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対象を概念化するパラドクス その<2>

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 人間の生活や風習について、例へば(わがベイコン卿の言葉を借りるならば)人々の関心や胸そこに深く訴へるやうな文章をものさうと思ひたつて、私はまづ人間を抽象的に、彼の性質、状態について考察することから始めるのを最も適当だと考へた。蓋し道徳的な義務を明らかにし、道徳的な教訓を説き、なににもせよ一個の被造物の完全、不完全を検討するためには、それがいかなる状態との関係の中に置かれ、それが存在する本来の目的は何であるかを知ることが、第一に必要であるからである。
 人間性に関する学問は、他のすべての学問がさうであるやうに、明白な少数の点に帰着する。確実な真理はこの世界にそれほど数多いものではない。従つて精神を分析する場合には、肉体を分析する場合と同じやうに、大きな、開かれた、知覚し得る部分に注意をあつめる方が、あまりにも繊細な神経や管を研究するよりも、人間にとつて利するところが多いやうである。蓋し神経や管の構造、用途は常に我々の観察を逃れやすいからである。然るに世上の論議は専らこの最後の問題に集中されてゐるために、大層な言ひ方かも知れないが、折角の論議も人間の才能を磨くよりは、人間同志を感情的に対立させ、道徳に関する理論の進歩を促すよりも、むしろその実践を鈍らせてゐるやうである。私自身の口から言ふのも妙なものであるが、もし私の論文になにがしかの長所があるとすれば、それは一見対立する極端な学説の中間に棹さし、意味の補足に苦しむ言葉を避け、穏便にして矛盾のない、簡にして要を得た倫理体系をつくりあげる点にあると思ふ。(中略)
 ここに公にするものは人間についての一般論であると承知していただきたい。単に人間の大きな問題についての範囲、限度、関係などを取扱ひ、細目については後の機会にもつと詳しく辿ることにした。従つてこれらの書簡は(もし私に書きつづけるだけの健康と時間とが許されるならば)あとになるほど味も出てき、詩的な装飾も添ふことになるであらう。当面の私の仕事は泉をひらき、水路の障碍を除くことである。河をあとづけ、流れを辿り、その末の成り行きをみとどけることは、もつと愉快な仕事となるであらうと思ふ。
    --ポウプ(上田勤訳)『人間論』(岩波文庫、1950年)。

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月末のスクーリング講義で市井の仕事を休むので、久しぶりに火曜日に振替出勤すると、たまにしか合わない職場の方とかと出会います。
話題はノーベル賞。

「宇治家参去さんもノーベル賞とれないのですか?」

「あり得ない?でしょう」

宇治家参去が学問に関わっていることは存知ですから、そうしたやりとりがありました。
「あり得なくはないと思いますが、ジャンルでいくと文学賞とか、そのあたりですか?」
文学部周辺でうろうろしておりますので、文学賞という流れなのですが、作家ではありませんので「あり得ませんよ、トホホのホ」ということで、逆に「平和賞ですよ、ガハハ」と受け流す。

何故、平和賞かと言えば、
「専門が宗教(神学)になりますので、現今の宗教対立を融和させるような働きでもできれば、そうなるんじゃないですか?」
「大変そうですね……」

大変そうです。
ま、現実にはノーベル賞などあり得ないのですが、たまにはそうした冗談のやりとりも、一服の清涼剤となるのが人間世界の現実なのでしょう。
例の如く、頭にくることの方が多い市井の職場なのですが、こうしたオバチャンたちとのやりとりも発想を柔軟にしてくれる部分であって、実に本当にありがたいと思います。

とわいえ、話半分ではなく、6割ぐらいは「期待」していたところが、「オバチャン」パワーの恐るべきところです。

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 そもそも宗教は、それを信ずる人にとっては最高の価値を意味している。したがって信仰者にとっては自分の信ずる宗教が最も善いものである。その場合の〝最も善い〟=最高・絶対性とは、二番、三番があっての一番ではなく、端的に〝それしかない〟という独占的な一番である。他と比べてそれなりによいものだとか、それに対する信仰はほどほどでよかろうというものではない。それは当然であり、それで良い。そうした絶対性がなくなると宗教は自己崩壊してしまう。しかし同時に自分と異なる信仰を持つ人もそう思っていることを知らねばならない。他者の存在を無視し、その存在を認めないのは独善である。そうではなく、異なる他の諸宗教の存在をそれぞれの固有性において真に尊重することが必要なのではないだろうか。宗教多元主義の考え方は、そうした宗教間対話を神学的・哲学的に基礎づける視座を提示してくれている。
    --拙論「明治キリスト教と宗教多元主義の諸問題――事例としてのユニテリアン派の活動から(1)」、『東洋哲学研究所紀要』(第22号、2006年)。

