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盗人のモラル

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 真の盗賊のモラルは、

 一、盗まれて難儀するものへは、手を出さぬこと。
 二、つとめするときに、人を殺傷せぬこと。
 三、女をてごめにせぬこと。

 の三カ条が金科玉条というもので、これから外れた、どこにでもころがっているような泥棒を真の盗賊たちは「あさましい」と見るのである。
 なればこそ、盗みすることを、つとめするなどといい切ってはばからぬのだ。
 またそれだけに仕事もむずかしく、大盗賊になると十年がかりで、ねらいをつけた商家や寺院へ網をかける。この間の投資もなみなみのものではないのだ。
    --池波正太郎「浅草・御厩河岸」、『鬼平犯科帳 (一)』(文春文庫、1974年)。

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本物の盗賊とは、単に“盗む”のではない。
なかまうちでも厳しい職業倫理を課すことによって、職業としての犯罪を遂行のである。
だから、金のないところからは盗まないし、盗んでから換金する手間や運ぶのに苦労するものへは手をかけない。
本物の盗賊は、通常、ねらいを定めた商家へ手の者を奉公人として忍び込ませ内情を観察する。数年越し、なかには数十年越しで計画を立て、盗みをおこなう。盗みの当夜は、まさに煙のように忍び込み、お宝を頂戴し、煙のように去っていく。家人は深い眠りの渦中で、盗賊が忍び込んだことすら察知していない。

一種の“芸”である。

本格の盗賊一味は、この芸を競い合ったものだとか。
血は一滴も流れないし、女をてごめにすることもない。厳しい倫理が要求される、まさにストイシズムの極地である。そのことが本物の盗賊たちの倫理であり、誇りである。だからこそ、盗みという行為を“つとめ”と呼ぶのである。

その対極にあるのが、“急ぎ盗(ばたらき)”ないしは“畜生盗(ばたらき)”と呼ばれる、作中では18世紀後半の江戸で、盗み業界を瞬く間に席巻していったやり方である。

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 「お前、江戸から来た、と言ったな」
 「へい」
 「それじゃあ、おれの急ぎ盗(ばたらき)のありさまをうわさにもきいたろう」
 「えい、ききました。ですがどうも、わっしにはぴんと来ませぬでございましたよ」
 「ふん……」
 丹兵衛は恥ずることころもなく鼻で笑って見せ、
 「いまのおれは、むかしの丹兵衛じゃあねえ。このせわしねえ世の中に、むかしのようにのんびりしたお盗(つとめ)がしていられるものかい」
 「へい…へい……」
 「おれも年齢(とし)だ。いつまでも、ゆっくりと手足をうごかしちゃいられねえ。急ぎ仕事ゆえに血も流そうし、あこぎなまねも平気でするのさ。そうでなくちゃあ、当節生きてはゆけねえ。なに、こいつはおれたちの稼業にかぎらねえことよ。上は大名から下は百姓まで、手前が生きのびるためには他人を蹴落してゆかねえじゃあどうにもならねえ。いい儲けをしてにたにた笑っていやがるのは商人(あきんど)どもばかりの世の中だ。だからよ……」
 いいさして、粂八を見つめた丹兵衛の顔かたちは変わっていないのだが、かつて〔仏の丹兵衛〕などともよばれた平穏な人相は消え果て、あぶらぎった欲望が面(おもて)にぎらぎらと燃えたっている。
    --池波正太郎「血頭の丹兵衛」、『鬼平犯科帳 (一)』(文春文庫、1974年)。

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かつて〔仏の丹兵衛〕ともよばれた本格の盗賊の首領「血頭(ちがしら)の丹兵衛」すらも晩年には、平気で「急ぎばたらき」をする盗賊に堕してしまったものである。

うえの作品では、もと丹兵衛の配下であり、つとめの最中に「女をてごめ」にしたことで破門された小房の粂八が捕縛後、もとのお頭である丹兵衛が急ぎばたらきをしているとのウワサを耳にして、そのことが信じられなかった。急ぎばたらきをする血頭の丹兵衛は「にせもの」である。だからこそその「皮」をはがしてやる!……ということで盗賊改メの密偵として捜索の渦中で、丹兵衛と出会うのである。しかし、急ぎばたらきをしていた丹兵衛こそ、かつては〔仏の丹兵衛〕と呼ばれた本人であった……。

「急ぎばたらきをするときは、皆殺しが一番いいのだ。痕跡(あと)が残らねえからのう」(血頭の丹兵衛)

だから火付盗賊改メ方長官・長谷川平蔵は、本格の盗賊に対しては一目おくものの、急ぎばたらきの盗賊に対しては容赦がないのである。

……という急ぎばたらきをしてしまいまして、さいど作り直しの平成を彷徨う宇治家参去です。
月末締めの論文を10日をめどに1本まとめていたのですが、集めた資料が1本散逸してしまい、そこの分を諦めて纏めていました。ほぼほぼそれを考慮せずとも完成するかたちで仕上がり始めていたのですが……。
ちなみに結論から先に言えば、その部分をスルーしても論文としては成立するのですが重濃味にかける内容となっしてまう。

