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始めの条件としての思惟の自由

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 我々は哲学の概念を定義して、『哲学とは、普遍的内容として、あらゆる存在であるような思想である』とした。そこで、これから哲学史において、この内容をもつ諸規定がどんな風に相次いで立ち現われて来るかということを示すであろう。ただ最初に、哲学と哲学史とが何処に始まるかということは、やはり問題としておかねばならない。

  a 始めの条件としての思惟の自由

 一般的な答は上述したところである。哲学は一切を包括する存在者としての普遍性が把捉される所、或いは存在者が普遍的な形で捉えられる所、思惟の思惟が現われる所に始まる。そうすると、このことは何処に起こったのか。どこに始まったのか。これは、まさに歴史的な問題である。思惟が自立的にならなければならない。思惟が自分の自由において実存するようにならなければならない。思惟が自分を自然的なものから解放し、直観への没入の状態から脱却しなければならない。思惟が自由なものとして自分の中に向い、それによって自由の意識に達しなければならない。哲学の本来の始まりは、絶対者がもはや表象としてあるのでないのはもちろん、自由な思想が単に絶対者を思惟するのみでなく、絶対者の理念を把捉する所におかれねばならない。即ち思想が存在を把捉し(そうなると、その存在はまた思想自身でもありうる)、その存在を諸物の本質として認識し、すべてのものの絶対的全体と内在的本質として把捉し、それによって(外見上はいままで通り外的存在であるにしても)この存在を思想として把捉する所、そこに哲学の本来の始めがある。その意味で、ユダヤ人が神として思惟した単純な非感性的な本質は(というのはどの宗教も思惟であるから)、哲学の対象ではない。しかし例えば「諸物の本質または原理は水だ、火だ、或いは思想だ」といったような諸命題は、たしかに哲学の対象である。
 この自分自身を定立する思惟という普遍的規定は抽象的な規定性である。それは哲学の始元〔始めをなす原理〕であるが、しかしこの始元は同時に歴史的なものであり、或る民族の具体的形態である。しかも、その原理こそ、我々が上述したもの〔理念の歴史的展開〕を形成するものなのである。哲学が出現するためには自由の意識が必要であると我々は言っているが、哲学がそこに始まる民族には、この原理が根柢になければならない。そうして、この自由の意識をもつ民族が自分の存在を、この原理の上に打ち建てねばならない。というのは、その民族の立法とか、その他の全状態の根拠は、全くただ精神が自分から作る概念の中にのみ、即ち精神がもつ諸〻のカテゴリーの中にのみ、あるのだからである。実践的な面で言えば、現実的自由、政治的自由の興隆も、これに関連する。この自由は、ただ個人が自立的に個人としてありながら自分を普遍的なものとして、また本質的なものとして知る所に、個人が無限の価値をもつ所に、或いは主観が人格性の意識を獲得し、それ故に全くの自立を主張する所に、はじめて始まる。ところが、自由な哲学的思惟は実践的自由とそのまま関連するものである。即ち、前者が絶対的、普遍的、本質的な対象の思惟をもつようになると共に、後者も自分を思惟することによって普遍者の規定を獲得するのである。ところで、思惟とは一般に或るものを普遍性の形式に持ち来すものである。それゆえに思想は第一に、普遍的なものを自分の対象とする。或いは対象的なものを、即ち感性的意識の中にある自然的諸物の個別性を普遍的なものとして、客観的思想として規定する。第二に、このために必要なことは、次の点である。ワタシがこの客観的で無限な普遍者を認識し、知ろうとするときには、私自身もまた対象性〔普遍者〕の立場に立って、あくまでも普遍者に立ち向かわねばならないということである。
 政治的自由と思想の自由とのこの一般的関連のために、哲学はただ自由な憲政が敷かれる所にのみ、しかもただそのかぎりにのみ歴史に現われる。従って精神が哲学をやろうとする場合には、精神はその自然的意欲と素材への沈没の状態とから離脱しなければならないから、精神は世界精神がそこに始まるところの形態、即ちそういう離脱の段階に先行する形態の中では、まだ哲学はやらないのである。
    --ヘーゲル(武市健人訳)『哲学史序論 哲学と哲学史』(岩波文庫、1967年)。

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月曜は休日でしたが、授業回数の調整の必要上、講義となる。
初日ですのでガイダンスですが、それで終わらせるのも“もったいない”?と思い、少し講義をさせて頂く。

