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なぜ、芋を掘るのか

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 子供の私が、祖母に、
 「何だえ、お前さんは。秋刀魚のワタを残してもったいないじゃあないか」
 などと叱られるころ、夏からこのときまで、氷水で商売をしていた店が本来の焼芋屋に変わる。
 「それっ」
 というので、私たちは駆けつけるわけだが、大カマドのようなものへ、サツマイモをびっしりとならべ、塩を振って大きなふたをするのを、唾をのみこみながら見まもっていたものだ。
 芋を焚火で焼くのもよいが、どうしても専門の焼芋屋にはかなわない。
 子供のころ、一時、谷中(やなか)の伯父の家へ預けられていたことがあって、私が小学校から帰って来ると、女中のかねちゃんが、
 「正ちゃん。たのみますから、ヤキイモ買って来て」
 私にたのみ、伯父夫婦の留守をさいわい、かねちゃんは湯殿で焼芋を食べていた。むろん、私にも半分くれた。
 新聞紙の紙に入った焼芋を買って帰る秋の夕暮れの道を歩みながら、
 (もう直(じ)きに、お正月が来る……)
 子供ごころに、しみじみと、そうおもった。
 そして、無花果(いちじく)や石榴(ざくろ)の実も秋のものだが、今の子供たちは、こうした秋の果実を口にすることもないようだ。
    --池波正太郎『味と映画の歳時記』(新潮文庫、昭和六十一年)。

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息子殿が幼稚園の行事で、サツマイモを沢山持って帰ってこられました。
いわゆる、「芋掘り」というやつ。

こちらは、何故「芋」を“掘る”のだろうか……などと思案してしまう部分が殆どであります。

が、それはそれで、息子殿にしてみると「秋の風物詩」となってい、そこに「季節」を<感じる>ことができればよいのかもしれない……などと納得もしてしまう、ある日の宇治家参去です。

しかし、持ち帰った量は、三人の家族で食するには少し多いのではなかろうか……。

何に調理されるのだろうか--。
仕事から帰ってきての楽しみにしておきましょう。

機械も焚火もないので、焼芋ということはなかろうが、スィートポテトとかさういう洒落たものにも変身しないのだろうが、ひとつのたのしみにでもしておきます。

とわいえ、

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 新聞紙の紙に入った焼芋を買って帰る秋の夕暮れの道を歩みながら、
 (もう直(じ)きに、お正月が来る……)

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お正月までもう2ヶ月でございます。
時間が御座いませんが、さっ、仕事に戻りましょうか。

ちなみに栗は「いただきもの」。

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