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両目を閉じて引き金を引く

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チョイと自戒と反省を込めて書きます。
ナーバスで神経質な文章ですので、スルーしてください。

反省を込めた自分自身の内面との対話です。
存在論的にはあってはならない事態であり、教員・研究者というカテゴリー以前の「人間としてお前はどうよ」って問われる部分ですが、それを平然と平気で時折やってしまいますので、自戒を込めて記録として残しておきます。

ですから、興味のない方はスルーしてください。

では。

ときどきやってしまうのですが、「ひとこと多い」んですよね、宇治家参去の場合。

今日もそうなのですが、市井の仕事先で、バイトくんと終業後、タバコをぷかぷかしながら、らちもない話をしていたわけですが、そこでまた「ひとこと多く」言ってしまい、お互いに居心地の悪い始末となってしまう。

凹むわけです。
これまで何度も繰り返してきては凹んでいますので、凹むほどに更地はのこっていませんが、不思議なことに凹むわけです。

倫理学とか哲学乃至神学は、やはり、言葉に注目しながら、その内在的な意味を現代という世の中で、いわば“解釈”していく部分が主要なフィールドになっています。ですから、核燃料でも扱うが如く、その言葉を扱う上では慎重にも慎重を重ねて扱わなければならないのに、話をするなかでときとしてそのルールを自ら破ってしまうことが多々あります。

映画系の映像エンジニア(?)を目指す学生さんのバイトくんと話をしているなかで……

「おれは自分の作品で勝負するんですよ!」

ここで、すなおに……

「頑張れよ!」

……で止めておけばよいものを、

「でもな……」

「資本の圧力や権力の利益誘導なんかあって、なかなか自分のものを作るのは大変だぞ。何故なら……」
……などとやってしまう。

映像作家の総てがもちろんそうではないし、そんなことは、そういう現場に彼が入っていけば不可避的に気づくことであり、そこからが彼の本当の闘いがはじまるわけなのです。
しかしどうもそういう解説に熱が入ってくると、生来の悪い癖で、「これだけは知っておいてもらわなければならない!」などと妙に“正義感”を感じてしまい「ひとこと余計に言ってしまう」。加えて、その行為に自分自身が“酔う”ことによって、結果としてお互いに傷つけてしまうのである。

夫婦の間でもたまにやってしまいます。

ほんまにこの癖は直さないとマズイです。

ひょっとすると、リアルな世界だけの出来事ではなかったらどうしよう……などと、生来のドストエフスキー(Fyodor Dostoevsky,1821-1881)愛好者は悪いことばかりへ目を向けてしまうのです(※)が、焦燥し、久し振り--でもないですかね--光明の見えぬ奈落のそこです。
※ただし、本論とかけはなれたところでいえば、そういう人間の暗闇性に目を背けず真正面から捉えていくことは必要ですが。

さて、話は戻ります。
こうした学問をやっていると、どうしても所与の前提とか常識と呼ばれるものに対する“疑い”がそもそもの出発点になります。そうすると同時に「では真実とは何か」っていう探求心が旺盛になってきますので、そうした前提を支えている構造を確認するものです。
例えば、目に見えぬ権力構造とか、支配-被支配の構図(※)なんかを確認してしまうと、その問題に関わるひとに、そのことを教えなきゃ!って……嫌悪すべきヘンな啓蒙主義が顔をのぞかせてしまいます。ヘンな啓蒙主義とは、プラトンが『メノン』の中で手厳しく批判したソフィスト流の知っている者と知らない者を分断する二元論、そしてそこでの一方通行な正義の開示というやつです。
一番あってはならない在り方ですが、そんなところを“自然と”やってしまうので、本当にあきれかえるばかりです。
※これまた本論からかけ離れますが、しかしながら、その構図や構造を覚知したとしても、それはそれでまたそれを包摂する構造を形成するひとつのスケープゴートなのかもしれないとすると、自分は真実を語っていないことになりますが。

さて、ここにおいて実は一番やっかいなのが、そのことをお話するなかで--嫌らしい言い方ですが--自分が正義であることを、その行為によって確認しているんですね、自分自身が。
西洋思想を批判的に吸収し、その暴力性を踏まえながら……などと自分自身で謳いながら、それに籠絡されているというオサムイ現状です。
西洋形而上学の暴力性を暴き出したジャック・デリダ(Jacques Derrida,1930-2004)は「形而上学の歴史は絶対的な<自分が話すのを聞きたい>である」というかたちで、自己同一性の暴力を手厳しく指摘しましたが、宇治家参去もまさに「絶対的な<自分が話すのを聞きたい>」のでしょう。単にそのことに酔っているだけなんです。ここには、正義は全く存在しない。正義とは全く異なる、チープな感情として正義に“酔っている”だけですから、結果として、単なる暴力を発動させている……とんでもない情況です。

たしかにある一面では、いいきらなきゃいけないところもある。
しかし、言われなくても、本人があとから気づく問題もそのなかにある。

いいきらなきゃいけないけど、そこで感情としての正義に酔わないようにもしなければならない。感情という裏付けのない正義というのもこれは人間に内在しないから違和感があるけれども、正義を語るという行為のもつ暴力も回避しなければならない。

いつもそうなんです。
そのときは、おお、いい話できた!などと思っても、その直後、なんとなく居心地の悪さを感じてしまうことが縷々あります。

しかし、言うべきこともいわないといけないし、いうと結果として相手が傷ついてしまう。そんな境界線上をいつも彷徨っているのですが、ときおり、ストーンと落っこちて凹み、崖下からまた境界線へはい上がり“立ちすくんで”しまうという永劫回帰を繰り返しております。