半期15回講義であっても、なかなかすべてが終わらないといいますが、脱線が多いので、ガイダンスのあと、哲学とは何か--日常生活の中で使われる場合に注目しながら、学生さんたちに自由に議論させてみた。

哲学に対してさまざまなイメージ、先行理解をもって参加しているのは承知ですが、それをあらためて分析してみると、実に実り豊かな自己認識・他者認識へと繋がるものです。
固い、難しい……ワケワカラン。

たしかにそうなのですが、「何で固いと思っているのだろうか」「どうして難しいと感じるのだろうか」そこを確認することだけでも、自分自身の盲点をつき、対象へ接近することが可能になる。

「○○だから固いって思っていたんだ。だとすれば本当はどうなのだろうか」

この「だとすれば本当はどうなのだろうか」と自由に思索し始める瞬間に、ひとは哲学しはじめるのでしょう。たしかに学問の作業としての哲学なるものは、煩瑣な議論や文献解釈の問題に引きずられる部分が殆どですが、そうした原初の感覚を忘れてしまってはならないだろう。

その「本当は?」を探求する努力のなかに喜びや希望が生まれてくるのである。
そうした自由な探求を保障する学問の府が大学なのである。

「始めの条件としての思惟の自由」……何者にも囚われず、また囚われている自己自身を自覚点検する中で、人間やその人間の住まう世界のすばらしさ、そして愚かさを学んで欲しい。そして生きている生活の中で、ふと考える自己自身をどこかに作って欲しい……そう願う宇治家参去です。

「思惟が自立的にならなければならない。思惟が自分の自由において実存するようにならなければならない。思惟が自分を自然的なものから解放し、直観への没入の状態から脱却しなければならない。思惟が自由なものとして自分の中に向い、それによって自由の意識に達しなければならない。」

遠慮することなく、自由に自分自身を解き放って、授業の中で、自分自身で、まず考えてみる空間を作っていこうと思います。

「この自由は、ただ個人が自立的に個人としてありながら自分を普遍的なものとして、また本質的なものとして知る所に、個人が無限の価値をもつ所に、或いは主観が人格性の意識を獲得し、それ故に全くの自立を主張する所に、はじめて始まる。」

そうした自由な?労作業があってこそ、自分自身の価値を見出し、世の中に価値を見出し、「それでもなお」歩み続ける精神の力が生み出されてくるのだろうと思います。

さて、伝統的な分類で恐縮ですが、西洋の知と血の歩みは「政治的自由と思想の自由」に核心があったのに対し、全般的に東洋の社会では、共同体優先的な発想がつよく、「政治的自由と思想の自由」の発想が稀薄である。だからヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)は「哲学はギリシアの世界で、はじめて始まるのである」と断じており、東洋思想を除外している。
ま、ヘーゲルのものの見方は画一的といえば画一的な見方ですが、十分に当てはまる部分はたしかにあります。だから「政治的自由」とか「思想の自由」を探求した知の先駆者たちは、とくに東洋においては体制からの異端者として絶えず屠られてきたものであります。

体制としては、そうしたものが保障された現代日本ですが、ときおり、そう自由に発想できる、考えることのできるアリガタサを確認するとともに、その内実を内実たらしめる不断の努力を忘れてはいけないのでしょう。

……と、
授業が終わると、夕方から市井の仕事のため大学を後にするのですが、秋学期の授業のみ持っていらっしゃる、ビジネス・エシックス(企業倫理・職業倫理)の非常勤の先生にばったり出会う。もともとシンクタンクに勤務されていた方で、今は企業家として、コンプライアンス関連の事業をされているかたで、秋学期だけ授業を1コマ担当しています。その先生もそのまま名古屋へ出張だとかで、駅までタクシーに乗せてもらった。

ラッキーです。

で……電車のなかで、やはり職業倫理関連で、ヴェーバーのプロテスタンティズムの倫理から、カントの自律論など、ふかく談義でき、有意義な時間を過ごす。
やはり生活の中で、学問を論じることが出来る瞬間が一番幸福なひとときであります。とわいえ、まわりのひとからするとやはりヘンな連中だったのでしょう。

目の前に坐って、安倍晋三『美しい国へ』(文藝春秋)を読んでいた若いお兄さんも、カントの話に興味があるようでした。

とわいえ、今更『美しい国』でもないだろうに……と。

さて、最後に全く脈絡のない話でも。

箱をみていると思わず噴き出した。

「暴君ハバネロに直射日光は厳禁」

……だそうです。

なぜに?……ふと探求が始まりました!

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