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……ということで、その<2>。

ナチズムの暴挙が「ヒューマニズム」だったという言い方で終わったかと思いますが、もちろん、そういう言い方に対しては、「なんじゃそりゃー」という異論が出てくるのは重々承知しております。例えば、「人種」に対して「人類」はより包括的な概念だから、ナチズムの説く“偏った”ヒューマニズムは、ヒューマニズムではない、との抗弁なんかはその代表だと思います。
「人類」に依拠するヒューマニズム……それこそ本当の人間主義である、という発想が人道主義者を自認する人々にとっては、それは自明の理なのでしょうが、しかし、ここで考えなければならないのは、「人類」とは誰なのかという部分です。人類についてはこれまで何度か議論したことがあるので、そうした議論の関連で今回は取り扱わずに、別の観点から確認してみようかと思います。
※人類に関する議論に関しては以下の日記にも記載。
http://thomas-aquinas.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_0fcd.html

すなわち、「特定」と「すべて」という枠組みの違いです。
ナチズムの暴挙が「人間性」の健全な発展を図るために「実行」されたわけですが、その依拠する理論は「特定」の人間なるものを対象としたものです。それに対して、いわゆる人道主義者が依拠する人間主義は、「特定」の人間を対象にするものではなく、人類という「すべての人間」を、いわば「大事にする」思想だという主張です。

しかしながら、この場合の「すべて」という部分が、実はやっかいな問題であり、日常生活で思われているほど根は単純ではないということです。

例えば、国際紛争・民族対立などを眺めてみると、それに対してどのような態度をとるのがよいのかという問題があります。すなわちどういう関わり方が「人道的」かという議論で、これは常に難しい問題です。

ある地域で、例えばイラクでもチベットでもどこでもいいですが、その紛争地域に対して、そしてそういう問題に際して、その関わり方が軍事的であろうが非軍事的であろうが、どちらかの「味方」をしてしまうと、結果としては、人類とか人道というお題目の視点から、もう一方の勢力を切り捨ててしまうことになってしまいます。

もちろん全く関与しないという方法もありますが、そうした「関わり方」だと、ひとが「無意味」に死んでいく事態も「しょうがねえ」と諦めてしまうことを意味するものとなってしまいます。そうした曖昧な態度は問題だろう--たしかに問題なのですが、それではどのように向かいあうのか--そこを真摯に探究する必要はあると思います(曖昧な日本的な態度を批判すると同時に「関わる」ことの重大性を自覚するということですが)。

さて、そうした関わりが「人類」に依拠する「普遍的な正義」であったとしても、それを実現すべく、あえて火中に飛び込む(=関わる)ことは、状況説明的にそれをみるならば、一見、ヒューマニスティックな好意に見えてしまいます。自分はブッシュ大統領のようなやり方はとらないけれど、不正なフセイン政権を打倒し、イラクの民衆を救うんだ!というような発想などはその典型なのでしょう。またチベットに対する不正な中国の人権弾圧に断固反対し、おれは中国政府の「不正」を(人類の立場から)糾弾し、正義を樹立するぞ!などという「もの謂い」も同じだと思います。一見、その善意は確かにヒューマンな発想に見えますが、それは裏を返すならば、「正義」に該当しない立場--俗っぽく言えば「悪」の立場を、「人類」全体の「正義」ためには「排除」するのも「やむを得ない」という決断をしなければならないということになってしまいます。
その意味では、極論かもしれませんが、すべての「人道的介入」なるものは、人類の善なる部分と悪なる部分を物理的に区別して、善とか正義のためには、悪なる勢力を駆逐・排除してしも「しょうがない」(むしろ称賛されてしかるべきだ)というジレンマを必然的に伴ってしまうのが事実なのでしょう。蛇足ですが「むしろ称賛されてしかるべきだ」などというもの謂いになってしまうと、そこにはジレンマは伴われないのでしょうが。

このような「善or悪」、「正義or不正」という二元論を基準にして人間を分断・対置する発想は、ナチスのような「人種」基準に基づく発想よりも、はるかに「マシ」なのかもしれませんが、結局は「人類」なる「すべての人間」を「大切」することが出来ない点では、厳しい言い方ですが、五十歩百歩なのだろうと思います。

善悪の問題、正義不正の問題は、優先されるべき立場にとっての普遍的価値を追求する、ないしは立場を外在化するかぎり、必然的に「人間(善)/非人間(悪)」という排除の構造を避けては通れないということをまずは把握しておくことが必要なのだと思います。

それで、どうよ--ってことですが、ということで……その<2>終わりで、その<3>へ、ということで寝ます。

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