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「人間は万物の尺度」だけでもないだろう

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 一 真理とは何か--真理とは何か、といふことは長年の間研究されたことであり、又それはすべての人類が実際探究し又はするやうな振りをすることであるから、真理が如何なる点に存するかを注意深く吟味し、心が如何にして真理を誤謬と区別するかを認める位に真理の性質を知ることは我々の為し甲斐のあることであるに違ない。
 二 符号、即ち観念又は言葉の正しい結合或は分離--さて真理とは、その言葉の本来の意味に於ては、符号によつて指示される物が相互に一致し又は一致しないに従つて、その符号を結合し、又は分離することを意味するに他ならない、と私には思はれるのである。此処で意味する符号の結合又は分離とは、我々が命題といふ別の名前で呼ぶことである。であるから真理は本来命題にのみ属する、これに二種、即ち心の命題と言葉の命題のあること、通常用ひられる二種の符号、即ち観念と言葉があるが如くである。
 三 これによって、心の又は言葉の命題が生ずる--真理の明白な観念を作るためには、思考の真理と言葉の真理とを相互に明確に区別して考へることが非常に必要である、しかもこれ等を別々に取扱ふことは非常に難しい。何故なれば心の命題を取扱ふ場合に言葉を用ふることを避けることは出来ない、さうすれば心の命題に就いて与へられる例は直ちに単に心的ではなく言葉の命題となるからである。
    --ジョン・ロック(加藤卯一郎訳)『人間悟性論 下巻』(岩波文庫、1940年)。

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ちょうどソフィストとソクラテスの問題を講義で論じていたので、相対性と普遍性に関して少し悩んでみる。

ソフィストの代表的人物のひとり・プロタゴラス(Πρωταγόρας,B.C.500?-430?)の有名な格言に「人間は万物の尺度である」という言葉があります。すなわち、物事には絶対的な基準などない、すべてひとによって、その立場によって、ものごとの基準はさまざまに解釈されるだけだという発想です。
※プロタゴラス自身はそのような意味でこの言葉を吐いたようではないのですが、「通俗的な」ソフィスト的発想としては、そのように解釈するのがわかりやすいかと。類型化の暴論であることは承知の介ですが。

確かに「人間は万物の尺度」なのでしょう。
何によって判断するかはさておき、確かに判断を下し、価値評価を行う人間は「万物の尺度」なのでしょう。しかし、それだけでもないよね……というのが現実的な生活感覚です。

こうした発想をつきつめていくとどうなるのか。
ある意味では相対主義の絶対化とでも表現できる立場だと思われますが、つきつめてしまうと、その人自身の立場そのものの絶対化という現象を招来してしまい、他者を尊重する寛容性が喪失してしまいます。

そしてもうひとつは、わたしにも、そして、あなたにも関わりのある問題を拒絶してしまい、自閉的空間内だけでの独白という状態を導き出してしまうと思います。もちろん、これは自ら進んで、そう行った結果というわけなのですが、不毛な空間が到来することには間違いありません。議論のテーブルにつかず、自ら退場してしまうとでもいえばいいでしょうか。

さて、独白しかないならば、そこには言葉が交差する会話とか対話という、お互いが向き合う契機は全く存在しないことになります。だからこそソクラテス(Σωκράτης,B.C469頃-399)は、真理を導き出すにあたって、あくまでも対話にこだわったのではないだろうか……などとも想像してしまいます。

人間の発想・判断・実践には出発点としては、どうしても個人的な関心からスタートせざるを得ません。それが先入見の自覚という問題にはなるのですがそれはひとまずおき、そうした出発点としての個人的な背景から誰もが出発するわけですが、そこにのみこだわってしまうと、相手の存在を認めないソフィスト的発想になってしまうのだろう思います。それに対してソクラテスの場合、わたしにもあなたにも共通するような、そして共感するような何かがあるのじゃないだろうか……ないしは、そう考えざるを得ないよなって思う力強い考え方があるはずだ……そういう発想があったのだろうと思います。

「それが何かは分からないが、普遍的な(=誰もがそう思わざるをえない)なにがしかはあるはずだ」

それがソクラテスの出発点にあったと思います。
少し先走れば、「そのなにがし」かをソクラテスは語る前に刑死してしまいますので、弟子のプラトン(Πλάτων,B.C.427-347)は「そのなにがし」かを語る必要があったわけです、そこで出てくるのが、宇治家参去の苦手なイデア論というわけですが。

話を戻します。

そして、そのだれにでも当てはまるような、そしてそう考えざるを得ないようなものがあるはずだということで、対話に明け暮れたのがソクラテスの生涯だったわけですが、そいう生き方を見つめ直してみますと、人間と人間が向かい合いながら、何かを紡ぎ出していく、そして共通了解をしていく、そしてお互いの尊厳性を尊重しながら、寛容を確保する……そういう方向性への示唆が見えてくるように思えて他なりません。

自分自身としても、まだ普遍とはどの位置に定位するのか実のところ全く見えておりません。
そして、相対性も尊重しなければならないのも理解しておりますので、どのあたりの距離感が適当なのか、模索をしております。最終的には適切な答えなるものが出てくるような気もしませんが、この生活世界のなかで、ひとつひとつ、お互いに確認しながら、ちょうどよい距離感を見いだし、そして共通に関わる問題を問題としてともに検討していくなかで、実は「カラダで覚える」のが実情なのかなあなどと今は感じております。

本当はもう少し書きたいのですが、ぼちぼち市井の仕事の休憩がおわりますので、また次回?ということで。

しかし相対と絶対、普遍と個別、そしてその中央に位置する真理の問題は哲学者にとっては永遠のテーマ(永遠に答えが出ない?が、探求を怠ってはいけないテーマ)のひとつなのでしょう。

冒頭に引用したジョン・ロック(John Locke,1632-1704)もそのへんの微妙さを語っているなあなどと思ってしまいます。

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 三 これによって、心の又は言葉の命題が生ずる--真理の明白な観念を作るためには、思考の真理と言葉の真理とを相互に明確に区別して考へることが非常に必要である、しかもこれ等を別々に取扱ふことは非常に難しい。何故なれば心の命題を取扱ふ場合に言葉を用ふることを避けることは出来ない、さうすれば心の命題に就いて与へられる例は直ちに単に心的ではなく言葉の命題となるからである。

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さっ、仕事にもどろ。

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