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対象を概念化するパラドクス その<3>

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 人間性の中には、二つの原理が支配する。
 自愛は促し、理性は抑へる。
 一は善で、他は悪だと我らは言はない。
 それぞれに或は動かし、或は治める目的がある。
 寧ろその正しい働きにすべての善を、正しくない働きにすべての悪を帰さう。
 運動の発条(ばね)である自愛は魂を動かし、
 理性の調節器はすべてを律する。
 自愛がなければ人間に行動が伴はず、
 理性がなければ動いても目的を達しない。
 草木みたいに一定の場所に釘づけになつて、
 養分を吸ひ、繁殖し、腐つてしまふか、
 流星みたいに空間をでたらめに燃えて、
 他のものを滅ぼすばかりか、自分までも滅ぼしてしまふ。
 動く原理は最も力を必要とする。
 その仕事は活発で、促し、かりたて、勢づける。
 比較の原理は静かに、落着いて、
 抑制し、熟慮し、忠告するのが役目だ。
 自愛はその対象が身近かにあるからさらに強く、
 理性の対象は遠く離れて、見透かせるだけだ。
 自愛は現在の意識で当面の利益を見、
 理性は未来と結果とを考へる。
 誘惑は論証よりも隙間なく殺到するから、
 理性が警戒の眼を光らせても、自愛の強さに及ばない。
 その強いものの働きを抑へるために、
 常にかへりみれば習慣となり、経験となつて、
 ともに理性を強め、自愛を抑へる。
 これらの友達同士を啀み合せたいなら、
 難しい理屈の好きなスコラ哲学者がよい先生だ。
 結びつけるよりも、引離すのに大骨を折り、
 恩寵と美徳、感覚と理性の仲をひきさいて、
 恐いもの知らずの才智の妙をつくしてゐる。
 智慧者たちは馬鹿みたいに名目論をやるが、
 まるで意味がないか、同じことを争つてゐる場合が多いのだ。
 自愛も理性も目指す目的は同じことで、
 苦痛を嫌ひ、快楽を望む。
 自愛は貪欲で、目的の骨までしゃぶるが、
 理性は蜜を吸つて、花を傷つけない。
 快楽は正しくも悪くもその解釈次第で、
 我らの最大の悪とも、最大の善ともなる。
    --ポウプ(上田勤訳)『人間論』(岩波文庫、1950年)。

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市井の仕事と学問の仕事(というよりも学問は仕事というよりも自分自身にとっては、それこそが存在根拠なわけですが)の往還関係は確かに、学問が市井の仕事に示唆を与え、市井の仕事が学問を深化させるひとつの契機にはなっているのですが、その関係のみに終始してしまうと、ほとほと息が切れてくるので、そういうときは、青いものでも買ってみます。

盆栽ですが、今日は「ツルウメモドキ」を購入する。
盆栽という世界は、確かに箱庭世界です。
しかしながら、箱庭という限定された有限環境をうち破る宇宙への直結とでも申せばよいのでしょうか……そうした超越的内在を見せてくれる側面があります。

現実の生活は確かに、どこにも逃げ場のないいわば内在一元論なのですが、生活のなかで、家に例えるならば、1階建ての平屋ではなく、2階やロフトがあったり、はたまた地下室や離れがあったりするような、どこか内在を批判する契機を有限世界のなかに見出しておくと、それなりに、どうしようもないような現実を“あきらめる”のではなく、ふと、冷静に見つめ直し、「さあ、もう一度取り組んでいこう」という気概を起こさせてくれるのではないだろうか……などと思う宇治家参去です。

……といわけでその<3>。

その<2>では、極論するならば、あらゆる人道的「関わり」には、決して(価値)中立的な立場などなく、何かに「関わる」ということ自体が、何かの「決断」になってしまうことであり、不可避的に排除のジレンマを避けては通れないという状況を見てきたと思います。

正義の主張とは、裏を返すならば、正義に適っていない側を必然的に「生み出してしまう」ことであり、すなわち「悪」の側に対する排除等の関わりを必然的にもたらしてしまうのものであるのかもしれません。

