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語りの中で、私たちは人間であることを学ぶ

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 私がここで友情という話題を例として取り上げたのは、それがいくつかの理由から人間性の問いに対して極めて重要な意味を持つように思われるからです。この友情というテーマを経由して、再びレッシングに話しを戻しましょう。周知のように古代の人々は、人間の生活に友人ほど欠かせないものはない、更に言えば、友人のない生はそもそも生きるに値しないとさえ思っていました。しかしながら、そこには、不幸の中で友人の助けを必要とするというような発想の出番はほとんどありませんでした。彼らはむしろその逆に、人間にとって、他者、つまり友人が共に喜んでくれない幸福はあり得ない、と確信していたのです。無論、真の友人には不幸の中で初めて出会えるということわざの知恵にも一理があります。しかし、私たちが不幸によって教えられるまでもなく、自然に真の友人とみなす相手というのは、私たちが躊躇なく幸福を見せてやりたいと思う人、この人となら喜びを分かち合えると思える人ではないでしょうか。
 私たちは今日、友情をもっぱら、友人たちが世界とその要求に煩わされることなく、互いに魂を開示し合える親密性(Intimität)の現象と見なすことに慣れています。この見解の最良の代表者はレッシングではなく、ルソーです。この見解は、近代的個人の世界からの疎外(Weltentfremdung)に対応しています。実際、近代的個人は、あらゆる公共性を離れた、親密性の中での顔つき合わせた出会いにおいてしか自己を表明できないのです。そのせいで私たちには、友情の政治的重要さを理解するのが難しくなっているのです。アリストテレスが「フィリア」、つまり市民の間での友情は、健全な共同体の基本的要請の一つであると書いているのを読んだ時、私たちは、彼がもっぱら市の内部の党派闘争とか内戦がない状態について語っていると考えがちです。しかしギリシア人にとって、友情の本質は会話のうちにあるのです。そしてまさに持続的な相互の語り合いを通して、市民はポリスへと統合されると考えられていました。そしてそうした会話の中で、友情とそれに固有な人間性が有する政治的意味が顕在化してくるのです。なぜならそのような会話は(個人が自分自身について語る親密性の会話とは違って)、たとえ友人の現前性に対する喜びにかなり影響されているにせよ、共通の世界に関わっているからです。共通の世界は、人間たちによって持続的に語り続けられない限り、文字通り、“非人間的”なものに留まることになります。世界が“人間的”であるのは、人間によって作り出されたからではありません。また人間の声が鳴り響くことを通して、人間的なものになるわけでもありません。会話の対象になった時に初めて、世界は人間的となるのです。私たちが世界の事物にどれだけ強く影響されたとしても、世界がいかに深く私たちを刺激し、興奮させたとしても、私たちが、私たちの同輩と共に世界について語り合わない限り、世界は私たちにとって人間的なものにならないものです。会話の対象になり得ないものであっても崇高なもの、恐ろしいもの、あるいは不気味なものであるかもしれませんし、人間の声を通して世界の中で起こっていることについて語ることを通して、それを人間化(vermenschlichen)するのであり、またそうした語りの中で、私たちは人間であることを学ぶのです。
 友情の会話の中で現実化するこうした人間性を、ギリシア人たちは「フィラントロピア Philanthropia」、「人間への愛」と名づけました。フィラントロピアは、世界を他の人間たちと分かち合おうとする姿勢を通して明らかになります。その反対項、人間嫌い(Misanthropie)、あるいは、人間への憎しみの本質は、人間嫌いな人が世界を分かち合う相手を見出せないこと、いわば共に世界、自然、コスモスを喜ぶに値すると見なし得る相手を見出せないことにあります。こうしたギリシアのフィラントロピアが、ローマの「フマニタス=人間性 humanitas」に移行するに際して、いくつかの変化がありました。その中で政治的に最も重要なものは、ローマにおいては極めて多様な素性、血統の人々がローマ市民権を獲得し、世界や人生に関する教養あるローマ人たちの会話に参加することができたという事実に対応しています。ローマの「フマニタス」は、近代において「フマニテート=人文教養 Humanität」と呼ばれているものから区別されるのです。近代における「フマニテート」は、しばしば単なる教養幻想しか意味しません。
 人間的なもの(das Humane)が熱狂的ではなく、むしろ冷静でクールであること;人間性が兄弟愛(Brüderlichkeit)ではなく、友情(Freundschaft)において証明されること;友情とは、親密で個人的なものではなく、政治的要求を掲げ、世界に関わり続けるものであること--これら全ては、私たちにはもっぱら古代の特徴に見えるので、『ナタン』という作品の内にこれと極めて似た特徴が見出されることに私たちは混乱してしまうのです。この作品は近代的なものですが、これを友情についての古典的演劇と呼ぶことは不等ではないでしょう。そうした要素の一つとして、作品に奇妙な印象を与えているナタンがテンプル騎士に、そして出会う人全員に対して発している「私たちは友人であるはずです、そうですね」という言葉があります。
 明らかにレッシングにとって、友情は愛の情熱よりもずっと重要であったのです。だからこそ彼は恋愛物語を手短に打ち切って、それを、友情へと義務づけ、愛を不可能にする関係へと変換することができたのです。この作品の劇的緊張はもっぱら、友情及び人間性と真理の間で引き起こされる葛藤にあります。これは近代人であれば違和感を覚えるかもしれない点ですが、そこには、古代に属すると思われる意識や葛藤への独自の近さが認められます。とどのつまり、そして最終的にナタンの知恵はもっぱら、友情のために真理を犠牲にする覚悟のうちにあるのです。
    --ハンナ・アーレント(仲正昌樹訳)『暗い時代の人間性について』(情況出版、2002年)。

