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あらゆる理解に本質的に先入見がかかわっている

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 あらゆる理解に本質的に先入見がかかわっていることをこのように承認することによって、解釈学的問題は真に先鋭化される。この洞察を基準にして明らかになるのは、歴史主義はどれほど合理主義や自然法思想に批判的であっても、それ自身、近代啓蒙思想の地盤のうえに立っており、この啓蒙思想の先入見を見抜かないままに共有しているということである。つまり、啓蒙思想の本質を担い規定している、啓蒙思想の先入見というものも、ありそうである。啓蒙思想の根本的な先入見とは、先入見一般に反対し、それによって伝承を無力化する先入見である。
 概念史的な分析によれば、啓蒙思想によってはじめて先入見概念はわれわれになじみの否定的な意味合いをもつものとなった。そもそも先入見(Vorurteil 先行判断)とは、事態を客観的に規定している諸要因すべてを最終的な仕方で検討するまえに下される判断(Urteil)のことである。裁判の審理において先行判断とは、本来の最終判決を下すまえになされる法的な仮決定(Vorentscheidung)のことであった。裁判で争う者にとって、不利な先行判断が下されることは、当然ながら、そのひとが勝つチャンスが薄れることを意味する。だから、フランス語のpréjudiceにしろ、単に損害、不利、損失ということである。とはいえ、この否定性は単に結果的なものにすぎない。否定的な結果が依拠しているのは、まさにその肯定的な妥当性、先行決定の先例的価値である--そしてまた、あらゆる先例がもつ価値である。
 したがって、<先入見>はけっして誤った判断のことではなく、それが肯定的にも否定的にも評価されうることが、その概念のなかに含まれている。そこには明らかにラテン語のpraejudiciumへの依存が生きており、その結果として、この語には否定的なアクセントとならんで肯定的なアクセントをおくことができる。préjugés légitimes(正当な先入見)が存在するのである。このことは今日のわれわれの言語感覚とはだいぶ隔たっている。ドイツ語のVorurteilは--フランス語のpréjugéと同様に、しかしいっそう決定的に--啓蒙思想とその宗教批判によって<根拠のない判断>という意味に限定されてしまったように思われる。根拠づけ、方法的な確証があってはじめて、(事柄を言い当てているそのことではなく)判断に尊厳が与えられる。啓蒙の観点からは、判断にそのような根拠づけが欠けていると、それ以外の確実性のありようは認められないので、その判断は事柄に根ざす根拠をもたない、<根拠がない>、ということになってしまう。これが合理主義の精神に基づく典型的な推論である。先入見一般の信用失墜と、先入見を完全に締め出そうという科学的認識の要求は、この推論に基づいている。
 近代科学は先入見を遮断するというスローガンを選ぶことによって、そもそも疑わしいことはなにひとつ確実だとは認めない、というデカルト的懐疑の原則に、そして、このデカルト的要求を考慮した方法の理念に従っている。
    --ハンス=ゲオルグ・ガダマー(轡田收・牧田悦郎訳)『真理と方法 II 哲学的解釈学の要綱』(法政大学出版局、2008年)。

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すこし仕事でも「アリエナイ」ことがあったり、豪雨もあり、すこしブルーな宇治家参去です。
いわなきゃよい一言を言ってしまったのがよくなかった。
実は、宇治家参去、いわゆる「励まして、ほめて」伸ばすというのが苦手な人物です。どちらかというと、譬えは悪いのですが、「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす」といいますが、そういうタイプですので、叱るというか、イジクルというか、そういう在り方で接してしまう部分が多々あります。
今日も、すこし、下手を打ったバイト君を弄くってしまった。
凹んだようでしたが、結局自分も凹んでしまった。
帰宅してから、年明けぐらいに出そうと思っている解釈学の論文も纏めなければならないので、ガダマー(Hans-Georg Gadamer,1900-2002,※珍しく百歳越えの哲学者!)の独和の文献を読むのですが、頭に入ってこない。同じ所をループしているながれです。お陰で一文に沈潜することはできるわけですが。

さて--

人間は、何らかの対象に向かい合ったとき、その対象に対する先入見を脱却してものごとを「考える」、「理解」する、ないしは「解釈」すべきだと考えがちだが、現実にはそううまくはいかない。このことは経験でよくわかる。

