« Auf Wiedersehen, Monsieur ! | トップページ | お前ら、いいかげんにシオサイ(「潮騒」by三島由紀夫)!! »

現代人の英雄とはリュシフェールの〔悪魔〕ではない、プロメテウスでさえもない。それは人間なのである

01_r0010809

-----

……ロバート・ジョーダン(引用者註……ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る』の登場人物)は橋を爆破させた直後、ファシストの側の防禦線の内側で負傷し、戦友から、まだ愛するマリアからさえ別れねばならなくなる、彼は言う「だめだよ、可愛い子さん、泣くんじゃない。いいか、ぼくらはいまはマドリッドにはいかない。だけど、きみの行くところどこへでもぼくはいっしょに行くよ。わかる?……きみはいま行ってしまう、小山羊さん。だけどぼくはきみといっしょだよ。ぼくらのうちどちらか一人いるかぎり、ぼくらは二人ともいるわけだ。わかるかね?……いまぼくがやることは、これはひとりでやる。きみといっしょではうまくやれないだろうからね。わからないかい、こんなもんなんだよ。残るのが誰であろうと、二人なんだということ」。そして一度だけこう言う、「マリアのことを考えたって仕方ない。彼女に言ったことを自分で信じるようにしてみる。それが最善の策だ。それに事実そうでないと誰に言えよう? おまえにはいえないよ」、まだ生きている人間にとっては、生きている人間としての行為をなし続ける以外の策はない--しかもこれは至上の策なのだ。死ぬのはひとりだが、生きるのは他人と共にであり、われわれとは他人がわれわれについて作りあげるイメージであり、彼らがいるそのところにわれわれもまたいるのである。もう一度、そして最後まで、ロバート・ジョーダンは、自分を他人に結びつけ自分を事物に結びつけるこの運動、あらゆる幸、不幸の条件であるがゆえに批判を超越したこの運動の成行きにまかせる。一人で残されても彼は自殺をしないだろう。「もしお前が待ち受けて、連中をたとえほんのわずかでも引きつけておくなら、あるいは将校をやっつけるなら、それは一切のことを変えるかもしれない、一つのことがうまくなされればそれはもしかしたら……」。英雄に自己犠牲を可能にさせるものは、ニーチェの場合のように死の魅惑でもなければ、ヘーゲルの場合のように歴史が欲することを遂行するという確信でもない。事物と他人の方へわれわれを投げ出す自然の運動への忠実さなのだ。サン=テグジュペリはこう言った。わたしが愛するのは死ではなく、生なのだ、と。
 現代人の英雄は懐疑の人でも、趣味の人でもなく、頽廃の人でもない。ただ彼には、三六年の、スペイン内戦の、四〇年六月の偶然の、混乱の、挫折の経験がある。彼は義務も任務も曖昧な時代にいるのだ。彼は未来の偶然性と人間の自由とを、これまで人びとが感じてきた以上に感じている。よく考えてみると何一つとして確実なものはないのだ。勝利にしてもまだ先の遠いことだし、他人にしてもこれまでにしばしば裏切りを働いてきたのだから。人間は、事物の流れが曲がりくねっていること、大胆さに多くのことが求められていること、自分たちが世界においてひとりきり、お互いにたいしてひとりきりであることを、今日以上によりよく確証したことはなかった。しかしときとして、愛をとおし、行動をとおし、彼らはたがいに一致し、出来事も彼らの意志に答えることがある。ときとして、あおの情熱の燃えがあり、あの閃光、あの勝利の瞬間、あるいはヘミングウェイのマリア流に言うなら、一切のものを消し去るあの栄光の歌(グローリア)がある。
 人間が事物のなかにすっかり出来あがった宿命の素描(デッサン)を見出せると考える信仰の時代の外にあるとき、誰がこれらの問いを避けられ、誰が別の答を与え得るだろうか? いやむしろこう言った方がよいかもしれぬ。幻想をいっさい剥ぎ取られた信仰とは、まさにこうしたこと、すなわち、われわれが自分を他人に現在を過去に合一させつつ、すべてのことが一つの意味を持つようにするときのその運動、世界の混沌とした言説(ディスクール)を明確な言葉(パロール)へとわれわれが完成させるときのその運動なのではあるまいか? キリスト教の聖者にしても、過去の革命の英雄にしても、これと別のことをなしてきたわけではなかった。ただ彼らは、彼らの闘いが天においてあるいは<歴史>のなかで、すでに勝ちを占めていると思おうとつとめていた。現代の人間にはこうした方便はない。現代人の英雄とはリュシフェールの〔悪魔〕ではない、プロメテウスでさえもない。それは人間なのである。
    --M.メルロ=ポンティ(海老坂武訳)「英雄、人間」、滝浦静雄ほか訳『意味と無意味』(みすず書房、1983年)。

