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対象を概念化するパラドクス その<1>

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(一)
従つて汝自身を知るがよい。神の謎を解くなどと思ひあがるな。
人間の正しい研究題目は人間である。
この中間状態という狭い地域に置かれた、
先は見えないながら賢く、荒削りながらも偉大な存在。
懐疑家の側に立つには知識がありすぎ、
禁欲家の誇りを持つには弱すぎ、
中間に逡巡して、挙措進退に自信が持てない。
神にもなれず、獣とも思へず、
精神と肉体との選択もつきかね、
生まれては死に、判断は誤謬ばかり。
乏しい彼の理性では、考への多少を問はず、
無智であることに変りはない。
思想と感情とが混沌として乖離を極め、
いつも自ら欺いたり、悟つたり、
半ばは上を目指し、半ばは下を見、
万物の霊長でありながら、万物の餌食となり、
真理を裁く唯一の存在でありながら、絶えず誤謬に投げこまれる。
まことに世界の壮観で、お笑い草で、おまけに謎でもある!
不思議な生物!ひとつ科学の導くところに上つてみるがよい。
地球をはかり、空をはかり、汐の状態を述べ、
惑星にどの軌道を走るかを教へ、
昔の暦を改めて、太陽を規定してみるがよい。
ひとつ、プラトンとともに最高の淨界に翔けあがり、
真、善、美の世界をつきとめ、
あるひは彼の弟子達が歩んだ迷路を辿つて、
思惟をすてることが、神を模倣することだと言つてみるがよい、
太陽を模倣するためにぐるぐる走り廻つて、
気が変になる東洋の僧侶たちのやうに。
ひとつ「永遠の叡智」に支配の方法を教へてみたらよいだらう--
それから急に我にかへつて、馬鹿になるがよい。
人間よりもすぐれた存在は、つい近ごろ、
一人の人間が自然の法則を解いたのをみて、
地上の者にしては偉い智慧を持つてゐると感心して、
ニュートンを担ぎあげた、我が猿を見世物にするみたいに。
矢のやうな彗星を規律で律する者が、心の動きをただの一つでも捉へて、述べ得るだらうか。
彗星の光がここに起り、彼処に落ちるのを見た者が、
彼自身の始め、終りを説明し得るだらうか。
ああ、なんという不思議なことだ!人間のすぐれた部分は、
自由に起ちあがつて、学芸の峰から峰を踏破するだらうが、
彼の偉大な仕事が漸く緒についたばかりの時に、
理性の織つたものを、感情が破壊してしまふとは!
科学のあとに従ふ時は、謙譲こそよき案内者だ。
まずその豪奢な装飾を剥ぎとり、
虚栄や衣装、学問の贅沢や安逸、
或ひは頭脳の放れ業を衒ふからくりや、
単に物好きな快楽や、手のこんだ苦痛を引去り、
我らの悪徳が学芸にしたてた一切のものから、
全体を抹殺するか、不要な部分を切りとつて、
さてその上で、過去に役だち、将来にも役だつものが、
いかに残り少ないかを見るがよい。
    --ポウプ(上田勤訳)『人間論』(岩波文庫、1950年)。

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最近思うところなのですが、学知は対象を概念化することによって発展してきたことは疑いようのない事実なのですが、対象の概念化とは必然的に分断構造を生み出してしまうというパラドクスを秘めているのでは無かろうか……そう思われて他ならない今日この頃です。

例の困ったチャン再々(?)再度来店され、弁護士に依頼したというのだが、一向に弁護士さん現れず。本人の言説も再三転変する。

人間とは不可思議な生き物です。

ということで(?)、概念化のパラドクスについて、人間主義に即してその問題を何度かにわけて考えてみようと思います。

でわ~

現代思想の中心的なテーマのひとつに人間「中心」主義批判というのがある。
この「中心」という部分の是非はともかくとしても、人間主義に対する「批判」というものに対しては、常識的な発想からすれば「おいおい」ってなってしまう話題であります。まさに「人間を大切にしない」状況が秒単位で世界的にも身近な環境においてでも進行する現在社会ですから、いい歳をした大人が「どうして人間が大切なのだろうか?」などとのたまったりするならば「あのひと大丈夫か」とか「人デナシ」と思われてしまうのが現実だと思います。
哲学とは、どのような命題でも「自明の理」としては受け取らず、たえず根元的に批判する(=疑う)ところにその哲学の哲学たる所以があったわけです(そこが神学と違うところかもしれませんが、両者は相互補完的な関係だとは思っています)。しかしながら、その哲学の世界においてすらも、「人間」の価値を疑うことは伝統的に忌諱されてきたものであります。

