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個体と液体の芋の狭間で悩む平和を説く倫理学者の懊悩

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……われわれは非暴力行動を、戦争からの解放と、愛と正義の解放をもたらす真理と力の世界的勝利に導く、恐れを知らない「武器」と見なさなければならない。
 もしアシジの聖フランシスコや彼のあとに続く人びとを単に平和主義者と呼ぶなら、それは彼らの霊性に対する不当な判断にはならない。なぜなら、平和主義は政治から無為への逃避でもありうるからである。
 フランシスコやガンジーやマーチン・ルーサー・キングの精神に生きる男女は戦争に対する行動的な反対者である。彼らは力を込めて暴力による非道と不正に詰め寄り、創造的に愛、正義、和解と平和のために献身する。彼らはまた、平和と、自由を与える真理と正義を真剣に受け取らず、そういうことのために何の犠牲をも払おうとしない人びとを恥じ入らせる。
 マハトマ・ガンジーのサチャグラハ(Satyagraha 「非暴力」は不完全な訳語)は、解放する真理に対してなされる、愛と正義による徹底的献身である。これは、愛こそは実在の核心であり、神はすべての人を真理に向けて、愛のうちに造り、人びとに真理を愛し認める能力を与えた、という信仰を前提としている。サチャグラハは本質上、創造的である。それは人間の内的な力を動員することができ、その際、何の犠牲をもいとわない。アチァリャ・ヴィノバ・バベ(Acharya Vinoba Bhave)はこれについて、「サチャグラハによる生活とは機会に応じての犠牲のみならず、絶え間なく犠牲の用意ができていること、だが、喜びと献身をも意味するものである」と言っている。キリスト者にとって、平和と正義のための非暴力の行動に対する創造的行動は、世界の救い主に向かう信仰の最も強い表現の一つなのである。この救い主は平和の君であり、彼は人を自由にする愛と真理の力を十字架上での自分の死に至るまで啓示し、しかもなお、自分を十字架に掛けた者たちも救いにあずかることができるということを疑わなかったのだ。
 サチャグラハは人間を「敵・見方」の思考形式からも、恐れと脅威の悪循環からも解放する。この解放する真理と愛の力によって生きる人びとは、自分たちに敵対したり、自分たちが正義のために反対せざるを得ない相手たちを、やっつけてしまおうとはせず、むしろ、心を変えていくことを志すのである。彼らは、反対者たちに、お互い友になれること、平和路線に入ることによって損をするどころか、かえって得をすることを悟らせる。サチャグラハが効果的にゆきわたる所では、すべての人が祝勝の宴会に連なることができる。サチャグラハの団結力のもとに、敵対という死をもたらす方式は破たんし、敵に対する憎悪に燃えて闘う者が打ち勝つとか、はなはだしい格差のある一階級が他の階級を滅ぼして勝利するという考えは、結局空しい妄想として魔力を奪われてしまう。それは、キリストの歴史における、またそれによる政治の大きな変革であり、真新の変容なのである。
 暴力に走る思想、言論、行動からの創造的解放は、すべての人にとって強烈な挑戦である。これは、われわれが自分自身とわれわれの文化をうまずたゆまず、所有欲と支配欲、またそれらと結び付いている快楽から解放することを前提としている。意図的に、暴力による解決、他の人びとの安全に対する身体的・精神的損傷、うそ、ひきょうな沈黙、人間操作を誤謬として排斥する人、「イエズスのように、武器を帯びずして不正に立ち向かう人、ほおを打たれて他の側のほおをも敵に向ける人は、抵抗を働き、解放するのである--その抵抗と解放は具体的・計画的・組織的であり、しかも新しいレベルにおいて行われる」。
    --ベルンハルト・ヘーリング(田渕文男訳)『政治倫理と地上の平和』(中央出版社、昭和61年)。

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そりゃそうなんです。
悪なるものに対峙する善の連帯をちょこちょこ発言しておきながら、そして、講義のなかでも、戦争と平和の問題、そして、暴力と非暴力、生命尊厳を話題にしながら、自分のうちなる悪性の自覚を!などと説きながら、うえに引用した、暴力を巡るカトリック神学の言説にうなづきならが、自分の性を呪うばかりです。

すなわち、昔からそうなのですが、どうも、その暴力の道具を見てしまうと、なにか「かっこええ」などと思ってしまう心根です。

もちろん、戦争に行くのも厭だし、現実の戦争や暴力を肯定することは100%できません。

しかし、しかし、ながら、その「造形美」に感嘆してしまうんですよね。

古い時代からいくと、いわゆる銘刀からはじまり、現代の先端技術でいくと……それは通常兵器という限界における議論ですが……、小火器(Personal Defense Weapon)から航空機や主力戦車、そうしたものに、何か「美」を感じてしまうんです。

現実の戦争を否定し、人間自身に内在する暴力を自覚しながらも、なにか相反する部分が自分のなかにのこってしまう。おそらく宇治家参去ひとりではないと思うのですが、そうした「ひそやかな」光悦があるのではないだろうか……と思ってしまいます。

本日、無駄な出費をしてしまったのは、食玩の戦車(「MOTOR TANK COLLECTION 第2弾 WWIIドイツソビエト編」(エフトイズ)ですが、これがまたよくできているんですよ。
WWII(第二次世界大戦)のロシア戦線ものをモデライズしたやつなんですが、なんとボタン電池で動くわけ御座います。ラインナップは①タイガーI(ドイツ)、②ヤークトパンター(ドイツ)、③T-34/85(ソビエト)で、それぞれ二種類の塗装と、あとひとつシークレットモデルがあるようです。

何が入っているかお楽しみですが、とりあえっず、タイガーIの1944年ラトビア戦線モデルです。

男とは不思議な生きもので、こういうものに目がないんですね(自分だけか?)。

とりあえず、本日、これまた年に一度のお楽しみという本格芋焼酎「赤霧島」(霧島酒造)も、なんとかゲットです(昨年は惜しくも買いそびれ……といいますか近所は凡て売り切れ)。

タイガーIで、限定「赤霧島」を狙い撃ちで御座います。

で……帰宅して驚いたのですが、息子殿が本日幼稚園の芋掘りで入手したサツマイモは、天ぷらにはなっていたのですが、「スイートポテト」にもなっていた!

おそらく、あれは、「となりのトトロ」の造形なのでしょう。

金が無いので、日常生活に注目「せざるを得ない」のですが、すこし工夫するだけで、それなりに、日常生活は彩り豊な世界になるものなんだなあ、と「赤霧島」を飲みながら思っております。

でも、この酒、まるで「芋」で作った「ワイン」のような、甘~い、濃厚な味わいですね。「お一人様一本まで」としないと、流通しない理由がなんとなく理解できます。

とわいえ……最初に戻りますが、どうして、男という生きものは、武器とかに惹かれるのでしょうかねえ……、やはり世界平和は女性が生き生きと活躍するほかないのでしょうか?

平和主義者?としては「悩む」ばかりでございます。

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Book 政治倫理と地上の平和 (キリストの自由)

著者:ベルンハルト ヘーリング
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受信: 2008年10月31日 (金) 11時50分

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