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今日の無知は必ずしも明日の無知ではない

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 私が現下の日本に於て、偏狭なる民間の思想的宣伝が官憲の干渉と迎合して国民の思想的自由を蹂躙する甚だしきものあるを憎むと共に、之に反抗する物が又只単に反抗そのものゝ為に官憲取締の非を唱ふるに止まり、自分自ら亦偏狭なる態度に執して一種の宣伝に浮身をやつすものあるを不快とする。思想自由の積極的意義がもつと国民の間に、はつきりせんことを冀望してやまない。
 さればと云つて私は自由主義い反対するものではない。私も熱心なる自由主義者だ。たゞ私の自由主義は人生に対する無限の信頼から来るのである。
 私は人の性能は無限に発達するものなるを信ずる。今日の無知は必ずしも明日の無知ではない。故に我々は現在の無知に失望することなく、将来啓かるべき聡明に期待する所なければならない。而して彼の性能は本来日に日に発達して熄まざるものなるが故に、我々の最も心して努むべきは、現に正しとする所を操持することよりも、常に正しきを求むる向上的態度を持する事でなければならぬ。斯の如き倫理的態度を社会上政治上の活動に応用すると、民衆は現在の無知を自覚して指導を聡明なる先覚者に托さなければならぬといふことになる、所謂代議制否認論は、民衆が自ら其現状に於て聡明謬る所なしと僭称するに異らない。
 選挙とは将来に期待せらるべき自己の発達せる姿態を他の人格の中に求むることである。他人の人格の内容にヨリよき己れを見出すことである。選挙権が人格の自由といふことに根拠して文化開発の上に一の重大な役目をつとむる所以は、主としてこの為である。
 人性の発達に対する無限の信頼といふことを外にして、自由主義の寄るべき基礎はない。
    --吉野作造「思想は思想を以て」、『古川餘影』川原次吉郎編、1933年。

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ぼちぼち、まとめにはいらなければならないので、改めて吉野作造(1878-1933)の文章をこのところずんやりと読みすすめておりますが、ひどく実感するのは、吉野作造の人間に対する「無限の信頼」ということです。
どのような文献を読んでも吉野作造は、現実の人間に対して温かい眼差しと励ましをわすれることなく言葉を発しており、それが吉野の政治論の底流にも一貫して流れている事に驚きます。

もちろんこの問題は数々の識者の指摘するとおり、吉野作造の信仰(プロテスタンティズム)と密接に関連した問題なのです。しかし吉野の信仰を見てみると、内村鑑三(1861-1930)とか植村正久(1858-1925)といった有名な日本のプロテスタンティズムの信仰とはまた違った側面を見せてくれる部分が多々あります。
内村の場合、高潔な人格と警世家の側面がつよく峻厳なクリスチャニティを見せてくれますし、植村の場合、まったくキリスト教に縁のなかった日本において教会の橋頭堡を守るべく福音主義を説き、神と人間の、ある意味では峻別した断絶を説いた側面を見出すことができるのですが、そうしたキリスト教のあり方とはまた違う側面がそこにあるようです。類型化の誹りを承知でまとめてしまうならば、神から人間に対する救いという問題に関して、内村、植村の場合、その断絶(原罪)を踏まえた上での、それという側面が強く、よって議論として、人間の罪責性が強調されるきらいがあるのですが(しかしながら罪があるからこそ救いの約束もあるわけですが)、そこから現実の人間を相対化し、神の全能性・救いが説かれるというスタイルがあります。

しかし吉野の場合、「絶望-救済」の宗教としてキリスト教というよりも、「救済-改善」の宗教としてキリスト教という側面が強いように思われます。もちろん吉野自身も自己の信仰に関してはまとまった見解をまとめておりませんので、それ以上推し量ることはできませんが、絶望からの救済という方向性よりも、救済の約束のうえに、改善・発展の必然性という方向性の示唆があるようです。そこから憲政論も普通選挙論も説かれており、決してパワーゲームとしての政治学に終始していない点が、吉野作造の吉野作造たる所以では無かろうかと思います。

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兎に角、自分としては基督教によつてすべての人を同胞同類と見るの、気分に深く沁み込まれて居ることを満足に思ふものである。自分は世上多くの問題について慷慨もすれば悲憤もする。けれども結局に於て自分は人類社会の前途に光明を望み、従つてまた常に歓喜の情に溢るゝものである。
    --吉野作造「斯く行ひ斯く考へ斯く信ず」、前掲書。

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盟友・内ヶ崎作三郎(1877-1947)が吉野の葬儀の折り、吉野を評して“無限の親切の人”だったと言っておりますが、現実の人間にも温かい視座を失わず、そしてそこから人類(四海同胞)へと繋がり行こうとした姿には、一種の美しい人間のあり方を学ばせて頂く部分が多々あります。

吉野の議論は、基本的に社会と対決するのではなく、社会との緊張関係に立ち続け発言(=改善)していくスタイルです。そのため結果としては、吉野の政治批判・国家批判は、既存の制度や指導体制に対する直接攻撃にはならなかったし、また、同胞たる日本人への指針としては、善性薫発の勧告という物足りない論調に終わってしまったのも事実ですが、それをもってして、吉野の活動を、大正デモクラシーのあだ花的現象と片づけることは早計でしょう。

人間を手段とせず、目的と捉え、根気強く語り続けた歴史的意義を全否定することはできないと思います。

 こうした吉野のキリスト教信仰を踏まえ、相反する福音主義神学に立つ人間理解と対比しなが、どう位置づけるかは重要な問題なのですが、これについては後日検討していく中で明らかにしたいと思います。

しかし、マア、選挙(制度)の問題も、自由主義の問題も、人性とか、人格の自由によって基礎づけようとする論者は現今においては皆無でしょう。もちろん、現実の政治(学)はパワーゲームという側面はれっきとしてあるのですが、それを浄めるような吉野が取ったような視座が失われてしまうと、単なる数合わせとか、堂々巡りの繰り返しになってしまうのじゃないのかな?なんて思う宇治家参去は古臭い人間なのかも知れません。

昨晩、新しいリキュール?(その他の雑酒)である「ジンジャードラフト<生>」(Asahi)なるものを呑んでみましたが、ちと、ジンジャー臭いです。

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