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カフカと「本醸造 じょっぱり」の幸福な出会い

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 Kが到着したのは、夜もおそくなってからであった。村は、深い雪のなかに横たわっていた。城山は、なにひとつ見えず、霧と夜闇(やあん)につつまれていた。大きな城のありかをしめすかすかな灯りさえなかった。Kは、長いあいだ、国道から村に通じる木の橋の上に立って、さだかならぬ虚空を見上げていた。
 やがて、泊まる場所をさがしに出かけた。宿屋は、まだひらいていた。あいた部屋はひとつもなかったが、宿の亭主は、この夜ふけの客におどろき、面くらって、酒場でよければわらぶとんにでも寝かせてあげよう、と言った。Kに異存はなかった。数人の百姓たちがまだビールを飲んでいたが、Kは、だれとも口をきく気がしなかったので、屋根裏部屋から自分でわらぶとんをおろしてきて、ストーヴの近くに横になった。あたたかった。百姓たちは、静かにしていた。Kは、疲れた眼でしばらくは彼らの様子を窺っていたが、やがて眠り込んだ。
    --F.カフカ(前田敬作訳)『城』新潮文庫、平成十七年。

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高校は地元でいうところの「進学校」と称される部類に属する学校に通っておりました。もともと旧制中学からの切替になりますので、学校そのものはすでに創立百年を超えた、ある意味で「由緒ある」?学校に通っておりましたが、そのなかの親友の一人に無類の読書家がおりました。

神学校の……もとい、“進学校の読書家”などと聞けば……牛乳瓶のふたのような眼鏡をかけた読書家を想像しがちかと思いますが、決してそんな人物ではありません。
どちらかといえば、学校当局からあまり「よろしくない」とカテゴライズされる人物で、広義になりますが、むしろ「アウトロー」を地でいくようなかんじの人間です。しかしながら、眼の色かえて勉強するわけでもないのですが、成績も悪くもなく、スポーツもそれなりにこなす「ヤサ男」で、音楽と文学にかなりの蘊蓄のある「親友」のひとりでした。ブルースの良さを教えてくれたのも彼であり、「カフカが面白い」と教えてくれたのも彼のおかげです。ちなみに「ひゃっ、ひゃっ、ひゃっ!」と笑うので「ひゃひゃ夫(お)」とか「御(お)ひゃひゃ」り呼ばれたいたのが懐かしい思い出です。

さて、確か、高校二年の夏の頃だったかと思いますが、彼が薦めてくれたのが、フランツ・カフカ(Franz Kafka,1883-1924)の小説です。詳しくはカフカの作品を紐解いて戴くと幸いなのですが、カフカを評するキーワードをぽつぽつだすならば、「不安」、「孤独」ということになるでしょうし、その非現実的で幻想的な作品には、独特の「不条理」さに満ちあふれております。通俗的な分類でいくならば(しかしながら実はそれに収まりきらない射程を秘めているとは思いますが)、いわゆる「実存文学」の先駆者のひとりに数えられる人物で、うえに引用した作品でも、たとえば次の様な表現を眼にするとそのことが理解できるかと思います。
すなわち……

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測量師のKは深い雪の中に横たわる村に到着するが、仕事を依頼された城の伯爵家からは何の連絡もない。村での生活が始まると、村長に翻弄されたり、正体不明の助手をつけられたり、はては宿屋の酒場で働く女性と同棲する羽目に陥る。しかし、神秘的な〝城〟は外来者Kに対して永遠にその門を開こうとはしない……。職業が人間の唯一の存在形式となった現代人の疎外された姿を抉り出す。
    --裏表紙、前掲書。

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ひょっとすると、カフカを紹介してくれた「ひゃひゃ夫」は、名刺でいうならば、その存在を対象化する職業的な身分……その当時なら「進学校の高校生」……という実存規定に対して、なんらかの違和感を感じていたのかも知れません。対象を概念化することによる分断への抵抗でもいえばいいのでしょうか……そうした焦燥感をどこかにもちあわせていたのかもしれません。

薦められて読んで時は、正直、「全く理解できません」でした。
今になって考えてみると、そのときの出会いが、ドイツ文学専攻へ進ませる一助になったのではないかと思います。フランス語はもともとやっていたので専門的に勉強する必要はねえや、っていうことで、仏文には進みませんでした。しかし、哲学をやるには、近代言語ではドイツ語は必要不可欠です。それで「ドイツ文学専攻」へ進み、ドイツ語を徹底的にやろうなどと発想し、専門課程へ進級する際、「ドイツ文学専攻」へ進みましたが、結局ドイツ語はあまりものにはなりませんでしたが、カフカ、ゲーテ、トーマス・マンは徹底的に読んだ記憶が御座います。

さて……
そうした問題は、高校生だけに限られた問題ではなく、あらゆるひとびとにどこかで関わってくる問題なのかもしれません。それが言葉にならない、形にならない、苛立ち、不安、孤独となってあらわれてくるのだろうと思います。それとどのように向かい合っていくのか……その部分を自分自身としても、単なる現象として処理するのではなく、何か有機的なものとして向かい合いたいな……などと思う今日この頃です。

なぜなら、結局の所、そうしたあり方、そしてそうしたあり方を規定する制度そのものをすべてぶっ壊して、「自然状態」に「還る」ことなど不可能だからです。えてして、見直してしかるべき現状を「撃つ」際、ひとは「それ以前」の「無垢」な「自然状態」を夢想しがちですが、そんな「自然状態」など単なる「作業架設・仮説」にしか過ぎません。もちろん、問題ある現状を「肯定」しようという意味ではありませんが、生きている人間はそこを離れて生きていくことは現実には不可能なのですから、その意味では、そこに内在しながら、脱構築していく他あるまい……そういう実感です。

で……話が長くなりましたが(いつものことですが)、そういう近代人の懊悩、そして焦燥感を宇治家参去自身も教員をやりながら感じておりますが、そのひとつが、地方スクーリングを実施する際に、「履修予定者人数不足」で「不開講」というパターンです。

市井の仕事から帰ってきて、メールを開いてみると、「今回不開講はありません」とのことで、大学から「履修予定者人数一覧」が送付されてきておりました。

ぶっちゃけ、「ほっ」と胸をなで下ろしました。
12/6-7、沖縄で「倫理学」を講じる予定ですが、我ながら「倫理学マイナーだしなあ~」などと、「かなり」不安に思っていたのですが、どうやら「開講」できるようで、ほっとしました。沖縄で学を講じるのは始めてです。週頭に、石神先生と来年度のレポート課題の打ち合わせ(来年度で改訂されるので)の際、沖縄での注意事項?を結構くわしく伺いましたので、初任地ですが、なんとか無事故で遂行したいと思います。

しかしながら、ほっとすませることなく、最高の授業ができるようにがんばりましょう。

とわいえ、本日、「見たこともない」「酒」をゲットしましたので、ちょゐ飲んで、明日から頑張ります。

「本醸造 じょっぱり」(六花酒造株式会社/青森)。

一口飲んでみましたが、おもったより「いけます」ね。
淡麗なのですが、味のメリハリがはっきりとしてい、いい酒です。

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城 (新潮文庫) Book 城 (新潮文庫)

著者:フランツ カフカ
販売元:新潮社
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