-----

ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』やマルローの『人間の条件』、そしてサン=テグジュペリの『戦う操縦士』を材料に、現代における英雄の意味を問うたモーリス・メルロ=ポンティの一節から。

フランスの現代思想家・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty,1908-1961)の考えでは現代においてそれを果たしうる英雄とはまだ人間以外の何者でもない。英雄と聞けば、ひとはすぐさま、歴史上の偉大な人物を想起しがちで、自分自身はとてもとても英雄などではないと連想しがちだが、実はそうではない。歴史に名を残さない“無名の人々”こそ英雄なのであろう。英雄としての「人間」とは誰か。特別な地位ある存在者だけがそれなのではない。

普段、テレビは全く見ません。
種々時前に、ご連絡を頂いていたものですから、「24時間テレビ」のひとつの特集を細君に頼んでビデオに撮ってもらった。それが「遠位型ミオパチー」の話題であり、休みの今日見ることができた。

2週間程前に、TBSのNEWS23でも同上の特集があり見ていたので、概要は理解していたが、人間の生きんとする意志に……通俗的な表現ですが……感動してしまった。
文豪ゲーテと会見した“英雄”ナポレオンは会見後、側近たちに、つぎのように語ったという。すなわち、「ここに人間がいる」と。

ほんものの英雄は、賢明にそして懸命に生きている人間そのものではなかろうか……映像で紹介されていた人間そのものが「英雄」である。ナポレオンなんかに英雄など見出さなくとも、仮託しなくともよいのである。

本物の英雄は、歴史をさがしても実は存在しない。
宿命を使命に転換し、真面目に生きている「人間」そのものが英雄なのである。

さて……その人間ですが、学問の世界で、「人間」を論じることはひとつのタブーである。
何故なら、「人間とは何か」を問うこと自体が、困難であるからだ。生きている人間自身を「これだ!」と規定しまう時点で、生きている人間そのものを概念が「規定」してしまい、生きている人間そのものが「概念」を作り出すという方向にならないからである。

古来より、哲学・神学の世界では、百家争鳴、「人間とは何か」が喧々諤々の議論を展開してきた。その成果は、生きている人間そのものをよりよく生かす方向性を提示することができたこともあったが、それでもなお、それが権威化してしまった途端、生きている人間そのものをよりよく生かすどころか、「概念」が人間を規定してしまうように、生きている人間そのものを疎外するものになった場合がほとんどであった。そうした反省故か、人間を問うことはひとつのタブーとなっている。
19世紀後半以降、社会科学の発展と共に、人間の機能的な側面や社会行動パターンからの類型化からの人間論をめぐるアプローチがそれにとってかわり、人間を論じる議論として台頭してきたが、その成果は成果として認めざるをえないのだけれども、何かもの足らない。

譬えは悪いが、生命倫理の問題としてよく指摘される部分とかさなるわけですが、どこからが生で、どこからが死なのかをめぐる議論に関して、技術的な判定基準は盛んに論じられているけれども、そもそも生とは何か、死とは何かをめぐる深い人間的洞察が欠けているのでは?……と思うような事態が、学問における現代の人間論の不毛さにも感じてしまうのである。

だから、そうした試みを人文諸科学の世界でやってしまうと、それはデータや統計、また科学的な客観性に基づかない独我論とか主観主義との誹りを受けやすく、取り組むひとも少なくなってくるという悪循環となっている。

