。

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語りの中で、私たちは人間であることを学ぶ

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 私がここで友情という話題を例として取り上げたのは、それがいくつかの理由から人間性の問いに対して極めて重要な意味を持つように思われるからです。この友情というテーマを経由して、再びレッシングに話しを戻しましょう。周知のように古代の人々は、人間の生活に友人ほど欠かせないものはない、更に言えば、友人のない生はそもそも生きるに値しないとさえ思っていました。しかしながら、そこには、不幸の中で友人の助けを必要とするというような発想の出番はほとんどありませんでした。彼らはむしろその逆に、人間にとって、他者、つまり友人が共に喜んでくれない幸福はあり得ない、と確信していたのです。無論、真の友人には不幸の中で初めて出会えるということわざの知恵にも一理があります。しかし、私たちが不幸によって教えられるまでもなく、自然に真の友人とみなす相手というのは、私たちが躊躇なく幸福を見せてやりたいと思う人、この人となら喜びを分かち合えると思える人ではないでしょうか。
 私たちは今日、友情をもっぱら、友人たちが世界とその要求に煩わされることなく、互いに魂を開示し合える親密性(Intimität)の現象と見なすことに慣れています。この見解の最良の代表者はレッシングではなく、ルソーです。この見解は、近代的個人の世界からの疎外(Weltentfremdung)に対応しています。実際、近代的個人は、あらゆる公共性を離れた、親密性の中での顔つき合わせた出会いにおいてしか自己を表明できないのです。そのせいで私たちには、友情の政治的重要さを理解するのが難しくなっているのです。アリストテレスが「フィリア」、つまり市民の間での友情は、健全な共同体の基本的要請の一つであると書いているのを読んだ時、私たちは、彼がもっぱら市の内部の党派闘争とか内戦がない状態について語っていると考えがちです。しかしギリシア人にとって、友情の本質は会話のうちにあるのです。そしてまさに持続的な相互の語り合いを通して、市民はポリスへと統合されると考えられていました。そしてそうした会話の中で、友情とそれに固有な人間性が有する政治的意味が顕在化してくるのです。なぜならそのような会話は(個人が自分自身について語る親密性の会話とは違って)、たとえ友人の現前性に対する喜びにかなり影響されているにせよ、共通の世界に関わっているからです。共通の世界は、人間たちによって持続的に語り続けられない限り、文字通り、“非人間的”なものに留まることになります。世界が“人間的”であるのは、人間によって作り出されたからではありません。また人間の声が鳴り響くことを通して、人間的なものになるわけでもありません。会話の対象になった時に初めて、世界は人間的となるのです。私たちが世界の事物にどれだけ強く影響されたとしても、世界がいかに深く私たちを刺激し、興奮させたとしても、私たちが、私たちの同輩と共に世界について語り合わない限り、世界は私たちにとって人間的なものにならないものです。会話の対象になり得ないものであっても崇高なもの、恐ろしいもの、あるいは不気味なものであるかもしれませんし、人間の声を通して世界の中で起こっていることについて語ることを通して、それを人間化(vermenschlichen)するのであり、またそうした語りの中で、私たちは人間であることを学ぶのです。
 友情の会話の中で現実化するこうした人間性を、ギリシア人たちは「フィラントロピア Philanthropia」、「人間への愛」と名づけました。フィラントロピアは、世界を他の人間たちと分かち合おうとする姿勢を通して明らかになります。その反対項、人間嫌い(Misanthropie)、あるいは、人間への憎しみの本質は、人間嫌いな人が世界を分かち合う相手を見出せないこと、いわば共に世界、自然、コスモスを喜ぶに値すると見なし得る相手を見出せないことにあります。こうしたギリシアのフィラントロピアが、ローマの「フマニタス=人間性 humanitas」に移行するに際して、いくつかの変化がありました。その中で政治的に最も重要なものは、ローマにおいては極めて多様な素性、血統の人々がローマ市民権を獲得し、世界や人生に関する教養あるローマ人たちの会話に参加することができたという事実に対応しています。ローマの「フマニタス」は、近代において「フマニテート=人文教養 Humanität」と呼ばれているものから区別されるのです。近代における「フマニテート」は、しばしば単なる教養幻想しか意味しません。
 人間的なもの(das Humane)が熱狂的ではなく、むしろ冷静でクールであること;人間性が兄弟愛(Brüderlichkeit)ではなく、友情(Freundschaft)において証明されること;友情とは、親密で個人的なものではなく、政治的要求を掲げ、世界に関わり続けるものであること--これら全ては、私たちにはもっぱら古代の特徴に見えるので、『ナタン』という作品の内にこれと極めて似た特徴が見出されることに私たちは混乱してしまうのです。この作品は近代的なものですが、これを友情についての古典的演劇と呼ぶことは不等ではないでしょう。そうした要素の一つとして、作品に奇妙な印象を与えているナタンがテンプル騎士に、そして出会う人全員に対して発している「私たちは友人であるはずです、そうですね」という言葉があります。
 明らかにレッシングにとって、友情は愛の情熱よりもずっと重要であったのです。だからこそ彼は恋愛物語を手短に打ち切って、それを、友情へと義務づけ、愛を不可能にする関係へと変換することができたのです。この作品の劇的緊張はもっぱら、友情及び人間性と真理の間で引き起こされる葛藤にあります。これは近代人であれば違和感を覚えるかもしれない点ですが、そこには、古代に属すると思われる意識や葛藤への独自の近さが認められます。とどのつまり、そして最終的にナタンの知恵はもっぱら、友情のために真理を犠牲にする覚悟のうちにあるのです。
    --ハンナ・アーレント(仲正昌樹訳)『暗い時代の人間性について』(情況出版、2002年)。

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自由な言論が抑圧される「暗い時代」において、人間は孤独なる思考に沈潜し、センチメンタルな同情で身を寄せ合い「小さな物語」へと自閉しがちである。
こうした暗い事態を鋭く追及し、レッシング(Gotthold Ephraim Lessing,1729-1781)の言葉をたよりに、「対話」のなかに、そして対話によって保障される公共空間の可能性の中に「人間性」を見出したのが、女性の哲学者・ハンナ・アーレント(Hannah Arendt,1906-1975)である。

ドイツ系ユダヤ人として出生したため、ナチスによって亡命を余儀なくされる。フランスを経て、アメリカへ亡命した。まさに身をもって“彷徨う”ことのただ中で深く思索を続けた人物である。

しかし、孤独に沈潜し、人々がお互いに自閉していくのは「暗い時代」だけに限られた現象ではないと--傍証をひくまでもなく--そのことを、つくづくと実感しておる宇治家参去です。

さて……
通常、友情というと、アレントが指摘しているとおり、ルソーを本家本元とするつぎのような発想として理解しがちです。すなわち、「友情をもっぱら、友人たちが世界とその要求に煩わされることなく、互いに魂を開示し合える親密性(Intimität)の現象と見なす」友情論がそれです。キーワードは「魂の開示」と「親密性(Intimität)の現象」であり、このことは言うまでもありませんが大切な局面です。ある一面からみればすべてではないにせよ、人間関係の基本的な大切な在り方のひとつと言っても過言ではありません。
しかし、この「魂の開示」と「親密性(Intimität)の現象」には重大な問題も内包しております。すなわちそれが、「公共性を離れた」現象であるという点です。逆説的ですが、「公共性を離れた」が故に、「親密性の中での顔つき合わせた出会い」が可能となり、秘匿的に「自己が表明」できる部分です。

「親密性の中での顔つき合わせた出会い」は確かに大切な局面で、友情関係においては欠かすことが決して出来ないものです。近代以降の友情論の中核がそこにあるといってもよいでしょう。

