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銘々、人は自分の人柄にしたがっている

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 引越しが近づくと、やがて別れるこの壁にさよならを告げる。家具はまだ運び出されていないのに、もう新住居が好ましく思われる。古い住居は忘れられてしまう。すべてのことが、やがて忘れられてしまう。現在には力と若さがある、どんな時も。だから人は、たしかな足どりで現在に順応して行く。だれでも経験していることだが、だれ一人それを信じていない。習慣は偶像(イドラ)のようなもので、イドラが力をもつのは、われわれがそれに服従しているからだ。ここではわれわれを欺いているのは思考の方だ。なぜなら、考えることのできないことは、また行うこともできないように見えるから。人間の世界が想像力によって牛耳られているのは、想像力はわれわれの習慣から自由になれないからだ。だから、想像力は創り出すものではないと言わねばならない。創り出すのは行動である。
 ぼくの祖父は七十歳の頃、固形の食物が嫌いになって、少なくとも五年間牛乳で生きていた。人はこれを異常な習慣(マニア)だと言った。その通りだった。ある日、家族そろっての昼食で、祖父が突然鶏のモモ肉を食べ始めるのを見た。そして祖父は、われわれと同じ食事で、あと六、七年生きながらえた。勇気のある行為だった、たしかに。しかし、何に対して彼は挑んだのか。臆見に、否むしろ、自分がもっていた臆見の臆見に。また自分のもっていた自己についての臆見に。何としあわせな性質というかもしれない。とんでもない。だれもみんな、そうなのだ。ただ、それを知らない。そして銘々、人は自分の人柄にしたがっているのである。     一九一一年八月二十四日
    --アラン(神谷幹夫訳)「絶望しないこと」、『幸福論』(岩波文庫、1998年)。

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アランはやはり喩えの名手だなと、いつも読みながら実感する。
固形の食物を忌諱していた老人がある日突然鶏肉を食べ始める。

行動と思考は別個に存在する二項対立などではなく、人間が意識しているにせよ意識していないにせよ、相互に密接する内在的な連関なのかもしれない。そして精神と肉体にも有機的な連関を持っているのでしょう。

臆見、イドラ、習慣の束縛を創造的に切断する勇気を持ちたいものです。
ただ、それを知らない。
そして銘々、人は自分の人柄にしたがっているのでしょう。

じっくり考える時間がなくスイマセン。

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著者:アラン
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