しかし、宇治家参去としては、その両者が人間にアプローチしていくことが必要なのでは無かろうかと思っている。データとしてのアプローチもいうまでもなく必要だ。そして、古来よりつづく人間的叡智を踏まえながら、生きている人間の現場で、「人間とは何か」を問う人文学的人間論のアプローチも必要である。その両者がほほえましい握手をしたとき、人間論はこの生きている人間世界に彩り豊かなものの見方を提示できるのではなかろうかと思っている。

で……、最初の話に戻ります。
すなわち、「現代人の英雄とはリュシフェールの〔悪魔〕ではない、プロメテウスでさえもない。それは人間なのである」(メルロ=ポンティ)という部分ですが、この「義務も任務も曖昧な時代」である現代においては、まさに、宿命を使命に転換し、真面目に生きている「人間」そのものが英雄なのである。

ひとりひとりの人々が、懸命にその現場で真剣にいきていく……この労苦のなかに時代をかえる大きな契機がつまっている。

かつて、1970年代から90年代にかけて、フランスから来日し、いわゆる3Kと呼ばれる労働環境の中に自ら分けって行って、労苦する中で思索を深めた労働司祭にアンドレ・レノレ氏がいる。ローマ・カトリックというのは実にユニークな共同体だとつねづね思っているのだが、そうした悲惨と貧困の最前線に自ら入っていくという伝統をもっている。

さて、このレノレ氏、川崎の建設現場をかわきりに、以後20年間、労働者たちと同苦しながら、かれらと共闘していく。労災をつくり、組合も結成する。その経験をまとめた書物の中で、「希望はどこに存在するのか」と論じる中で次のように述べている。

すなわち……

-----

 希望はどこにあるのか。それはもうひとつの世界から来るであろう。すなわち、わたしが紹介してきた世界、ノロノロと動いている零細企業の領域、二重構造社会の見捨てられた部分にこそ希望がある。この逆説を見よ。そして、無数にひろがる市民活動が日本をおおうのである。
 なぜなら、底辺にあっても、日本人はエネルギーにあふれ、組織の感覚と集団労働の感覚をそなえ、仕事熱心で、細部への目くばりも忘れず、完璧な仕上がりを求め、学習意欲も旺盛で、先行するものにおいついて、さらに完全なものをめざし、女性は生命力と想像力を発揮しているからである。最大の脅威はここにある。しかも、自由な雰囲気と自立した精神は大企業よりも中小企業にこそ、はるかにたっぷりと存在する。
 わたしたちはときどき大企業に出向いて働くが、そんなとき自由と自立の精神にたって大企業の観察をするような声をしばしば耳にした。たとえば、正社員の連中が体操をやらされていたり、休む間もなく働かされているのを見て、わたしの仲間たちはこんなことを言うのである。
 「かわいそうに。まるで奴隷だね。オレなら、こんなところじゃ二日ともつまい。オレたちはやつらから低く見られているかもしれんが、少なくともオレたちには自由がある。」
 なるほど、この自由はたいていは幻想にすぎまい。しかし、たとえそうであっても、日本の社会に変化をもたらしうるものはここにあると思いたい。じっさい、下層で生きるひとびとのあいだでは、いろんな形の協同がめきめきと育っているのである。老人に介護の手をさしだし、家事を助けあい、勉強が遅れた子どもをはげまし、バカげた学歴競争とは無縁の教育をおこなうための塾を開いたりする光景が、この底辺では見られる。
 大都市の下町には、共同体のような社会が存在し、それが庶民の生活を快適なものにしている。お祭りがあれば、だれでも自由に踊りの輪のなかに入ることができる。初対面の人にも笑顔で声をかけ、いっしょに踊りましょうとさそってくれる。下町では、そんなひとびとに出会えるのである。これはほんとうにうれしい。
 商店街には小さな店が立ちならび、かざりつけをして、人をよびこむ。この通りは庶民が社交する空間でもある。車は進入禁止なので、ひとびとは路上で楽しく立ち話ができる。子どもたちは走りまわり、エプロン姿の母親たちはおしゃべりに夢中だ。商店の人は通りかかる人にいちいち声をかける。商店主たちは結束して、その地区へのスーパー進出を許さない。
 さて、わたしは「インテリジェント・ビル」とよばれる建物の工事現場で働いたことがある。そのどこがインテリジェントなのかといっても、天井裏に高さ一メートル以上の空間があるというだけのこと。もちろん、人間への配慮によって設けられたものではない。天井裏は電気のコードだらけで、それが電子機器につながって、世界中からの回線でどこに一番のもうけ口があるか瞬時に教えるというものである。天井裏ではエアコンのパイプもからみあって走る。このエアコンも人間のためのものではない。その証拠に、夏でも風邪をひくので困るとこぼす人がたくさんいる。日本人があれほど自慢し、詩や歌でも讃える四季の存在が、ここでは消し去られているのである。実用的なインテリジェンスというのは、けっきょく人間の心の世界を崩壊させてしまうだけなのかもしれない。
 人間が、いや世界中の人々が人間らしく生きていけるような道をきりひらくためには、まさしく自由の精神がわきあがってくることに期待するしかない。わたしが描いてきた闘士たちの姿を見ていただければ、まだまだ希望はある、世の中は変わりうる、ということが十分にわかっていただけたであろう。あらゆる人を愛し敬う心をそなえ、経済と政治を変革し、現代における新しいモラルを創造しうる人間、そういう人間はどこにもいるのである。わたしはじっさいにそういう人々と出会い、心を動かされてきた。
    --アンドレ・レノレ(花田正宣・斎藤悦則訳)『出る杭は打たれる フランス人労働司祭の日本人論』(岩波現代文庫、2002年)。

