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許容されたものとして前提したりするという便宜をもっていない

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 哲学は、他の諸科学のように、その対象を直接に表象によって承認されたものとして前提したり、また認識をはじめ認識を進めていく方法をすでに許容されたものとして前提したりするという便宜をもっていない。なるほど哲学はまず宗教と共通の対象をもってはいる。両者ともに真理を対象としており、しかも、神が真理であり、神のみが真理であるという最高の意味における真理を対象としている。また両者ともに、有限なものの領域、すなわち自然および人間の精神、それらの相互関係、およびそれらの真理としての神とそれらとの関係を取扱っている。したがって哲学は、われわれがその対象を識っていることを前提しうるのみならず、それを識りそれに関心をもっていることを前提しなければならない、とさえ言える。このことは、意識は、時間からすれば、対象の概念よりも表象の方を先に作るものであり、しかも思惟する精神は、表象作用を通じまた表象作用によってのみ、思惟的な認識および把握へ進むのであることを考えただけでも明らかである。
 しかし、思惟的な考察をしてみればすぐわかるように、思惟的な考察というものは、その内容の必然性を示し、その対象の諸規定のみならずその対象の存在をも証明しようとする要求をそのうちに含んでいるものである。したがって単に対象を識っているだけでは不十分であり、また前提や断言を作ったり承認したりすることは許されないことである。しかしそれとともにはじめを作ることの困難が生じてくる。なぜなら、はじめは直接的なものであるから、それは前提を作るものであり、あるいはむしろそれ自身前提であるからである。
    --ヘーゲル(松村一人訳)『小論理学 (上)』(岩波文庫、1978年)。

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自分としてはいい講義ができなかったなと喘ぎ・実感したときの方が、「よかった」「深く考えることができた」という反応が多い。あとで、学生さんからの感想を読んでいるとそうなのである。また逆に、今日はなかなかナイスな講義となったと満足したときは、「難しかった」「なかなか理解出来なかった」という声が多く寄せられる。しかし、この謎はまだ解明されていない。

さて形而上学としての哲学とはいわば、根本的な根拠を探求する知的試みとなるわけです。
形而上学(Metaphysica/Metaphysics)は、ギリシア語の μεταφυσικάに由来する言葉で、アリストテレス(Aristotélēs,384 BC-322 BC)がそのままの書名の著作を遺しておりますが、physica(自然)のmeta(あと・奧)を探求するという意味をもっています。ですので、自然現象や物理的な存在、そして概念的な対象が存在する理由や根拠についての問い、そしてそれをめぐる議論のことと言ってよろしいかと思います。そのため問いとしては、「それが何か」というおりも「なぜそうなのか」という問いかけが形而上学的な問いかけということができると思います。

いつもの如く、きわめて極初回の講義では、「なぜ人を殺してはいけないのか」議論させることにしております。
こうした議論をさせると、やはりよく寄せられるのが「考えてもみなかった」「殺してはいけないから殺してはいけないと思っていた」というものである。その意味で知的刺激にはなるのでなかろうかと思う。

たしかに、人を殺す行為は、“善い”とはされない行為であり、称賛もうけなければ推奨もされない在り方である。
しかしこのことは、いつまでたっても、前提的なものとして受けとめてしまうと、根拠のない、他律的なルール、ないしは、酷いいい方になってしまうけれども、「理由はよくわらないかが守った方がよい」強制として機能してしまう。

そうした問題に関しては、自分の中である程度は「なぜそうしてはいけないのか」という前提に対する反省がない限り--たとえ、なんらかの結論が出ないまでも--それはそのひと自身の掟にはならないのではないだろうか--そんなことをよく考えます。おそらくそれがカントのいう内面からの絶対命令としての定言命法へとリンクしていくものだとは思うのですが。

形而上学としての哲学は、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)が言うとおり、「対象を直接に表象によって承認されたものとして前提したり、また認識をはじめ認識を進めていく方法をすでに許容されたものとして前提したりする」ので、何に対してもまず「なぜそうなんだ」というぐらいでやっていくのがよいでしょう。

ひとはときにふれ、いろいろな問いを発します。「何」「どれ」「どこ」--。
さまざまな問いが生きている人間存在を取り囲んでいます。しかしそうした種々雑多な問いかけの中で、より根源的な問いかけである「なぜ」(=形而上学的問い)を大切にしたいものです。

詳細は割愛しますが、比較的時間をかけて議論させると、やはり議論している学生さんたちの頭の中は飽和状態になってしまうわけですが、じっくりと考える機会にはなったことなのだろうと思います。こうした問題は四六時中考えると、頭が煮詰まって社会生活が社会生活をおくれなくなってしまうように働いてしまいますが、ときおり、当然と思っている「前提」なるものを根源的に疑い、その根拠を自分で探求することは必要だろうと思います。ただくどいようですが、探求仕舞だけで終わらせても問題で、探求と探求によって掴んだ考え方を対話によって相互交流する中で、すこしだけ自分も他者も前へ進めるのではないだろうかと思います。

木の枝から地面に落ちるリンゴという“現象”をみて、その落下を記述し、落下の有り様を説明することよりも、「なぜそのような現象が存在するのか」ということを考えてみるのも面白いかも知れません。

アリストテレス曰く

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しかしいまここで我々の語ろうとするところ(引用者註--形而上学のこと)は要するにこうである、すなわち、知恵(ソフィア)と名づけられるものは第一の原因や原理を対象とするものであるというのがすべてのひとびとの考えているところであるというにある。
    --アリストテレス(出隆訳)『形而上学 (上)』(岩波文庫、1959年)。

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だから哲学する人の議論は錯綜し、書物が難解になってしまうのでしょう。

さて、ご存じの通り、八王子市は駅前での路上喫煙が制限されており、喫煙スポットが要所に設けられておる地域です。愛煙家としては、喫煙スポットが出来たおかげで逆にありたがいなあと思うようになったわけですが、一服しておりますと、となりでカチカチ、カチカチと音がする。ライターがなかなか着火しないようでした。
これは愛煙家としてはきわめてイタイ状況です。
吸いたいのに吸えない。
さりげなくライターの火を差しだす。
笑顔が交差する。

ライターの炎で、お互いの心が明るくなる瞬間です。全く知らない方と久し振りに心が交差した一コマでした。

これがタバコの良いところです。

では「なぜタバコを吸うのか」そうした根源的探求も時には必要かも知れませんが、時間が無く考察しておりません。

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