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同一の肉体的感覚をともに感じている

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 しかし肉体に関してはしばしば肉体的感覚の非共同性が説かれている。他人が痛みを感じているとき、その心的な苦しみはともにすることができても、痛みそのものをまでともにすることはできぬというのである。なるほど他人の足の痛みは自分の足の痛みではない。一般に他人の肉体的感覚は自分の肉体において感ずることのできないものである。しかしそれだからといって肉体的感覚をともにするということが全然ないというのはうそである。たとえば我々がともに炎天の下に立っている時には我々はともに熱さを感ずる。我々がともに寒風に吹かれていれば我々はともに寒い。だから労働をともにする生活においては、肉体的感覚をも常に共にしているのである。かかる時我々は相手の表情を介してその肉体的な感覚を類推する、(すなわち己の同様な表情や感覚との連関と比較して比論的に同一であると推論する)というごとき回りくどいことをやっているのではない。同一の肉体的感覚をともに感じているのである。
    --和辻哲郎『倫理学 (一)』(岩波文庫、2007年)。

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日本を代表する倫理学者・和辻哲郎(1889-1960)は、美文家だと評されますが、読んでいるとそのことを常々実感します。人間の世界の機微を重々承知していたのでしょう……なかなか表現できない、アイマイな人間世界をこれほどまでにか!と思うほど、言語化するその能力には脱帽です。

人間は喜び、怒り、哀しみ、楽しむ、存在でありますが、それをどのように「共感」するのでしょうか。まったく理解できないと発想することも出来ますし、ある一面ではそれとは逆に、理解し合えるとも発想することができます。然し現実には、理解し合おうとして「回りくどいこともをやっている」場合もあるでしょうし、そのことに裏切られて、理解を拒むこともあるでしょうが、根本的には、「それとなく」「同一の肉体的感覚をともに感じている」ことも多いかと思います。

さて……そうした人間世界の喜怒哀楽の例の如く翻弄されておりまする宇治家参去です。
ちょうど、11月18日が細君との結婚記念日(入籍日)ですが、あいにく本年はその日、仕事なので、ちょい早いですが、本日祝宴を催しました。

年がら年中、金欠でございますので、細君には花を、そして、細君だけに何かをすると機嫌を損なってしまうために、息子殿にはウルトラ怪獣1匹を土産に、本日は夕刻より、国分寺の「感じのいい」ダイニングで祝宴でございます。

まえまえから気になっていた店なのですが、期待を裏切られず、喜びに満ちあふれたひとときとなりました。

本物の味・串焼・もつ鍋・鶏刺し「串焼だいにんぐ 白金」
串焼きはすべて備長炭でジューシーに焼き上げておられてい、鶏はすべて鳥取の大山鶏。
……などと書くと、飲兵衛の集合するおっさん向けの店かな?などと連想しそうですが、そうではありません。

BGMにはJAZZの流れる大人の空間で、店員さんたちも丁寧に躾られてい、きびきびとした所作が頼もしい、妥協しない雰囲気が最高です。

気が付くと結構……飲んで食っておりました。

細君曰く……

「今日は、“鶏攻め”だね」

興味のある方は是非!
JR中央線・国分寺駅北口から1分。
言い値はしておりますが、お薦めです。

「串焼だいにんぐ 白金」
国分寺本町3-4-3 茶金ビル3F
042-325-4517

……ともあれ、結婚して来週で七年目。
ありがとうございました。

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