その散逸した資料が、息子さんの本棚から発見されてしまった……。
ウルトラなんとかの図鑑とかの間に、国立国会図書館でコピーした資料が一本、うらには、ネズミがはったようなウルトラマンの絵が描かれていたわけですが、たまたま細君が今日発見してしまった。

「これ必要なやつでしょ」

なぜそこに行ってしまったのか、分からないのですが、とりあえず受領する。
内容はコピーしたときに一度確認していたのですが、読み直すとその重要性を改めて認識する。

ちょうど、今扱っているのが、プロテスタントからカトリックへ“改宗”した思想家なんですが、その改宗の消息にあたる文章があまり存在しておりません。その経緯を物語るひとつ証拠でしたものですので(証拠と言うよりは後日談的講演)、全体をもう一度組み立て直すことにする。

論旨全体をひっくり返す、組み立て直すわけではありませんが、想定していた結論に対する、ひとつの説得力を与える記録となるので、省くところを省き、入れ直す作業、全体の手直しがもう一度必要になりました。

へんな言い方ですが、〆切もあるし、他の学問の仕事も山積しているので、とりあえず、あと10日をめどに再度組み立て直していきます。

ま、このタイミングで発見できたのは不幸中の幸いかもしれません。

急ぎばたらきはくれぐれもしない方がいいですね。かえって二度手間になりますから。

さて今日はもう手を入れる気力がないので、一足早いですが、今日は「湯豆腐」で一杯やっています。珍しいビールを細君が買ってきてくれていたので味わってみましょう。

ベルギー産・ヒューガルデンです。

「世界でもっとも人気のあるホワイトビール」とのふれこみです。

一切ろ過や加熱を行わず、生きた酵母をそのまま瓶詰めしてそうだとか。
ラベルに書かれていますが、飲み方にもこだわりがあるようです。
①冷えたグラスに2/3ほどそそぐ。
②そして、瓶に残った1/3を振り回してからグラスへ注ぐ。
そのことによって生きた酵母がうまい具合に、グラスのなかで、暴れ出すのだとか。

で……。

フルーティ!
※語彙が貧弱です!

ホワイトビールは、本当にフルーティです。なんといいますか、「おっ、これなかで○○菌(からだにいいやつ)がいきているよなっ」てのを実感できます。
真夏や真冬向けではないかもしれないの、この季節が一番よろしいかと。

とりあえず、もうこの後は仕事にならないので、すこしウルトラセブンにでも変身して布団へ潜ります。

とわいえ飲み出してからナンですが、カトリシズムは不思議なものです。
プロテスタンティズムからカトリシズムへ“改宗”した人物はよく聞きますが、その逆はあまり聞きません。しかし、カトリシズムへ向かうことは、当人とっては“改宗”ではなく、信仰の“完成”なのですよね。

“カトリック”とは“普遍的”という意味ですが、その普遍さとは、個別の存在者と宇宙をつなぐ“universe”としての“普遍”なのでしょう……だから完成されるのかもしれません。

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 初めに申上げておかねばならないが、筆者はカトリシズムなる語の下に、キリスト教そのものを意味するので、プロテスタンティズムに対するカトリシズムと言う観念で考へてはゐないといふことである。この事はキリスト教会史の上からしても直ちに知らるゝ如く、カトリシズムは単にプロテスタンティズムに対して丈け言はれるものではなく、プロテスタンティズム以前においても又今後幾世紀の間に幾つ現はれるかも知れない凡ての分派主張に対してもカトリシズムなのである。然しその事は別として、筆者の主観的気持ちからしても、カトリシズムにおける基督への信仰の告白において対プロテスタントという関心は甚だ稀薄で、世紀の無信仰と無神性に対し、宗教的人間の実存的意識といふことが根本問題である。
(中略)
……カトリック者にとっては問題は「無神論かカトリシズムか」といふことに帰するし、神の存在を認めれば必然的にカトリシズムの真理性肯定に至る所以を言ふものに共鳴さぜるを得ないのである。カトリック者にとつては、真の天主、真の宗教、真の基督教、真の教会と言ふ概念は一貫して、カトリシズムの信仰告白となつてゐるのである。プロテスタンティズムよりカトリシズムに改宗した人々にも色々の経路があり動機があるであらうが、恐らく真面目なプロテスタントであつた人なら凡て、カトリシズムに至つて自らがプロテスタンティズムにおいて信じたキリスト教の真理の一つをも失つたとは思はないであらうし、自らがそこを通じて、そこにおいて神とキリストの真理に導き入れられた古き親しき兄弟姉妹の家を去るに断腸の思ひなきを得なかったであらう。然し彼は今やカトリック教会において旧き信仰の友等のために祈りつゝ彼がそこに導入され開眼せしめられた使徒伝来の生ける信仰のうちに、嘗て感謝し歓喜した恩寵の真理の根源的な完き姿を賛美し告白するのである。
    --吉満義彦「カトリシズムと現代人」、『新興基督教』昭和十七年十一月。

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