しかし、友情を広く捉えて見た場合、そうした局面(=秘匿的側面)だけでなく、公共性に関わる部分も存在する、そのことをアーレントは雄弁に語っているように思えます。人間には私的な領域も存在するし、公共的な領域も存在する--だから倫理が問われるわけですが--そうであるとすれば、友情も同じで、私的な領域だけを考察すればよいのではなく、公共的な領域も考察対象としてみていかなければならないのだと思います。

とかく近代以降は、アレントがいうとおり、「近代的個人の世界からの疎外(Weltentfremdung)」という情況が存在したのはじゅうじゅう承知しております。

この疎外という状況は、世界の側から、個々の存在者を疎外してしまうという側面もありましたが、それだけでなく、個々の存在者が世界から“身を引いていった”場合も現実には存在しました。「わたし」ないしは「わたしたち」が、“自発的”に世界とのつながりを断ち、“私秘的な”「小さな物語」への沈潜してしまったという事態がそれです。もちろん、社会や制度が“疎外”してしまったのは歴史を振り返れば理解できるものですが、“自発的”に沈潜していくというのは、この現代に特有な現象かもしれません。

では友情関係と公共性が交差する局面とはどのような状況なのだろうか。
長くなりますが、アレントの言葉に注目してみたいと思います。

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しかしギリシア人にとって、友情の本質は会話のうちにあるのです。そしてまさに持続的な相互の語り合いを通して、市民はポリスへと統合されると考えられていました。そしてそうした会話の中で、友情とそれに固有な人間性が有する政治的意味が顕在化してくるのです。なぜならそのような会話は(個人が自分自身について語る親密性の会話とは違って)、たとえ友人の現前性に対する喜びにかなり影響されているにせよ、共通の世界に関わっているからです。共通の世界は、人間たちによって持続的に語り続けられない限り、文字通り、“非人間的”なものに留まることになります。世界が“人間的”であるのは、人間によって作り出されたからではありません。また人間の声が鳴り響くことを通して、人間的なものになるわけでもありません。会話の対象になった時に初めて、世界は人間的となるのです。私たちが世界の事物にどれだけ強く影響されたとしても、世界がいかに深く私たちを刺激し、興奮させたとしても、私たちが、私たちの同輩と共に世界について語り合わない限り、世界は私たちにとって人間的なものにならないものです。会話の対象になり得ないものであっても崇高なもの、恐ろしいもの、あるいは不気味なものであるかもしれませんし、人間の声を通して世界の中で起こっていることについて語ることを通して、それを人間化(vermenschlichen)するのであり、またそうした語りの中で、私たちは人間であることを学ぶのです。

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「ギリシア人にとって、友情の本質は会話のうちにあるのです。そしてまさに持続的な相互の語り合いを通して、市民はポリスへと統合されると考えられていました」。
アリストテレスはどの著作でもくどいように言っておりますが、人間は生まれ落ちたままでは人間ではない。人間は生まれ落ちた瞬間から「公共性」に関わらざるを得ない--それがアリストテレスの『政治学』の出発点にある部分ですが--その公共性への関わりとは、「会話(ないしは対話)」のうちに存在し、そこにいわば(公共的)友情の本質が存在するのでしょう。

そして、その語り合いを通して、個々の人間は「ポリスへと統合される」すなわち、公共性を自ら創り出していくのでしょう。

ここには、「親密性の現象」としての友情関係における秘匿的な話題はまったく出てこないはずです。しかし人間が世界と関わり、ほかの人間とかかわる重大な在り方があるようです。他者と世界(すなわち共に-存在している-世界)について、言葉を交わすことで人間は公共性を創り出し、そしてそのことによって、世界や共同体、そしてそこに暮らすひとびとをも「人間化」していく。
人間がともに世界を語ることで「人間化」する--面白い発想です。
公共性とはその意味で「人間化」された世界なのでしょう。

だからこそ、「共に-存在している-世界」の住人たちと「持続的に語り続けられない」場合、その世界は「“非人間的”なものに留ま」ってしまうのです。そこには公共性は存在せず、秘匿的な孤立した孤人たちのプライベート・ワールドしか存在しないのでしょう。

日本という精神風土の地盤で、こうした問題を考えた場合、どうしても、「できあがった」頑丈な公共性が厳然と存在し、その一方で、プライベート・ワールドを毀損される個々の存在者という発想が強いと思います。しかしここでの議論は二元論に集約されてしまいがちです。ひとつは、プライベート・ワールドを大切にしよう、公共性はどうでもいいやっていう議論と、プライベート・ワールドの主張が大きくなりすぎると、公共性が喪失されてしまうから、過去の美しい伝統に根ざした、共同体主義でいきましょうや、という議論が対立したままという状況です。どちらの声もその“気分”は分からなくもないのですが、どうも議論が不毛です。

いずれにしても、親密性の現象である友情や個々の存在者のプライベート・ワールドも大切にしなければならないし、しかしそれだけれども、共同存在の側面として、公共という部分も真面目に考えなければならない。であるとすれば、そうした個々の人々が対話というテーブルにつくしかないのですがねえ。

その両者に共通している本質はなんだろうか。それは「人間嫌い(Misanthropie)」なのでしょう。わがままな孤人万歳という人も、共同体最優先で個人は我慢しなさいと訓戒を垂れる人も、「世界を分かち合う相手を見出せないこと」ことでは共通しております。

友情を公共性としても発揮させ、そして秘匿的な部分でも発揮させるひとには「人間への愛」が存在する。だから、プライベートも大切にするのでしょうし、パブリックも大切にする。そこにあるのは、「世界を他の人間たちと分かち合おうとする姿勢」ということでしょうか。

人間的なもの(das Humane)とか友情(Freundschaft)というと魂の熱さとかそういう方面に注目しがちなのですが、それだけでなく、「冷静でクール」なところから、実は温かい世界とか慈愛という部分もうまれてくるのかもしれません。

公共性とは、その意味では、対話という友情によって人間が「世界」を「人間化」し、「共通世界」をつくっていくダイナミックでクールでPOPな運動なのでしょうね。

友と世界について語り合う……引きこもらずに語り合うなかで、「世界」を「人間化」していきたいものです。

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人間の声を通して世界の中で起こっていることについて語ることを通して、それを人間化(vermenschlichen)するのであり、またそうした語りの中で、私たちは人間であることを学ぶのです。

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【覚え書】「〔女の気持ち〕 たたかいます」、『毎日新聞』(2008年9月5日(金)付)。

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新聞を読んでいると、噴き出してしまった。
どこの家庭も同じようです。

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 たたかいます
 女ばかり3人姉妹で育った私は、自分の子供もまた女の子ばかりでしたので、孫もやはり女の子がいいなあ、と内心思っておりましたが、なんと生まれたのは長女のところも、その4年後に生まれた次女のところも男の子ばかりでした。
 最初はちょっとがっかりしましたが、だんだんと「男の子には男の子の良さがあるなあ」と思い直しています。孫たちはそれぞれ遠くに済んでおりますが、最近、長女の孫がこんな手紙をよこしました。
 「すぎもと あつろう 5さいです。しょうらい うるとらまんたろうになります。かいじゅうをくるしくして たたかいます。つらくなってもたたかいます。ひがいこうたろう(ウルトラマンタロウの名前) みんながいるから がんばって。やがてかいじゅうがまちにきたらたおします。うみにきたらたたかいます」
 男の子って頼もしい! でも、ウルトラマンがこの世にいるなんて本当に思っているのかしら? この夏、我が家に遊びに来た時、彼の背負ってきたリュックサックには、ウルトラマンの人形がいっぱい詰まっていました。
 千葉県 ○○ 63歳

