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できるだけ多数が自由でなければならぬ

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 自由の理念から、多数決原理が導き出さるべきものであって--多く起こりがちであるような--平等の理念からではない。人間の意思が相互に平等であるということは、多数決原理の前提とはなりうるだろう。しかし、この平等であるということは単なる比喩であって、人間の意思や人格を有効に測量し、計算しうるということを意味するものではない。多数票が少数票より大きい全重量をもっているという理由で多数決原理を弁護することは不可能であろう。ある者が他の者よりも値打ちがない、という純粋に否定的な推定からは、多数の意思が妥当せねばならぬということをいまだ積極的に推論することができるものではない。もし多数決原理を平等の理念からだけ導き出そうとするならば、それは独裁主義の立場から避難するように、事実上あの純機械的な、しかのみならず無意味な性格をもつことになる。多数者が少数者より強いということは、間に合わせに構成せられた経験上の表現にすぎないであろう。そして「力は正義に勝つ」という格言は、それ自らを法規に高める限りにおいてのみ克服せられるのであろう。ただ--たといすべてでなくとも--できるだけ多数の人間が自由である、すなわちできるだけ少数の人間が、彼らの意思とともに、社会秩序の普遍的意思と矛盾に陥らねばならぬ、という考えだけが、多数決原理への合理的途上に導くものである。その際平等が当然にデモクラシーの基本仮定として前提せられることは、この者とかの者との値打ちが同じだから、この者とかの者とが自由でなければならぬという点にあるのではなく、できるだけ多数が自由でなければならぬ、という点にまさに表明される。そこで国家意思の変更を導き出すために、より少ない他人の個人意思と合致することが必要であればあるほど、個々の意思と国家意思との一致符号はますます容易となる。絶対的多数はここにおいて事実上最高の限界を明示する。国家意思がその創造の瞬間において、より多くの個人意思と一致するようは矛盾する、おいう可能性はより少なくなるであろうし、少数が国家意思を--その変更を妨げることによって--多数に反対して決定しうる可能性は、より多くなるであろう。
 個人が国家的支配より自由になる、という観念から、個人が国家的支配に参与するという観念へと移ってゆく自由概念の転化は、同時に、民主主義の自由主義からの解放を意味する、国家的秩序に服従する者が、この秩序の創造に参与する程度に応じて、デモクラシーの要求が実現せられるとみなされる一方、デモクラシーの理想は、国家的秩序が--これを創造する--個人を把握する範囲から独立する、すなわち、国家秩序が個人の「自由」を侵害する程度から独立するようになる。
    --ケルゼン(西島芳二訳)『デモクラシーの本質と価値』(岩波文庫、1966年)。

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20世紀においてもっとも卓越した法学者の一人にして、法実証主義を厳密に追求したのが、うえに引用したハンス・ケルゼン(Hans Kelsen,1881-1973)であります。国法学に関しては吉野作造とのからみでチラチラと眺める程度なので、法理論としては詳しくは存じません。学部の頃は、一般教養の単位取得の必然性から「憲法」と「政治学」を履修した程度ですから、法学なんかをきちんとやられている方には、以下の議論は〝入門〟以前の稚拙なエッセーと思われてしまいますが、読んでいて実に痛快な一冊でありました。さて、ケルゼンですが、このデモクラシー論はワイマール末期に筆がとられた作品で、ナチス政権後は、ケルゼンは亡命生活を余儀なくされたようであります。

難しいのかなと思いながら、ぱらぱらめくっておりましたが、どうやそれは杞憂のようで、大変読みやすい一冊です。

たしかにいわれればいわれるとおりで、民主主義の多数決原理を考えた場合、どうやら通常その原理を導き出す源泉として、平等の観念から多数決原理の理論を構築しようと思いがちです。宇治家参去もご多分にもれず、そうだよな~と思っておりましたが、実はそうではないようでして……。
多数決原理を平等原理からのみ説明しようとした場合、まさに平等原理の陥穽ともいうべき、多数者の少数者の圧迫という現象を説明できなくなるのですが、平等の観念にも気を配りながら、自由の観念から基礎づけていくという方向をとるならば、議論はすっきりするということに活眼されます。
※蛇足ですが、ここでいわれる自由とは、国家という制度や権力というハードなものに対する「自由」であって、個人主義の主張としての自由とは趣がことなるものなのでしょう。

