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「弁護士呼んで、裁判してやる!」

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 ところで、各人は、私が『方法序説』のなかに入れておいた道徳の三規則に関する三つのことがらをただ守りさえすれば、他を待つことなく自らを満足したものにすることができると思われます。
 第一は、生のあらゆる場面で、何をなすべきかあるいはなすべきでないかを知るために、常に自分の精神をできるだけよく使うことです。
 第二は、理性が勧めることを、情念や欲望に妨げられることなく遂行するという固く変わらぬ決心をもつことです。徳とすべきだと思われるのはこの決心の固さです。もっとも徳をそのように説明した人はだれもいないことを承知しています。むしろ、人は徳を多くの種類に分割し、それが及ぶさまざまな対象にしたがって、違った名前を与えたのです。
 第三は、できるかぎり理性にしたがって自分を導きながら、自分の所有していない善はどれも全く自分の力の外にあるものと考え、こうしてそれを決して欲しがらないように習慣づけることです。というのは、欲望、後悔ない悔恨ほど、われわれを満足させないようにし得るものはないからです。しかし、常に理性の教えるところをすべてなすならば、たとえそのあとで、さまざまな出来事がわれわれが誤ることを示していても、悔恨すべきいかなる理由もありません。それはわれわれの欠陥によるのではないからです。そして、たとえばもっと腕や舌がほしいとは思わないが、もっと健康や富が欲しいと思うのは、ただこれらのことは、われわれの行為によって得ることができるかもしれない、あるいはそれはわれわれの本質によるものであって他のものとは違う、と想像するからであります。そうした意見から脱するには、次のように考えればよいのです。すなわち、われわれは常に理性の勧めにしたがってきたのだから、われわれの力のうちにあるものは何も見落とさなかった、そしてまた病気や不運は繁栄や健康に劣らず人間に自然なものである、と。
    --山田弘明訳『デカルト=エリザベト往復書簡』(講談社学術文庫、2001年)。

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 最近よく実感するといいますか、経験するという部分ですが、ほとほと理性を使用しないスチュエーションが多いのではなかろうかというところです、生活の中でですが。

 昨日、市井の仕事で、例の如く、困つたチャンが来店する。
 簡単な経緯を説明すると、前日、買い物中に財布をわすれたことに気が付いて、買い物途中の商品をサービスカウンターへ預けて店を後にしました。その後、サービスカウンターの受付終了時間をすぎてもなかなか戻ってこないので、担当者はリストを出しておいてから商品を戻したようです。それが通常の運用ルールですので。

 で……深夜に来店。商品を取りにもどってきたようなのですが、当初と様子が少しヘン。まず、①買い物途中のはずなのに⇒買い物後預けた、②うちの店で“買った”ものを預けただけでなく、他のお店で買った商品も一緒に預かったもらった……という認識でした。当然、両方どちらの認識に関しても、事実としては誤りがあるので、そのとき応対したものが説明したのですが、逆キレで、「調べておけ」って帰られました。

 翌日、電話があって、夜にもう一度いくから調べておけ……って流れなのですが、預かってないものはないし……という状況です。サービスカウンターには、防犯上監視カメラが俯瞰するように設置されているので、内容を確認したり、保留したレシートの打刻記録で最初に来店された時間を確認したりしましたが、まったく不備無で、まさに「いいがかり」状況です。本部の担当主管部とも連動して検討し、来店を待つ。

 その方……再度来店されましたが、またまた話が変わっていた。①に関しては、買い物途中という正しい認識に訂正、②に関しては、他の店で買った商品から重要な書類に変更されていた。チンプンカンプンです。

 たいせつなものなら、まさに預けないはずですし、防犯カメラの記録からも、何も預かっている状況が確認できている(その話はしませんでしたが)。事実問題としては、まさに何も預かっていない。

 で……3分後、「弁護士呼んで、裁判してやる!」叫んで、退店です。
 どうぞ、弁護士呼んで、裁判してください。
 白黒がはっきりすると思われますので……。

 この方の場合、「弁護士呼んで、裁判してやる」ことが、理性を使用した結果なのだと思いますが、そこへ到るプロセスにおいては一切、理性が使用されていない。

 理性的なシステムによって、非理性的な部分の改善を図ろうとしているのでしょうが、出発点そのものが臆見からスタートしているが故に、根本的に破綻しております。

 近代哲学の出発点は、デカルトの「我思う故に我あり」との宣言に始まる、理性に最大の根拠をおいた哲学の歩みであったといっても過言ではありません。しかし、カントが指摘したように、理性は万能ではないし、有限なあり方であります。しかし、デカルトの発想が、デカルト“主義”になっていくように、理性への信頼が、理性への“信仰”となったとき、ひとつの悲劇的な事態を招来する結果になったと思います。それが、革命と暴力の20世紀の歩みだったのだろうと思います。
 そうした反省を踏まえ、現代の哲学の世界では、理性万能なあり方、理性偏重主義への批判は強まっているが、そこでの批判も理性そのものの全面廃棄を促すそれではありません。理性だけでなく、たとえば、全体との相関関係のなかでものごとを捉え直してみる、また感情の部分にも視線を向けてみる、また動物としての人間という側面にも注目してみよう、様々なアプローチが取られていると思います。

 しかし、ときとして、デカルトがデカルト主義になったように、理性への信頼が理性への信仰となったように、理性批判が理性退治になってしまうような言説も散見できるのがすこしさびしいところです。

 思想史のながれとしては、デカルト以降、理性偏重になったという部分は厳然として存在しますが、では自分自身の実生活のなかにおいて、どれほど、理性を使っているのかと考え直してみた場合、理性“偏重”とか理性“第一主義”とか理性への“信仰”と批判されるほど使っているのだろうかという部分が現実ではないでしょうか。

 人間は理性的な生ものなのに、どうして~っていうぼやきがよく聴かれますが、理性的というほど、理性をしようしていないので、そういう事態が招来されるのでしょう。

 そもそも人間は理性的な動物なのしょうが、それだけでもありません。動物のような部分もあれば、動物以下の部分もある。そして感情的な部分もあれば、理性的な部分もある。しかし、この理性的な部分というのは、ある程度“意識的”に使用していかないかぎり、自分の手や足のようにパッパッとは動いてくれないのかも知れません。

うえの引用は、近代を代表する哲学者・ルネ.デカルト(R.Descartes,1596-1650)とボヘミア王女エリザベト(La Princesse Elisabeth,1618-1680)との往復書簡の一節から。

1.常に自分の精神をできるだけよく使うこと
2.固く変わらぬ決心をもつこと(徳とすべきだと思われるのはこの決心の固さ)
このふたつを心がけながら、「すなわち、われわれは常に理性の勧めにしたがってきたのだから、われわれの力のうちにあるものは何も見落とさなかった、そしてまた病気や不運は繁栄や健康に劣らず人間に自然なものである」として、理不尽さや不運、病気を乗り越える、不屈のしなやかさをもあちあわせたいものです。

そうでないと、「弁護士呼んで、裁判してやる!」ってなっちゃいますから……。

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