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「せがれめ、小生意気なまねを……」

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 大治郎は、また老人に出会った。
 山谷堀の南に、真土山(まつちやま)の聖天宮(しょうてんぐう)がある。
 この日も、大治郎は田沼屋敷からの帰りで、いつもよりは時刻も早かったものだから、聖天宮へ参拝してから、門前の〔月むら〕という蕎麦屋へ入り、
 「酒をたのむ」
 と、いった。
 大治郎も、大分に変わってきたようだ。
 長い修行を終え、江戸の父の許(もと)へ帰って来たころの秋山大治郎は、一人きりで蕎麦屋へ入って酒をのむことなど、おもってもみなかった。
 いや、蕎麦は食べても、まだ明るいうちに酒を口にするなどとは、それこそ、
 (とんでもない……)
 ことだったといってよい。
 小兵衛とちがって、二合ものめば真っ赤になってしまう大治郎なのだが、ともかくも、こうして酒に親しむという気分を、
 (わるいものではない)
 と、おもいはじめてきたらしい。
 それもこれも、父・小兵衛のすることを見ているからであろう。
 酒がくると、おもいついて蕎麦掻きもたのんだ。
 月むらは、一年ほど前に開店した蕎麦屋だが、場所柄、小ぎれいな店構えで、奧には小座敷もある。
 酒も蕎麦もうまいというので、たちまちに客がつき夕暮れ間近い、この時刻にも入れこみは客で埋まっていた。
 入れこみの真中に通路があって、突き当たりに大川(隅田川)をのぞむ小座敷が二つある。
 黒塗りの小桶の、熱湯の中の蕎麦掻きを箸で千切り、汁につけて口に運びつつ。大治郎はゆっくりと酒を楽しんだ。
 こんなことを秋山小兵衛が見たら、何というだろう。
 「せがれめ、小生意気なまねを……」
 苦笑を洩らすにちがいない。
    --池波正太郎「逃げる人」、『剣客商売⑫ 十番斬り』(新潮文庫、平成六年)。

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こういうかたちでさりげなく飲めれば、美しいのですが、いつも飲み始めると鯨がオキアミをたべるごとくに海水を吸い込むような、飲みをしてしまう宇治家参去です。

今日は休憩中、旬のものを発見し、今年は今日が初めてだよな~ってことで、『松茸おこわ』を頂く。総菜屋の出来合いですが、一応松茸ものっており、その風味に舌鼓をうつ。子供の頃は、松茸の旨さが全く分からなかった。父親が自営で会社をやっていた関係で、この季節になると、つけ届け?で、段ボール箱数杯の松茸が我が家に持ち込まれたものですが、当時はまったくその旨さが分からなかった。

男料理になるわけですが、松茸の泥を軽くすすいでから、手で裂いて、アルミホイルであぶっただけのものに、柚子か酢橘をかけ回して、かるく醤油を垂らして、美味そうに、ビールか冷やで一杯やっていた秋が懐かしい。

あれほど毛嫌いしてた松茸をほおばる様を、今は亡き親父殿が見たならば、

 「せがれめ、小生意気なまねを……」
 苦笑を洩らすにちがいない。

さて……、いつも飲んでおりますので、このことは身体的ダメージのみならず、家計にも優しくない部分がありますので、「ホッピー」(ホッピービバレッジ株式会社)はいかがですかという提案があったので、早速挑戦してみた。

実はホッピーなるものを飲むのは初めて。

ホッピー330と、推奨されている甲類焼酎(一番安かったので『鏡月』)をゲットして、公式推奨飲み方でやってみる。
①グラスを冷凍庫で、ホッピー、焼酎を冷蔵庫で冷やす(このことを「三冷」という)。
②注ぐ順番は、焼酎、ホッピーの順で泡立てるようにグラス注ぐ。
③氷をいれず、かき混ぜない。

さて一杯。

まず「なんじゃこりゃぁぁぁぁ」

ビールテイストを想像していたので、出鼻を挫かれる。

さてもう一杯。

「ふうむ~、ビールと思って飲まずに、ホッピーと思って飲めばいけそうかな」

慣れとは肝心かも知れません。
すこしこれからホッピーにシフトできるのであればシフトしてみようと思います。
これで痛風を気にせず飲めるのであれば。

でもビール乃至ホッピーのあとに、結局、酒(日本酒乃至ウイスキー)を飲んでしまうので結局元の木阿弥かもしれません。

が……。
うまく心も乗ってきたので、少し論文に手を入れてから寝ます。
おやすみなさい。

でも……(くどい!)……『剣客商売』を読んでいると、ウマイ蕎麦を手繰りたくなってしまった……どうしよう?

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お前ら、いいかげんにシオサイ(「潮騒」by三島由紀夫)!!

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……共同体の宗教となり、イスラーム法という形に固定されるに至ったイスラームは、外面的には実にがっしりした文化構造体になりました。しかし、その代わり宗教が社会制度化し、政治の場となり、信仰の実存的なみずみずしい生命力は失われて枯渇しそうになってきたことも、また否定できない事実であります。まさに信仰の危機です。律法主義は形式主義だとよくいわれます。たしかに律法主義が極端に走れば、宗教は形式に堕し、形骸化いたします。イスラームはその律法性において完成すると同時に、精神性において死んだと主張する人々はこの点を鋭く突きます。しかしイスラームがその精神性において死んでしまったと判定するのは、いささか乱暴にすぎるのではないかと思います。なぜならば、イスラームの内部には最初期から宗教のこのような形式化に真正面から反対し、それと対決してきた精神主義の大潮流がありまして、現代もなおその生命力をいささかも失っていないからであります。それは今日お話いたしました律法主義を根柢からひっくり返してしまうような、猛烈な実存的内面主義の傾向です。もともと宗教を外側から固めていこうとする律法主義と、宗教を人間実存の内面的深みに捉えて、それによってイスラームの精神性を守っていこうとする精神主義、この二つの互いに正反対の傾向のあいだに醸しだされる矛盾的緊張があったからこそ、イスラームは独自の文化構造体にまで発展することができたのだと私は思います。
    --井筒俊彦『イスラーム文化』(岩波文庫、1991年)。

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井筒俊彦(1914-1993)の発言には、宗教における共同体(宗教組織)と個の側面(一信仰者)の問題を重要に指摘した部分がある……って今日は書こうと思って、昼から入力していて、思考も整理していたのですが、市井の仕事でがつんと疲れ果ててしまい、その後飲みにいってしまったので、また考え直します。

しかし、宗教学ないしは(カトリックより)の神学的立場から一言申しまするとすれば、律法主義(=共同体優先主義)ありきでもないし、実存的内面主義(=個の存在の優先主義)ありきでもない。そのどちらかにひらきなおると、宗教は生命を失うし、人間そのものも分断されてしまう。

「宗教を外側から固めていこうとする律法主義と、宗教を人間実存の内面的深みに捉えて、それによってイスラームの精神性を守っていこうとする精神主義、この二つの互いに正反対の傾向のあいだに醸しだされる矛盾的緊張」こそ現実には大切で、組織化と個人の内面化の両方の契機の緊張関係を欠いた場合に宗教は、形式主義にも堕するし、ちまたのスピリチュアルを保管する内面主義に耽溺してしまうのである。

緊張しながら戦うほかあるまい。
この問題は後日、トルストイ、エマソンの知見に耳を傾けながら再度考察してみようと思います(いつのことになるやら~)。

さて……。
何度も書いていますが、市井の職場は今日もありえない状況。
ある意味では、日記というかたちで相対化しているぶぶんがあるので、それは極論すれば、絶対状況としての“ありえない状況”ではないのかもしれないのですが、ここ1年で大きく体制が“しわく”変化してきたことに“とまどい”をこえ、一種の“あわれみ”こそ覚えてくる昨今であります、はい。

