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必要なのは「或る程度の軽薄」さ

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 或る深さを持つ人間にとっては、人生に堪えるのには、一般に一つの可能性しかない。即ち、或る程度の軽薄ということである。もし対立して調和し難い衝動、義務、努力、憧憬、それら一切を深く考え抜いたとしたら、また、これらの本性と彼の本性とが真に要求するままに、底の底まで絶対的に感じて行ったとしたら--彼は飛散し、狂気に陥り、生命を捨てざるを得ないからである。或る深さの限界を超えると、存在と意欲と当為との線が強く烈しく衝突して、私たちを引き裂かずにはいないであろう。これらの線を限界の下まで来ないようにしておきさえすれば、生命は可能な程度に、これらを引き離しておくことが出来る。これは、一元論的オプティミズムの説く、対立物の調和に到達するには何処までも深く対立物を追求して行けばよい、というのと正反対である。それとも、この見方は、対立物の内容的な客観的な意味では正しいが、その主観的に体験された意味にとっては話が別だというのか。
    --ジンメル(清水幾太郎訳)『愛の断想・日々の断想』(岩波文庫、1980年)。

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今でこそ「社会学」は市民権を得て、既存の学問体系の一翼を担う学として成立しておりますが、黎明期であった19世紀後半から20世紀初頭のアカデミズムの世界において、「社会学」なる学問は、やはり怪しい学問--社会という言葉の響きから社会主義と関連づけて論じられて眺められてしまう--と見受けられていたようで、先人たちはとかく苦労したようです。

うえの言葉を綴ったゲオルク・ジンメル(Georg Simmel,1858-1918)もそのひとりで、学位をとってからもなかなか私講師以上のポストに恵まれず、亡くなる4年前にして、ようやくストラスブール大学教授の地位を得たそうです。キリスト教徒でしたがユダヤ人であったことが影響したのかも知れません。現在では形式社会学の祖にして、生の哲学者として揺るぎない評価を得ておりますが、当時の葛藤は強烈なものがあったのだろうと察せられます。ただ、彼の厳しく澄んだ言葉を読んでおりますと、眉間にしわを寄せるような悲壮感は漂っておらず、むしろ鮮烈にさっぱりした楽観主義的なものを感じ取ってしまいます。

考えすぎて負のスパイラルに陥こんでしまうと、「飛散し、狂気に陥り、生命を捨てざるを得ない」。もちろんどこかで考える・悩む部分は必要なのですが、堪えられる範囲での熟慮をこえた場合、当人の破滅を招く事例には事欠かないのは事実です。

だからこそ「或る深さを持つ人間にとっては、人生に堪えるのには、一般に一つの可能性しかない。即ち、或る程度の軽薄ということである」ことが必要なのでしょう。

それは、「対立物の調和に到達するには何処までも深く対立物を追求して行けばよい」とする根拠のない「一元論的オプティミズム」の対極にある「多元論的オプティミズム」なのだと思います。

週末、子供の幼稚園の運動会、そして勤務校の大学祭と行事が続くため、数ヶ月まえから市井の職場で休みをとり、前後に振替出勤を組んでいたのですが、自分が出勤しないと、土曜日だけはどうしてもまわらないとか……。

「運動会とバッティングで申し訳ないんだけどサ、済んでからでいいから出てくんねえか」

運動会そのものに関しては、現実には「疲れる」ので“嬉しく”はないのですが、疲れたあと、そのまま、過酷な市井の職場へ出勤するのもタマリマセン。

とわいえ、出ないとまずいのでひとまず了承する。

了承できるということは、ある意味で、まだ「堪えられない」ほどの状況になっていないということでしょう。むしろ、その状況をある意味で「楽しんでいる」のかもしれません。

状況に引くのではなく、生命に対する“素敵”な“刺激”として“楽しんで”いこうかと思います。

ホンマ、誰も休ませてくれないですね。

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著者:清水 幾太郎,ジンメル
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