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それはたんなる特殊性を純粋性とみまちがへてゐはしないか

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現代のあらゆる禍根は--個人主義も、階級闘争の世界観も、国家主義も--所詮は近代の発想そのもののうちにあり、ルネサンスを、さらには宗教改革をも、近代人の原罪とみなさざるえをえないといふのである。個人主義は個人の純粋性といふものを擁護せんとするが、それはたんなる特殊性を純粋性とみまちがへてゐはしないか。その純粋なる自我にしてもし神に従属しないとするならば--それならば神から独立した純粋自我とはいつたいいかなる内容をもつものなのか。それはなにかあると思ひこんでゐるだけで、結局は社会の合理化によつて、あるいは物質の満足によつてけりのつくものではないのか。
    --福田恆存「近代の宿命」、『日本を思ふ』文藝春秋、1995年。

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先週末のスクーリング試験の採点を済ませ、本日何とか返送する。
少し失敗したなあ、というのが、スクーリング講義直前に送付されてきたレポート(10/24到着)ですが、そのなかに、今回の受講生さんのレポートがあったという部分です。前日に来たので、スクーリングが済んでからと思って、月曜日に見てみると1名2通分がふくまれていたわけです。

もちろんタイミング的に難なんですが、年頭大阪でスクーリングをした折り、すでにレポートを提出して手元に戻ってきた方がいらっしゃったわけですが、採点者がコメント欄で「宇治家参去先生という若い先生が今度大阪に行きます」って書いていてくれたようで、その方は、スクーリングを楽しみにしていました(趣意)とおっしゃっておりました。そのように参加して戴き、ひとことを頂くとこちらも嬉しくなって参ります(単純ですから)。

現実問題として、「通信」制という「通学」制とは異なる制度になるのですが、そういう有機的なやり取りというものの存在は、その隔差を埋める刺激になるのではなろうか--などと思ってしまいます(もちろん、night lecture?もそうですが)。

さて試験の方ですが、ガチガチの試験……例えば、「カントの道徳的幸福論について説明せよ」とか「ヴォルテールにおける宗教的寛容論をその時代背景を踏まえて説明せよ」……をやるわけではありませんので、答案の一番下なんかに授業の感想を書いていてくださり、読んでいるとコチラが励まされる部分があったり、今度はこうしようなどと思う部分が多々あります。

ただ……、
一番多いのは……酒をネタにしておりますので、「飲み過ぎにはご注意を!」というのが多いですね(苦笑)。

さて、今回そうしたコメントを読んでいて、これいいなってものがありました。

すなわち趣意ですが次の通り。

「五年前に定年退職し、これからのより善い人生を生きる為に、そして、世の中のことを少しでも学び続けるために、そして単に教養趣味の為だけでなく生活に活かす目的で、通信教育部の法学部に入学しました。ですけど、自分だけ学ぶのはもったいないと思い、学んだ講義内容……といっても、キーワードとか概念になりますが、それをPCで入力して地域の方に時折紹介しております。これは『論語』の冒頭の言葉に当てはまる実践なんだと思います」。

論語の冒頭の言葉とはすなわち「学びて時にこれを習う、また説(よろこ)ばしからずや。朋あり、遠方より来たる、また楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや」という言葉です。常に自ら学習を心がけ、友好の輪を広げていく。この努力のなかにこそ人格形成の道、そして学問の王道が存在するのだろうと思います。

もうひとつは、励ましの部分ですが、常々書いておりますが、倫理学とか哲学とか、神学なるものに首を突っ込んでいると、ふとその「無力感」にさい悩まされることが屢々あります。現実には株価を予想できるわけでもないし、移動距離を短縮するようなイノベーションに直接貢献できるわけでもない。単なる観念の遊戯ではなかろうか……などと自嘲気味に思うことも屢々あるわけですが、そうだからといって捨て去るべきあり方でもない……そうしたところで日々葛藤が続くわけなんですが、次のコメントもありがたい一言で御座いました。

「今回の授業をうけて、漠然とではありますが、将来の方向に対し、根気よくあきらめないで挑戦をつづけていこうという気持ちになりました。倫理学はパワーのある分野です」。

宇治家参去自身に力があるわけではないことは重々承知しております。が、倫理学とか哲学そのものの見直しが迫られる中で、それでも、そうした根源学としての倫理学そのものに対する励ましは本当にありがたいものです。

本年度も、残るところ、対面授業(スクーリング)は残すところ2回戦。
ぽしゃらないことを祈るばかりです。
そして、学生さんとの訪(とぶ)らいあうなかで、「学」を紡ぎだしていければ……などと思っております。

で、冒頭の引用に戻るわけですが、宇治家参去には珍しく?保守派の福田恆存(1912-1994)の言葉から。戦後の進歩派知識人の平和論に冷や水を浴びせた人物としてつとに有名ですが、福田の言葉を読んでいると、ときおりふと思うのが、保守派という福田に対する評価は、保守・革新という二項対立によってつけられた評価であって、本人そのものは、保守も革新も根源から撃つ人物だったのではなかっただろうか……などと思います。もちろん、現実には、その言葉は保守派の典拠となっている部分もリアルにあるのですが、その冷ややかな視線は実は熱く、人間へのリアルな接近をそこに読みとってしまうものです。

さて、うえの部分では、近代批判の箇所になるわけですが、そのなかで、ひとつだけ注目したいのは、「個人主義は個人の純粋性といふものを擁護せんとするが、それはたんなる特殊性を純粋性とみまちがへてゐはしないか」という点でございます。

たしかに云われてみるとその通りで、個人は個人として「代換不可能な存在」として存在するのは、その「純粋性」に根拠を置くわけではなく、その個別の「特殊性」に根拠が存在します。そこがいつの間にか純粋さに置くようになったところに、近代の人間論をめぐる陥穽が存在するのではなかろうかと思います。

作業仮説に過ぎない抽象的な人間概念を対象として扱う人間論は、人間のもつリアルな特殊性を磨きすぎて、空虚なコンテンツを失った純粋性を導き出したのかも知れません。

「それはなにかあると思ひこんでゐるだけで、結局は社会の合理化によつて、あるいは物質の満足によつてけりのつくものではないのか」

純粋さに接近すればするほど、ごつごつしていたり、ぼこぼこしていたり、そしてときには美しく、そして時には醜いはずの「特殊性」の凸凹が磨かれ、平面になっていく。そのなかで、人間自身の消滅が招かれてしまったのが、近代の問題なのかもしれません。

実にその意味では、この人間と世界を対象とする学問を講じながら学生さんたちと一期一会していく機会といふのは、非常に有難いもので、常に特殊性と向かい合いながら、人間全体に関わる問題を考えさせてくれますので、なにか直下をぐんぐんと掘り進みながらも、水平方向へこれまたぐんぐん広がっていくような感覚で、探究と連帯を考えさせてくれます。

とわいえ、市井の仕事をネタにしているのに問題があるのかもしれませんが、

「先生のレジ打ち姿見てみたかったです」。

といわれても、あまり見せたくはない宇治家参去です。

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コメント

サマンサさんゑ

ご無沙汰しております、宇治家です。
秋期スクーリングがんばってください。

当日は、自分も大丈夫ですよ。

詳細はメールにて送付しました。ご確認頂ければと思います。

投稿: 宇治家 参去 | 2008年11月 2日 (日) 13時29分

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