会社の経費として一番ネックとなってくるのは人件費の問題である。
だから昨年500人以上の管理職を早期退社させた。
結果、早く退場したほうがよい御仁もサヨナラしたわけだが、それ以上にベテランの古参兵がごっそり抜けたが故に、現場は大混乱の状況です。。

そして、不慣れな人物の昇進人事……。
加えて、バイトの新規採用も凍結です。

このことも何度も書きましたが、「自分は定年するまでこの会社にいるわけではないので」問題ではないと言えば、問題ではないのですが、どこか「忍びない」。

古来より「一宿一飯の礼」とはよくもいったものですが、そういう部分を、相対化する自分を感じつつも憂慮として感じてしまうのであります。

ゆえに……。
今日も意味不明(?)に頑張ってしまった。
結果としていえば、休憩なしの4時間レジ連続打刻。ひさしぶりに記録更新です。
会社の内規では、バイトくんたちは2時間以上のレジ連続打刻は御法度なので、そういうかたちでスケジュールを組むわけですが、やはり管理職は抜け出すことが不可能なんですね。
全社的に今月は残業ゼロと指示が出ているので、本社員でも組合員は定時に抜ける。
しかし、非組合員の管理職は抜け出せないし、組合への加入を内心の自由の立場から拒否した宇治家参去も抜け出すことが出来ない。

いろいろと学ばせてもらってあり難いものでございます。

で……。
やはりピークタイムというのはあるものなので、暇をみて一服していると、先ほどまで隣でレジを打っていた店長から呼び出しをくらう。
※ちなみに休憩の1時間の間に目下、格闘中で9/10仕上がり目標の紀要論文を5ページ程(MAX50ページ)執筆できた! わ~い、ぱちぱち、ぱち!!

「さあ。なにか?」と思い、伺うと……

「宇治家参去さんよっ、帰る前にさー、客用トイレのペンキを塗り直してくんねえか」

「まじですか」

「まじです」

「今日、明日の二日でわけてよいですか?」

「なにいってんだよ。目張り(ペンキが塗られると不味いところの養生)はオレがしておくからさ、今日やっとけよ!!」

信頼してくれるのはありがたいが……いつも自分なんですよねっ。
※ちなみに“目張り”も中途半端で結局やり直したですよ、ハイ。

で……。
とりあえず、剥げた部分だけをぬる訳ですが……

 をゐ!

塗ってみると……店長さんから渡されたペンキのスプレーの色と、塗られるべき部分の色が違うじゃん!

……とわいっても、塗らないわけにはいかないので、塗る必要がない部分まで塗らざるを得なくなってしまう。

いつもそうなのですが……。

「店長さんよぉぉ、いつも話がチガイますよ、お前ら、いいかげんにシオサイ(「潮騒」by三島由紀夫)!!」

……って感じですが、まあ、そういう理不尽さをいつも強要されていながらも、理不尽さを感じさせてくる部分がありがたいです。

宇治家参去としては、理不尽さに鈍感になってしまうことが一番危険だと思っているからです。今の世の中、戦争とか市井の殺人とかいろいろニュースが溢れています。「またかよっ」って感じで、そういう非常事態を常態として感じてしまい、反応しなくなってしまう……無関心になってしまう、それが一番怖いのです。

かつてマザー・テレサは「愛の反対語は何か」と問う中で、「無関心」と答えたそうだが、仕事は仕事で「必然」なのですが、「必然的」に「非常事態」を「非常事態」としてつきつけてくれる今の職場はある意味でアリガタイ。馴れさせてくれないんですよねえ~。

終業後……。

このところ、「華の舞」に飲みに行っていない。
なんだか“無性に”飲みに行きたくなり、飲み後輩を誘って、飲みに行くと「改装中」。

 をゐ!

しかたがなく、直訳すると、Fish People へ向かい、軽く一献する。

ぷは~。

なんといいますか……理不尽とはいえ、生活を“楽しんでいる”けれど、考察不足のある日の宇治家参去でした。

でも、これが、哲学・倫理学・神学の肥やしになるのがアリガタイです。

馴れさせてくれないんですよねえ~。

ただ……、

「吟醸 太平山」(小玉醸造株式会社/秋田県)は“辛”かった。きつけてくれる今の職場はある意味でアリガタイ。

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現代人の英雄とはリュシフェールの〔悪魔〕ではない、プロメテウスでさえもない。それは人間なのである

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……ロバート・ジョーダン(引用者註……ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る』の登場人物)は橋を爆破させた直後、ファシストの側の防禦線の内側で負傷し、戦友から、まだ愛するマリアからさえ別れねばならなくなる、彼は言う「だめだよ、可愛い子さん、泣くんじゃない。いいか、ぼくらはいまはマドリッドにはいかない。だけど、きみの行くところどこへでもぼくはいっしょに行くよ。わかる?……きみはいま行ってしまう、小山羊さん。だけどぼくはきみといっしょだよ。ぼくらのうちどちらか一人いるかぎり、ぼくらは二人ともいるわけだ。わかるかね?……いまぼくがやることは、これはひとりでやる。きみといっしょではうまくやれないだろうからね。わからないかい、こんなもんなんだよ。残るのが誰であろうと、二人なんだということ」。そして一度だけこう言う、「マリアのことを考えたって仕方ない。彼女に言ったことを自分で信じるようにしてみる。それが最善の策だ。それに事実そうでないと誰に言えよう? おまえにはいえないよ」、まだ生きている人間にとっては、生きている人間としての行為をなし続ける以外の策はない--しかもこれは至上の策なのだ。死ぬのはひとりだが、生きるのは他人と共にであり、われわれとは他人がわれわれについて作りあげるイメージであり、彼らがいるそのところにわれわれもまたいるのである。もう一度、そして最後まで、ロバート・ジョーダンは、自分を他人に結びつけ自分を事物に結びつけるこの運動、あらゆる幸、不幸の条件であるがゆえに批判を超越したこの運動の成行きにまかせる。一人で残されても彼は自殺をしないだろう。「もしお前が待ち受けて、連中をたとえほんのわずかでも引きつけておくなら、あるいは将校をやっつけるなら、それは一切のことを変えるかもしれない、一つのことがうまくなされればそれはもしかしたら……」。英雄に自己犠牲を可能にさせるものは、ニーチェの場合のように死の魅惑でもなければ、ヘーゲルの場合のように歴史が欲することを遂行するという確信でもない。事物と他人の方へわれわれを投げ出す自然の運動への忠実さなのだ。サン=テグジュペリはこう言った。わたしが愛するのは死ではなく、生なのだ、と。
 現代人の英雄は懐疑の人でも、趣味の人でもなく、頽廃の人でもない。ただ彼には、三六年の、スペイン内戦の、四〇年六月の偶然の、混乱の、挫折の経験がある。彼は義務も任務も曖昧な時代にいるのだ。彼は未来の偶然性と人間の自由とを、これまで人びとが感じてきた以上に感じている。よく考えてみると何一つとして確実なものはないのだ。勝利にしてもまだ先の遠いことだし、他人にしてもこれまでにしばしば裏切りを働いてきたのだから。人間は、事物の流れが曲がりくねっていること、大胆さに多くのことが求められていること、自分たちが世界においてひとりきり、お互いにたいしてひとりきりであることを、今日以上によりよく確証したことはなかった。しかしときとして、愛をとおし、行動をとおし、彼らはたがいに一致し、出来事も彼らの意志に答えることがある。ときとして、あおの情熱の燃えがあり、あの閃光、あの勝利の瞬間、あるいはヘミングウェイのマリア流に言うなら、一切のものを消し去るあの栄光の歌(グローリア)がある。
 人間が事物のなかにすっかり出来あがった宿命の素描(デッサン)を見出せると考える信仰の時代の外にあるとき、誰がこれらの問いを避けられ、誰が別の答を与え得るだろうか? いやむしろこう言った方がよいかもしれぬ。幻想をいっさい剥ぎ取られた信仰とは、まさにこうしたこと、すなわち、われわれが自分を他人に現在を過去に合一させつつ、すべてのことが一つの意味を持つようにするときのその運動、世界の混沌とした言説(ディスクール)を明確な言葉(パロール)へとわれわれが完成させるときのその運動なのではあるまいか? キリスト教の聖者にしても、過去の革命の英雄にしても、これと別のことをなしてきたわけではなかった。ただ彼らは、彼らの闘いが天においてあるいは<歴史>のなかで、すでに勝ちを占めていると思おうとつとめていた。現代の人間にはこうした方便はない。現代人の英雄とはリュシフェールの〔悪魔〕ではない、プロメテウスでさえもない。それは人間なのである。
    --M.メルロ=ポンティ(海老坂武訳)「英雄、人間」、滝浦静雄ほか訳『意味と無意味』(みすず書房、1983年)。

