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【覚え書】西田幾多郎「自覚について」

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自覚の問題をひもとくために、西田の文章を読んでおりますが、晩年の西田の文章は、比較的表現としては『善の研究』時代なんかと比べると、平易になってきているなと思う反面、内実は深化し難解の度合いを深めております。

すこし自分に対する覚え書として、残しておきます。

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 デカルトは天も地も精神も物体も何物もないと考えて見た。それでは私というものもないのであろうか。しかしこういうように考えるならば、この考える私というものがなければならない。何者かが私を欺くのであっても、欺かれる私がなければならない。如何に欺くとしても、私が或ものであると私が考えるかぎり、私を無とすることはできない。彼は色々に考えた結果、「私がある、私が存在する」sum,existoという命題は、「それを何時(いつ)言っても、何時考えても」(quoties a me profertur,vel mente concipitur)必然的に真でえあるという結論に到達した。これが彼の有名なコギト・エルゴ・スムである。これを疑わんとしても、疑うのが自己である。知るものと知られるものと一である。直証的である。
 右の如く、我々が自己があると考えねばならない、我々の自覚の形式とは如何なるものであるか。物があるということは、それについて主語的に多くのことがいわれることでなければならない。多が一であるということである。主語となって述語とならないものが実体と考えられた。多が一であるというには、いろいろの形式があるであろう。例えばいろいろの性質が一つの物の性質であるとか、種々の変化が一つの物の変化であるとかいう如きである。しかしかかる形式を以てしては、自己が自己を考えるということができない。性質は物となることはできない、働きの結果は働くものとなることはできない。物と性質との関係においては、多が一に結合せられる、一が多くの結合天となる。物と働きとの関係においては、働きは何時も時の形式において考えられる如く、一々の働きが独立性を有(も)っている、多が独立性を有っている。一々の瞬間が独立的でありながら、一つの時の瞬間が独立性を失えば、もはや時ではなくなる。しかしかかる時の形式を以てしても、自己が自己を考えるということは成立せない。考えられたものが考えるものとなることはできない、過去が未来となることはできない。自己が自己自身を考える、考えるものと考えられるものとが一であるという自覚の形式においては、考えられるものと考えるものとが、何処(どこ)までも対立せなければならない、同列的でなければならない。時の形式によっていえば、一々の瞬間が何処までも独立的でなければならない。絶対の非連続の連続でなければならない。故にそれはもはやいわゆる時の形式というものではない、一面に何処までも空間的でなければならない。私はこれを絶対現在の自己限定の形式という。多と一との相互関係において、個物的多の一々が何処までも独立的でなければならない、個物的でなければならない。自覚の形式においては、一々の点が基体的でなければならない、否何処までも働くものでなければならない。しかもこれに反し、全体的一の方向においては、何処までも一が一である、単なる多は何物でもない。我々は如何にしても自己というものがあると考えざるを得ない、これを疑うならば、疑うものが自己であるという意味において、自己があるということは、右の如き多と一との関係においてでなければならない、即ち多と一との矛盾的自己同一の形式においてでなければならない。
    --西田幾多郎「自覚について」、(上田閑照編)『西田幾多郎哲学論集III 自覚について他四篇』(岩波文庫、1989年)。

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