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自由な言論が抑圧される「暗い時代」において、人間は孤独なる思考に沈潜し、センチメンタルな同情で身を寄せ合い「小さな物語」へと自閉しがちである。
こうした暗い事態を鋭く追及し、レッシング(Gotthold Ephraim Lessing,1729-1781)の言葉をたよりに、「対話」のなかに、そして対話によって保障される公共空間の可能性の中に「人間性」を見出したのが、女性の哲学者・ハンナ・アーレント(Hannah Arendt,1906-1975)である。

ドイツ系ユダヤ人として出生したため、ナチスによって亡命を余儀なくされる。フランスを経て、アメリカへ亡命した。まさに身をもって“彷徨う”ことのただ中で深く思索を続けた人物である。

しかし、孤独に沈潜し、人々がお互いに自閉していくのは「暗い時代」だけに限られた現象ではないと--傍証をひくまでもなく--そのことを、つくづくと実感しておる宇治家参去です。

さて……
通常、友情というと、アレントが指摘しているとおり、ルソーを本家本元とするつぎのような発想として理解しがちです。すなわち、「友情をもっぱら、友人たちが世界とその要求に煩わされることなく、互いに魂を開示し合える親密性(Intimität)の現象と見なす」友情論がそれです。キーワードは「魂の開示」と「親密性(Intimität)の現象」であり、このことは言うまでもありませんが大切な局面です。ある一面からみればすべてではないにせよ、人間関係の基本的な大切な在り方のひとつと言っても過言ではありません。
しかし、この「魂の開示」と「親密性(Intimität)の現象」には重大な問題も内包しております。すなわちそれが、「公共性を離れた」現象であるという点です。逆説的ですが、「公共性を離れた」が故に、「親密性の中での顔つき合わせた出会い」が可能となり、秘匿的に「自己が表明」できる部分です。

「親密性の中での顔つき合わせた出会い」は確かに大切な局面で、友情関係においては欠かすことが決して出来ないものです。近代以降の友情論の中核がそこにあるといってもよいでしょう。

しかし、友情を広く捉えて見た場合、そうした局面(=秘匿的側面)だけでなく、公共性に関わる部分も存在する、そのことをアーレントは雄弁に語っているように思えます。人間には私的な領域も存在するし、公共的な領域も存在する--だから倫理が問われるわけですが--そうであるとすれば、友情も同じで、私的な領域だけを考察すればよいのではなく、公共的な領域も考察対象としてみていかなければならないのだと思います。

とかく近代以降は、アレントがいうとおり、「近代的個人の世界からの疎外(Weltentfremdung)」という情況が存在したのはじゅうじゅう承知しております。

この疎外という状況は、世界の側から、個々の存在者を疎外してしまうという側面もありましたが、それだけでなく、個々の存在者が世界から“身を引いていった”場合も現実には存在しました。「わたし」ないしは「わたしたち」が、“自発的”に世界とのつながりを断ち、“私秘的な”「小さな物語」への沈潜してしまったという事態がそれです。もちろん、社会や制度が“疎外”してしまったのは歴史を振り返れば理解できるものですが、“自発的”に沈潜していくというのは、この現代に特有な現象かもしれません。