そうした忌諱を破るきっかけになったのは何だったのだろうか……。
人間(中心)主義に対する批判は、人間主義の主張がなされたとたんでてきた主張であった古い歴史をもっている。まさに光と闇がひとつものの裏表のように誕生を同じくしている。しかしながら、現在批判されているような文脈での批判は皆無であったといってもよいでしょう。それでは近代・現代における人間(中心)主義の陥穽とは何なのだろうか……。
ネオトミズム(Neo-thomism)の立場から言うならば、それは「無神論」ということになるのでしょうが、近代・現代における人間(中心)主義の問題とは、概括するならば、その問題が「圧倒的な力」をもっているということへの驚嘆なのでしょう。

その分かりやすい事例は、第二次世界大戦の記憶であると思います。
ナチス・ドイツのユダヤ人政策とか、解き放たれた原子の炎がそれだと思います。
前者の場合を注目するとすれば、ナチス・ドイツがユダヤ人問題を「最終解決」するために、六百万もの虐殺をしたことは、世界に衝撃を与えました。
その衝撃とは、センセーショナルな情緒的感情を粉砕するまさに「人間性の限界」という世界の体験だったと思います。虐殺の現場は「人間性の限界」をうち破る体験だったと思いますが、よりおおきな問題なのは、大量虐殺という客観的な事実そのものよりも、それが特定の「人間観」からの導き出された帰結だったという哲学的・思想史的な側面のほうなのではなかろうかと思います。すなわち絵に描いたような“極悪非道な非人間”が暴挙をやったわけではなく、特定の人間観をもとに、普通の人々が、まさにデスクワークをこなすようにその暴挙なるものを遂行したところに衝撃があるのだと思います。

周知の通りナチス・ドイツの「人間観」とは、アーリア人を最も優秀な人種として規定するそれであります。最も優秀な人種であるがゆえに、ゲルマン民族こそ最も「人間らしい」人間なのであり、そうした序列から人間を規定する人間観がそれであります。そして、その序列の最下層に位置するのがいうまでもなくユダヤ人ということであって、ユダヤ人とは「人類に害をなす害虫」として規定され、対象化されていったのがその歩みです。

こうした世界観・人間観に従うと、従ってユダヤ人を駆逐=絶滅することは「人類」の発展、ないしは「人間性(humanity)」の伸展を図ることに他ならないわけであります。ナチス・ドイツはそうした「世界史的使命」を背負い、自ら構築した人間観・世界観に対してきわめて忠実にそれを履行し、「最終計画」を発動したにすぎないという構造です。

その意味では、自らが信じる(ないしは規定する)「人間」なるもの、「人類」なるもの、そして「人間性」なるものの伸展を図るために事象に関わることを「人間「中心」主義(ヒューマニズム)」と呼ぶとすれば、ナチズムも間違いなく「ヒューマニズム」の実践・実験だったと思想史的には規定できる……そうした流れになってしまいます。

もちろん、言うまでもないことなのですが、こうした言い方とか議論の整理をしてしまうと、「人類」なるものの総括的概念に、「人種」理論のような優劣概念を持ち込むのは、議論として「ヒューマニズム」にあたらない、などという素朴な反論が出てくるのも当然です。しかし、すこし冷静になって考えてみると、そうした反論を企てる「ヒューマニスト」=「人道主義者」に共通しているのは、人種のような“特定”の人間に依拠するのではなく、“人類”のような「すべての人間」に依拠する・そしてそれを大切にする思想だという主張である。そのことはよく分かるし、その心根を無下に退けようとも思わない。

しかし……
その場合の、“人類”という言葉に代表される「すべて」というのは、通俗的な議論でつかわれる「すべて」と思われているほど単純な問題ではないのも一面の事実なのではなかろうか。

包摂する概念をもってしても分断が生まれてしまうのが対象の概念化なのかもしれません。それが暴力と呼ばれようとも、消し去ることは不可能です。
だからこそその自覚が必要なのでしょう。

ということで……その<1>終わり。

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