われわれの人間的条件のただ中における、どこかに
木曜からですが、市井の職場はすでにクリスマス体制です。店内にながれるUSENもクリスマスソングのチャンネルに切り替えられ、店内の演出物もぼちぼち赤いのが目立つようにました。早いのか・遅いのか判断には迷うところですが、お歳暮とクリスマスという年末商戦の到来です。それもそのはずかもしれません。食品でいえば、この季節から春先まで鍋一色となりますが、それだけだと何かもの足らない……そこでお歳暮の立ち上げと一緒にクリスマスのモチベーションを展開しているのかもしれません。
しかし、お菓子の靴。
こんなもの売れるのかな~などと思っていると、結果としては結構売れていることにいつも驚きます。子供はやはりうれしいのでしょう。
さて、本日市井の職場へ出勤すると、これまでレジ打ちを敬遠していていたバイト君がレジをうってくれるようになっていた。思ったよりも「堂々」と打っており、人間とは「分からないもの」だなあと感嘆させられます。練習時は、及び腰でぶるぶる震えていたわけですが、まだまだ危ないところもなくはないのですが、そうした様子をおくびにも見せず?打っております。良い意味で期待を裏切ってくれたところがありがたいものでございます。
さて、売り場の様子が落ち着きましたので、久しぶりに実存主義関連の文献をぱらぱらひもといております。実存主義と言えば、「実存は本質に先だつ」「人間は自由という刑に処せられいる」って言い放ったサルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre,1905-1980)がつとに有名ですが、少々過激なところがあったり、西洋中心主義の落とし穴からは逃れられなかった点で、すこし苦手な人物ではありますが、この時代の文章を読んでおりますと、つくづく実感するのが、文章が難解(そういう部分ももちろんありますが)というよりも、それだけでないというところです。すなわち読み手に読ませてしまう文章というところです。サルトルの場合はもちろん、文学者としての側面もありますので、「読ませる」文章を書くのはしごく理解できるのです。
しかしながら、概していうならば、実存主義以降の思想の営み……構造主義とかポスト構造主義のそれ……は、難解さが全面に出てきて、読ませるという部分がほとんど出てこなくなった……そういうところをひどく痛感いたします。
今日はサルトルの事実上の妻(としか表現できないのですが)ベルトラン・ド・ボーヴォワール(Simone Lucie-Ernestine-Marie-Bertrand de Beauvoir,1908-1986)の著作に目を通します。主著『第二の性』において「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」とし、女性らしさが社会的に作られた後天的に「造られた」ものでしかないと喝破したことで有名な人物です。そういう思想的な絡みもあって「事実上の妻」という関係なのですが、文章はサルトルと比べると逆に、過激というよりも、説得させられるといいますか、そういう方向で「読ませる」文章です。
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われわれはどんな超越性を超越することも自由勝手です。われわれは何時でも、ひとつの<<他所(よそ)>>の方へ逃れることができます。ところが、この他所たるや、まだどこかに存るのです。われわれの人間的条件のただ中における、どこかに。われわれは彼女(人間の条件)から、絶対、逃げられっこありません。そして、彼女を批判するために、外側から彼女を見つめようとするどんな方法もないのです。彼女のみが言葉を可能たらしめます。善と悪が限定されるのも、彼女といっしょです。効用、進歩、危惧などという言葉が意味を持つのは、計画が、見解と目的を出現させた世界の中でしかありません。これらの言葉は、この計画を仮定こそすれ、その計画に己れを当てはめるようなまねはしますまい。人間は自分以外の人間のことなど微塵も知りません。そして、人間的なもの以外の何ひとつ夢想だにできますまい。では、いったい、人間を何に比較しようとするのですか? どんな人間が人間を批判することができるというのですか? その人はどういう名において云々するつもりでしょうか?
--S.ボーヴォワール(青柳瑞穂訳)『人間について』(新潮文庫、昭和五五年)。
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人間の条件とは一体どこにあるのでしょうか。
「われわれの人間的条件のただ中における、どこかに」。
しかしこの人間の条件からは逃れられないようですし、それを神の視座として「外側から」見つめようとすることもできないようでございます。
その意味では不断に更新を余儀なく迫れている、関係的な概念なのかもしれません。
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