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ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』やマルローの『人間の条件』、そしてサン=テグジュペリの『戦う操縦士』を材料に、現代における英雄の意味を問うたモーリス・メルロ=ポンティの一節から。

フランスの現代思想家・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty,1908-1961)の考えでは現代においてそれを果たしうる英雄とはまだ人間以外の何者でもない。英雄と聞けば、ひとはすぐさま、歴史上の偉大な人物を想起しがちで、自分自身はとてもとても英雄などではないと連想しがちだが、実はそうではない。歴史に名を残さない“無名の人々”こそ英雄なのであろう。英雄としての「人間」とは誰か。特別な地位ある存在者だけがそれなのではない。

普段、テレビは全く見ません。
種々時前に、ご連絡を頂いていたものですから、「24時間テレビ」のひとつの特集を細君に頼んでビデオに撮ってもらった。それが「遠位型ミオパチー」の話題であり、休みの今日見ることができた。

2週間程前に、TBSのNEWS23でも同上の特集があり見ていたので、概要は理解していたが、人間の生きんとする意志に……通俗的な表現ですが……感動してしまった。
文豪ゲーテと会見した“英雄”ナポレオンは会見後、側近たちに、つぎのように語ったという。すなわち、「ここに人間がいる」と。

ほんものの英雄は、賢明にそして懸命に生きている人間そのものではなかろうか……映像で紹介されていた人間そのものが「英雄」である。ナポレオンなんかに英雄など見出さなくとも、仮託しなくともよいのである。

本物の英雄は、歴史をさがしても実は存在しない。
宿命を使命に転換し、真面目に生きている「人間」そのものが英雄なのである。

さて……その人間ですが、学問の世界で、「人間」を論じることはひとつのタブーである。
何故なら、「人間とは何か」を問うこと自体が、困難であるからだ。生きている人間自身を「これだ!」と規定しまう時点で、生きている人間そのものを概念が「規定」してしまい、生きている人間そのものが「概念」を作り出すという方向にならないからである。

古来より、哲学・神学の世界では、百家争鳴、「人間とは何か」が喧々諤々の議論を展開してきた。その成果は、生きている人間そのものをよりよく生かす方向性を提示することができたこともあったが、それでもなお、それが権威化してしまった途端、生きている人間そのものをよりよく生かすどころか、「概念」が人間を規定してしまうように、生きている人間そのものを疎外するものになった場合がほとんどであった。そうした反省故か、人間を問うことはひとつのタブーとなっている。
19世紀後半以降、社会科学の発展と共に、人間の機能的な側面や社会行動パターンからの類型化からの人間論をめぐるアプローチがそれにとってかわり、人間を論じる議論として台頭してきたが、その成果は成果として認めざるをえないのだけれども、何かもの足らない。

譬えは悪いが、生命倫理の問題としてよく指摘される部分とかさなるわけですが、どこからが生で、どこからが死なのかをめぐる議論に関して、技術的な判定基準は盛んに論じられているけれども、そもそも生とは何か、死とは何かをめぐる深い人間的洞察が欠けているのでは?……と思うような事態が、学問における現代の人間論の不毛さにも感じてしまうのである。

だから、そうした試みを人文諸科学の世界でやってしまうと、それはデータや統計、また科学的な客観性に基づかない独我論とか主観主義との誹りを受けやすく、取り組むひとも少なくなってくるという悪循環となっている。

しかし、宇治家参去としては、その両者が人間にアプローチしていくことが必要なのでは無かろうかと思っている。データとしてのアプローチもいうまでもなく必要だ。そして、古来よりつづく人間的叡智を踏まえながら、生きている人間の現場で、「人間とは何か」を問う人文学的人間論のアプローチも必要である。その両者がほほえましい握手をしたとき、人間論はこの生きている人間世界に彩り豊かなものの見方を提示できるのではなかろうかと思っている。

で……、最初の話に戻ります。
すなわち、「現代人の英雄とはリュシフェールの〔悪魔〕ではない、プロメテウスでさえもない。それは人間なのである」(メルロ=ポンティ)という部分ですが、この「義務も任務も曖昧な時代」である現代においては、まさに、宿命を使命に転換し、真面目に生きている「人間」そのものが英雄なのである。

ひとりひとりの人々が、懸命にその現場で真剣にいきていく……この労苦のなかに時代をかえる大きな契機がつまっている。

かつて、1970年代から90年代にかけて、フランスから来日し、いわゆる3Kと呼ばれる労働環境の中に自ら分けって行って、労苦する中で思索を深めた労働司祭にアンドレ・レノレ氏がいる。ローマ・カトリックというのは実にユニークな共同体だとつねづね思っているのだが、そうした悲惨と貧困の最前線に自ら入っていくという伝統をもっている。

さて、このレノレ氏、川崎の建設現場をかわきりに、以後20年間、労働者たちと同苦しながら、かれらと共闘していく。労災をつくり、組合も結成する。その経験をまとめた書物の中で、「希望はどこに存在するのか」と論じる中で次のように述べている。