では友情関係と公共性が交差する局面とはどのような状況なのだろうか。
長くなりますが、アレントの言葉に注目してみたいと思います。

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しかしギリシア人にとって、友情の本質は会話のうちにあるのです。そしてまさに持続的な相互の語り合いを通して、市民はポリスへと統合されると考えられていました。そしてそうした会話の中で、友情とそれに固有な人間性が有する政治的意味が顕在化してくるのです。なぜならそのような会話は(個人が自分自身について語る親密性の会話とは違って)、たとえ友人の現前性に対する喜びにかなり影響されているにせよ、共通の世界に関わっているからです。共通の世界は、人間たちによって持続的に語り続けられない限り、文字通り、“非人間的”なものに留まることになります。世界が“人間的”であるのは、人間によって作り出されたからではありません。また人間の声が鳴り響くことを通して、人間的なものになるわけでもありません。会話の対象になった時に初めて、世界は人間的となるのです。私たちが世界の事物にどれだけ強く影響されたとしても、世界がいかに深く私たちを刺激し、興奮させたとしても、私たちが、私たちの同輩と共に世界について語り合わない限り、世界は私たちにとって人間的なものにならないものです。会話の対象になり得ないものであっても崇高なもの、恐ろしいもの、あるいは不気味なものであるかもしれませんし、人間の声を通して世界の中で起こっていることについて語ることを通して、それを人間化(vermenschlichen)するのであり、またそうした語りの中で、私たちは人間であることを学ぶのです。

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「ギリシア人にとって、友情の本質は会話のうちにあるのです。そしてまさに持続的な相互の語り合いを通して、市民はポリスへと統合されると考えられていました」。
アリストテレスはどの著作でもくどいように言っておりますが、人間は生まれ落ちたままでは人間ではない。人間は生まれ落ちた瞬間から「公共性」に関わらざるを得ない--それがアリストテレスの『政治学』の出発点にある部分ですが--その公共性への関わりとは、「会話(ないしは対話)」のうちに存在し、そこにいわば(公共的)友情の本質が存在するのでしょう。

そして、その語り合いを通して、個々の人間は「ポリスへと統合される」すなわち、公共性を自ら創り出していくのでしょう。

ここには、「親密性の現象」としての友情関係における秘匿的な話題はまったく出てこないはずです。しかし人間が世界と関わり、ほかの人間とかかわる重大な在り方があるようです。他者と世界(すなわち共に-存在している-世界)について、言葉を交わすことで人間は公共性を創り出し、そしてそのことによって、世界や共同体、そしてそこに暮らすひとびとをも「人間化」していく。
人間がともに世界を語ることで「人間化」する--面白い発想です。
公共性とはその意味で「人間化」された世界なのでしょう。

だからこそ、「共に-存在している-世界」の住人たちと「持続的に語り続けられない」場合、その世界は「“非人間的”なものに留ま」ってしまうのです。そこには公共性は存在せず、秘匿的な孤立した孤人たちのプライベート・ワールドしか存在しないのでしょう。

日本という精神風土の地盤で、こうした問題を考えた場合、どうしても、「できあがった」頑丈な公共性が厳然と存在し、その一方で、プライベート・ワールドを毀損される個々の存在者という発想が強いと思います。しかしここでの議論は二元論に集約されてしまいがちです。ひとつは、プライベート・ワールドを大切にしよう、公共性はどうでもいいやっていう議論と、プライベート・ワールドの主張が大きくなりすぎると、公共性が喪失されてしまうから、過去の美しい伝統に根ざした、共同体主義でいきましょうや、という議論が対立したままという状況です。どちらの声もその“気分”は分からなくもないのですが、どうも議論が不毛です。

いずれにしても、親密性の現象である友情や個々の存在者のプライベート・ワールドも大切にしなければならないし、しかしそれだけれども、共同存在の側面として、公共という部分も真面目に考えなければならない。であるとすれば、そうした個々の人々が対話というテーブルにつくしかないのですがねえ。

その両者に共通している本質はなんだろうか。それは「人間嫌い(Misanthropie)」なのでしょう。わがままな孤人万歳という人も、共同体最優先で個人は我慢しなさいと訓戒を垂れる人も、「世界を分かち合う相手を見出せないこと」ことでは共通しております。

友情を公共性としても発揮させ、そして秘匿的な部分でも発揮させるひとには「人間への愛」が存在する。だから、プライベートも大切にするのでしょうし、パブリックも大切にする。そこにあるのは、「世界を他の人間たちと分かち合おうとする姿勢」ということでしょうか。

人間的なもの(das Humane)とか友情(Freundschaft)というと魂の熱さとかそういう方面に注目しがちなのですが、それだけでなく、「冷静でクール」なところから、実は温かい世界とか慈愛という部分もうまれてくるのかもしれません。

公共性とは、その意味では、対話という友情によって人間が「世界」を「人間化」し、「共通世界」をつくっていくダイナミックでクールでPOPな運動なのでしょうね。

友と世界について語り合う……引きこもらずに語り合うなかで、「世界」を「人間化」していきたいものです。

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人間の声を通して世界の中で起こっていることについて語ることを通して、それを人間化(vermenschlichen)するのであり、またそうした語りの中で、私たちは人間であることを学ぶのです。

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