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「神」も「人間」も死ぬ道理がない

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 自分が神を殺したのだと告示するのは、そうやって自らの言語(ランガージュ)、自らの思考、自らの笑いを既に死んだ神の空間におきつつ、また神を殺し、自らの実存がこの虐殺の自由と決定を包んでいる、そのようなものとして自らを示す、最後の人間なのではあるまいか。こうして、最後の人間は、神の死よりも古いと同時に若いものとなる。彼は神を殺したのだから、自らの有限性の責任をとらねばならぬのは彼自身であろう。しかし、彼が話し思考し実存するのは神の死の中においてであるから、その虐殺そのものも死ぬことを余儀なくされる。新しい神々、同じ神々が、既に未来の大洋をふくらませている。人間は消滅しようとしているのだ。神の死以上に--というよりはむしろ、その死の澪の中でその死との深い相関関係において--ニーチェの思考が告示するもの、それは、その虐殺者の終焉である。
    --M・フーコー(渡辺一民・佐々木明訳)『言葉と物』(新潮社、2000年)。
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神に死を宣告したのがニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)だが、死を宣告した人間の終焉、ないしは神なきあとの自意識のどん詰まりを指摘したのが、フーコー(Michel Foucault,1926-1984)なのでしょう。
神といういわば自己自身を相対化させてくれる姿見を失った言語が、自分の姿を確認するという奇妙で空虚な凍結した時間の停止がそこにある。自意識のどん詰まりがそれである。「神の死」は必然的に「人間の死」をもたらすことなのだと思います。

さて、こうしたフーコーに代表されるフランス現代思想の流行ですが(今は流行っていないのかも?)、確かに西洋形而上学の終焉を宣告する、近代人の自意識のどんづまりを指摘するという部分での受容としては、この国では広く受け入れられているふしはあるのだと思うのですが、その流行の風潮には一種のまやかしを痛感するのも事実であります。このことは本朝の明治以降の学芸の受容の罪責性と深く関わった部分なので、フランス現代思想の受容に限られた現象ではないのですが、とくに西洋モノの人文科学の世界ではどうしてもそういう部分が感じられてほかなりません。もちろん優れた成果や知見もあるのですが、やはりどうしてもごく僅かなように思われます。
それがおそらく中江兆民がとき、福澤諭吉が指摘した「考える」習慣のない知的風土の問題なのでしょう。

で、戻りますが、「神の死」を得意げに吹聴し、物知り顔で「人間の死」を宣告する知的遊戯のあり方には、「神」について、そしてそれを死に至らしめるまでに熟慮した素晴らしくも愚かである「人間」という存在を自ら凝視した経験がかつてあるのかどうか……ということでしょう。

もちろんアカデミズムの作業としては、テクストに対する徹底的な厳正な態度で向き合えばすむ「作業」なのですが、その「作業」に向かい合う人間としての自己自身の真摯な探究が欠落してしまった場合、その作業は工場で生産された規格品しか生み出さないのではないだろうかという思われて他なりません。いうまでもなくナーバスになりすぎて、作業が発狂寸前の絶句状態になるようであれば、本家のニーチェのようになってしまいますので、そうしろというわけではありませんが、なんらかの内的営みを欠如したそれであるならば、「神」を論じていてもそれは作業架設上の「神」であり、「人間」を議論していてもおなじことなのだと思います。

考えたこともない「神」が死ねる道理もなければ、見つめ直したことのない「人間」が消滅する道理はありません。

その死を宣告するよりも、神とは何か、そして人間とは何か、をもう一度真剣に考え直す必要があると思います。

「最後の人間は、神の死よりも古いと同時に若いものとなる。彼は神を殺したのだから、自らの有限性の責任をとらねばならぬのは彼自身であろう」

有限性をどこかで超越性と交差させないかぎり、責任はひきとれないのではなかろうか……などと発想する時点ですでに神学の籠絡に嵌っているのかもしれませんが、ふとぼやきです。

というわけで自分のあたまのなかも有限性のなかでループし始めましたので、すこしタバコを吸ってきます。

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