すなわち……

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 希望はどこにあるのか。それはもうひとつの世界から来るであろう。すなわち、わたしが紹介してきた世界、ノロノロと動いている零細企業の領域、二重構造社会の見捨てられた部分にこそ希望がある。この逆説を見よ。そして、無数にひろがる市民活動が日本をおおうのである。
 なぜなら、底辺にあっても、日本人はエネルギーにあふれ、組織の感覚と集団労働の感覚をそなえ、仕事熱心で、細部への目くばりも忘れず、完璧な仕上がりを求め、学習意欲も旺盛で、先行するものにおいついて、さらに完全なものをめざし、女性は生命力と想像力を発揮しているからである。最大の脅威はここにある。しかも、自由な雰囲気と自立した精神は大企業よりも中小企業にこそ、はるかにたっぷりと存在する。
 わたしたちはときどき大企業に出向いて働くが、そんなとき自由と自立の精神にたって大企業の観察をするような声をしばしば耳にした。たとえば、正社員の連中が体操をやらされていたり、休む間もなく働かされているのを見て、わたしの仲間たちはこんなことを言うのである。
 「かわいそうに。まるで奴隷だね。オレなら、こんなところじゃ二日ともつまい。オレたちはやつらから低く見られているかもしれんが、少なくともオレたちには自由がある。」
 なるほど、この自由はたいていは幻想にすぎまい。しかし、たとえそうであっても、日本の社会に変化をもたらしうるものはここにあると思いたい。じっさい、下層で生きるひとびとのあいだでは、いろんな形の協同がめきめきと育っているのである。老人に介護の手をさしだし、家事を助けあい、勉強が遅れた子どもをはげまし、バカげた学歴競争とは無縁の教育をおこなうための塾を開いたりする光景が、この底辺では見られる。
 大都市の下町には、共同体のような社会が存在し、それが庶民の生活を快適なものにしている。お祭りがあれば、だれでも自由に踊りの輪のなかに入ることができる。初対面の人にも笑顔で声をかけ、いっしょに踊りましょうとさそってくれる。下町では、そんなひとびとに出会えるのである。これはほんとうにうれしい。
 商店街には小さな店が立ちならび、かざりつけをして、人をよびこむ。この通りは庶民が社交する空間でもある。車は進入禁止なので、ひとびとは路上で楽しく立ち話ができる。子どもたちは走りまわり、エプロン姿の母親たちはおしゃべりに夢中だ。商店の人は通りかかる人にいちいち声をかける。商店主たちは結束して、その地区へのスーパー進出を許さない。
 さて、わたしは「インテリジェント・ビル」とよばれる建物の工事現場で働いたことがある。そのどこがインテリジェントなのかといっても、天井裏に高さ一メートル以上の空間があるというだけのこと。もちろん、人間への配慮によって設けられたものではない。天井裏は電気のコードだらけで、それが電子機器につながって、世界中からの回線でどこに一番のもうけ口があるか瞬時に教えるというものである。天井裏ではエアコンのパイプもからみあって走る。このエアコンも人間のためのものではない。その証拠に、夏でも風邪をひくので困るとこぼす人がたくさんいる。日本人があれほど自慢し、詩や歌でも讃える四季の存在が、ここでは消し去られているのである。実用的なインテリジェンスというのは、けっきょく人間の心の世界を崩壊させてしまうだけなのかもしれない。
 人間が、いや世界中の人々が人間らしく生きていけるような道をきりひらくためには、まさしく自由の精神がわきあがってくることに期待するしかない。わたしが描いてきた闘士たちの姿を見ていただければ、まだまだ希望はある、世の中は変わりうる、ということが十分にわかっていただけたであろう。あらゆる人を愛し敬う心をそなえ、経済と政治を変革し、現代における新しいモラルを創造しうる人間、そういう人間はどこにもいるのである。わたしはじっさいにそういう人々と出会い、心を動かされてきた。
    --アンドレ・レノレ(花田正宣・斎藤悦則訳)『出る杭は打たれる フランス人労働司祭の日本人論』(岩波現代文庫、2002年)。

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まさに、現代の英雄とは、名も無きひとりひとりの民衆である。そしてあれかこれかの階級対立とか分断した(仮想上の)人間論の対立(やそうした知的議論に惑溺する“知識人”の在り方)をものともせず、まじめに生き、そして「笑顔で声をかけ」あう現実の生活者こそ本物の英雄である。

追伸:ご返信がおそくなりまして申し訳御座いません。「遠位型ミオパチー」のスポット特集のご連絡を頂きました皆様ありがとうございます。この場をかりて深く謝意を申しあげます。細君と二人で、署名簿を刷りだし、できることから始めようということで、近所の方や幼稚園のお母様に署名をお願いし始めました。

できることから動いていけば必ず時代は変革できると実感しながら……。
なんでそんなに脳天気なの?と揶揄されそうですが、私が一番嫌いなのは、「嘲笑」と「諦め」だからです。

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英雄に自己犠牲を可能にさせるものは、ニーチェの場合のように死の魅惑でもなければ、ヘーゲルの場合のように歴史が欲することを遂行するという確信でもない。事物と他人の方へわれわれを投げ出す自然の運動への忠実さなのだ。サン=テグジュペリはこう言った。わたしが愛するのは死ではなく、生なのだ、と。

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この「生きている人間の世界」って「なんとかなるもんなんですよ」、実に。「忠実に生きていく」ってことをきちんとやるばかりです。

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生きている人間としての行為をなし続ける以外の策はない--しかもこれは至上の策なのだ。死ぬのはひとりだが、生きるのは他人と共にであり、われわれとは他人がわれわれについて作りあげるイメージであり、彼らがいるそのところにわれわれもまたいるのである。

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とりあえず、今日は『生もと純米酒 初孫』(東北銘醸株式会社/山形)のカップ酒でも呑んで寝ます。言うまでもありませんが、秋空のもとに映し出しただけで、いくら休みとはいえ、昼から呷ってはおりませぬよ。

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著者:滝浦 静雄,M.メルロ=ポンティ
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出る杭は打たれる―フランス人労働司祭の日本人論 (岩波現代文庫―社会) Book 出る杭は打たれる―フランス人労働司祭の日本人論 (岩波現代文庫―社会)

著者:花田 昌宣,斉藤 悦則,アンドレ・レノレ
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Auf Wiedersehen, Monsieur !

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一、さてこの書(引用者註--18世紀オランダの医学書・ターヘルアナトミアのこと)を読みはじむるに如何(いか)やうにして筆を立つべしと談じ合ひしに、とてもはじめより内象(ないしょう)のことは知れがたかるべし、この書の最初に仰伏全象(ぎょうふくぜんしょう)の図あり。これは表部外象のことなり、その名処(などころ)はみな知れたることなれば、その図と説の符号を合せ考ふることは、取付きやすかるべし。図のはじめとはいひ、かたがた先づこれより筆を取り初むべしと定めたり。即ち解体新書形体名目篇(かいたいしんしょけいたいみょうもくへん)これなり。そのころはデの、またアルス、ウエルケ等の助語の類も、何(いず)れが何れやら心に落付きて弁へぬことゆゑ、少しづつは記憶せし語ありても、前後一向にわからぬことばかりなり。たとへば、眉(ウエインブラーウ)といふものは目の上に生じたる毛なりとあるやうなる一句も、彷彿(ほうふつ)として、長き春の一日には明らめられず、日暮るゝまで考へ詰め、互ひににらみ合ひて、僅か一二寸ばかりの文章、一行も解し得ることならぬことにてありしなり。また或る日、鼻のところにて、フルヘッヘンドせしものなりとあるに至りしに、この語わからず。これは如何なることにてあるべきと考へ合ひしに、如何ともせんやうなし。その頃ウヲールデンブック(釈辞書)といふものなし。漸く長崎より良沢求め帰りし簡略なる一小冊ありしを見合せたるに、フルヘッヘンドの釈註に、木の枝を断(た)ち去れば、その跡フルヘッヘンドをなし、また庭を掃除すれば、その塵土聚(じんどあつ)まりフルヘッヘンドすといふやうに読み出だせり。これは如何なる意味なるべしと、また例の如くこじつけ考え合ふに、弁へかねたり。時に、翁思ふに、木の枝を断(き)りたる跡癒(い)ゆれば堆(うずたか)くなり、また掃除して塵土聚まればこれも堆くなるなり。鼻は面中に在りて堆起(たいき)せるものなれば、フルヘッヘンドは堆(ウヅタカシ)ということなるべし。然ればこの語は堆と訳しては如何といひければ、各〻これを聞きて、甚だ尤もなり、堆と訳さば正当すべしと決定せり。その時の嬉しさは、何にたとへんかたもなく、連城の玉をも得し心地せり。かくの如きにて推して訳語を定めり。
    --杉田玄白(緒方富雄校注)『蘭学事始』(岩波文庫、1982年)。

