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信仰は夫れ自身、社会の各方面に現はれて直にデモクラシーとならざるを得ない

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どうも、宇治家参去です。
年に数回やってしまうのですが、久ぶりにやってしまったです、ハイ。
暑いので仕事へ行く前にシャワーを浴びるのですが、シャンプーで髪を洗うじゃないですか。シャンプーの後は、コンディショナーなんかで整えるわけですが、コンディショナーを馴染ませている間に、宇治家参去は髭を剃ります。

で……。
髭を剃った後、コンディショナーを流すことを忘れ、日常生活へ帰っていきました。
今日は仕事だったので、入浴後、着替えてから髪を整えて、「さあ、出勤するか」とやるわけですが、鏡の前の髪がやけにテラテラしている。

「おおっ! 今日は髪質がよいぞ」

……などと思いつつ、そのままどうやら出勤したようです。

何か頭がごわごわします。なかには固まり始めた“流れ”も……。

「宇治家参去さん、なんか、頭オカシクないですか?」
「いやいや、いつも哲学者の頭はオカシイものですよ」
「それは知っていますが、そういう意味じゃなくて、髪の毛ヘンですよ!」
「マジで?」

事務所前の姿見で確認すると、なにやら実に“ヘン”である。

ここに至って、コンディショナーを流すことを忘れていたことを自覚する。
しょうがないので、上半身裸になって、頭を再度浄める。
「はぁ~気持ちの良いものでござる」

というわけで今日も疲れ切ってしまいましたので、省察は全くできませんが、たまたま、民本主義の主張で大正論壇をリードしたクリスチャン・デモクラットの吉野作造(1878-1933)の文章を読んでいたので一つ紹介します。

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(引用者註……デモクラシーの本質とは何かのという議論に関して、巷には次の意見が主流を占めている。すなわち①「階級的反抗」、②「自由平等の観念」、③「公正の観念」がそれである。そうした見解にも意味はあるけれどもより根源的な本質とは何かといった場合……)
 かくして私一個としては、デモクラシーの本質は人格主義であると云ひたい。人格主義の何たるかはカントの云つた様うな意味に解すべきは云ふを俟(また)たない。之等の点は多くの読書の既に知悉せられる処なりと信ずるが故に詳しくは述べない。

 デモクラシーの本質が人格主義であると云へば、吾々は直にデモクラシーと基督教の密接なる関係を連想せざるを得ない。デモクラシーの依つて立つ処の理論的根拠は何かと云へば人格主義である。従てデモクラシーを徹底的に実現せしめんが為めには、人格主義の理論に密接なる根底を置かなければならぬ。然し乍ら理論の徹底は直に実現の活動力とはならぬ。デモクラシーが徹底的に社会の各方面に実現するが為めには、人格主義が人類の間に生きた信念として働て居ることを必要とする。理論は之よりかゝる信念の活動力を助けるには相違ない。然し活動力の本源は何処までも之を宗教的信仰に求めねばならない。而して人格主義が其信仰の内容として一層著しく活動して居るものは吾が基督教ではないか。吾々は総ての人類を神の子として総ての人類に一個の神聖を認め、固く基督に結んで居る。之れ程確実な人格主義の深淵がまたと世にあらうか。故に基督教の信仰は夫れ自身、社会の各方面に現はれて直にデモクラシーとならざるを得ない訳である。
    --吉野作造「デモクラシーと基督教」、『新人』一九一九年三月。

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 開発経済学を専門とするアジア人として初めてノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン(Amartya Sen,1933-)も常々言っているが、民主主義とは形にあるのではないのかもしれない。こういうとそうした形式には意味がないのかと言われそうだが、それが目的ではない。その形式に至る闘争と成果も非常に重要である。秘密選挙、代議士制度……それがある意味では内実を保障するひとつの形式であることには間違いない。しかし、それはあくまで方法であって目的ではない。であるとするならば、われわれはその内実とは何かを探究し、その多様性の在り方も模索する必要がある。

 吉野の言説には、そこを考えさせてくれる一つのヒントがある。
 吉野も言及している通り、カントの人格主義にあるのは、人間を手段とせず目的とする(目的の王国)ものの見方である。これまでの人類の歴史における惨禍の総ては、人間を手段として認識した点に起因する。だから、人間のためとの主張であったとしても、人間自身を疎外・迫害する歩みとなってしまった。
 だからカントは人間目的論としての人格主義を説いたのである。
そしてそこに注目しながら、自己自身の信仰の立場から、デモクラシーの本質を人格主義に置いて見せたのが吉野作造である。しかしこのことは吉野の信仰、すなわち、キリスト教に限定された問題でもなかろうかとおもう。おおよそ、あらゆる世界宗教と呼ばれる宗教的伝統には、この宗教的伝統が根付いているからだ。どのようなアプローチを取るにせよ、またどのような結果を描いて見せようとも、宗教が個々人に関わるのが救済の問題である。救済の問題とは何か。当人の個別の問題と世界が関わる問題である。そこにおいて、当人の人格を最大限の目的と置くところに救済の物語は成立する。その意味では、人格主義は、乱暴な言い方だが、(それが現実に根付いていようがいまいが関係なく)あらゆる世界宗教の伝統にその徴候や傾向を見て取ること出来る在り方である。

だから、この吉野の文章は、「基督教」を「仏教」に置き換えても、「イスラーム」におきかえても、何等違和感を感じることがない。強弱はさまざまあろうが、宗教が現世に関わらざるをえない部分を絶妙に示した部分と読むことも出来よう。吉野作造は、「自分の信仰を宣教するために発言しているのではない」といつも言っている。しかし、その信仰によって薫発された人間性や他者感覚とは、しらずしらずに出てしまうものなのだ。そしてその自然でよい。「キリスト教のために」ともし吉野作造がやってしまったならば、それで議論が終わってしまうのである。

宗教によって薫陶された人格が、自己の人格だけでなく、他者の人格の向上を目指していく、そしてそうした諸人格のこのましい在り方を真剣に考えていく……おもえばその自然さが美しいものである。

「之れ程確実な人格主義の深淵がまたと世にあらうか。故に基督教の信仰は夫れ自身、社会の各方面に現はれて直にデモクラシーとならざるを得ない訳である。」

自然に動き出そうと思うある日の宇治家参去でした。

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