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見よ! わたしはきみたちに最後の人間を示す

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 わざわいなるかな! 人間がもはや星を産まなくなる時が来る。わざわいなるかな! 自分自身をもはや軽蔑することができない最も軽蔑すべき人間の時が来る。
 見よ! わたしはきみたちに最後の人間を示す。
 「愛とは何か? 創造とは何か? 憧憬とは何か? 星とは何か?」--最後の人間はそのように問うて、まばたきする。
 そのとき、大地は小さくなっていて、その上を、一切のものを小さくする最後の人間が跳(と)びはねる。彼の種族はノミトビヨロイムシのように根絶しがたい。最後の人間は最も長く生きる。
--F.ニーチェ(吉沢伝三郎訳)『ツァラトゥストラ(上) (ニーチェ全集9)』(ちくま学芸文庫、1993年)。

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自分自身が軽蔑できる人間はまだマシなのかもしれない。
なぜなら、最後の人間は自分自身をも軽蔑できないから。
また「まだマシ」という序列もいやなので、最後の人間も人間です。

で……
書く必要がないかもしれないが、忘れてはいけないと思い、残しておきます。

市井の仕事は今日も仕事の量的に過酷な一日でありましたが、終了直前に、大問題が勃発する。
レジにて弁当を購入されたお客様に対して、お箸の要不要をお尋ねするわけです。
ちょうど、中年のサラリーマン風のお客様が弁当をカゴにいれていたので、確認したところ、何も反応がない。
ので--、再度レジ担当者が丁寧に確認したところ、

「要(い)るのに決まってんだろ!ボケ」

となってしまった……こういうのを逆キレというのでしょうか。

担当していたのは、外国からの留学生の女の子で、都内の大学の博士課程に在学している、いわば才女です。日本人よりも日本語がウマく丁寧なのですが、初めてまだ1ヶ月。
対応そのものに関しては、上席のものが素早く対応交替して、少し離れたところで対応しましたが、そうした「最後の人間」との遭遇に彼女は涙を流してしまった。

そして、その激昂ぶりに、売り場全体が氷つき、彼女だけが涙を流すだけでなく、普通に買い物に来ていたお客様や、レジでならんでいたお客様もどん引きする。2人くらい後ろでならんでいたベビーカーの乳児さんは、その怒声に驚き、鳴き始める始末です。

その圧倒的な勢いのため、宇治家参去宛てに呼び出しの内線もかかってこないほど、一方的な状況のようでした。対応終了後、ちょうど、外回りの安全確認からもどってくると、くだんの事件がおわったようで、手短に話を対応者から伺い、お客様に謝罪した。

そのリーマンブラザーズではありませんが、声の大きなサラリーマンの方は、帰りがけに曰く……

「外国人は時給が安いから使っているんだろう、察することができねえんだよ。高貴?な日本人を使えよ」

とおっしゃるので、念のために説明しておいた。

0.ひとまず、大きく謝罪したうえで……
1.弊社においては、ビジネスの世界にナショナルアイデンティティの問題が存在するとは考えておりませんので、国籍人種で給料の差は設けていない点。
2.給料の差は、能力による。
3.彼女はまだ始めたばかりのため粗相とお受けられたのでしょうが、日本語の運用能力に関しては問題が全くないので採用した。
4.で、もう一度謝罪。

5.しかし、お客様のおっしゃる「高貴な日本人」の意味が、無学な自分としては理解不可能なため、是非、丁寧にご教授頂きたいと思います。今後、同じような不始末があると大変ですので、高貴な振る舞いをされたお客様自身からお教え頂けませんか?

6.蛇足ですが、ビジネスの世界に「察する」はなかろうかと思います。

というながれですが、5.と6.は割愛した。
※怖かったので!