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冒頭は『蘭学事始』の愁眉となる一節から。
江戸中期、厳しく制限されていた西洋の諸学(蘭学)を苦心しながら、日本に紹介した杉田玄白(1733-1817)が、蘭学開拓期・草創期の挿話としてまとめた書物である。有名な話だが、オランダの医学書ターヘルアナトミア(Tafel Anatomie)の翻訳時の回想がうえの一文である。まわりから奇人変人とみられながらも、自分たちの目で事実を確認(刑場での腑分けの見学)したり、まったく読めないオランダ語に一から挑戦し、学び抜き、そのなかで、本格的な西洋医学の訳書『解体新書』へとその営みを結実させていく。先人たちの血のにじむような足跡を読むといつも励まされてしまう宇治家参去です。

さて本書『蘭学事始』が、一般に広まるきっかけになるのは、福澤諭吉(1835-1901)が再版したことがきっかけのようである。1890年(明治23)に記した「蘭学事始再版の序」の中で福沢が次のように述べている部分も興味深い。

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書中の紀事(引用者註--『蘭学事始』の文章)は字々皆辛苦、明和八年三月五日蘭化先生の宅にてターフルアナトミアの書に打向ひ、艫舵(ろかじ)なき船の大海に乗出せし如く茫洋(ぼうよう)として寄る可きなく唯あきれにあきれて居たる迄なり云々以下の一段に至りては、我々は之を読む毎に、先人の苦心を察し、其剛勇に驚き、其誠意誠心に感じ、感極りて泣かざるはなし。
    --「解説」、前掲書。

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幕末に蘭学者・洋学者として生き抜き、御一新のあとは、啓蒙思想家として八面六臂の活躍をなした福澤だが、先人たちへの尊敬の念とその苦心を尊ぶ誠心には、こちらこそ「感極りて泣かざるはなし」でございます。

どの学問も恐らくそうなのでしょうが、その道を切り開いた先人や先駆者たちの苦労があってこそ現代があるのであり、そのことを決して忘れてはいけない。教室で向かい合う学生と教員に関しても自体は同じである。現在の研究者・教育者はその地位に決して甘んじてはならないのであろう。

……という、蘭学者の精神に学ぶというのが実は本論ではありません。
それはそれで大事なのですが、ひとまずここで区切りをつけます。

そして気分を変えて、フルヘッヘンドの苦労のごとく、語学の話へ入っていこうと思います。

というのも……、本日の市井の職場での話です。
久し振りの晴天のためか、これまでの雨降りの分が一辺に押し寄せてくるとでもいえばいいのでしょうか、何もない平日の数倍の来客者。嬉しい悲鳴といえば悲鳴ですが、体も心も精神的には悲鳴です。ですけど、やはり平日なのでしょうか、引けも早く、ピーク時をすぎると穏やかな状況になる。

さて、団子を頂き、喫煙室で一服していましたが……最近休憩中に甘いものを欲してしまいよくないのですが……やおら、携帯の内線が鳴り響く。
いつもそうなのですが、このダイレクトに呼び出されるというのはヤナものです。
あまりいい話ではないのがわかっているので……。

「宇治家参去さん、お疲れ様です。ちょっと外国のお客様が品物を探しているので……」
……来て応対して欲しいとのことだそうである。
通常、だいたい日本語の単語で通じるパターンがほとんどなので、まあクレームでもなかったわけなので紫煙を消してから、さあ仕事!って思い直して売り場へ出ましたが、ほかに適任者がいるのでは?って驚いてしまう。その外国からいらっしゃったお客様、まったく日本語がNGとのことだそうである。

……だから、バイト君から切実な電話がかかってきた次第です。

a foreign customer , Can you Speak English ?
UJIIE Sankyo       , Very very little,ベリー、ベリー、リトルだよっ!

そうなんです。
教員やっていてナンですが、読み書きと聞くだけは相当できる自負があるのですが、まったくしゃべれません。そこがすごくダサイのですが……語学の担当教員ではないのでご寛恕を。

a foreign customer , Ja !
UJIIE Sankyo       , Oh,Deutsche ?
a foreign customer , Ja,ja,Can you speak Deutsch ?
UJIIE Sankyo       , Nein,nein.....Ich kann Deutschland nicht sprechen.

このへんまではなんとかなった。
とわいえふたりの第二外国語が相当怪しいことも判明した。

英語もドイツ語もRWというか、read and write only なのですが、どんぐりのせいくらべでいくとチトましなフランス語でも試してみた。

UJIIE Sankyo       , Est-ce que vous pouvez Parler français ?
a foreign customer , Nein !
UJIIE Sankyo       , O.K.huumm.....

左様でございますかああ……。
お互いの状況は確認できた。
英語とドイツ語だけだ。どうするか。どちらもしゃべれないんだよなあ~。
ここでひとつひらめいた!

UJIIE Sankyo       , Oh,Jesus!
a foreign customer , Was ?

レトロな手法ですが、筆談です。

メモ用紙を取りだして、要望を英語とドイツ語で書いてもらった。
そして、こちらも、わかる方の言葉で書き込んで応対し、案件が無事クローズする。

ふう。冷や汗かいたゼ。

帰りしな……

a foreign customer , Thank you ! Auvoir !
UJIIE Sankyo       , Oooh,Auf Wiedersehen, Monsieur !

ちぐはぐですが、粋ですね! お客様。

さて……
語学は書くよりも読むよりもしゃべれる方が便利ですが、古来より伝わる筆談という手法でも意志疎通ができることが確認できたのは有意義な体験でした。

おもえば、オランダの語で、鼻を形容する言葉にフルヘッヘンドという言葉が使われていたが、その用例から、“堆い”という意味を数日かけて導き出した先駆者たち。

語学は一日にては為らず……ですね。
なんか、再度勉強したくなってきました。
所用が済んで本業専念体制になったら、また挑戦してみようと思います。
しかし、まあ、18世紀ヨーロッパ世界の普遍的な流通言語(外交での第一外国語)は、フランス語だったのですが、昔日の勢いはありませんね。