あとにもひけないし、まえにもすすめない(進んでないというわけではありませんが)。
たとえ、自分が「一言多く」言ってしまった内容が、(百歩譲って)「いいきらなきゃいけない」必然性と妥当性をもったものであったとしても、その語りが、正義に酔う「一方的な」発言であったり、放言であったり、罵倒であった場合、それが本来正義的なるものであったとしても、正義自体が自壊してしまう契機となってしうのかもしれません。正義とはたしかにプラトンが模索したように、所与のイデアとして存在するのかもしれない(自分としてその発想に極めて違和感がありますが)。しかし、いずれにせよ、その語りが一歩通行になってしまった場合、正義が正義を押し殺してしまうのでしょう。そこには対等な尊敬も敬意もなく、相手に“教える”とか、“諭す”という道学的在り方しか存在せず、分断と対立しか結果として招かないからだ。

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……肝要なのは自分自身に嘘をつかぬことですじゃ。自ら欺き、自らの偽りに耳を傾けるものは、ついには自分の中にも他人の中にも、まことを見分けることが出来ぬようになる、すると、当然の結果として、自分に対しても、他人に対しても尊敬を失うことになる。何者をも尊敬せぬとなると、愛することを忘れてしまう。ところが、愛がないから、自然と気を紛らすために淫らな情慾に溺れて、畜生にも等しい悪行を犯すようになりますじゃ。それもこれもみな他人や自分に対する絶え間のない偽りから起こることですぞ。自ら欺くものは、何より第一番に腹を立てやすい。実際、時としては、腹を立てるのも気持のよいことがある。そうではありませんかな? そういう人はな、誰も自分を馬鹿にした者はない、ただ自分で侮辱を思いついてそれに色どりをしただけなのだ、ということをよく承知しております。一幅の絵に仕上げるため自分で誇張して、僅かな他人の言葉に突っかかり、針ほどのことを棒のように触れ廻る、--それをちゃんと承知しておるくせに、自分からさきになって腹を立てる。こうしてほんとうのかたき同志のような心持になってしまうのじゃ……さあ立ってお坐りなされ、お願いですじゃ。それもやはり偽りの身振りではありませぬか。
    --ドストエーフスキイ(米川正夫訳)『カラマーゾフの兄弟』(岩波文庫、1957年)。

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そうした正義に酔っている自分自身は、ドストエフスキーが描いて見せたフョードルであり、「一幅の絵に仕上げるため自分で誇張して、僅かな他人の言葉に突っかかり、針ほどのことを棒のように触れ廻る、--それをちゃんと承知しておるくせに、自分からさきになって腹を立て」ている状況なのでしょう。
知らず知らずにやるのが怖いのですが、「自分に対しても、他人に対しても尊敬を失うことになる。何者をも尊敬せぬとなると、愛することを忘れてしまう」のである。

いいたいこと・つたえたいことを演説してはならない。
いいたいこと・つたえたいことだからこそ、話し合わなければならないのでしょう。
おたがいのやりとりをしないと、いいたいこと・つたえたいことはつたわらない。
単なる訓戒は、単なる押しつけの暴力である。

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 ザグルーは、いま窓をみつめていた。一台の自動車が、戸口の前を、軽い咀嚼音をたてながらゆっくりと通りすぎていくのが聞えた。ザグルーは身動きもせず、この四月の朝の非人間的な美しさを凝視しているようであった。右のこめかみにピストルの筒先を感じても、かれは目をそむけはしなかった。だが、かれをみつめていたパトリスは、かれの視線が涙でいっぱいになるのを見た。両目を閉じたのはかれのほうだった。かれは一歩うしろにさがり、引き金を引いた。一瞬、壁に寄りかかり、両目は相変わらず閉じたまま、かれは、まだ自分の眼が両耳のところで脈打っているのを感じた。かれは凝視した。顔は左肩の上にのけぞってしまったが、身体はほとんど曲がっていなかった。それゆえザグルーの顔はもはや見えず、見えているのは、ただ、脳漿や、骨や、血がもりあがっている大きな傷痕だけだった。メルソーは慄えだした。
    --カミュ(高畠正明訳)『幸福な死』(新潮文庫、昭和五十一年)。

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つねづね、対話的人間構造の核として、レヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)の顔・眼差し・眼ということを倫理の原初として語っておきながら、このザマではどうしようもありませぬ。

上に引用したのはカミュ(Albert Camus,1913-1960)の小説の一節からです。
主人公メルソーが金持ちの不具者・ザグルーを射殺するシーンですが、メルソーは引き金を引く瞬間に、殺そうとしている相手の顔を見ることができなかった。

しかし、見ることができなかったがゆえに、引き金をひくことができたのである。

「ひとこと多く」真理を語っている、正義を語っている自分自身の声に酔っている状態の宇治家参去とは、実はこのメルソーと同じかも知れません。

眼差しを閉ざし引き金を引くことが、「ひとこと多く」語るありようなのでしょう。

なんとかしないとな。
常々、人間を見よ、と人間を論じておきながら、このザマです。
陥穽の陥穽とはこのことをいうのでしょう。

ほんま、今日の彼だけでなく、これまでに宇治家参去によって数多く撃たれた彼・彼女、すんませんでした。

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