その意味では、イラクやアフガニスタンに「正義」と「民主主義」をもたらすというブッシュ大統領の決断は、何もブッシュさんだけの専売特許ではなく、自分自身の日常生活のなかにおいても、善悪の分断およびとか、なんらかの不可避的な決断という形で、避けて通れないジレンマとなって現れてくる現象なのだと思います。
※ただし、避けて通れないジレンマだからこそ、それは中立的な神の視座だとか、高見の立場からの善とか悪の措定ではない、まさに人間の「決断」ということになるのだと思います(しかしそれはガチガチのなんでも自己決定という決断とはレベルが違うのかも知れません)。ですので、ひとはなんらかのアクションを起こす際、その関わり方・選択とは、それが自己自身の「決断」であって、プラトンが考えたような形で、どこか別の世界に、善なるものが存在して、その範型をながめながら、善なるものをやってしまおうとする発想ではないのだと思います。イデア論的に発想してしまうと、イデア論で示された善とか悪とはまた一種違うものに現実態はなってしまうのではなかろうかと思います。だからこそ、一見すると逆説的ですが、たえず「人間とは何か」「善とは何か」「悪とは何か」という不断の永遠の探求を欠いてしまった場合、それはどのような心根であったとしても、排除の暴力と化するのでしょう。

さて、今日は<善い>と<悪しき>の対峙を確認してみようかと思います。

周知の通り「人間」の「本性」などといった「本来あるべき姿」というものを最初に設定してしまう考え方は、必然的に「本来あるべき姿」から逸脱してしまう対象を一方に措定することになります。これまで、そうした立場から、「現実に」大きく逸脱「している」対象に対して制裁を加える、そうした現象を退治することが、人間「全体」の幸福に資すると信じられていた部分は歴史的にはあったと思います。そして今なお顕著にその傾向は存在すると思います。
たしかに現実世界を振り返ってみるならば、まさに人間自身が自ら「人間」という概念を踏み出していくような現象とか問題に、めまいすら覚えることに事欠かないのが今の世界だと思います。だからこそ、その意味では、そうした人間主義の原則(人間なるものを非人間化させる現象とか対象)に対して、戦う・ないしは制裁を加えることは、人間自身のためにと思ってみるならば、ある程度「シカタガナイ」などと思ってしまう部分も現実にはあります。それが実際の現実感覚だろうと思います。

まさに、目の前で、誘拐されそうになっている幼児・そして幼児を無理矢理つれさろうとしている人間を見た場合、(何かアクションを起こすかどうかという議論は横に置いておいたとしても)「それ違うんじゃねえの?」とか思うのが現実感覚だと思います。またテレビをつけて流れるニュースを見ながら、民族とか人種、その信仰ゆえに、それを排除しようとして物理的強制力を発動させようとしているような報道なんかをみても、それは「人道」に反するのではなかろうか……無性にそう思うことがあるかと思います。

そうした現実の状況をふまえてみるならば、宇治家参去自身も「日常的な感覚」としては、それがたとえ「百点満点」の悪なるものを排除する構造・義挙であった場合なんかには、ある程度はそういうものだろう・そう「せざる得ない」ものなのではないかと感じます。しかしだからといって、盲目的に人間主義のもつ不可避的な排除の構造を是認することも一方ではできません。

では、そうした発想の負の側面をふまえ、それを条件付きで認めるとしても、では、その「守るべき」「人類」なるものの「全体」の「幸福」とは何かという疑問も浮かんできてしまいます。

「人間」の「人間らしさ」とは何なのだろうか。
それがすべての人にとって明らかであるとすれば、それを害するものは、まさに「害虫」であり、人類という共同体とか、日本的にいうならば「世間」から抹殺されてたりしてしかるべきであると、ほとんどのひとは思ってしまうのでしょうが、その「人間」の「人間らしさ」を決めるというのが実は大問題であって、それを無理に決めようとすると、ナチスの人間主義といった極端な事例を生み出してしまうのでしょう。

どのような主義主張であれ、人間らしさを現実には固定化させて発想すること自体に無理があるのかも知れません。所与の真理として「人間らしさ」を決定した途端に、それは排除の構造となってしまう。現代思想(特にデリダ)の指摘するところの「二項対立」という事態であり、デリダはそれを「脱構築」しようと考えた。なんで脱構築する必要があるのか。それは、排除の悪循環は一度きりではなく、概念化・対象化した時点ですでに、そこからあふれだしてしまう存在を永遠に生み出してしまうからである。

しかし、結局の所、対象が何であれ(それが例えヒトラーであれスターリンであれ、凶悪犯罪者であれ)、二項対立をひとは避けては通れない、そこの事実は厳然として踏まえる必要があると思います。そのうえで、どう動くか……ということですが、先走れば、やはり固定化をさけながら、その概念化・対象化を不断にまさに「脱構築」していくしかないのだろうかとはおぼろげながら思います。

それがいわばアウシュヴィッツ後の人間に課せられた使命なのでしょう。

善にせよ、悪にせよ、荷担する痛みと責任の自覚がないかぎり、それは対象化された概念の遊戯にほかならないのかもしれません。

……ということで、<2>の再論のようになりましたが、燃料切れなので、そのうちのその<4>へ続くということで、お休みなさい。

A23

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