自分の専門の仕事をする分には、読めるだけで現実には十分です……というかおつりが来ます。しかし、しゃべれないでの教えることは不可能です。

「だから、銭にならねェ」……と細君のぼやきが鬱陶しい昨今です。

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あらゆる理解に本質的に先入見がかかわっている

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 あらゆる理解に本質的に先入見がかかわっていることをこのように承認することによって、解釈学的問題は真に先鋭化される。この洞察を基準にして明らかになるのは、歴史主義はどれほど合理主義や自然法思想に批判的であっても、それ自身、近代啓蒙思想の地盤のうえに立っており、この啓蒙思想の先入見を見抜かないままに共有しているということである。つまり、啓蒙思想の本質を担い規定している、啓蒙思想の先入見というものも、ありそうである。啓蒙思想の根本的な先入見とは、先入見一般に反対し、それによって伝承を無力化する先入見である。
 概念史的な分析によれば、啓蒙思想によってはじめて先入見概念はわれわれになじみの否定的な意味合いをもつものとなった。そもそも先入見(Vorurteil 先行判断)とは、事態を客観的に規定している諸要因すべてを最終的な仕方で検討するまえに下される判断(Urteil)のことである。裁判の審理において先行判断とは、本来の最終判決を下すまえになされる法的な仮決定(Vorentscheidung)のことであった。裁判で争う者にとって、不利な先行判断が下されることは、当然ながら、そのひとが勝つチャンスが薄れることを意味する。だから、フランス語のpréjudiceにしろ、単に損害、不利、損失ということである。とはいえ、この否定性は単に結果的なものにすぎない。否定的な結果が依拠しているのは、まさにその肯定的な妥当性、先行決定の先例的価値である--そしてまた、あらゆる先例がもつ価値である。
 したがって、<先入見>はけっして誤った判断のことではなく、それが肯定的にも否定的にも評価されうることが、その概念のなかに含まれている。そこには明らかにラテン語のpraejudiciumへの依存が生きており、その結果として、この語には否定的なアクセントとならんで肯定的なアクセントをおくことができる。préjugés légitimes(正当な先入見)が存在するのである。このことは今日のわれわれの言語感覚とはだいぶ隔たっている。ドイツ語のVorurteilは--フランス語のpréjugéと同様に、しかしいっそう決定的に--啓蒙思想とその宗教批判によって<根拠のない判断>という意味に限定されてしまったように思われる。根拠づけ、方法的な確証があってはじめて、(事柄を言い当てているそのことではなく)判断に尊厳が与えられる。啓蒙の観点からは、判断にそのような根拠づけが欠けていると、それ以外の確実性のありようは認められないので、その判断は事柄に根ざす根拠をもたない、<根拠がない>、ということになってしまう。これが合理主義の精神に基づく典型的な推論である。先入見一般の信用失墜と、先入見を完全に締め出そうという科学的認識の要求は、この推論に基づいている。
 近代科学は先入見を遮断するというスローガンを選ぶことによって、そもそも疑わしいことはなにひとつ確実だとは認めない、というデカルト的懐疑の原則に、そして、このデカルト的要求を考慮した方法の理念に従っている。
    --ハンス=ゲオルグ・ガダマー(轡田收・牧田悦郎訳)『真理と方法 II 哲学的解釈学の要綱』(法政大学出版局、2008年)。

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すこし仕事でも「アリエナイ」ことがあったり、豪雨もあり、すこしブルーな宇治家参去です。
いわなきゃよい一言を言ってしまったのがよくなかった。
実は、宇治家参去、いわゆる「励まして、ほめて」伸ばすというのが苦手な人物です。どちらかというと、譬えは悪いのですが、「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす」といいますが、そういうタイプですので、叱るというか、イジクルというか、そういう在り方で接してしまう部分が多々あります。
今日も、すこし、下手を打ったバイト君を弄くってしまった。
凹んだようでしたが、結局自分も凹んでしまった。
帰宅してから、年明けぐらいに出そうと思っている解釈学の論文も纏めなければならないので、ガダマー(Hans-Georg Gadamer,1900-2002,※珍しく百歳越えの哲学者!)の独和の文献を読むのですが、頭に入ってこない。同じ所をループしているながれです。お陰で一文に沈潜することはできるわけですが。

さて--

人間は、何らかの対象に向かい合ったとき、その対象に対する先入見を脱却してものごとを「考える」、「理解」する、ないしは「解釈」すべきだと考えがちだが、現実にはそううまくはいかない。このことは経験でよくわかる。

近代西洋の合理主義、啓蒙思想は、人間をタブラ・サラ(tabula rasa)な認識主体だと発想することで、すべてのものごとを経験として吸収できると考えた。
タブラ・サラとは、原義としては、“何も書かれていない書板”を意味する。
まるで、真っ白な黒板なように、生まれたままの人間には何も「書き込まれていない」。生きていく中で人間は経験を重ねていく、そのことで、黒板に文字や図表が記述されていくように知識や概念を理解し、吸収していくのが人間だ--そう人間をとらえたものである。

しかし果たしてそうだろうか--。
たしかに、人間をタブラ・サラなものとして捉えることは、あらゆる先験的な束縛から解放する原動力として機能した。人間は宗教や習俗によって、先験的な規定を受けていない。いわば“前近代的”な「足枷」をはずす人間観としてひとつの偉大な歩みを示したのは歴史の事実である。

しかし、それだけでもなさそうな気がするのも生きている人間の実感ではなかろうか。

最初から、何ものにも左右されない、判断の影響を受けないような人間なんて存在しない--解釈学と向かい合うなかでそのことを常々実感する。ハナから「真っ白な」人間というものはまさに作業仮説上の「人間像」にすぎないのだと思う。

あらゆる先入見を背負いつつ、ものごとと向かい合い、それを解釈し、有意味な解釈が共有されていく(=伝統)になるのが現実であろう。

先入見は、上でも指摘されているとおり、理解や審判を疎外する「否定性」として捉えられガチである。市井の言葉で言うならば、「色眼鏡」ということばそれを象徴的にあらわしている。先入見があるからこそ、対象を正しく認識できないのだ、と。確かにそういう部分は現実には存在する。
実際には「△△だよな」とか「××だよな」という状況ではないにもかかわらず、「○○人って△△だよな」とか「○○教徒ってやっぱ××だよな」的な日常的な発語がそれである。こうした対象を理解する前に下す判断の「否定性」として「先入見」は「色眼鏡」であり、廃棄すべきだという一連の発想がそれである。

しかし、人は「色眼鏡」を外した状況で対象に向かい合うことなどできないのではないだろうか。よくて“外したつもり”で、実は“かけている”--そんなところがリアルなところであろう。そう思います。また言うまでもありませんが、そうした努力は無駄だとか揶揄しようとかそういう発想ではありませんし、先入見万歳、誤った見方で何が悪い!と開き直るのでもありません。ただ自覚だよなっ(ボソッ)ってところです。

外すことは出来ないけれど、確認することはできる。踏まえた上で向かい合うことはできる。だとすれば、自覚した上で、対象と手探りで向かい合いながら、共通了解をつくっていくしかないのではないだろうか。

「<先入見>はけっして誤った判断のことではなく、それが肯定的にも否定的にも評価されうることが、その概念のなかに含まれている」。だから、啓蒙の申し子である現代人からしてみると、ヘンな謂いですが、「préjugés légitimes(正当な先入見)が存在するのである」。だからこそ、そうしたところから、伝統(文化的土壌の共有)とか共通了解といった連帯もでてくるのであろう。

何にも左右されてないことこそが、<根拠のない判断>なのである。
<根拠づけ>の出発点としての先入見と捉えた方が価値的かもしれない。

もちろん、そのことによって、ミスリードしてしまうこともあるし、ラッキーな場合、認識の連帯へと一発で至ることもあろう。その試行錯誤こそむしろ重要であり、ハナからありきでやってしまうと、それが一つのイデオロギーとして機能してしまい、そのことのほうが不毛である場合の法が多いのかも知れない。

根拠をつくるのも、そして根拠をなくすのも人間である。
その存在状況を踏まえるしかない。

決して、理解も解釈も了解も独りよがりなものではない。しかし独りよがりなものでもある。眼鏡を踏まえることが肝要かもしれません。

「あらゆる理解に本質的に先入見がかかわっていることをこのように承認」することが必要だ。そのなかで、極端を排しつつ、理解を組み立て直していくしかないのだろう。

ガダマーという哲学者は、哲学の伝統を内在的に革新させた人物だと宇治家参去は評しているのですが、現代思想家の一部からは、手厳しく批判にさらされている人物です。要は伝統に拘りすぎた恣意的な主観主義者だと。しかし、生きている人間から伝統とか文化的背景とか、出自を切り離して議論することはそもそも不可能だ。その思想の歩みを自身の生涯を通してしめしたのが、ガダマーの人生なのかもしれない。帰属性と理解をガダマーは強調するが、そのことも批判にさらされている。しかしながら、その自覚なしには、自己自身を見つめ直す立脚点はないのだけれども。

不思議なことに、ネスカフェを生涯こよなく愛したそうです。

錯綜してきたので寝ます。

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真理と方法 2―哲学的解釈学の要綱 (2) (叢書・ウニベルシタス 176) Book 真理と方法 2―哲学的解釈学の要綱 (2) (叢書・ウニベルシタス 176)

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