近代西洋の合理主義、啓蒙思想は、人間をタブラ・サラ(tabula rasa)な認識主体だと発想することで、すべてのものごとを経験として吸収できると考えた。
タブラ・サラとは、原義としては、“何も書かれていない書板”を意味する。
まるで、真っ白な黒板なように、生まれたままの人間には何も「書き込まれていない」。生きていく中で人間は経験を重ねていく、そのことで、黒板に文字や図表が記述されていくように知識や概念を理解し、吸収していくのが人間だ--そう人間をとらえたものである。

しかし果たしてそうだろうか--。
たしかに、人間をタブラ・サラなものとして捉えることは、あらゆる先験的な束縛から解放する原動力として機能した。人間は宗教や習俗によって、先験的な規定を受けていない。いわば“前近代的”な「足枷」をはずす人間観としてひとつの偉大な歩みを示したのは歴史の事実である。

しかし、それだけでもなさそうな気がするのも生きている人間の実感ではなかろうか。

最初から、何ものにも左右されない、判断の影響を受けないような人間なんて存在しない--解釈学と向かい合うなかでそのことを常々実感する。ハナから「真っ白な」人間というものはまさに作業仮説上の「人間像」にすぎないのだと思う。

あらゆる先入見を背負いつつ、ものごとと向かい合い、それを解釈し、有意味な解釈が共有されていく(=伝統)になるのが現実であろう。

先入見は、上でも指摘されているとおり、理解や審判を疎外する「否定性」として捉えられガチである。市井の言葉で言うならば、「色眼鏡」ということばそれを象徴的にあらわしている。先入見があるからこそ、対象を正しく認識できないのだ、と。確かにそういう部分は現実には存在する。
実際には「△△だよな」とか「××だよな」という状況ではないにもかかわらず、「○○人って△△だよな」とか「○○教徒ってやっぱ××だよな」的な日常的な発語がそれである。こうした対象を理解する前に下す判断の「否定性」として「先入見」は「色眼鏡」であり、廃棄すべきだという一連の発想がそれである。

しかし、人は「色眼鏡」を外した状況で対象に向かい合うことなどできないのではないだろうか。よくて“外したつもり”で、実は“かけている”--そんなところがリアルなところであろう。そう思います。また言うまでもありませんが、そうした努力は無駄だとか揶揄しようとかそういう発想ではありませんし、先入見万歳、誤った見方で何が悪い!と開き直るのでもありません。ただ自覚だよなっ(ボソッ)ってところです。

外すことは出来ないけれど、確認することはできる。踏まえた上で向かい合うことはできる。だとすれば、自覚した上で、対象と手探りで向かい合いながら、共通了解をつくっていくしかないのではないだろうか。

「<先入見>はけっして誤った判断のことではなく、それが肯定的にも否定的にも評価されうることが、その概念のなかに含まれている」。だから、啓蒙の申し子である現代人からしてみると、ヘンな謂いですが、「préjugés légitimes(正当な先入見)が存在するのである」。だからこそ、そうしたところから、伝統(文化的土壌の共有)とか共通了解といった連帯もでてくるのであろう。

何にも左右されてないことこそが、<根拠のない判断>なのである。
<根拠づけ>の出発点としての先入見と捉えた方が価値的かもしれない。

もちろん、そのことによって、ミスリードしてしまうこともあるし、ラッキーな場合、認識の連帯へと一発で至ることもあろう。その試行錯誤こそむしろ重要であり、ハナからありきでやってしまうと、それが一つのイデオロギーとして機能してしまい、そのことのほうが不毛である場合の法が多いのかも知れない。

根拠をつくるのも、そして根拠をなくすのも人間である。
その存在状況を踏まえるしかない。

決して、理解も解釈も了解も独りよがりなものではない。しかし独りよがりなものでもある。眼鏡を踏まえることが肝要かもしれません。

「あらゆる理解に本質的に先入見がかかわっていることをこのように承認」することが必要だ。そのなかで、極端を排しつつ、理解を組み立て直していくしかないのだろう。

ガダマーという哲学者は、哲学の伝統を内在的に革新させた人物だと宇治家参去は評しているのですが、現代思想家の一部からは、手厳しく批判にさらされている人物です。要は伝統に拘りすぎた恣意的な主観主義者だと。しかし、生きている人間から伝統とか文化的背景とか、出自を切り離して議論することはそもそも不可能だ。その思想の歩みを自身の生涯を通してしめしたのが、ガダマーの人生なのかもしれない。帰属性と理解をガダマーは強調するが、そのことも批判にさらされている。しかしながら、その自覚なしには、自己自身を見つめ直す立脚点はないのだけれども。

不思議なことに、ネスカフェを生涯こよなく愛したそうです。

錯綜してきたので寝ます。

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