いうまでもありませんが、ヒトラーも政権奪取に関しては、現実的には強引な手法もありましたが、手続きとしては多数決原理を利用しておりますので、そのことから一慨に多数決原理を否定して、開発独裁のようなかたちのリーダーシップへの転換の主張も、にわかに色めきだつような雰囲気がありますが、決してそうではないということを再確認させて戴きました。思うに暴論かも知れませんが、三権が違いに規制し合うように、本来相容れないフランス革命の理想である「自由」「平等」「博愛」という概念も、同一線上の価値観ではなく、互いに牽制し合う価値観として現実の中で試し合うことで、よりよきあり方というのが構築されていくのかもしれません。

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ただ--たといすべてでなくとも--できるだけ多数の人間が自由である、すなわちできるだけ少数の人間が、彼らの意思とともに、社会秩序の普遍的意思と矛盾に陥らねばならぬ、という考えだけが、多数決原理への合理的途上に導くものである。その際平等が当然にデモクラシーの基本仮定として前提せられることは、この者とかの者との値打ちが同じだから、この者とかの者とが自由でなければならぬという点にあるのではなく、できるだけ多数が自由でなければならぬ、という点にまさに表明される。
    --ケルゼン、前掲書。
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平等の観念とか多数決原理とは、「この者とかの者との値打ちが同じだから、この者とかの者とが自由でなければならぬという点」にあるように推定した場合、数あわせの数の暴力として機能してしまうのでしょう。

そうではなく「できるだけ多数が自由でなければならぬ、という点」を忘れてはいけないのだと思います。

そして、これは制度としての国家やシステムとしての民主主義の問題に限られた事象ではないのだと思います。自分自身の関係する生活圏における生き方の問題とも大きく重なってくる部分が実は大きくあるのでは?……などと思ってみたりもします。

などと優雅に考えたいものですが、市井の仕事は本日もありえない状況で、連続レジ打ち打刻時間の記録更新なるかと思いきや……という状況で、朝礼もできず、指示出しもできず、ようやく抜け出せたところで簡単に指示を出して、一服しながら、ケルゼンのうえのくだりを真読する。

ぷかぷかタバコを吸いながら読んでいると、管理担当の庶務の方から引き継ぎ事項の連絡が。

先だって、物品を預かっていないにも拘わらず、預かっていると強引な申し立てを行いました困ったチャンがまた来店されたとのこと。
※ 先日の「困ったチャン」の話題に関しては以下のURL
http://thomas-aquinas.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-9fe3.html

「おお、本格的に裁判でござんすか?」
と伺うとそうでもないようでした。
先ずは「見ておいてください」とのことで、以下の書類を見せて戴く。

昨日の未明、再度来店し、店長宛ということで……以下の書類を残していったようであります。
①薄汚れ、黄ばんでくしゃくしゃになった弁護士さんの名刺
②1枚の自筆書面(広告の裏面にボールペンにて記載)
 ○○店
 ○○万円にて許す。
 連絡先等。

「なんですか?コレ」
「そのようですよ」
「弁護士事務所からの内容証明とかじゃないんですか?」
「そのようですよ」
「これって、弁護士さんが起票したものじゃないですよね?」
「受けとった担当Mgrから聞くと、目の前で書き始めたそうですよ」
「はあ~」
「いちおう、店長には連動しておりますので」
「で……。この紙に書いてある連絡先ですが、電話番号ヒト桁たりませんよね?」
「そのようですよ」

自由・平等・博愛……もう一度考えてみます。

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