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喜劇的なものは悲劇的なもの

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 他人へと接近しつつ、<自我>の帝国主義たる存在への固執のエゴイズムを破る限りで、<自己>は存在のうちに意味を導入する。存在によって測ることのできない意味が存在内に存在することはありえない。それゆえ、<自我>がその実存およびその運命に対して抱こうとするどんな気遣いも、死ぬということによって無意味でばかげたものたらしめられる。この気遣いは出口なき世界での逃走でしかなく、かかる逃走はつねに滑稽なものである。必ずや破壊される実存に対して存在が抱く気遣い以上に喜劇的なものはおそらく何もない。たとえばトルストイのある短篇においては、丈夫で長持ちする長靴を注文した者が、長靴を注文したその夜に死んでしまう。何らかの行動をおこすために星々に問いかけ、星々から決定的な採決を聞こうとすることも、たしかにこれと同じくらいばかげている。けれども、こうした例を通じて理解されるのは、喜劇的なものは悲劇的なものでもあり、同じ一人の人間が悲劇の登場人物でもあれば喜劇の登場人物でもあるということ、これである。
    --E.レヴィナス(合田正人訳)『存在の彼方へ』(講談社学術文庫、1999年)。

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思った通り進まないのが人生でありますが、日々の生活そのものもまた思った通りいかないのが現実かもしれません。レヴィナスのいう「トルストイのある短篇」とは「人は何で生きるか」で描かれる地上に落ちた天使のエピソードで、金持ちの男は丈夫で長持ちする長靴を注文したが、手に取る前に死んでしまう。

まさに「喜劇的なものは悲劇的なものでもあり、同じ一人の人間が悲劇の登場人物でもあれば喜劇の登場人物でもあるということ」は日常生活でも散見されることで、決して特異な例外的な事象ではないのかもしれません。ひとはそのことにただ気がついていないだけでしょう。

他者と向かい合うなかで、自分の生存そのものが無意味であるという了解をどこかにもっていない限り、<自己>はその存在のなかに本当の意味を持つことは不可能なのでしょう。
今日は、息子さんの幼稚園の運動会。
昨日もがつんと飲んで睡眠不足でしたが、朝早くから場所とり。
昨年より10分早く向かったので、今年は比較的良好な位置をゲットする。
ただし、午前中は断続的な雨降りで、競技が思うように運ばれない。
早めの昼食を挟んで、午後から天候が回復し、園児たちも父母もご満悦のようでした。
自分としては疲れ果てるのみでございましたが。

さて、仕事が山積し、なかなか処理できる時間がないので、合間を見て、仕事に手を入れていると細君からにらまれる。

こちらは夜も仕事で、種々締め切りまで時間がないのですが……。

そこで、「運動会」なるものについて説明する。

「運動会とはだな、近代の国民国家(Nation-State)が、その擬似的な国民意識を持たせる祝祭空間として機能しているんだぞ。国民意識以前のパトリオティズムを中心とする諸々の郷土への感情が、国民国家を中心とする価値観へ収斂されていくのに大いにその力を発揮した。心と体が、愛郷心から愛国心へ転換されていく馴育の場なんだ」

「だから?」

「疲れた」

世のお父さん、お母さん方は、偉大だと思います。

自分にはそのまねがなかなかできませんでございます。

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