-----

まさに、現代の英雄とは、名も無きひとりひとりの民衆である。そしてあれかこれかの階級対立とか分断した(仮想上の)人間論の対立(やそうした知的議論に惑溺する“知識人”の在り方)をものともせず、まじめに生き、そして「笑顔で声をかけ」あう現実の生活者こそ本物の英雄である。

追伸:ご返信がおそくなりまして申し訳御座いません。「遠位型ミオパチー」のスポット特集のご連絡を頂きました皆様ありがとうございます。この場をかりて深く謝意を申しあげます。細君と二人で、署名簿を刷りだし、できることから始めようということで、近所の方や幼稚園のお母様に署名をお願いし始めました。

できることから動いていけば必ず時代は変革できると実感しながら……。
なんでそんなに脳天気なの?と揶揄されそうですが、私が一番嫌いなのは、「嘲笑」と「諦め」だからです。

-----

英雄に自己犠牲を可能にさせるものは、ニーチェの場合のように死の魅惑でもなければ、ヘーゲルの場合のように歴史が欲することを遂行するという確信でもない。事物と他人の方へわれわれを投げ出す自然の運動への忠実さなのだ。サン=テグジュペリはこう言った。わたしが愛するのは死ではなく、生なのだ、と。

-----

この「生きている人間の世界」って「なんとかなるもんなんですよ」、実に。「忠実に生きていく」ってことをきちんとやるばかりです。

-----

生きている人間としての行為をなし続ける以外の策はない--しかもこれは至上の策なのだ。死ぬのはひとりだが、生きるのは他人と共にであり、われわれとは他人がわれわれについて作りあげるイメージであり、彼らがいるそのところにわれわれもまたいるのである。

-----

とりあえず、今日は『生もと純米酒 初孫』(東北銘醸株式会社/山形)のカップ酒でも呑んで寝ます。言うまでもありませんが、秋空のもとに映し出しただけで、いくら休みとはいえ、昼から呷ってはおりませぬよ。

02_n_and_g 03_poty

Book 意味と無意味

著者:滝浦 静雄,M.メルロ=ポンティ
販売元:みすず書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

出る杭は打たれる―フランス人労働司祭の日本人論 (岩波現代文庫―社会) Book 出る杭は打たれる―フランス人労働司祭の日本人論 (岩波現代文庫―社会)

著者:花田 昌宣,斉藤 悦則,アンドレ・レノレ
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« Auf Wiedersehen, Monsieur ! | トップページ | お前ら、いいかげんにシオサイ(「潮騒」by三島由紀夫)!! »

現代批評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/451663/23446844

この記事へのトラックバック一覧です: 現代人の英雄とはリュシフェールの〔悪魔〕ではない、プロメテウスでさえもない。それは人間なのである:

« Auf Wiedersehen, Monsieur ! | トップページ | お前ら、いいかげんにシオサイ(「潮騒」by三島由紀夫)!! »