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「右顧左眄のグズ」ですが……

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汗冷やす、風の匂いに、秋を知る
    宇治家参去

まだまだ日中は暑いですが、湿度もひくくなりはじめ、夕方夜は過ごしやすいというよりも一種、寒さを感じるようになった今日この頃です。秋が大好きな宇治家参去です。

さて、休日と言っても休みにならないある日の宇治家参去です。
昨日は日中、レポート添削に専念する。
レポートを担当するようになったのは今年からなので、夏のスクーリング後の投函状況に実に驚いている。まだ9月前半だというのに、通常の一月分の分量が届けられている。レポートの執筆者の皆様、ほんとうにありがとうございます。またお疲れ様です。

さて、鉄は熱いうちに打てというが、やはりスクーリング後の記憶や体験が残っているうちに仕上げたほうが、いいものが書けるのだろうし、能率もよいのであろう。こちらも頑張らなければならない。来週からは短大の後期の授業もはじまるし、たまった学問の仕事も決着していかねばならないので、今月はいろんな意味で勝負の月です。

が……やはり平日なので、お子様が帰ってくると、彼は宇治家参去が本日休みであることを承知しているので、怪獣ごっこを例の如く強要してくる。はっきり言って疲れるのですが、これもこうした交流が彼にとって不可欠であるとすれば、闘わざるを得ない。

本当は来週からの授業の組み立てを前もってやっておこうと思ったのだが、まあ、明日にでもしましょう。久し振りの焼き肉のあと、一戦交えるはめに。

風呂にいれてやり、父子ともに果てしのない睡眠のかなたに沈没です。

しかし、落ちるのが早かった分、夜中に目が覚めてしまったので、今から仕事を再開です。

一度、どこかのタイミングで、何も考えずに温泉に入り、ただ飲みたい酒を無心に飲み、知らぬ間に眠りこけるように、ゆっくりと休みをとりたいものですが、もう今年は無理かも知れません。ひとつの峠をこえれば、そういう機会を取りたいものです。

さて、連日、どうしようもないニュースが飛び交っている。
本当に自分自身を含めて、世の中の問題を「自分自身の課題」として理解し、考え、事象へ関わっていかなければならないのであろう。
見えぬ支配の構造は狡猾になるばかりで、何か大切なこと、考えなければならないことがスルーされているような実感を、この10年持ち続けてきた。それが今、ますます大きな暗雲として大きく、ひとびとを囲み込もうとしているよう思えて他ならない。芥川龍之介ならば「将来に対する漠然とした不安」と表現するところでしょうが、そうした個別の存在者の存在に救う実存的関心が、実はなにかおおきな構造のなかで誘導されているとでも言えばいいのでしょうか……そうした不安と懸念が実に大きくなってきている。

犯罪件数は減少しているにもかかわらず、センセーショナルな表現で「防犯カメラ」の増設をスローガンが掲げられ、ひとびとのあいだから“支配”されることへの恭順の意が示されて始めているように、何かが違うのです。

価値観が一元的に集約され、異質なもの、差異が圧殺され、排除の構造がいや増して大きくなりつつある。

我が子と戯れながら、この子が大きくなったとき、どのような社会になっているのだろうか、不安に思われて他ならない。

しかし、その不安と重圧を、なんとかしなくてはならない
嘆いていてもはじまらない。
それが自分の責任であり、課題であるのだと思う。

かつてファシズム時代の国家構造を丹念に分析し、戦後思想史の一画期を築いた人物のひとりに藤田省三(1927-2003)がいる。丸山眞男(1914-1996)の弟子で、戦後日本を代表するリベラル派知識人のひとりである。彼の文章に次のような言葉がある。

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 理解や認識はできるだけ多面的であることを必要とする。場合によっては多義的(アイマイ)な表現をさえ要求する。決断はそうではない。多面的な理解の上に立って行動を決める決断は、その前提をなす理解の多面的で多義的な世界から一躍して、一義的でどこから見ても一つにしか見えないような明晰さを持ったものになっていなければならない。むろん、行動の原理である決断は一つ一つの行動に関するものだから、次にはまた理解の世界に投げ返されてその決断の良否・適不適を検討されなければならない。この往復運動を失って、ただ決断ばかりをやっているような決断主義は、ハネ上りとなったり行動ニヒリズムとなったりする。他方、理解の多面的で多義的な世界に入りっぱなしで一切決断しないものは右顧左眄のグズとなる。また、行動にも他のものと同じく次元というものがあるから、ある社会的次元での決断と他の次元での決断とは一枚である必要は必ずしもない。一義的な決断が同時に重ねって存在していることはある。つまり決断における重層的構造は存在しうる。さきに上げたM・ポールの誤読はこの点に関係している。彼は、日本の支配者が「降伏」という文句を使っていないのは、表面を「胡麻化すこと」をハッキリと決めておいて、本当のところでは軍国主義の再建をひそかにハッキリと決意していることの表われなのではなかろうか、と疑ったのだった。ずいぶんと高度の決断能力を認められたものだ。徹底的に決断能力がないと、時々知らない人間からは最高度に複雑な決断能力を持っているように見られることがある。虚弱体質を見て柔軟でしなやかな筋肉の持ち主と見まちがえるようなものである。むろん、一九四五年八月十五日における日本の支配者は複雑高度の決断力どころか決断の名に値する要件をほとんど全く備えていなかったということは、その後の数年の経過を見ただけで明瞭である。高い理解力のないところに次元を区別する複雑な決断が生まれる筈もなかろう。彼らは数年ウロウロしていた。
    --藤田省三「『昭和』とは何か」、『精神史的考察』(平凡社、2003年)。

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藤田が指摘するとおり、「理解や認識はできるだけ他面的である」ことは間違いない。そして対象や事物に対する理解や認識に基づき、人々は一義的な「行動を決める決断」を選択する。しかし、多面的であることと一義的であることは、内的な関連を欠いた全く別個の存在とは異なるものである。

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行動の原理である決断は一つ一つの行動に関するものだから、次にはまた理解の世界に投げ返されてその決断の良否・適不適を検討されなければならない。この往復運動を失って、ただ決断ばかりをやっているような決断主義は、ハネ上りとなったり行動ニヒリズムとなったりする。他方、理解の多面的で多義的な世界に入りっぱなしで一切決断しないものは右顧左眄のグズとなる。また、行動にも他のものと同じく次元というものがあるから、ある社会的次元での決断と他の次元での決断とは一枚である必要は必ずしもない。

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大切なのは、一人の人間の中における「理解や認識」と「決断」における不断の「往復関係」なのであろう。往復関係を欠いた行動主義は「行動ニヒリズム」になってしまうし、同じように、理解や認識への沈潜は「右顧左眄のグズ」となってしまう。ちなみに自分はどちらかといえば「右顧左眄のグズ」のきらいがありますので、このことは自覚しておく必要があります。

で……
前者が「敗戦」を「終戦」と表現したひとびとであるとすれば、後者はそうした流れに棹さすことのできなかった知識人であるのかもしれない。

いかなる決断をなすにせよ、そして事象に対していかなる理解や認識をなすにせよ、つねにこの「往復関係」のなかで、よりよい在り方を選択したいものであります。

それが我が子に対する責任なのかもしれません。

日本でリベラルというと己の言説に対してすらも自由であることがリベラルという人々であったように思われるのですが、そうならない、自分で引き受ける選択と行動を開始していきたいものです。「高い理解力のないところに次元を区別する複雑な決断が生まれる筈もなかろう。彼らは数年ウロウロ」していましたから。

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