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言語に対する責任とは、責任そのものであり、まさに人間的責任

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君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性をいつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し、決して単なる手段として使用してはならない。
    --イマヌエル・カント(篠田英雄訳)『道徳形而上学原論』(岩波文庫、1976年)。

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人間はいかなる場合にも同時に目的として使用し、決して単なる手段として使用してはならないのですが、得てして、どうも手段として扱ってしまう場合が多々あります。
端から戦略的に人間を手段として使用する事例には事欠かないし、そこが不幸の源泉になっている。しかし気が付かないうちにも、人間を手段として取り扱ってしまう場合もあります。例えば、夫婦の間においても、その役割性が強調されればされるほど、本来、人間を目的として使用するために設定されたはずの役割が、手段に転落してしまうこともある。

人間はいかなる場合にも同時に目的として使用し、決して単なる手段として使用してはならない……たしかにそうなのですが、そのことを知らず知らずに誤解・誤用してしまうのも人間であるとすれば、生活の中で“尊厳の感覚”を鋭敏に養い続けるほかに手はないのでしょう。

さて今日も市井の仕事ですが、実に嫌な携帯内線が鳴り響く。
レジのスケジュール・ミスでどうしても30分程度、レジを誰かに担当して欲しいという要件だ。

しかし……その言い方に少し違和感を感じてしまう。

すなわち……

「宇治家さん、そういうわけで、S君を、レジに“借りる”ことはできませんか?」

人間を“借りる”?……のは不可能だろう。
なぜなら、金やモノではないからだ。

「“貸す”ことはできませんが、S君にレジ業務を“お願いする”ことは可能です」

……と答えてしまった。
受話器越しの相手はきょとんとしていたようである。

忙しさの中で、人間を“使う”という感覚になっていたのでしょう。
本人を責めてもしょうがないので、その背景と、今回の事例を、カントの言葉を添えて報告書に記しておいた。

こういう言い方ひとつにも、実はさりげなく、人間を“モノ”として扱い、そして“モノ”として扱うがゆえに、手段として“利用”してしまう“心根”が出てくるのかかもしれません。いずれにせよ、自分自身もそういうかたちで、知らないうちにやってしまうことがあるので、自戒を込めながら記しておきます。

言葉ひとつといえば、言葉ひとつです。
ただし、どのような言葉を使うのか、何を意味して指示させるのか、慎重にも慎重を重ねる、ないしは時折点検する必要はありそうです。言葉に対する責任とでもいえばいいのでしょうか。

さて……
ナチス・ドイツに抵抗し、亡命生活を余儀なくされたドイツ人のノーベル文学賞作家にトーマス・マン (Paul Thomas Mann,1875-1955)という人物がいます。ヒトラー政権は、マンの著作を焚書に指定し、財産を没収しドイツ国籍を剥奪しましたが、戦争が終わるまで一貫して放送や文書で、第三帝国と闘い続けた人物です。その一連の渦中で、1936年、マンはボン大学(ライン州フリードリヒ・ヴィルヘルム大学)から授与された名誉哲学博士号が剥奪されてしまいます。マンの発言や行動が当時のドイツに徒(あだ)なすものだったからなのでしょう。

そうした異常事態に対して、マンは公開書簡をもって、ファシズムとその走狗と化した体制協力文化(人)を批判し、ナチズムによっていびつなものとされたドイツ的なるものへの訣別宣言をおこないました。

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 言語の神秘は大いなるものであります。言語とその純粋さに対する責任は象徴的精神的性質のものであり、決して単に芸術的な意味を持つのみにとどまらず、広く倫理的な意味を持っております。言語に対する責任とは、責任そのものであり、まさに人間的責任であって、自民族のために、自民族の姿を人類の面前で純粋に保つために責任を負うことであります。そして、このような責任を負うことにおいて、人間的なるものの一体性が、人間の問題の全体性が体験されるのでありますが、この全体性は、精神的芸術的なものを政治的社会的なものから切り離して、後者と絶縁して高貴なる「文化的なもの」の中に引きこもることを許しません。それも今日という時代にはとりわけ許されないのであります。この真の全体性とはすなわち人間性そのものであり、人間的なるものの部分的領域に過ぎない政治とか国家とかを「全体化」しようと企てたりする者は、この真の全体性に違反する罪を犯すことになるでありましょう。
    --トーマス・マン(青木順三訳)「ボン大学との往復書簡」、『講演集 ドイツとドイツ人 他五篇』(岩波文庫、1990年)。

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さすがに、言葉を手足のごとく使いこなす人物です。
言葉に対する責任の把持も深大であります。

「言語とその純粋さに対する責任は象徴的精神的性質のものであり、決して単に芸術的な意味を持つのみにとどまらず、広く倫理的な意味を持っております」

「言語に対する責任とは、責任そのものであり、まさに人間的責任」

言葉に対して倫理的、そして人間的責任を引き受けることができる存在者のみが、部分的領域を全体化しようとする暴挙へ、否の声をあげることができるのかもしれません。人間の全体性を破壊する部分の肥大化へ抵抗しつづけたマンの発言には学ぶべきものが多いです。

人間とは何か……ある意味では定義不可能な全体性かもしれません。

しかし、人間に対して語られるひとつひとつの言葉に対する責任を自覚しながら、生きている人間に迫っていくことで、何か人間を非人間化させようとする蠢動に、責任をもって抵抗できるのかもしれません。しかも、その自覚や抵抗は強制ではなく、自発という形で……。

いよいよ明日……というよりも正確には本日……から勤務先の短大の『哲学入門』の秋学期がはじまります。語る言葉に責任をもって授業に望みたいものです。

授業ができるのは、本当にうれしくもありたのしくもあります。全力で取り組み、学生さんと語り合う中で、哲学することの意味(=この生きている世界のなかで、人間とは何か、世界とは何か、とフト考えてみることの醍醐味)を協同作業で紡ぎ出していこうと思います。

とわいえ、寝る前に、久し振りにスコッチでサクッと一杯やってから寝ます。

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