とやかくいうつもりも、そのサラリーマンの方を責めるつもりも毛頭無いし、その方を「非人間」であると対象化するつもりも全くありません。そうした生命に内在する獣性は誰にでも内在するから、そんなことは百も承知です。

存在は承知しています。
しかし、その“振る舞い”は承服できません。
泣かせることはないだろうに。
村上春樹さん的に表現すれば、「元気なフェミニストの方からは“マチスモ(machismo;男性優位主義)”と叱られそうですが」、女を泣かす男は最低です。

「最後の人間」の到来を予感する宇治家参去です。

冒頭に、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)の言葉を紹介しましたが、ニーチェの言葉は何とも預言めいた響きをもっております。彼の最大のテーマはなんといっても近代の人間の正確とその運命だと思います。それがニーチェの近代批判になるわけですが。

さて、ニーチェによると、どうやら、近代の人間は星を産まない人間であるらしい。もはや星とは何かがわからなくなっているから星を産まないし、自分の生の力が枯渇しているから産むこともできない。

星を産まない近代の人間は、そうした弱さを曝すこともできない。
曝すこともできないから「自分を軽蔑できない」人間なのです。
自分を軽蔑できる人間は、まだなにかをもっているのでしょうが、「最後の人間」たる近代の人間にはそれもないのでしょう。

近代の問題とは、まさに生の枯渇の問題なのでしょう。あらゆる対象が概念化され、標本のように整理され、規定されるなかで、窒息しはじめる。しかも窒息しはじめたことの自覚がないままに、標本台に並べられていく……。なんとも空恐ろしい光景です。ニーチェは、近代のヒューマニズムは徹底的に批判しましたが、それは近代のヒューマニズムがまさにその生の渇望を正当化するものであったがゆえに、ニーチェにとってそれは、まやかしやまぼろしに過ぎないものと映ったのでしょう。ハイデガーのいうところの「存在の忘却」というやつだと思いますが、ニーチェにしろ、ハイデガーにしろ、やたらにペシニズムを煽ったというよりも、どのように超克していくのか、それが課題だったのだと思います。

近代の問題を、この生きているただなかで、もう一度検討し、新しき人間主義を、実践原理として探求する必要はいやまして大きいと思います。

これから本論やん!という感じですが、今日はほとほと疲れ果てましたので、新商品をゲットしたので、飲みましたが、“軽るすぎる”!

麒麟麦酒の「淡麗 Smooth(スムース)」(@その他の雑酒)ですが、低アルコール(4%)、低炭酸、低発酵……麒麟の「秋味」と対極にある存在です。

もっとパンチのあるやつがよかった。

で……
桂小枝風にいえば、「しかし、まぁ~何ですね~」

考える時間があまりとれないのは現実ですが、世界と人間について、いつもネタと考えるきっかけを絶え間なく与えてくれる今の状況はありがたいと思った方がよいのでしょう。本当にネタ切れになりません。

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人間における理性的存在の本質は最初はある概念--人類--の外延に属していた個人が、その類のなかでは唯一のものとして、それゆえ、他のすべてのものと絶対的に異なるものとしてみずからを措定する能力をも指している。この差異のなかで、個人は単なるものに無-関心-ならざる者と化するのだが、ただしその際、論理的概念が再構築されて、再び自我がそれに捕えられることはない。<<無-関心-ならざること>>、根源的な社会性-善良さ、平和ないし平和への願い、「シャローム」〔平安あれ〕という祝福、出会いという最初の出来事。差異--<<無-差異-ならざること>>--、そこでは、他なるもの--それも絶対的に他なるもの--、こう言ってよければ、「同じ類」--自我はそこからすでに解き放たれた--に属する諸個人相互の他者性より「以上に他なるものであるような」他なるものを私が見つめている。私を「知覚する」ためではない。そうではなく、他なるものは「私と係わり」、「私が責任を負うべき誰かとして私にとって重きをなす」のだ。この意味・方向において、他なるものは私を「見つめる」、それは顔なのである。
    --E.レヴィナス(合田正人訳)「人間の諸権利と他者の諸権利」、『外の主体』(みすず書房、1997年)。

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Book ニーチェ全集〈9〉ツァラトゥストラ 上 (ちくま学芸文庫)

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